それにしても、彼女の戦場生活は長かった。
1968年から1978年までが戦場暮らしだ。激戦地の一つクアンチ省。その中でも激戦地のケ・サインだ。泣く子もだまる激戦地だ。
青年先鋒隊の女性の工兵として従軍。道路の新設工事も多少はあったかも知れないが、爆撃でやられた道路の復旧工事、拡幅工事にほとんどを費やしたはずだ。
戦場暮らしと言っても、もちろん戦争は1975年に終わっている。最後の3年は、終戦後の後始末に追われる時期だ。終戦だからと言って、国民生活が早期に立ち直るはずがない。
結婚して、3人の子どもに恵まれた。ほっとするのは、今のところ、子ども3人に症状がでていないことだ。
テェーさんは、今、お手伝いさんと二人住まい。足かけ5年、ラオスに駐屯したご主人がハノイの病院に入院したからだ。ご主人の体がマヒして、いよいよ、奥さんの手に負えなくなって、病院に送りだした。
10年間に及ぶクアンチ省駐屯で、テェーさんは、アメリカ軍による枯れ葉剤の撒布を「たくさんみました」と言った。それは、容易に想像できる。クアンチ省は南ベトナムの北の砦であり、アメリカ軍がここぞとばかり狙っていた省だから。
クアンチ省で撒布を見たということは、百歩譲っても、間接的に曝露したことは間違いない。遠慮した表現をすれば・・である。
その結果は、ご主人と同じように体にマヒがきた。テェーさんの左半身マヒだ。
私たちが訪問した時、テェーさんの表情は、厳しかった。初対面の外国人が来たし、また難しい話か・・と、心は閉ざしていた。それが1枚目の写真である。
左手は指折り数える事ができない。右手を添えれば、左手は挙げられる。いろいろ質問してみたが、ほんの小声しか出せない。回りで刺激を与える人がいないから、自分が楽な方へ楽な方へ流れていく。そんな状態だった。
自信がつくと、話ははやい。車椅子の乗せ方も、ベルトの締め方も、付き添って歩く時の付き添い方など、丁度お手伝いさんがいたので、実習してもらった。
最後は、美しい笑顔で、女性の参加者と抱き合った(4枚目の写真)。1枚目と4枚目の表情の違いは、歴然としている。時間にしてわずか4~50分の間である。
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