今回の家庭訪問で強く感じたことは、そういう世帯では高齢化しつつある夫婦や、家庭の中心者が健康であることがとても、重要な条件になってくるということです。そして、本来なら生き甲斐であるはずだった子ども達の面倒を、自分たちが生きている限りみていかなくてはならないということを焦点に当てると、ではどうやったら、夫婦や中心者が精神面でも強壮な健康を保っていけるか・・・も、問題になってくるでしょう。
隣同士支え合っているんでしょうか? とある所で質問しました。役人からは嘲笑の表情が、私に向けられました。「あんた、そんなこともしらないんですか、助け合っていますとも・・・私たちは・」と、その笑いと表情は物語っていた。
だが、それは、表向きの、きれい事の発言でしょう。すでに、田舎の助け合いは、金銭関係 物々関係に変貌をとげつつあるように思うのです。聞き取りをした農家の多くが、そういう返答をするのです。私の質問は、勿論、無償の関係がまだ崩れていないのですか・・と問うたわけですから。それは、彼らも承知のはずです。本質に近かったから不快感をみせたのでしょう。
ベトナムの田舎は村社会です。濃密な人間関係で成り立っていました。それは理解している積もりです。しかし、そういうベトナムの田舎社会でも、大きな時代の変化が襲来していると言わざるを得ません。
枯れ葉剤の被害者のみならず、病人や高齢者を、村社会がどのように受け入れていくかです。
だから、私たちが車椅子を贈呈するその直前まで、車椅子の受領予定者がとっくに死亡しているのが分からなかった現状に、出くわすのです。 3年前のことです。
家庭訪問は、大変意義のあることです。向こうから来てもらうのではないのです。その行為は、被害者や高齢者に、安心と喜びを与えます。これからは、役人のみならず、地域住民が、「顔を見に行く」家庭訪問が、大きな役割を果たして行くと思うのです。
今回、もっと効率の良い支援をしてくれないか、と暗に量的支援の拡大を、鋭く、且つ感情的に表明した省がありました。家を建ててくれという声も、別のところで聞きました。そういう声も貴重な声ではあります。物質的応援は、確かにあるレベルまでは大事です。生活経済の向上無くして、生活弱者に余裕もゆとりも生まれないからです。
しかし、それを完遂したところで、なおかつ超えられない物があります。立派な家を建ててあげても、解決できない問題は必ず残ります。いずれの時点でも、そういう弱者の「心」と役人や私たちの「心」とがどこかでつながっているかどうかがもっとも大切なことは論を待ちません。
「精神的価値は結局において物質的価値に優るものである」(大道弘雄訳『我等の行く道』朝日新聞社)というルーズベルト大統領の言葉は、大きな意味をもってきます。
有名な箴言があります。「今の世間を見るに人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」
今の世間を見るならば、人を立派にしていくものは、味方よりも、むしろ強い敵であるとの言葉だ。確かに、困難があり敵がいるから、成長していく・・・しかと熟考してみようと思います。
今回、豚を贈呈したのは、わずか5世帯でした。この3月に、そのうちの1軒を、私は事前訪問しました。そこの女性が、「我が家はとても貧しいです。どうか、世界からも関心を寄せていただければ・・・」と、涙ながらに話しました。もちろん全世界から・・と彼女が言っているのではないことは、分かっていただけると思います。そしてまた、何かを具体的にほしいというのでもありませんでした。
今年の支援活動である程度やったな・・とこつんと当たった感触を得られるかどうかは、ひとえに下見にかかっています。
どうすれば、被害者や高齢化夫婦から元気をひきだせるか・・・それは贈呈する物の量に比例するものではありません。私たちが相手の心とどう繋げられるか・・にかかっています。それを見つけることが、下見の使命です。
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