2008-10-08

支援隊ツアー08(14)豚支援Ⅲ

支援活動は余韻にひたらず、精力的に動きます。「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如く」と、いきたいところですね。
故オンさん宅と同じドンフン郡のフーチャウ村に向かいました。前のオンさんのお宅は、大通りから車が入れず、1キロ弱皆で歩きました。農村風景の田舎の道は、生活が見えて、結構楽しいものですよ。
ファン・ヴァン・トンさんのお宅は、車を降りてからはさほど遠くありませんでした。トンさん一家が待っているはずです。トンさんのお宅に入ると、お子さんが目が悪いのが一目瞭然でした。まずご家族をご紹介しておきましょう。
タインさんを診察する名古先生

父親がファム・ヴァン・トンさんで、1957年生まれ。丁度15歳の1972年に人民軍に入隊して、第7師団の工兵隊に配属されて従軍。その後、1978年からは、カンボジア国境のタイニン省とその隣のビンヅオン省に配属され、その後ポルポト征伐の軍事行動で従軍。1984年10月に除隊。

奥さんは、ホー・ティ・ニンさんといい、1959年生まれ。奥さんも1978年入隊。工兵としてB2戦場ダクラック省で従軍。5年間駐屯。

長男ファム・ヴァン・タインさん。1986年生まれ。目が悪くてよく見えない。
長女ファム・ティ・クエンん。知的障害。
次女ファム・ティ・フオンさん。1998年生まれ。知的障害。
次男ファム・ヴァン・ティエップ君。目は正常のようだが、知的障害の度合が他の子より高い。引きつけや痙攣を起こす。(下の写真:カメラを向いている子)

長女クエンさんの診察

畠は1600平米。一家7人(祖母もいる)もいて、満足に働ける人は、奥さんたった一人。次女が少し。これも辛いですね。しかも、1600平米から上がる米では、足りないというのです。もくもくと一人で畑仕事をして、足りないのです。

家族の食事は少ない、といいましたが、米が足りなくて、1日の食事は2回だけ。国連が指定する「底辺10億人の年」の対象になると思いませんか。

日本の農家でも、早朝に始まり、日が暮れても、懐中電灯で照らして作業を続けることだってあります。苦労は絶えないが、「収穫の喜びは、他には替えられません」と、この人たちにも、まぶしい笑顔をさせてあげたいです。

ニンさんは、「私が病気になったら、働けなくなり、お金も入らなくなり、食べていくことも大変になります」と言って、泣き出しました。

ここに豚の支援をしました。タイビン省枯れ葉剤被害者協会から、8月18日に届けて貰いました。ところが、8月21日に2頭とも死んでしまったといいます。この日の朝、外務省のコーディネーターは、「豚が死んでしまったが、行きますか?」と聞いてきました。妙な質問でした。「豚が死んだくらいで、行かない理由にはならないでしょう」と、私は言いました。

12歳で、ハンセン病が発症した詩人搭 和子さんの詩にこういう一節があります。

ああ何億の人がいようとも かかわらなければ路傍の人

私たちは、関わっていくのです。本支援隊は、一義的には、物を贈呈することが本義ではありません。恩師は、こう書いていらっしゃる。「励ましとは、安心と希望と勇気を与えることである。相手の生命を燃え上がらせ、何ものにも負けない力を引き出す、精神の触発作業である」と。会わなければ励ましは出来ません。

「受け取った時は、元気でした。動物の病気にかかったのかと思っています」と、ニンさん。「あれがあれば、おカネになったのに・・・・」と、ニンさんは悔しがりました。「豚は欲しいですが、買うおカネがありません。きれいな水が欲しいです」と、ニンさんは言いました。雨水を貯めている水槽の水も汚いし、地下水も綺麗ではないようです。

皆様からの衣類を贈呈する名古さん
名古先生に、4人の診断をお願いしました。

長女フオンさんは、生まれつき見えないというのだが、中枢性(眼球を動かす神経)白内障ではないかとの診断。
長男タインさんは、先天性緑内障の疑いが濃いという。視野が狭くて、眼圧も高い・・との診断だった。手術によって治るかどうか、というところだ。「角膜はきれい。眼振がある」と、名古先生。
希望を抱かせたのは、次女。「眼振あり。後はきれいだよ。角膜も綺麗だ」と、先生。「左目は結構みえるようだよ。右目の視力は・・・ 左目はみえているよ。0.1くらい。色も分かるよ」「知的レベルも低くないようだ。反応も早いしね・・・学校に行けるんじゃない」
と、先生が言うと、ニンさんは、「3年間学校にいったけど、勉強ができなくて・・・」
「でも、私は大丈夫だと思うな、もったいないですよ・・・」
患者にとって、医師から「人間として」温かく接してもらえることが、どれほどの安心になるでしょうか。
                          
名古先生は、後日、こう語っています。
                      
「やはり教育の大切さですね。人は教育によって、初めて人間になるのですね。その点で、教育の光の一生当たることのない、ファン・バン・トンさん一家の次女の事が忘れられません。彼女は教育で自立できる人間です。彼女のことを考えると本当に辛い気持ちになります」

そして、名古先生は、この家庭のことを沼津朝日新聞に、こう投稿(抜粋)されています。

「支援に訪れたある農家には、後遺症から働くことの出来ない父親と障害をもった4人の子ども達がいました。それぞれが知的障害と視力障害を併せ持ち、働き手である母親を唯一手伝えるのは、視力障害をもつ次女ただ一人。彼女は、以前3年間だけ小学校に通ったものの、今では家で母親を手伝う毎日。訪問した日、豚小屋のような部屋で藁を燃やし、炊事をしていました。診察したところ、補助器具を利用すれば十分教育を受けられるだけの視力と知力をもっていることが分かったもの、家庭状況から通学困難なことは歴然としていました。・・・・」
                               
期待を膨らませてくれた豚の贈呈は、わずか延べ4日で死亡する事態になった。よりにもよって、こういう極貧の家庭に贈呈した豚の命がつきるとは、残念至極でした。
私たちは話し合って、責任がどこにあろうとも、再度支援しようと決め、役人さんにも分からないところで、おカネを渡し、豚を必ず買って下さいと頼みました。ここには、豚の名前はおいてきませんでした。
                            
やはり、この家を訪問して良かった、否、むしろこういう家こそ訪問すべきだと思いました。                        
  
最後に、もう少し 搭 和子さんの詩を続けましょう。
 
人とのかかわりで生かしていただいている私達。
すべては学び。
それにしても、あの人への思いは十分だっただろうか。
過去の多くの至らなさを心に留めて、
今縁をいただいている人へ気持ちを込めたい。
ちょっとした心配りの大事さを痛感しているこの頃です。
実践者でありたい。
では。
                            
この詩を拝して、私は胸が締め付けられる思いです。
どうすれば、発心の契機を与え、崩れざる幸福への道を進むことができるのか。課題は多いです。Posted by Picasa

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