2008-10-28

支援隊ツアー08(番外2) お便り頂戴しました。

10月27日 お二人からお便りを頂きました。一部をご紹介させて頂きます。このブログは、どこの国からアクセスしたかが、分かります。便利なものです。
まずは、ツアーにご参加下さったあいあい眼科クリニック名古 良輔先生からです。
支援について書かれている内容(註:10月27日掲載 番外編のこと)、まさにその通りだと思います。一番大切なのは、「世界はあな達を見守っている、関心を持ちつづけているのだ」ということを実感させてあげることではないでしょうか? 自分たちは世界から無視されている、と感じるときほど無力感を覚える瞬間はないのではないでしょうか?
マザー・テレサが言われたように、「愛の反対は、憎しみではなくて、無視だ」という言葉は真実です。

名古先生 ありがとうございました。誰かと繋がっているという確かな感触ほど強い物はないでしょうね。そう思います。マザー・テレサの言葉を紹介されたように、私たち世界市民が生活弱者に積極的にかかわっていくということが大事だと思いますね。それが、何にもまして、力を引き出すもとになると思います。

上の写真は、クアンガイ省で頂いた物です。無眼症の子です。お母さんの顔は写っていませんが、心中を察して余りあるものがあります。「死ぬに死ねない」気持ちと思います。そういう母の心を楽にしてあげられるのが、世界市民の連帯ではないでしょうか。力強いお言葉をありがとうございました。(北村 元)


オーストラリア暢子(のぶこ)さんから、頂戴しました。

口紅をさしてもらって、少しはにかんだようなニャンちゃんの笑顔。少し、大人っぽくなられていますね。。。

お姉さんのハノイ国家大学法学部合格は、本当にすばらしい!!弁護士になられるとのこと。心あふれる、世界一の弁護士さんになられると思います。ブログを拝見して思い出したことがあります。(中略) 理想郷そのものが存在するかどうかよりも、その理想郷を目指して、歩み続ける事に意味があり、目的があるというような内容だったと思います。

北村さんや、さわやか支援隊のみなさまのご心痛を計り知ることはできませんし、前途はとほうもないものかもしれませんが、皆さんが、心を合わせ目指して歩まれてきた後ろには、確かな道が、幸福と友情の道ができていることを信じてやみません。暢子

暢子さま ありがとうございました。貧困の中から勝ち取った大学合格証。父をうしない、2人の兄を失い・・彼女は、いまこの家庭の華です。希望です。目標を高い所に置いて、勉強してきた甲斐があったと感じてくれていれば、それはうれしいです。

姉のクエンさんが、私たちがくるという連絡をビンさんから受けて、高校から一所懸命自転車を飛ばして帰ってきてくれたときがありました。もう帰ってしまっているかもしれない・・でも絶対、会いたいという気持ちでペダルをこぐ・・・外国人には訴える物がありましたね。ちょっとでも御礼を言いたかったのでしょうか。あるいは、自分の羅針盤にセットした針路を聞いて欲しかったのでしょうか。さわやかな女子大生になりました。

脾臓肥大は治らないものでしょうか。黄疸症状も治らない物でしょうか。現代医学に怒りを感じながら・・・何が出来る、どうすればいい・・・と、焦りつつ・・・・ニャンちゃんが、一日も長く生きられること・・・を願わずにはいられません。名古姉妹が提案した家庭教師をつける・・・検討に値する案です。打診をしてみようと考えています。いつも、ご支援ありがとうございます。(北村 元 記)Posted by Picasa

2008-10-27

支援隊ツアー08(番外)今年のツアーを終えて

今年のベトナム支援ツアーは、最大時18人で回りました。私たちは、幸運にも、バクザン、タイビン、ナムディン、ニンビンの田舎を、回ることが出来ました。
これらの地方では過疎化が進んでいるという言い方が必ずしも当たっているわけではありませんが、枯れ葉剤被害者の家庭ではやはり老夫婦で生活する世帯が多いようです。障害ゆえに一家は子どもの時代に移行出来ず、いつまでたっても第1世代の夫婦を中心とした世帯をどう支えていくかが、今後のベトナム社会の地域の大きな問題になるのではないかと思います。高齢化する夫婦をどう支えていくか、大きな困難を伴いそうです。
そして、その問題がもうそこまで来ているように思うのです。
妻は死亡。男親が2人の障害児の面倒をみる(クアンガイ省)

今回の家庭訪問で強く感じたことは、そういう世帯では高齢化しつつある夫婦や、家庭の中心者が健康であることがとても、重要な条件になってくるということです。そして、本来なら生き甲斐であるはずだった子ども達の面倒を、自分たちが生きている限りみていかなくてはならないということを焦点に当てると、ではどうやったら、夫婦や中心者が精神面でも強壮な健康を保っていけるか・・・も、問題になってくるでしょう。

隣同士支え合っているんでしょうか? とある所で質問しました。役人からは嘲笑の表情が、私に向けられました。「あんた、そんなこともしらないんですか、助け合っていますとも・・・私たちは・」と、その笑いと表情は物語っていた。

だが、それは、表向きの、きれい事の発言でしょう。すでに、田舎の助け合いは、金銭関係 物々関係に変貌をとげつつあるように思うのです。聞き取りをした農家の多くが、そういう返答をするのです。私の質問は、勿論、無償の関係がまだ崩れていないのですか・・と問うたわけですから。それは、彼らも承知のはずです。本質に近かったから不快感をみせたのでしょう。

ベトナムの田舎は村社会です。濃密な人間関係で成り立っていました。それは理解している積もりです。しかし、そういうベトナムの田舎社会でも、大きな時代の変化が襲来していると言わざるを得ません。

枯れ葉剤の被害者のみならず、病人や高齢者を、村社会がどのように受け入れていくかです。

上のアインさん宅の台所

そこで、とりあえず今中心的役割をはたしている役人たちによる家庭訪問は大事です。いろいろな悪条件があって、なかなかそれが実現出来ていないことは理解できます。

だから、私たちが車椅子を贈呈するその直前まで、車椅子の受領予定者がとっくに死亡しているのが分からなかった現状に、出くわすのです。 3年前のことです。

家庭訪問は、大変意義のあることです。向こうから来てもらうのではないのです。その行為は、被害者や高齢者に、安心と喜びを与えます。これからは、役人のみならず、地域住民が、「顔を見に行く」家庭訪問が、大きな役割を果たして行くと思うのです。

今回、もっと効率の良い支援をしてくれないか、と暗に量的支援の拡大を、鋭く、且つ感情的に表明した省がありました。家を建ててくれという声も、別のところで聞きました。そういう声も貴重な声ではあります。物質的応援は、確かにあるレベルまでは大事です。生活経済の向上無くして、生活弱者に余裕もゆとりも生まれないからです。

第2世代第3世代に頼れないティ・イエンさん(左)クアンガイ省

しかし、それを完遂したところで、なおかつ超えられない物があります。立派な家を建ててあげても、解決できない問題は必ず残ります。いずれの時点でも、そういう弱者の「心」と役人や私たちの「心」とがどこかでつながっているかどうかがもっとも大切なことは論を待ちません。

 「精神的価値は結局において物質的価値に優るものである」(大道弘雄訳『我等の行く道』朝日新聞社)というルーズベルト大統領の言葉は、大きな意味をもってきます。

有名な箴言があります。「今の世間を見るに人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」

今の世間を見るならば、人を立派にしていくものは、味方よりも、むしろ強い敵であるとの言葉だ。確かに、困難があり敵がいるから、成長していく・・・しかと熟考してみようと思います。

今回、豚を贈呈したのは、わずか5世帯でした。この3月に、そのうちの1軒を、私は事前訪問しました。そこの女性が、「我が家はとても貧しいです。どうか、世界からも関心を寄せていただければ・・・」と、涙ながらに話しました。もちろん全世界から・・と彼女が言っているのではないことは、分かっていただけると思います。そしてまた、何かを具体的にほしいというのでもありませんでした。

レ・ティ・スエンさん宅の軒先(ニンビン省)
「両親は他界し、枯れ葉剤に侵された2人の妹、弟を面倒見なければならない・・状態に関心をもっていただきたい・・・」と言いました。その場の雰囲気と彼女の気持ちをそのまま素直に解釈するならば、「それで私たちも少しは元気がでると思うのです」ということだったと確信します。

今年の支援活動である程度やったな・・とこつんと当たった感触を得られるかどうかは、ひとえに下見にかかっています。

どうすれば、被害者や高齢化夫婦から元気をひきだせるか・・・それは贈呈する物の量に比例するものではありません。私たちが相手の心とどう繋げられるか・・にかかっています。それを見つけることが、下見の使命です。
さて、このツアーにご参加の皆様。今、わが胸に、何人の友の「顔」が浮かんできますか。きょうを真摯に生きるのは、単に自分のためだけではありません。胸に浮かんだ友の笑顔のためでもあります。そこに、己心の力も限りなく湧いてくるのではないでしょうか。 (北村 元:記)Posted by Picasa

2008-10-24

支援隊ツアー08(33=終)もう一人のお誕生日

8月28日:もう一人、ツアー参加者の中で、ハノイでお誕生日を迎えた方がいました。千葉にお住まいの川津康代さんです。大学時代の友人です。会場は、私の好きなイタリア・レストランの「パネ・エ・ヴィノ」・・オペラ座から歩いて1分です。
どうやって、お祝いしようか、27日、ニンビン省からハノイへの帰りのバスの中で、一人もくもくと考えました。誰にも相談しないで、内緒できめました。ハノイまで後1時間というときに、ただ一人、外務省のタインさんに相談しました。
グラスを合わせる川津さんと金原さん(左)

「一弦琴を弾ける女性はいないか」と。

彼は、バスの中から電話をかけてくれました。奏者は、40分ほどで決まりました。その方が、緑のアオザイを着たこの方です。後は、ケーキです。これは、私が住んでいた時の行きつけのお店で決めました。

川津さんんと奏者
ベトナムの曲、日本の曲を弾いてくれました。なかなか難しい演奏楽器です。ソロも良いですが、合奏もなかなかですよ。
ローソクの灯ったバースデーケーキを入れて、川津さんの写真を撮るタインさん。
挨拶する川津さん。初めてのベトナム。このツアーで、多分、たくさんの重い思い出を心の中にしまい込まれたと思います。ツアーの終わりのお誕生日。意味のあることと思いました。
                    
皆さんは、正確に言えば30日の午前零時5分発の成田行きで日本へ。
小生は、29日午後1時半の飛行機で、シンガポール経由ジャカルタへ。
今回ツアーで初めてお目にかかった方々はもちろん、支援旅で縁したベトナムの方々のご多幸を祈りつつ、ハノイを後にしました。
                          
皆様 お疲れさまでした。ご協力ありがとうございました。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(32)ちょっと観光

8月28日:VAVAを辞した後、ホーチミン廟周辺を大釜さんの案内で散策している間に、私は、郵便局でクアンガイ省へ送る奨学金の手続きをしました。その後合流して、ご案内したのが、撃墜されたB52爆撃機の機体の一部が落ちているヒュー・ティエップ湖です。その前で、記念写真に入りました。撃墜したのは、1972年12月27日の夜中の11時05分だそうです。撃墜の当事者は、第72連隊第285防空ミサイル部隊でした。
ヒュー・ティエップ湖の前の通りの人の家の軒先で、将棋を指す若者。必ず、そばで見ている人がいます。この外野が結構うるさいのです。 平和の証拠ですね。

次に私が、ご案内したのは、ここ(下の写真)です。アメリカ大統領候補のマケイン上院議員と関係のある場所です。
ハノイ市内にある大きな湖・西湖にしがみつくようにくっついている湖、チュク・バク湖と言います。漢字で書くと竹白湖です。きれいな名前ですね。その湖畔にひっそりと立つ小さな碑。
そこには、こう書かれてあります。
「1967年10月26日、チュクバク湖で、首都ハノイの市民と軍人が、イエンフ-発電所上空で撃墜されたA4B1戦闘機のパイロット・ジョン・マッケイン空軍少尉を逮捕した。これは当日に撃墜された米軍機の1機にすぎない」
マッケイン少尉のハノイ爆撃は、当時6回目の任務だったといいます。後日、マッケイン上院議員がこの碑の前に立った時、「私は、共産主義には降伏したつもりはない」と言ったそうですが、降伏という意味の単語や文章はこの碑にはありません。

マッケイン空軍少尉を捕まえた一人、マイ・ヴァン・オンさんを、チュク・バク湖畔の自宅に訪ねたことがあります。当時で86歳でしたから、生きていらしたら、94歳にはなっています。とにかく小柄で元気のいい方でした。

「午前11時頃、突然、防空サイレンがなった時、私はこの家にいました。防空サイレンが聞こえたので、50メ-トル先の防空壕にいきましたが、すでに満員で、入るには入りましたが最後で、外にいたも同然でした。その時アメリカの戦闘爆撃機が2つの編隊を組んで飛んでくるのが見えました。その時、北ベトナム防空部隊が対空ロケットを放ちました。それが後ろの戦闘機の尾翼に当たって尾翼が落ち、その後戦闘機は墜落しました。そして、白いパラシュ-トが飛び出しました。それが、チュク・バク湖の真ん中に落下したので、私はすぐ泳ぎました。当時の私は、上半身裸です。短いパンツをはいているだけでした。ようやく白いパラシュ-トの所に泳ぎ着いたら、パイロットが5メ-トルくらい沈んでいたように思いました。背中にはパラシュ-トがまつわりついていました。パイロットは死んだと思いました。すぐ引っ張りあげようとしましたが、太っていて大変重かったです。とにかく、水面まで引き上げました。」
と、まあこんな感じで話してくれました。
                     
さて、マケイン上院議員は、大統領になれるのか? 私は3-7で無理だとみています。
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支援隊ツアー08(31)VAVA表敬訪問

8月28日午前9時。私たちは、最後の公式行事であるベトナム全国枯れ葉剤被害者協会(VAVA)を訪問した。副会長のグエン・チョン・ニャン博士とは、1年ぶりの再会だった。
博士は、日本訪問を10回も果たしている。「ヒロシマナガサキ、名古屋 福岡へ行きました。1988年には、車で5合目まで登り、富士山を近くでみました。その後東京に行きました」と、楽しそうに話を切り出され、懇談的な話し合いになった。
以下は、ニャン博士の発言要旨である。
資料をもとに話をするニャン副会長

▼亡くなったダン・ヴー・ヒエッ会長の後は、新会長に、ドー・スアン・ジエンDo Xuan Dien)さんという人がなりました。やはり、枯れ葉剤の被害者です。チュオンソン山脈で枯れ葉剤を浴びました。余り健康はよくありません。

▼現在枯れ葉剤の被害者の数は、300万人と思ってください。来年、詳しく検査します。アメリカが1961年から撒き始めてから、たくさんの人が死んでいきました。そして、戦後は新しい被害者も出てきました。枯れ葉剤被害者は増えています。

▼ベトナムは経済優先で進んでいるので、枯れ葉剤の被害者をなかなか確定できないでいます。被害者の病気は、不治の病です。

▼赤十字、労働新聞、青年新聞などのメディアの他、子どもを守る団体もスポンサーになっています。各種団体が一緒になって、行動していますが、何も貰えない被害者もいます。
そこで、いま、各種団体を統一して、一つの計画を立ち上げたいと考えています。(註1)

支援隊から金一封を寄付する大釜会長(当時)

▼戦争中行方不明になったアメリカ軍の遺骨を探したのは、ベトナム人の広い心です。アメリカが応えないために、2004年にアメリカで裁判を起こしました。アメリカの裁判所は、ベトナムの訴えを棄却していますが、私たちは訴え続けています。

▼アメリカの裁判所は、却下の理由をいろいろ挙げていますが、全部間違っています。
例えば、ベトナムで撒いた枯れ葉剤の毒性は少ない・・と言うものです。あれは、葉を枯らすだけのもので、人体への影響は無い・・と言っています。しかし、現実をみていません。

▼アメリカでは、国家、詰まり政府が裁判所に圧力をかけたと思います。理由は、ベトナムが勝ったら、アメリカは賠償しなくてはならないという考えです。国際法では、枯れ葉剤、化学兵器を使用してはならないという規定があります。

▼二つ目の理由は、この裁判で、ベトナムが勝つと、アメリカ政府は人権に違反している人権の国になるからです。アメリカは、ベトナムに人権を守れと言ってきましたが、人権に違反しているのはアメリカです。

▼2008年10月にアメリカで会議があります。私も、文書で参加しようと思っています。この発言のタイトルは、「枯れ葉剤とアメリカの心」にしようと決めています。結論は、アメリカで心ある人は誰ですか? です。

以上が、ニャン博士の発言の概要です。

停電で、外でニャン博士と記念写真

一義的にも国際的にも、アメリカが誠意ある姿勢を見せることが肝要だと思う。そういう国際環境を作る国際的な連帯が必要である。

その一方で、国内的には、ニャン副会長が話されたように、国内での被害者支援の意識向上をはかることが大事だ。それは、昔の貧乏を分かち合う共産主義の清い精神に立ち返ることであり、ひいては苦しむ人たちと同苦するより高い精神運動を遍満させることである。

その点で、ニャン博士の発言と関連して、私たちの通訳を務めてくれたマイ・アインさんが、名古姉妹に話した内容(註1)は、一市民としての意識として大事であるので、ここに紹介しておきたい。

「今まで、貧乏な人がいることや枯れ葉剤被害者は知っていた。でも今回、実際家庭訪問をして、自分の目で見て、現実がわかった。彼らは手当てを貰っていても僅か。例え私たちが一ヶ月生活できるお金を彼らに渡しても、貧乏の悪循環は崩れない。こうした状況があっても、今もなお続くのは私たちの責任でもある。私たちも自分に何が出来るか考えていかなければならない。」(マイ・アインさん)

22歳のタイン・ニエン(ベトナム語=若者)のこの考えには、重なるところが多くあるのではないか。

支援隊にVAVAから送られた感謝状
ここの訪問を終えて、今ツアーでの私の役目はほぼ終了した。示唆に富んだ支援ツアーだった。
                          
「自然は、人間に一枚の舌と二つの耳を与えた。ゆえに話すことの二倍だけ聞け」という、古代ギリシャの哲学者ゼノンの言葉が伝えられている。人の話に真剣に耳を傾けることの大切さを強調したものだ。かと思うと、聞く耳をもたず、意地悪いことを話す「耳が一つで、2枚舌」の人間もいる。
                                                     
数多くの方々に会えて話に耳を傾けたことは、間違いなく有意義だった。賢明に言葉を紡ぎ、全力で対話に傾注したつもりであるが、私の力及ばずのところがあった。私たちは「聞き上手」でありたい。豊かな「同苦の心」を持って合わせたい。相手の思いを知らなければ、どんな激励の言葉も空回りになる。「聴く力」あって、初めて「語る力」が生かされることを常に心に留めておきたい。
タイビン省のVAVAからは、ちょっと違った角度での指摘もあった。支援の量を増やしてほしいという怒りにも近い声を聞いた。私たちが会ったのは、ほんの一握りの被害者でしかない。私たちは、毎年毎年、微力の限りを尽くしているが、被害者救済にはほど遠い。
                           
反面、現在、日本の平和教育で問題となっていることに、戦争体験の風化がある。平和の心を後世に伝え、広げることは、容易ではない。しかし、黙っていては伝わらない。乗り越える一つの方途は、「戦争体験」をさまざまな機会を通して伝え、訴えることだ。 
                           
このベトナムでは、今でも戦争を追体験できる。忘れない、忘れさせないための努力を永遠に続けていく義務も、私たちにはある。この地道な訴えこそ、平和への第一歩と心得る。
                              
いま、私たちが行っている、聞き取りと支援活動という両面作戦は、私たちの心の中に戦争風化の防波堤を築きながら、同時に被害者の中に少しでも負けない心を育てていく隠れた作業だと自負している。
                           
支援隊といっても、物をあげるだけではない。不幸な犠牲者の人生の応援団であり続けようと、少なくとも私は務めている。その点では、支援を数よこせというタイビン省のVAVAの主張と私たちの考えには隔たりがある。
そして、忘れてならないのは、「自分たちが励ます側にいることが、どんなにすばらしいことか」である。つまらないことでもめている場合ではない。
                            
来年も、再来年も、戦争風化を止め、支援と交流に一層力を入れていきたいと決意を新たにした今年である。“どげんかせんといかん”のではないか。
一つ一つに全力を注いできたつもりであるが、至らないところが多々あったと思う。「一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし」と、箴言にある。その時々の問題に集中し、情熱を込め、全力を出し切っていくことが、今後とも必要だと思う。
                            
皆さん方のお考えを聞かせて頂きたい、と願っている。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(30)8月28日のこと。

8月27日 生まれて初めてでしょうか、口紅を、名古さんのお姉さんから付けて貰いました。下の写真は、お母さんにみせるニャンちゃんです。
名古姉妹が持参してくれたアイシャドーは、たくさんの色がありました。全部プレゼントでした。
下は、アイシャドーの様子を鏡でのぞくニャンちゃんです。
そして、お化粧したまま、記念写真(下)に収まるニャンちゃん(中央)、母親ヒエンさん(左)、 長女クエンさん(右)です。
もし、お医者さんから、あなたの寿命はあと数年しかありません」と言われたら、貴女は何をします。どうしますか。
                         
8月28日、ニャンちゃん親子は、バスでハノイに行きました。そして、スウェーデン病院で診察を受けたそうです。約束通り、母親ヒエンさんは、私たちに電話を下さいました。
細かい結果は、わかりませんが、「『手術はできなくはないが、手術をすると命が短くなります』、と言われました。だから、多分このままでいきます」と。母親としては、当然の選択だと思います。少しでも長く、子どもといっしょにいたい・・・。
                           
母親の報告を、その日聞いたであろう下の妹の寿命を、大学に入ったクエンさんは、さぞ悔しい思いをしたのではないか、と想像にあまりあるものがあります。
人は「自分が大切にされているのか。それとも軽んじられているのか」――敏感である。鋭敏な若い生命ではなおさらだ。社会が子どもを大切にしていることを、子どもたち自身に伝えねばなりません。

▼アフリカの諺には「子どもは村中みんなで育てるもの」と。「子にすぎたる財なし」の箴言もあります。人類の宝である子どもの笑顔が輝く社会をつくることができれば・・。
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支援隊ツアー08(29)ニャンちゃん宅で

8月27日:私たちは、朝、ニャンちゃんの家に向かいました。大半の方は初対面。1年ぶりの方もいます。私は5ヶ月ぶり。ここで、先ず、長女のクエンさんに、奨学金を渡しました。
彼女は、ニャンちゃんの病気を治したいと医学部をめざしました。しかし、どこでも授業料がたかいのと、試験の難度があります。その後、外国語のフランス語学科を希望します。
しかし、最終的には、ハノイに出て、ハノイ国家大学の法学部の入学試験に合格を勝ち取りました。私たちが訪問する10日前に、大学から合格通知証が来たそうです。「弁護士になります」と、決意を発表しました。
高校の卒業者52人のうち大学進学は10人。ホーチミン、フエ、ハノイへと向かったそうです。こういう田舎では、まだまだ進学率は低いのようです。
クエンさんが幼い時に亡くなったお父さんも喜んでいらっしゃると思います。
宮尾事務局長(当時)から長女クエンさんに奨学金贈

蓮の花奨学金証書の文章は、私が作り、宮尾さんが綺麗に印刷してくれました。

Pham Thi Khuyenさん
私たちは、クエンさんが大学で勉学に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊から今後1年分の勉学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りします。竹は節があるから、真っすぐ伸びる。竹は節が多いから、大きく伸びる。大学に行くのは何のため?母のため、ニャンちゃんのため、社会のため、ベトナムと世界の平和のため。皆の幸せのために頑張りましょう。
2008年8月10日
受領者側署名
生徒母親 Luong Thi Hien
立会人寧平省旧兵士連絡会幹事Trang Thi Binh
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊   宮尾 和宏
立会人 日本国静岡県沼津市   名古 希実

クエンさんのハノイ国家大学合格証

なぜ、私たちの証書の日付を8月10日にしたのか? 

それは、枯れ葉剤が撒かれた日を、ベトナム政府が枯葉剤被害者の日と定めているからです。 私は、その日に因んで記入しました。

ニャンちゃんのヘアースタイルを整える希実(のぞみ)さん

今回のニャンちゃん宅訪問は、3つの目的がありました。一つは、奨学金を贈呈すること。二つ目は、ニャンちゃんのおかず代を1年分置いてくること。領収書代わりのノートには、毎月、ビンさんがおカネを運んで下さるたびに付けられる日付と金額が、綺麗に記入されていて、、皆さんにお見せしました。これだと、ほんとうに安心です。3つ目は、ニャンちゃんに喜んでもらうために、名古希実さんと彩香さんに考えて頂いたことを実行すること、でした。まずは、姉妹から、健康でいて・・との願いをこめて千羽鶴が贈られました。

2部に分かれていました。昨年の上崎理会子ちゃんと同じように、まずは後ろ髪に可愛いミッキーマウスの髪飾りを付けることから始まりました。とっても可愛く仕上がりました。

ニャンちゃんのメイク・アップをする名古姉妹とニャンちゃんの母親(右下)
そして、今度は、口紅とアイシャドーです。きれいにメイキャップが出来上がり、お母さんもやってもらいたいような表情でした。にっこりと笑顔をみせえたニャンちゃんの顔は、次回のブログでお楽しみに。
                           
そして、ニャンちゃんのお腹のふくらみが気になっていました。病名は脾臓肥大です。「食べたいけど、お腹が一杯」と、ニャンちゃんは言います。脾臓肥大で、相当胃が圧迫されているのでしょうか。黄疸も進んでいるようです。
                           
彼女は、今年15歳になりました。この日、私たちは、お母さんから、「明日(8月28日)、娘がハノイのスウェーデン病院で診察を受けることになっています」と聞きました。
「その結果を、お知らせします」ということで、おいとましました。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(28)蓮の花奨学金Ⅱニンビン省

8月27日:私たちは、蓮の花奨学金を、ニンビン省の3人の学生さんに差し上げました。
どうやって、この蓮の花奨学金が誕生したのか。ある時、宮尾現会長のところに、ポンと大金を出して下さったご婦人がいらしたのです。折角まとまったおカネを頂戴したので、しかとした目的に使わせて頂きたい、と強く感じました。何回か、宮尾さんにやりとりをして頂いた。寄付をされた女性とベトナムを結びつける花の名前をつけることになりました。将来の逸材が、泥水の中にあっても美しい花を開く蓮の花の名前に託したいと申したところ、ご快諾下さって始まったのです。
今年は、ハノイで3人。ニンビンで4人。クアンガイで2人、合計9人が蓮の花奨学金を使って勉強することになりました。
大釜会長(当時)からホアさんに(1)

写真(1)受領者グエン・ティ・ホアさんは、今年から大学生です。ホーチミンの大学に入りました。お母さんは、ディン・ティ・セーさん。今年53歳。戦争中はチュオンソン連隊559部隊で戦う。ホアさんが2歳の時お父さんは亡くなりました。お父さんは、南ベトナム政府軍につかまり、虎の檻で有名なコンダオの刑務所に5年間入れられたそうです。たくましいお母さんセーさんの手一つで、育てられました。母親のセーさんは、私たち支援隊の活動に大変協力して下さっている方でもあります。

詩人ハイネは、「母はつねに私の心のなかにいる」(番匠谷英一訳 『ハイネ新詩集』)とうたっている。心に母がいる人には、安心があり、勇気がわく。その母に報いようとする時、無限の力がみなぎる。・・・・と、恩師は小説に記しました。

ホアさんは、「将来は銀行員になりたいです」と言いました。私は、「銀行を作って下さい」と、お願いしました。

低所得国で貧困から抜け出すための現地の女性の潜在能力を利用した方法の成功例としてバングラデシュのグラミン銀行のことを思い出したからです。グラミン銀行とその銀行設立者にムハマド・ユヌス総裁がノーベル平和賞が贈られましたね。低所得国では、女性の地位が低く、一生懸命働いても女性が貧困から抜け出すのは簡単ではありません。それを無担保融資で可能にしたグラミン銀行。これまで660万人(ほとんど女性)に貸付け、98%が返済されているとか。

ホアさんは、今問題の財政・金融を勉強すると言うことでした。こういう世界危機がおきないように・・そのためにはいいチャンスです。

ニンビン省の体育大会で「金メダル」をかくとくしたのが良い思い出だそうです。

受領者ナムさんに(2)

写真(2)は、ファム・ティ・ナムさんです。お母さんは、ファム・ティ・ティンさんで、54歳です。チュオンソン連隊559部隊に所属していました。お父さんは、ファム・ダン・カインさん56歳です。

ナムさんは、高校2年生。「将来は警察官になりたい」と、希望を膨らませます。お母さんの身長を軽く抜いた長身の女性です。

(3)宮尾さん(当時事務局長・現会長)からトゥ・チャンさんに

もう一人も、高校2年生のラ・ティ・トゥ・チャンさんです。この日、ご両親とも来てくださいました。お父さんは、ラ・チ・キーさん。59歳。お母さんは、ファム・ティ・ビンさん57歳です。

トゥ・チャンさんは、スチュワーデス希望でした。ベトナムでは花形の職業なんでしょうね。

トゥ・チャンさんの分だけ、証書の文言をご紹介しておきます。

蓮の花奨学金証書
ラ・ティ・トゥ・チャンさん
紅河デルタにある寧平省。10世紀には首都があった歴史ある地で、トゥ・チャンさんが勉学に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊として1年分の勉学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りします。自分の大切な生き方の魂の部分をしっかり持ち、その自分に誇りを持てるように、たくさん勉強してください。
2008年8月27日
受領者側署名
生徒母親 Pham Thi Binh  
寧平省旧兵士連絡会会長TranThiBinh
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊   宮尾 和宏
立会人 日本国静岡県三島市   金原  昇

【ペイ・フォワード】という映画、ご存じですか? 邦画の題名が、確か【可能の王国】という映画です。世界を変えたいと思う方々は、DVDでもでていれば、この映画をぜひ、お子さんとみて頂きたいです。
「“善意のネズミ講”で幸せになろう!」と、原作者キャサリン・ライアン・ハイドは「ペイ・フォワード」誕生についてこう呼び掛けました。
治安の悪い町で、運悪く車がエンスト。ハイドは、車に近付いてくる男2人に恐怖心を抱きます。しかし男たちはエンストしてしまったハイドの車を快く修理してくれたのです。そこから、この“善意を他人へ回す”という思考が誕生しました。
 受けた好意を相手に返すのではなく、誰かほかの3人に贈る。その3人もまた、それぞれ新たな3人に。
「自分の手で世界を変えよう」という社会科教師の課題に反応して、この「ペイ・フォワード」なる方法を考えた少年トレバーに、ハーレイ君という少年を起用したのが大正解。
彼の憂い顔は、世界を変えたい切実な事情を抱える少年の不安を伝えずにいませんし、それでいて、母親と社会科教師のキューピッド役に張り切る年相応の明るさも見せてくれます。
この3人には、年1回、近況を知らせて欲しいとお願いしました。この日の3人(ホアさん、ナムさん、トゥ・チャンさん)が、成長したら、新たな3人に善意を渡していく・・・私たちはそれで良いです・・・私たちへのパスバックではなく・・・そうすれば、ベトナムはもっと良くなっていく・・・と、思っています。Posted by Picasa

2008-10-22

支援隊ツアー08(27)音楽療法を終えて

8月26日 田舎道を歩いて目的の小学校に。なんとも長閑な田園風景。タイコで召集して、先生の指示に従い整列。遠方の子どもの顔は見えません。さあ、240人の学童と校庭での音楽。中には擦り切れた洋服を着ている子どももチラホラ見られますが、初対面なのに笑顔が素晴らしい子ども達ばかりです。
軽いフットワークだ

先ずは、ベトナムで人気の「♪ドラえもん」で軽やかに音楽体操開始。大木の陰で見えない子供たちも同行の日本人や職員のサポートで徐々に動作が大きくなり、笑顔や笑い声が聞こえて来ました。

ボディパーカッションやダンスも取り入れました。リズムトレーニングでのリズム模奏も真剣そのもので完璧。たまに間違えると苦笑いをしてモジモジしている子どももまた可愛らしく思えました。

太鼓で合図する新谷さん

さあ、いよいよ体育系の「仲間作り」。これは音楽に合わせて行進し、曲間でのタイコの数を「ハイ、バイ、ホー・・・」と数えて仲間を探して手を繋ぎ座るというゲームです。最高で10人。ベトナム語でのカウントが高らかに聞こえて人集めをし始めました。

人数に満たないグループに、職員があふれている学童を引っ張って行き慌てて座る光景に「先生たちも我を忘れて参加しているんだ」と嬉しくなりました。

仲良く行こうね

また、「仲間はずれにされた子ども」も居ました。健常者がもつ現実です。「いじめ」には程遠い行動ですが、私にとっては障害児には見受けられない現状を目の当たりにしました。

障害児にとっての音楽活動は自分の手足や声を表現的に使う動機となり、純粋な心理学療法とも言われています。音楽の効果とは、心の開放が内的に持ち合わせている才能を引き出してくれるとも言われています。健常児、障害児両面の反応に新たな発見をしました。

最後は校庭の全部を使ってスペード形の一つの輪になり「♪ビリーブ」の曲でお別れをしました。道路向こうの前方には、住民が民家の窓や周りで一緒に参加していました。「楽しい音楽を!」と繰り広げた音楽体操も成功に終ったと思います。

来年はベトナム語で「♪ビリーブ」を大合唱したいと思っています。心のふれあいをありがとう!! ほんとうに、ありがとう。

元小学生もまじって
♪ ビリーブ
たとえば君が傷ついて くじけそうになった時は
かならず僕がそばにいて ささえてあげるよ その肩を
世界中の希望のせて この地球はまわってる
いま未来の扉を開けるとき 悲しみや苦しみが
いつの日にか喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる 
(記:新谷 文子)Posted by Picasa

支援隊ツアー08(26)高齢夫婦の車椅子に思う

8月26日 昼食後、私たちは、レ・ティ・スエン さんの家を訪問した。ティ・スエンさんは、1947年生まれ。現住所は、ニンビン省ホア・ルー郡ニンソン村だが、出身は隣のタイビン省である。
ティ・スエンさんは、1965年に、18歳で青年先鋒隊に入隊した。派遣された戦場は、最前線の戦場であるクアンチ省だった。

スエンさんは、アメリカ軍機が、何かを撒いているのを、何回も目撃していた。「その噴霧が、体に触れたこともある」と言った。爆弾の風圧を受けて、スエンさんは、ハノイのベトドク病院(旧東独友好病院)に入院した。因みに、この病院は、ベトちゃん・ドクゃんが、生後18日目で最初に運ばれてきた病院だ。
「爆弾で死んだ仲間は多いですが、遺体がどこにあるか、もうわかりません」と、当時を思い出した。
 涙がとめどもなく・・スエンさん

一棟に二部屋だが、庭に立って向かって右の部屋には、息子夫婦らしき家族が住んでいた。しかし、なぜか、車椅子の使用方法を説明していても、一回も顔を出さなかった。車椅子は、特に、人の介助が欠かせないのに。

ティ・スエンさんの右足も左足も動きにくい状態になっている。ベッドの周囲なら、手を使えばなんとか歩ける程度だ。今のところ、スエンさんは両手を使うことはできる。従って、トイレやシャワーを使う時には、人の助けが必要だ。それをご主人のグエン・ヴァン・ニャンさんがやっている。ニャンさんは、1947年3月生まれ。高齢と言っても、61歳だ。奥さんより1ヶ月早く生まれている。ニャンさんの軍歴は聞かなかった。

妻のティ・スエンさんを大きく動かす時は、息子二人が、だっこして移動させるそうである。そして、頭痛勝ちである。腹痛もよくあるらしい。そのために抗生物質を服用しているという。処方はあっているのか。「カネがないので、ある時だけ治療します」と、スエンさんは言う。「若い時は、農業にも当然精を出していましたけど、体や頭が痛くなってからは、何もしていません」と。

二人は、1971年2月に結婚した。子どもが3人いる。長男、次男、長女。この3人のお子さんには、今のところ障害はない。

二人揃って久しぶりに外気に

みるからに貧しいお宅だった。原因の一つは、戦争にまつわる国からの手当の受給が無いことだ。従軍の資料を紛失したために、申請が出来ないでいること。戦争にかり出した以上、生き証人がいるのだから、それを証明することは不可能ではない。行政の中の誰か一人が勇気をもって、手を打てばもう少し快適になるのだが。

二つ目の原因は、所有農地が800平米しかないこと。そこからあがってくる米は350キロと聞いた。この一家に年間100キロ不足するという。
この家族も、1日2回の食事だそうだ。一人ひとりが1回1膳のご飯らしい。おかずはほとんどが野菜で、「肉は食べません」と、ご主人のニャンさん。カネがないのだ。

スエンさんが病気になれば、友人、近所、銀行から借金をし、それは息子が返すらしい。「国からの手当を待っているんですが」と言って、こらえていたスエンさんは、泣き出した。

毎日これだけのマンパワーがあるわけではない・・・

ニンビン省のビンさんから、車椅子の支援したいと聞いたやってきた。だが、生活支援か、車椅子か、どちらを優先するかと問われたら、事前にもっと分かっていれば、この家の場合、生活優先を私は考えたろう。これは、私自身の反省でもある。それは、以下の理由による。

「10ヶ月前から、体が弱ってきた」とご主人は言った。そしてスエンさんが、「お尻が痛い」と、私にポツリと言った。
そこで、同行の婦人に調べて貰ったら、案の定褥瘡(=床ずれ)ができていた。
そして、もっと驚いたのは、スエンさんがショーツを付けていなかったと聞いたことだ。

褥瘡とは、長時間、皮膚に圧力が加わり、血流が悪くなり、皮膚表面の組織が壊死(エシ)をきたした状態である。もっと、簡単にいえば、皮膚に穴が開くことだ。なぜ褥瘡がおこるか?毛細血管は皮膚の組織に必要な栄養素を運び、不要になった老廃物を運ぶ血管なので、ほんのわずかな圧力でも、この血管が圧迫によって押し潰され、一定の時間(たったの2時間程度と通常いわれている。)が経過すると、その部分の血行がとだえ、組織が破壊され褥瘡が発生してしまう。私たち健常者に褥瘡が出来ないのは、栄養状態が良好であること、無意識のうちにしびれや痛みを感じて体位変換しているからだ。

奥様をベッドに戻したまま記念撮影

では、どうすれば、防げるのか。■通常、2時間ごとの体位変換が一般的である。
■高齢の皮膚は皮脂分泌が低下し、発汗も低下し、ドライスキンとなり、皮膚も薄くなる。皮膚再生能力も低下し、一度傷つくとなかなか治癒しない。■栄養が取れなくなると、皮下脂肪が減少し、骨の周りの筋肉も衰退し、骨が隆起した様になる。ズレによる剪断力が働き、傷つきやすい。■褥瘡発生の原因の一つに摩擦やズレがある。骨の突出により体圧の増大、横方向の力(ズレ)等の影響を受けやすくなる。

日本の夏にも匹敵する高温多湿の夏。汗をかくようになり皮膚が蒸れやすくなる。そこで、こまめな着替え・清拭・おむつ交換・密着している部分を中心に皮膚のドライヤー乾燥(冷風)が必要になってくる。
                    
寝たきりの方の着替えは、麻痺や拘縮(こうしゅく)が伴ったりすればなおさら、非常に大変な作業となる。「床ずれ」を作らないためには、皮膚を清潔に保つことが大事だ。高温多湿の夏は、介護する人の体力も奪っていき、体を清潔に保つのも簡単なことではない。
日本ならまだ、これに近いことはできる。が、この貧しい家で出来ることは限られてくる。体力もあまりないご主人の負担を軽くするのは、隣室に住む息子夫婦の協力だ。
                             
名古彩香さんや、名古希実さん、新谷文子さん達が、クッションを考えたり体位変換を教えてあげていた、感謝したい。

米も足りない。栄養も不足している。そういう中で、車椅子は気分転換になるかもしれないが、車椅子に乗っていても、お尻が痛む。生活支援を考える理由にもなっている。いつか、心ある友人と話し合ってみたい。

「高齢者には与えるケアではなく『よりそうケア』が重要」という点を、この家族をみて痛感した。
◆「共に苦難と戦って乗り越えてきた妻をいたわりたい」という気持ちは、ご主人から感じられた。だが、このお宅では、隣の部屋に住む子どもの協力がえられなければ、「老老介護」が、目に見えている。いつか、ここの子どもさんとも話し合ってみたい。子どもも含めて、もっと皆で支え合う福祉社会。身近な人を大切にする行動から始まる福祉社会がベトナムに出来ることを祈りたい。

私の友人のHYさんが詠ってくれた歌だ。

春風に笑顔を乗せる車椅子 

このお宅では、現実は、なかなかこうはいかなかった。Posted by Picasa

2008-10-21

支援隊ツアー08(25)名古先生ご夫妻見送り

8月26日 午後 名古先生が日本に帰られる事になりました。病院を長期不在にすることは出来ません。ギリギリまで支援活動に力を注いでくださいました。ありがとうございました。
この日は、運悪く、ハノイ成田の直行便がなく、夕方6時過ぎの飛行機で、一旦ホーチミンまで向かわなくてはなりません。
長距離の旅が待っています。ご苦労様です。運転手はベテランのヅンさん。「やはり、お嬢さんをおいて帰りますか」と、居残りを促す人。「娘をよろしく・・・・」と、先生ご夫妻。
「いやいや、人質です」という声も。いろいろ教えて頂きました。ベトナムでの6日間、ありがとうございました。Posted by Picasa