「Toi khong nghe ro. Xin ban hay noi lon len」(「聞こえませんから、大きい声で話してください」)と言った。調節が出来ないから、ニャンさんの声も大きかった。
補聴器を使うと、直ぐ反応が出た。通じたのだ。表情が、少し柔和になった。
そこで、お話を窺った。
小麦色に日焼けしたニャンさんは、今は農業を営む。1945年生まれ。
1966年に、19歳で入隊。タイグエン、ザーライ省、コントゥム省、ダナンの中部各省で従軍。激戦地をしこたま回ってきた人だ。
入隊は1971年。「所属は、タイグエンB3司令部所属、K6連隊、第11中隊です」
いやびっくり。見事な記憶力だった。ここまで答えられる人は少ない。
左の写真は、自分の担当分の衣類を贈呈する伊藤啓太君。
その戦場で、ニャンさんは目撃した。
「アメリカは何回も撒きました。撒いている時には、真っ黒な煙のようにみえました。そういう飛行機は、爆弾は落とさなかったんです」
ダクト(コントゥム省=ケネディ政権下で一番最初にベトナムに枯れ葉剤を試験撒布した地域)でも、ザーライ省の第3軍区でも、枯れ葉剤の撒布をみている。他でもみている。そして、木の葉が落ちた。ニャンさんには、アメリカ軍が撒いている物がどういうものか、皆目わからなかった。木の葉が落ちたので、気候の変化かと、ずっと思っていたというのだ。
「アメリカ兵を捕まえたことがありますよ。でもね、拷問はしなかったね。ホー叔父さんの命令に忠実に従ったからね」
激戦地で生き抜いてきたニャンさんにも、どうにもならないことがある。
それは、1981年生まれの長女のことだ。 長女に枯れ葉剤の障害が出た。精神遅滞である。
「学校に通学させたが、何も覚えることは出来なくて、学校から断られました」
ほんとうに寂しそうだった。年老いて、自分のことではなく、自分の娘のことで言うに言えないことが一杯あるのだ。
補聴器を当てて聞こえるようになるのとは違う。どんな器械をつかっても、長女の障害はなおらない。
長女は、枯れ葉剤被害者として23万8000ドンを受給している。「第1級糖尿病です」と父親のニャンさんは言った。働き手にもなれrない長女の23万ドンに、どんな意味があるのか?
左の足の指にも奇形性が出ている。体も虚弱。呼吸で苦しむことがある。酸素吸入器を使用している。
最後まで、ニャンさんは心の底から笑顔を見せなかった。「あの戦争さえなければ・・・、いやあの撒布さえなければ・・・」と、目はいいたげだった。
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