1952年5月生まれ。ごま塩頭のおじさん・・と言っては言い過ぎだ。私より10歳もお若いのだから。ほんとうに人の良さそうな好好爺だった。
手は激しく震えだし、日本から来た人もどこから取っついていいか分からなかったかも知れない。
私にも長年の経験がある。
すぐ新谷さんに頑張ってもらって、タンさんに車椅子に乗ってもらった。
メインの道路からの自宅までのアクセスが良いのは確認済であったので、タンさんを乗せて、奥さんのガイさんに押してもらって、家を出た。新谷さんと私が付き添って、門の外へ。
そして少し遠くへ・・そしてもっと遠くへ。ベトナム語の「ディー・チョイ(di choi)」(遊びに行くこと)である。
外の風を快適に受けて、タンさんはどこまでもいやがらなかった。どのくらい久しぶりの外出なのかしらない。
まるでドライブを楽しんでいるようだった。
近所の人も大勢見守ってくれた。タンさんの心はほぐれたに違いない。
中庭に戻ってきて、補聴器も差し上げた。外務省のタインさんの声が通じた。
1972年に20歳で入隊して、ベトナム戦争の終盤を戦場に立った。砲兵としてクアンチの激戦地に行った。
除隊は79年だから、7年間を軍籍においていたことになる。入隊の72年は、アメリカが公式に枯葉剤を撒き終わった翌年だ。しかし、それは、南ベトナム政府軍も撒き終わったことを全く意味しないのである。
終戦後の76年タンさんはグエン・ティ・ガイ(1955年生まれ)さんと結婚した。
南北ベトナムが統一された記念の年である。希望に溢れた結婚であったに違いない。
「同じ村の方と・・?」 ごま塩頭のタンさんに笑顔がこぼれた。周りの私たちもつられて笑った。
タンさんは恥ずかしそうにして顔を赤くした。「村の好きな人と一緒になったのじゃ」と言わんばかりに。
「砲兵ですからね、相手の心臓に打ち込むのはお手の物でしょ?」 右手の震えが止まり、タンさんがもっと大きく笑った。 楽しい会話だった。
「病気が出てきたのは、10年前から」と奥さんはいう。
枯葉剤被害者の人に多く共通する“頭痛”。歩けなくなったのが8年前。耳が遠くなったのが5年前という。
ダイオキシンは遅効性の毒物であることを、私たちは忘れてはならない。
子どもさんは3人。①チュオン・アイン・トゥエン。28歳。「腹部が硬い、元気がない」と、母親のガイさんは言った。②チュオン・ティ・トゥさん。26歳。「体が弱い。左足が痛む」と、ガイさん。③チュオン・タイン・トゥエンさん。24歳。「くしゃみが出るんです」と。
それぞれの子どもの体の中で、細胞も戦っている。血液も戦っている、のだ。人生も闘争だ。応援してあげようではないか。
両親の悩みは、子どもの健康と3人とも未婚であることだろう。この年になると、多くのベトナム人被害者である親は、「自分はもうどうでもいい。だけど子どもが心配だ」という。親の気持ちなれば、それ以上の心配はないのだ。
タンさんは少ししか声を出さなかったが、時間があればもっと話を聞きたかった。
でも、天気さえ良ければ車椅子を押してもらって外出ができるようになった。補聴器を通じて、奥さんや家族の声もはっきりと聞こえるようになったのは何よりうれしかった。「与えるケア」ではなくて、「寄り添うケア」ができれば、最高ではないだろうか。
タンさんのご長寿とご一家のご健康を切に祈りたい。(了)
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