私がカオ・ヴァン・カインに2度目に会ったのは、1951年チエム・ホア(現ティエン・クアン省ヴィン・ロック)のヴィエト・バクの村でした。私が21歳。彼は12歳年上でした。私たちが初めて会ったのは、フエでした。実際、私が15歳で軍に入った時に、私の名前を記入したのは彼でした。
彼が私を見初めた時は、軍の幹部でした。彼はあまりにも厳格で年がいっていると、私は感じていました。彼はいつも支配的だと私自身に言い聞かせていました。しかし、人はみな、彼に会いなさいと勧めてくれ、彼のことを褒め称えていました。
やがて、彼から手紙が来ました。「あなたは進歩的な女性です。あなたは家を飛び出て革命に参加したのですね。愛情が私たちの間に道を見つけると信じます。私たちは同じ根っこの出です。一緒に幸せになることができます。あなたにお会いしたいです」
私たちは、お互いに知り合うために病院の急患室で会いました。彼はいかめしく、また物静かでした。彼が話しているときは、彼は私を対等の人間と考えてくれているのを知りました。彼は非常に率直でした。そして、私は彼を信頼しました。
2回目に会う頃には、私はすでに婚約にイエスを言うことを決めていました。彼は、戦線に戻っていきました。私たちはいつ再び会えるかわかりませんでした。私には、彼を愛する気持ちがとても強くなっていきました。
1954年には、私は、激戦地ディエン・ビエン・フーに行き、戦場の地下を掘った塹壕の中の野戦病院の手術室で、看護婦として働きました。私の婚約者も、第308旅団司令官としてその戦場にいました。
私たちは、ほとんど薬も底をついて、囲いをした場所で手術をしなくてはなりませんでした。外科医の手元がはっきりと見えるように、私たちは自転車で発電をしました。私たちに十分な麻酔薬がない時は、負傷兵たちは歌を歌って痛みを忘れようとしました。手術中に、蛭が足をはい上がったりした時も何回かありました。しかし、私たちの手を清潔に保つために、追い払うこともできませんでした。
55昼夜に及ぶディエン・ビエン・フー作戦は、1954年5月7日に終わりました。その10日後、私はカインと結婚しました。母親の承諾もないままで私は躊躇しました。しかし、将校たちは、「戦争は続くので、何が起きるか誰もわからない。待っている時間はないよ」と言って、応援してくれました。私たちは、ドゥ・カストリ将軍が降伏した壕の中のまさにディエン・ビエン・フーのど真ん中で、結婚式を挙げました。ワインと歌と、フランス軍機が落としていった飴で祝ったのです。(了)