櫻田百合子先生の書き遺したもの(7)・完は、自分らしい人生の終わり方を模索する思いを描かれています。
(6)自分らしい人生の終わり方
昨年末(北村註・2000年のこと)、「自分らしい人生の終わり方」について話し合う集会(於・松本/生前契約プロジェクト・NPO「ライフデザインセンター」発足記念シンポジューム)があった。
一昨年、65歳で定年を迎え、独身の一人暮らしで人生の終盤期に入った私にとっても、介護問題をはじめ、人生の終わり方については、避けて通れない切実な関心事である。これまでも自分が納得のゆく生き方を、と拘り、不器用な生きざまを貫いてきた。その延長上で、私らしい人生の幕引きをしたい、との思いは強く、あれこれ手探りしている。
だが、周囲を見回すと、こうした老後の介護や死をめぐる事柄については、伝統的な「家族」のしきたりに任せて処理する意識・実態が根強く遺されている。この集まりでも、長年、家庭裁判所の調停員を務めた方から「夫に先立たれた女性のほとんどは、遺産について息子たちに任せ、民法上の権利が守られていない場合が多い」との発言があった。
その一方で、「家族」内介護の限界から社会的介護を掲げる介護保険が登場し、葬送のかたちや相続等では、事前に意思表示しておく「遺言」が勧められている。
自分らしい人生の終わり方をするには、まず元気なうちに、そのありようを自分で考え、選び、決定しておくことが大切、欠かせないようだ。そして、死後に及ぶ「自己決定」野実現では、その内容に即して取り仕切ってくれる誰かが必要で、信用のおける第三者と生前に契約を交わしておかねばなるまい。
最近の民法改正と成年後見制度、地域福祉権利擁護事業の発足などは、高齢社会における権利擁護、自己決定の実現を支える公的なシステムということだ。が、この国レベルの制度内容では、手続きが煩雑、対象と取り扱う範囲が制限的で、支払う費用も高額、利用者は少数とのことだ。私なども、これらの利用には、二の足を踏む思いである。
人生の終わり方に関する一大転換期において、何よりもその意識と処理方式野多様さを踏まえた議論や手法の提供が望まれる。また、身近な地域で信頼できる民間団体による後見サポート事業の推進が期待されているようだ。(2001年2月18日記)(完)
故櫻田百合子の魂魄を刻む文章の一部を、、ベトナムの奨学生の学生さんや生徒たちと分かち合おうと思って、ブログに掲載させて頂きました。75年の人生を精一杯生き抜かれた最後の証(あかし)は、亡くなられる直前のうわ言にとってみることができるのではないでしょうか。
「人は何のために生きるのか?」
「現実に差別のない世界にならなければおかしい」
「この疾風怒闘の時代、一方の富が私物化されて一部の人に集まってきている。一方で、貧しい人がふえている。これは絶対におかしい。これは地球を破滅させる」・・・・・
櫻田先生のご精神を汲み取り、頂戴した浄財を有効に使い、人材が伸びるようにお手伝いすることが、私たちの務めではないかと、強い思いを致しています。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since 1990
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