では、桜田先生が書き遺したことを、ご紹介していきましょう。 桜田先生が、2001年7月15日に書かれたものです。
(1)亡き父の無念と遺言
今を去る56年前、敗戦年の1月に父は44歳で病没した。当時11歳で小学校5年生の私は、空襲警報に怯えながらの日々を送っていた。
1929年の世界大恐慌を機に帰国。故郷の地で、かの国の経験を生かし、温室設備による園芸的農業を始めた。敷地内には、配水や温度管理を施したガラスばりの温室塔が連なっていた。冬場に夏野菜のトマトや胡瓜を出荷しており、当時としては先進的でハイカラな農家であった。将来、さらに規模を広げ、「大農園」を夢見ていたようだ。
ところが、その後、日本国は戦争へと急傾斜してゆき、父の夢も押しつぶされていく。父の年齢から徴兵こそ逃れたが、この海辺の地は海軍の目に止まり、「予科練」施設建設のため、敷地建物を強制収容されてしまった。折角の温室等が取り壊される時、父の目は天空を睨み、「アメリカに勝てるはずがない」と呟いた。軍国少女であった私には、それがとても奇異に聞こえたことを覚えている。
夢と生業を奪われた父は、親戚の木材加工の軍需工場へ、遠距離通勤することになる。が、慣れない仕事に長時間従事した結果、頑健そのものだった体に病魔がとりついてしまう。空爆下に、医薬不足の病院で、再起の願いは叶えてもらえるはずもなかった。
病床での父は私を呼び寄せ、「この先、何が起こるか分からないが、お前は将来、本当にこうなりたいと思ったら、女だからだめ、あきらめるということは市内でいいのだよ」と諭すように語った。私はただならぬ雰囲気に押され、返す言葉を失っていた。
父の死と敗戦が同じ年に重なり、我が家の戦後は、思いも寄らない窮地に立たされた。子ども心にも、突然の不運と世間の非情さが身に沁みた。
でも、高校・就職・大学での学びを通して、父の生きた時代と、父から夢を奪い、死に追いやった、その歴史・社会的な背景について目を開かされていった。そして、およそ不器用で「世間並み」が苦手、納得するまでに時間のかかる私が、自分なりの人生を辿れたのは、行くべき道に迷いや弱気が生じた時に、父の「遺言」が後押ししてくれたから、とつくづく思う昨今である。(2001年7月15日)
戦争に潰された桜田先生のお父さんの夢・・・ベトナムの多くのお父さんに重ねあわせることができるのではないでしょうか?そして、苦しい時に、お父さんの遺言とも言える生前の言葉を思い出しながら、桜田先生は歯を食いしばって生きていったのですね。(つづく)
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since1990
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