「トゥイー・チャムが戦場に行く時に、私と夫も反対はしませんでした。その時代では、そういう行為は普通のことでした。娘は戦いにいくのではなく、国を守るために行くのだから、良いことだと考えていました。トゥイー・チャムが戦場に行って、医療行為をするという意志は、前から持っていました。最初は、作家になる夢を持っていました。そのうち、作家になる夢を捨てて、医師になる決心をしたのです。そして、『戦争に出られる年になったので、行ってきます』といいました」と、ゴックチャムさんは、おっしゃいました。
「日記は全部読んでいません。泣いてしまうからです」 母の心ですね、これが。
作家になる夢・・・彼女の日記には、しばしば文学的表現が出てきます。
以下は、日記の最後の頁にかかれていることです。
ふと、詩の一節を思い出した。
今、限りない海と空
あ~、ホー叔父さん、この子どもの心がわかりますか・・・・
いや、私はもう子どもではない。私は成長した。私は危険の試練を経験した。でも、いくらかの通過をしただけだ。面倒見のいい母の手が本当に懐かしい。親愛なる人の手でも、知人の手でも十分だ。
私の所に来て、私の手をぎゅっと握りしめてほしい。私の孤独さを分かってほしい。そして私に愛と、私の前に伸びる危険な道路をうまく行ける強さを与えてほしい。
トゥイーチャム医師は、この日記を書いた二日後の1970年6月22日に、アメリカルという強力軍団に撃たれて若き奉仕の人生を終えました。
3人の子を“世界的芸術家”に育てた千住文子さんは「すべての鍵は愛である」(『千住家の教育白書』(新潮文庫))と書かれています。愛するからこそ、子どもを信じる・・・・。死の報に接した母親ゴックチャムさんのお気持ちを尋ねましたが、言葉では表せないのでしょう・・・明確なお答えはありませんでした。当然のことです。
母ドアン・ゴックチャムさんから、愛する娘を奪っていった戦争。まさに、「戦争は愛想事じゃなく、この世で最大の醜悪事なんだ」というトルストイの言葉は、痛烈です。
不戦の誓いは、こういう庶民同士の対話が大事です。
私が、故トゥイー・チャム医師を尊敬し、2年続けてご案内した理由は、トゥイーチャム医師が学んだ学問を、戦争で傷ついた人々に役立てようとしたからであり、その医師を育てた母親から何かを学びたかったからです。他人じゃない、先ず自分が動く・・その姿勢は多くの人を感動に包みました。福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で「活用無き学問は無学に等しい」「懶惰(らんだ)と言うべし」と、切って捨てています。
滞在時間はあっと言う間に過ぎ去ります。
北村修治御大からは、和服の帯が偉大なる母親ゴックチャンさんに贈られました(写真 一番上)。ベトナム人好みの赤が入った帯を、ショールのように肩にかけて喜んでいらっしゃいました。日本の山本さんが送って下さった素敵なブラウスをお贈りすると、トゥイーチャムさんの妹さんたちは胸に当てて大喜びでした。
案の定、クアンガイで食べた時は、賞味期限が少し過ぎていました。「みんなで食べれば怖くない」
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