2011-02-28

櫻田先生の書き遺したもの(7)・完

櫻田百合子先生の書き遺したもの(7)・完は、自分らしい人生の終わり方を模索する思ほのぼのイラストいを描かれています。

(6)自分らしい人生の終わり方

 昨年末(北村註・2000年のこと)、「自分らしい人生の終わり方」について話し合う集会(於・松本/生前契約プロジェクト・NPO「ライフデザインセンター」発足記念シンポジューム)があった。
 一昨年、65歳で定年を迎え、独身の一人暮らしで人生の終盤期に入った私にとっても、介護問題をはじめ、人生の終わり方については、避けて通れない切実な関心事である。これまでも自分が納得のゆく生き方を、と拘り、不器用な生きざまを貫いてきた。その延長上で、私らしい人生の幕引きをしたい、との思いは強く、あれこれ手探りしている。
車椅子のおばあちゃん(カラー)
 だが、周囲を見回すと、こうした老後の介護や死をめぐる事柄については、伝統的な「家族」のしきたりに任せて処理する意識・実態が根強く遺されている。この集まりでも、長年、家庭裁判所の調停員を務めた方から「夫に先立たれた女性のほとんどは、遺産について息子たちに任せ、民法上の権利が守られていない場合が多い」との発言があった。
 その一方で、「家族」内介護の限界から社会的介護を掲げる介護保険が登場し、葬送のかたちや相続等では、事前に意思表示しておく「遺言」が勧められている。
 
 自分らしい人生の終わり方をするには、まず元気なうちに、そのありようを自分で考え、選び、決定しておくことが大切、欠かせないようだ。そして、死後に及ぶ「自己決定」野実現では、その内容に即して取り仕切ってくれる誰かが必要で、信用のおける第三者と生前に契約を交わしておかねばなるまい。

 最近の民法改正と成年後見制度、地域福祉権利擁護事業の発足などは、高齢社会における権利擁護、自己決定の実現を支える公的なシステムということだ。が、この国レベルの制度内容では、手続きが煩雑、対象と取り扱う範囲が制限的で、支払う費用も高額、利用者は少数とのことだ。私なども、これらの利用には、二の足を踏む思いである。
レクレーション(カラー)
 人生の終わり方に関する一大転換期において、何よりもその意識と処理方式野多様さを踏まえた議論や手法の提供が望まれる。また、身近な地域で信頼できる民間団体による後見サポート事業の推進が期待されているようだ。(2001年2月18日記)(完)

 故櫻田百合子の魂魄を刻む文章の一部を、、ベトナムの奨学生の学生さんや生徒たちと分かち合おうと思って、ブログに掲載させて頂きました。75年の人生を精一杯生き抜かれた最後の証(あかし)は、亡くなられる直前のうわ言にとってみることができるのではないでしょうか。
「人は何のために生きるのか?」
「現実に差別のない世界にならなければおかしい」
「この疾風怒闘の時代、一方の富が私物化されて一部の人に集まってきている。一方で、貧しい人がふえている。これは絶対におかしい。これは地球を破滅させる」・・・・・

櫻田先生のご精神を汲み取り、頂戴した浄財を有効に使い、人材が伸びるようにお手伝いすることが、私たちの務めではないかと、強い思いを致しています。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since 1990
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福祉と老人のイラスト小

蓮の花奨学生からの便り(15)

15回目は、クアンガイ省のグエン・タン・ニャット君からです。今、ホーチミンで勉強しています。
4
2011年1月15日、ホーチミン市

宮尾 和宏様

長い間連絡しませんでした。

まず、皆様のご健康とお仕事はいかがでしょうか?現在、冬が終わり、春に入ります。日本の冬はとても寒いですか? 無理なさらないように、ご健康にお気をつけください。ご家族のお幸せと楽しい生活ができるように祈っております。
私はホーチミンへ行ってから5ヶ月になりました。現在ホーチミンの経済大学で勉強しています。ホーチミンでの最初の頃、元気でしたが、環境になかなか慣れなくて、時々風邪など引いてしまいました。

ホーチミンはとてもうるさくてにぎやかです。日本も発展しているので、多分皆様にはこのうるささに慣れていると思います。ホーチミンへ来たら、色々なことが分かりました。人と自動車やバイクが混じって時々渋滞なってしまう時があります。

大学の勉強がちょっと忙しかったので、手紙を書くのが遅くなりました。12月には前期の試験準備等あり、それにホーチミンへ来たばかりなので、郵便局の場所が分かりませんでした。住んでいるところから学校まで自転車で50分かかり、遠いです。疲れますが、それも運動だと思っています。今回は初めて家族と離れて遠いところへ勉強に来ましたので、家族のことをとても思い出しています。田舎の静かな景色や雰囲気を思い出し、ホーチミンの賑やかさとは全然違います。しかし、好きな専攻に入れるように、頑張ります。

あと半月で田舎へ帰りますので家族に会えます。お正月を家族と楽しく迎えます。今度は初めて家族と離れたので、話をすることがきっと沢山あります。また、友達や先生や両親などに会えることを考えるだけで胸が一杯になり、とても楽しみです。

学校まで遠いですから、午前の授業がある時に朝5時に起きて準備していきます。今、やっとここの生活に慣れてきましたので大変だと思わなくなりました。これが日常の生活だと考えられるようになりましたのでもう大丈夫です。

皆様に安心して頂くために、近況をご報告しました。これから学校へ行かないといけませんので、失礼致します。授業が終わってから、この手紙を出しに行きます。皆様のアドバイスを聞きたいと思います。皆様にご健康や幸せや仕事の成功がありますように、祈ります。

NGUYEN TAN NHAT
f15250
ニャット君
お手紙ありがとうございました。元気な様子、とてもうれしいです。日本は、そんなにうるさくありませんよ。騒音防止条例というもありますし・・・私も、ハノイの騒音に慣れるまで、結構時間がかかりました。でも、最終的には慣れませんでしたよ。
大学までの遠い道のり・・・50分の自転車通学・・・大変でしょう。ホーチミンは、もう真夏に入りつつあるのではないでしょうか?
暑い日の自転車通学も大変でしょうし、また、交通が激しいホーチミンで、十分すぎるほど交通に気をつけてください。君に何かあれば、育ててくれたご両親が最大に悲しみます。
絶対無事故で、大学の4年間を終えてください。お願いします。

奨学金の証書に、私はドイツの大詩人ゲーテの言葉を引用して、こう書きました。

「君は、上に向かって登るのか、下に向かって沈む

かだ。強大な勢力を得て勝利するか、服従して敗北
するかだ。苦しみ悩むか、凱歌をあげるかだ」

いかに苦しくとも、上に向かって上り坂を登っていってください。
また、お会いできたときに、ホーチミンでの生活の話を聞かせてください。良い成績を願っていますよ。

上り坂といえば、今ベトナムの友好国、インドネシアでは、大渋滞が起きています。
簡単にいいますと、こうです。

ジャワ島西部のメラク港とスマトラ島南東部のバカウヘニ港をつなぐ路線で、通常は3時間足らずで通過できるが、2月21日以降、一週間にわたってトラックとフェリーの渋滞が続いています。渋滞の全長は11キロ。大型トラック2000台が巻き込まれているそうです。


 空腹と疲労に見舞われたトラック運転手たちは家にも帰れず、政府に怒りを。「もう3日間も身動きが取れない。我慢の限界だ。有り金も尽きたから食料を買うのに携帯電話を売ったよ」と、トラック運転手もいる。別の運転手は、車で寝てる間に財布を盗まれたと言う。

 これに比べれば、ホーチミン市はまだはるかにいいでしょう。
愛のベトナムさわやか支援隊since 1990
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古着受領しました

広報誌お願いします_thumb.png
4~5年前中学生(沼津市立中高学校)だった小川明華さん(伊豆国市韮山在住)、今年高校を卒業し、4月から東京女子体育大学へ進む学生さんです。未だ愛のベトナムさわやか支援隊のことを覚えていて下さり、このほど、古着を頂戴しました。全重量35Kgほどありました。
ありがとうごさいました。間違いなく、ベトナムにお届けし、有効に使わせていただきます。
大学でのご活躍を楽しみにしております。

なお、今現在、今年の活動分の古着は目標を達成しました。ご協力ありがとうございます。
絵本読んで
愛のベトナムさわやか支援隊since1990
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2011-02-27

桜田先生の書き遺したもの(6)

愛のベトナムさわやか支援隊は、桜田先生の「桜田基金」からのご支援を頂いております。故桜田先生の遺稿をご紹介しています。今回は、孤独についてです。ちょっと難しいですが、読んでみて下さい。
「清掃ボランティア・地域清掃・環境美化・地域環境対策・地域環境改善 他」キーワードのイラスト

(5)「孤」「独」について

「孤独」=「孤立」+「独立」

 自分で選んだ「孤独」だが、現状で、淋しさを伴う「孤立」状態を耐えることは正直、つらく避けたいものだ。

 ところで、加島祥造著『タオにつながる』(朝日新聞社)は、私の心境整理にあたり、多くの示唆が含まれ、読み直している。

 その中から、「孤独」に関する記述をたどり、私自身の気持ちの整理に役立てておこう。

 この言葉には「弧」と「独」の二つの語感が含まれている。

 「孤立」にウェートをおけば、他の人たちから疎外され、ひとりで取り残された状態で淋しい、怖い、不安といったネガティブな気持ちが前面に出てきてしまう。

 一方の「独立」。これは逆に、人に頼らないでやっていくという人生において、積極的で明るい語感のものとなる。

 人間は古い時代から集団で生きてゆくような社会構造をもった生物だったから、その習慣が本能とか遺伝子に組み込まれて、ユングのいう「集団無意識」の世界に取り込まれ、国家への忠誠とか企業、組織への無意識的な隷属などとなり、簡単になくなるものではない(現実の個々の社会環境がそれを多分に必要としており、環境が意識を決定していることも確か)。

 しかし、そこから出た自分、それが「独立」した心の自分なわけで、そこでは自分の命とは自分の中にあり、他者に属するものではない。そこから自分がいま生きているんだ、「ひとり在る」という自覚が始まる。そして、自分の内側から、いわばこちら側からむこうの集団をみることが出来る。集団があって自己があるのではなく、個が、自分があって、自分と同じような人びとが集まって集団があることに気付くようになる。さらに、自分がいま命を与えられて生きている、ということの意味深さ8喜び)に気付くようになる。それが「独立」ということだと著者はいう。

 「ひとり在ること」がなぜ喜びなのか? 「ひとり」という状態が、自分の命を十分に自覚できる状態だからだ。自分が分裂していないで、自分全体でいられる、この感じが喜びなのだ。

 他人への意識に煩わされないで、自分のままでいられる。自分が全体(ALL ONE)で居られるという時には、、頭も体も合体した調和体だから、これは喜びを与えるのです。

 集団というものは、故人が保護すると同時に、規制し拘束もする。人間は集団なしには生きていかれないけれど、集団からの規制や拘束があまりに強くなると、個々人の肉体も精神も萎縮してしまう。つまり、自分の命の自由な発露を制限される。

 人間が集団から出た状態を淋しい、怖いと感じることを否定できないけれど、命の働きに従い、自分のなかの生命力が順調に巡っている状態、そこに近づく方法を知ることができれば、それはその人に喜びを与えることになるだろう。

 人間は、集団所属と独立の両方を欲しいのが本音。だ が今は、社会集団の働きかけが強くなっており、そこに閉じ込められた人間はだんだん生命力を失う傾向にあり、だから自分の生命力を養うという「独立」した状態に少しでも戻ってゆくことが大切。

  「弧」と「独」のバランスをどう保持するか? 個々人によって、集団との距離のとり方も、「孤独」殿付き合い方も、自分で判断するしかない。集団内にいある安心と、集団から離れたときの喜びの両方が必要。バランスのとり方に公式は無い。自分で発見して、バランスを保てるようになれば、充実したライフを送れるだろう。

 精神というものは、そのバランスがうまく取れれば安定するようにできている。人間は「弧」も「独」もついて回るものだけど、今は自分にとって、そのどちらら大きん勢力を占めているか自省してみるとよい。それによって自分のバランスをとっている。

 さて、私の現在の精神状態、心境はどうなのか?

 昨年来のNPO活動への全力投入は、まさに(公的な)集団所属と役割遂行が第一となり、私的、個人的な安定。充足を犠牲にして自分が調和した状態で在ることへの実感(喜び)が次第に遠のいてゆくのだった。つまり役割遂行上の負担過大から、健康不調を伴い、集団内「孤立」が肥大化、自身を省み育む「独立」が縮減してゆき、精神的な不安定、心身の磨耗化をたどったといえる。

 その代表理事という責任過大な集団役割から退いた今、私の精神状態はどのようか?

  「独立」つまりひとり在ることは、時間・空間的に手中にすることが出来たのだが、「生命の発露」ともいえるその中身が今ひとつ、身辺整理の域を超えられず、暗中を模索中なのだ。また、一方の暮らしの安心を願い、叶えられそうな「集団」への帰属先が今ひとつ不確か。つまり、両者のバランスでは、孤独と自由は手にしたものの、協同と規制(受容)の方は、目下探索中。まだ時間がかかりそうだ。(2006年8月12日)


北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since1990
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蓮の花奨学生からの便り(14)

14回目は、クアンガイ省のブイ・ティ・キエウ・ホアインさんからです。愛のさわやか支援隊のことを、お父さん、おかあさんと呼んでいます。
別ウィンドウでイラストを表示します
 まず、新年に、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様とご家族に、ご平安―ご健康―ご発展を願っています。幸せと元気いっぱいの一年になりますように。

 新しい年になりますので、学校の前期が終了しました。頑張りましたが、今回の成績があまり満足できません。お父さんお母さんのご支援に応え、がっかりさせないため、次の後期に良い成績をもらうように頑張ります。

 お正月が来て、後期の学費のお支払い期限もきます。母は心配が重なり、家族の生活、私の学習こと等色々な心配がたまります。そして、私の後期の学費の支払いのために、母はもっと苦労して働きます。又体の痛みもあります。毎晩、母の顔にこの悩みがはっきり見えます。しかし、私が安心して勉強できるよう、母は一つ文句の言葉しませんでした。私は母とても大好きですので、最高のプレゼントとして一生懸命に勉強して良い成績をもらって、私の母と皆様(お父さんお母さん)にあげたいと思います。

 お父さん、お母さんはそちらではお元気にしていますか? お仕事などはうまく進んでいますか? 私は元気でお父さんお母さんに会えるように勉強を頑張ると約束します。


 最後に皆様とご家族にご健康と良いことがくるように祈ります。そして、今年もお会いできますように。

お手紙ありがとうございました。満足な成績が取れなかったとのこと。その悔しさをバネに頑張りましょう。その気持が大切ですよ。桜田先生も、経済的なことにご苦労されました。だから、頑張れたとも言えます。くじけず、まず、我が道をしっかりと進んでください。応援していますよ。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since1990
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2011-02-26

桜田先生の書き遺したもの(5)

私たちの蓮の花奨学金の一部は、桜田基金から受けております。浄財を遺された桜田百合子先生の遺稿をご紹介しております。今回は、その5回目です。
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(4)青春の蹉跌(註1)

 母校を訪れた。戦後の学制改革期のさなか、三保小学校6年卒業とともに「清水高等女学校」へ進学。ここでの6年間が、卒業後の私の長い人生行路、生き様に与えた影響は計り知れないほど大きいことが、じわじわと伝わってきた。
 半世紀前の1951年の私は、清水西高校の2年生(通算在籍5年目)。冷戦体制下の当時、アメリカによる占領政策の右傾化、左翼思想・活動の弾圧が強まり、この国の教育も”赤狩り”で名高いイールズ旋風(註2)など、戦後の民主化動向を大きく切り替え、逆行させていた。こうした動きに対して、全学連の指導のもと、各地の大学生を始め、ときに高校生も傘下に加わり、反対運動を展開していた。我が清水西高校も、埒(らち)外ではなかった。清水西高生徒会(当時の前期会長が宮本文代さん、その後釜が私)が繰り広げた運動の中心スローガンは、「授業料値上げ反対」で、ビラを配り、クラスで決議し、全校集会を開き、校長にその旨を当局(県)に達するように迫ったのだった。

前代未聞の反対運動を、しかも旧制の「名門」高女で、女子高生たちが行ったことが、一大ニュースとして伝えられ、当時としては、常識はずれの不始末として受けとめられた。

 結局、校長(諏訪卓司氏、後に県教育長)が県当局から責任を問われて左遷され、その後の反動攻勢に結びついていったのだった。この運動での主だった生徒たち(当然、私も)は、個別に呼び出され、反省と悔悛を迫られた。家庭でも、「とんでもないことをした娘」として、それぞれが「お仕置き」状態に置かれていた。大波が一斉に引いていくような日々が続いた。
1950年頃のGHビル
 1951年の冬、私は、クラス担任の渡邊渡先生に呼び出された。夕日が斜めに差し込む生物室で、先生から、「君は聞く耳を持たないだろうけれども・・・」、と前置きされながら、これまでに私のシデカシタ事がらへの反省を促されたのだった。鈍感で無神経な私ではあったが、確かな事は、ここにいたり私には、体制の価値観や世間の常識と言われるたぐいは、到底納得できるものではなく、眉ににつばをつけてかかる以外に私という人間は、存在(自己同一性)しえないだろう、と思い至ったのだった。

 世情は、朝鮮戦争を契機に、自衛隊(前身)の創設や特需で沸き立ち、神武景気やその後の空前の経済成長を準備していった。卒業後の私は、世間並みの就職(一流企業への)はできるはずもなく(警察などがマークしていたので)、望んでもいなかった。むしろ、こうした矛盾だらけの社会を変革するための力量をつけたい、そのために役立ちたいと、純粋に願っていた。その働きぐちでは、あれこれの経過を経て、清水市内で電気機器を製造・修理する工場へ、一応、事務員として就職し、約8年間在職した。

 ここでは、50にんほどの若い男女が工員として働いていた。ほとんどの家庭が貧しいために、中学校卒なのだが、とても素直で勤勉、向上心も高く、西高での級友たちとは一味異なった生身の友情と感動的な人間関係を築くことが出来た。歌声が響く工場内で、コーラスサークルやスポーツ大会、ハイキングなど経営者側も奨励して活発であった。

 そんな日常的な交流を通して、社会的な事柄への関心も進み、例えば破防法反対のデモが行われた際には、工員の多数が隊列を組んで参加した入りした。こうした集団的な行動を積み上げて遂には労働組合の結成となり、中小企業ながら組合運動の順調な展開となってゆくことになった。ここでの体験は、西高で、おぼろげながら培った私の人生観や生き方に、確かなゴーサインを与えることになった。
接収された第一生命館↑。現「DNタワー21」(手前は皇居の外堀。後ろの高層部分は後に増築したもの。旧第一生命館は外観保存の上改築されたが、マッカーサー執務室はそのまま保存されている)

 が、ここでの私の役割はすでに無く、次なるステップを踏み出さねばならなかった。忘れもしない1960年、私は東京へ移り住む事になった。(2001年4月21日記)
++++
*註1 物事がうまく進まず、しくじること。挫折。失敗。
*註2 イールズ旋風:占領下日本の大学で起きたレット・パージ。東北大学イールズ事件とは1950年(昭和25)、GHQ教育顧問イールズ (Eells Whirlwind)の反共講演が学生の猛反発を受けて流会に終わった事件。当時、日本の大学は、大学管理法案等の形で大学自治が脅かされていた。

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蓮の花奨学生からの便り(13)

今回のお手紙は、蓮の花奨学生最年少の12歳のティちゃんです。ヴィンフック省から手紙を送ってくれましたので、御覧ください。封筒の中に、プレゼントが入っていました。感激。
ハートと女の子2

2011年1月15日、イエンヅオン

宮尾さま レ・ドゥック・タインさま

今日のベトナムではとても寒いです。私達は学年の前期をそろそろ終ります。今回私の成績は「良」です。宮尾さま、タインさまを思い出して手紙を書きます。


まず、心から宮尾様とタイン様のご家族の皆様がご健康でありますよう願っています。また、日本の国がますます栄えますように願っています。
タインさんを見上げるティちゃん
宮尾様は日本へ帰りましたか?家族の皆さんがお元気ですか?元気でいらしたら、嬉しいです。私の家族の皆は元気です。

勉強の報告をします。

大切な奨学金を頂いてから自転車を買いました。残りは本やノートを買いました。それで、昨年より今年の成績が良くなりました。今年私は12歳ですが、18か20歳になったら、一度日本へ宮尾様に会いに行きたいという夢があります。
緊張の中にちょっと笑顔が
2011年の奨学金も受けたいと思います。私は宮尾様とタインさまに二度目(それより何度も会いたいですが)にいできるように勉強を努力して頑張ります。

この後には大変なことを教えますね。
冬に入ったら、母の手が腫れて凄く痛がっています。ある時は、母が病気で倒れて私は母の世話しました。ある日、母ととうもろこしを切りに行った時、母は手を切ってそのままにして治さないし、腫れて汚いし、怖くて見たくても見る勇気がありません。ですから、母の将来が良くなるように、私は勉強を頑張って行きたいと思います。
ベトナムのお正月がちかくなってきました。皆、遊びに出かけますので、とてもにぎやかです。

勉強で良い成績をもらえるように、勉強を頑張るlことをお約束します。皆様をがっかりさせないように、勉強します。

宮尾様とタイン様に二度目に会えるように、出来る限りに頑張ります。宮尾様とタインさまのご健康のを祈ります。奨学金を下さり、ありがとうございました。そして、プレゼントとしてこの絵を書いて送ります。これは私のベトナムの国です。
笛吹少年:ティちゃんの絵
「田舎はスターフルーツだ。毎日取りに行くため」

この諺は、ベトナムらしい諺です。

日本がますます栄えますように。Phung Thi Ty

女の子
ティちゃん。お手紙ありがとう。そして、絵まで入れてくれて、とても嬉しく思います。すごく良く描かれています。ティちゃんは水牛に乗ったことがありますか? おじさんたちは、多分乗れないでしょうね。バランスが難しいです。
諺も教えてくれてありがとう。私も勉強します。
自転車を買ったのですね。学校に乗って行っているんですか?ノートも本も。
お母さんのお手伝いをしているのは、立派です。助けてあげてください。お母さんも喜んでいると思います。お母さんの手は、今は大丈夫ですか?
後期の勉強も頑張ってください。今年も元気でお会いしましょう。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since 1990
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2011-02-25

桜田先生の書き遺したもの(4)

さて、今回は、先生の大学院生時代のことが書かれています。

(3)恩師と恩人 追悼

 朝日新聞12日朝刊の死亡欄に何気なく目を移し、くぎ付けになった。

 「田沼 肇(法政大学名誉教授・原水爆禁止日本協議会代表理事)8月9日午後2時33分、進行性核上性まひのため都内の病院で死去、74歳。葬儀・告別式は故人の遺志により親族だけで行う」とある。

 故田沼肇先生は、私の法政大学院生時代(1966~75)の恩師。修士・博士課程を通しての指導教授である。

 1960年に上京した私は、かねてからの日本女子大の通信教育課程を1年間通学して卒業。後、東洋大学の職員に作用され、経済学部の資料室付きで、学部の先生から言いつけられた雑用をのんびりとこなしていた。ヒマな夜間を利用、同大学二部社会学部Ⅱ2年間在学(3年編入)し、種々の勤労学生の仲間と楽しく交わりながら、学ぶ喜びをかみしめていた。夜間部の講義からは、およそ現代社会の構造や特徴を教わり、特に生活問題への関心が高まる中で、引き続きの学びの場を探すことにした。そして、大胆にも開設間もない法政大学大学院・社会科学研究科の社会学専攻・修士課程Ⅱ挑戦、幸運にも合格したのだった。

 私は、ここで初めて、社会科学の本格的な講義やゼミナールを受ける機会に恵まれた。だが、当然、基礎的な素養に欠ける私には、消化不良気味。修士論文のテーマを「家族規制と婦人労働」としたように、私の関心分野は、労働・生活問題を扱う「社会政策」で、田沼先生の専門領域であった。

 ただ、学外でもお忙しい田沼先生の指導方法は、求められれば簡潔に応える式で、懇切丁寧の反対。親しくご指導を仰グ機会を見つけられぬままに時間が過ぎてしまった。修士論文作成の準備も遅々として進まず、3年目に、ようやく提出。これを読まれた先生からは、鋭い指摘とともに継続的な研究の必要性を説かれ、博士課程への進学を進められた。その後の5年間を博士課程に籍を置くことになった。

 とはいえ、この間は、目指すところと異なり、さんざんであった。大学紛争真っ只中で、特に法政大学は熾烈を極め、ロックアウト下、大学内での講義やゼミはほとんど不可能。先生方からのご指導も受けられずに、勉学・自習中心であった。

 ただ、そのような中でも、田沼先生の現状分析の鋭さと対応方策の確かさに圧倒される場面がしばしばであった。私のその後、待ったなしの判断を要する場面で、ご指導を受けた片鱗が鮮やかに甦がえり、先生の存在を改めて確認する機会が何度もあった。にもかかわらず、不肖の弟子でもある私は、先生とは疎遠となり、なんと25年間が過ぎ去ってしまったのだ。反省と合掌。

 このような院生時代Ⅱ終りを告げ、1974年4月、長野大学に、社会福祉学科創設時の教員として着任した。この人事は、法政大学経済学部の教授・古川哲先生が進めてくださったのだが、大恩人である古川先生もすでに故人になられている。突然の交通事故で亡くなられたのだ。

 思えば、長野大学への応募では、私のような年齢超過(着任年で40歳)、なおかつ研究実績の極めて貧弱な人間が、文部省申請の難関を切り抜けられたのか。今もって定かではないが、古川先生の人柄から発し、全てに幸いし、私をして他に考えられぬ進路を与えてくださったように思われる。感謝あるのみ。もって瞑すべし。(2000年6月19日)

 この遺稿の中に出てくる”法政大学院生時代(1966~75)”は、ベトナム戦争時代と重なりますね。しかも、1966年というと、ベトナム戦争が一番激しくなったころです。院生がおわったのも1975年で、ベトナム戦争終結と重なり合います。桜田先生は、この時期を、修士・博士課程で戦っていらしたのですね。
ベトナムの奨学生には、理解してもらえる単著になるのではないでしょうか?
北村 元 愛のベトナムさわやk支援隊since1990
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ニンビン省のお二人へご連絡

トン・ヴァン・ディエン さま
 レ・ティ・タイン・スアン さま
雨の日 姉妹でお出かけ

ニンビン省のお二人にご連絡します。ベトナムにいらっしゃる服部 匡志(はっとり ただし)先生と連絡がとれて、遅くも8月までには診断を引き受けて下さるとの回答をいただきました。もう少し細かく詰められると思います。

急を要しないと思いますので、時間のとれる夏休みにきちっと診断を受けたほうがいいと考えます。

正確な診断していただいて不必要な心配を取り除き、正しい判断を待ちましょう。

服部先生は、2002年から、1万人以上のベトナムの人々を失明から救った先生です。1964年大阪生まれ。高校時代、父親を病気で亡くした事から医師を志したそうです。いずれ、本ブログで、たっぷりご紹介できると思います。

服部先生は現在、月の半分をベトナム国立眼科病院に無報酬勤務され、残りの半分は日本で、国内の病院で働かれています。

スアンさん、ディエン君、とにかく、正確な診断を受けましょう。もう少し細かいことは、決まり次第、ニンビン省の枯れ葉剤被害者教会を通じてご連絡します。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since1990
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蓮の花奨学生からの便り(12)

今日は、クアンガイ省の南部の町ドゥックフォー市の奨学生からの手紙です。
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e1/2a/momoko_souko/folder/494871/img_494871_2592283_8?20060414191214.gif

ベトナム社会主義共和国

独立―自由―幸福

2011年01月10日、ドゥック・フォー市


静岡県三島市・愛のベトナムさわやか支援隊 宮尾和宏様

私は、ベトナム‐クアンガイ省ドゥックフォー市に住む、1993年生まれ、ドゥックフォー高校三年生のグエン・ヅイ・ティ・アインガンと申します。
紫の便箋に紫のインクで書かれています

私は2010年8月に日本国静岡県の愛のベトナムさわやか支援隊から奨学金を頂きました学生の中の一人です。


新年、2011年おめでとうございます。宮尾さんに新年のご挨拶の手紙を書きます。
愛のベトナムさわやか支援隊の皆様がいつもお元気でいられるように、そして静岡の愛のベトナムさわやか支援隊がますますお元気で大きく発展するようにお祈りします。

笑顔のアインガンさん

宮尾様、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様のご支援を頂いた私達は、心から感謝しています。皆様のご恩をいつまでも忘れません。私たちは、皆様とお元気でベトナム訪問され、お会いしたいと思います。そして、私達も日本の皆様がっかりさせないように勉強頑張ります。
佐々木あかねさんと
2011年の皆様とご家族のご健康、ご幸福を心からお祈りします。

愛のベトナムさわやか支援隊のご支援やご訪問をお待ちしています。

私たち被害者全員は、ご支援を頂いて前に向かって勉強や生活をすることができます。
NGUYEN DUY THI ANH NGAN
http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/e1/2a/momoko_souko/folder/494871/img_494871_2592283_5?20060414191214.gif

アインガンさん。お手紙ありがとうございます。
奨学金が少しでも役に立てばうれしいです。希望を持ちながら、勉学を途中で断念せざるを得ないという人が少しでも減ることを祈っています。今年も、元気でお会いしましょう。
それまで、少しでも多く勉強して下さい。ドゥックフォーにも行ければと願っています。

アインガンさんはドゥックフォーで塩田の塩作りを手伝ったことがありますか?

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since1990
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2011-02-24

桜田先生が書き遺したこと(3)

このブログでは、蓮の花奨学金に資金援助をしてくださっている「桜田基金」の故桜田百合子さんが書き遺された文章をご紹介し、支援している私たちだけでなく、受け取るベトナムの奨学生ともシェアし、飛躍のための跳躍台にしようと考えています。


(2)亡き母の「後家の頑張り」
桜田先生と10年間生きたGENKI
  敗戦と父の早世が同じ年に重なり、我が家の戦後は、スタート地点で予想外の窮地に立たされていた。狂瀾怒涛の時代状況下に、小学校5年生の私を頭に4人の子どもを残された母の辛苦は、筆舌に尽くし難かったに違いない。だが、私の知る母は、降りかかった不幸を悲しんでいる余裕もなく、捨て身の構えで目前の苦難の苦難へ立ち向かった。

 経済的には、かなりの預貯金があり、当分の間、生活費には困らないだろう、との生前の父の予想は見事に外れた。戦後の悪性インフレで、預貯金の資産価値はみるみる下落。その上、預貯金引き出しの限度額が月500円とされ、わが家の家計運営には大打撃、預金暮らしの道を断たれてしまった。

 そこで、母はまず、家屋続きのわずかな畑地で農作業を始め、食べ盛りの一家の食糧難に備えた。また、私の(旧制)高等女学校受験に控え、当時の世間常識では、こうした母子家庭の娘の場合、家計を支えての就職が当たり前だったが、母は父の遺言もあり、私の進学希望を言葉少なに承諾してくれた。

 引き続き母は、弟たちの教育費支出に備えて稼得収入の道を迫られた。特にその方便を持たない40代の母は、あれこれの後、野菜や花などを入れた籠を背に、近郊の町家へ行商を始めた。昼夜を問わずの力仕事で、母の背はみるみる曲がっていった。おかげで私も弟たちも、目指す高校に進み、また働きながら大学にも進学した。

 士族出身を誇りとして育った母は、これまでに家事育児の他では手を汚さず、ましてや頭を下げて物を売り歩くなど思いもよらなかったであろう。こうしたなりふり構わぬ捨て身のパワーは、一体、どこから出てくるのだろうか。生前の母は、「お宅のお子さんは皆立派に育って、あんたが苦労した甲斐があったね」と言われるのが「何よりうれしくて」と当時の苦労話を締めくくっていた。

 戦後とはいえ、母の世代には「子どもを育て上げることこそ女の勤め」という使命感が脈々と波打ち、社会的な支援策が乏しいなかで、ここ一番では、なりふり構わずの「後家の頑張り」が必要だったのだ。こうした母(女性)の生きざまに対して、私は率直な賞賛・容認とはならず、母子福祉の充実を目指す際の「反面教師」として受け止めている。

 その母の13回忌が今秋、哀悼と感謝を込めて執り行なわれる。(記:2001年8月10日)

この8月10日は、偶然にも、ベトナムでは、ベトナム枯れ葉剤被害の日ですね。この文章に書かれたことは、ベトナム戦争後のベトナム家庭の多くにあてはまりそうですね。どこでも、母親が苦労しています。そして、自分が受けられなれなかった高等教育を子どもに受けさせようと頑張っておられます。ベトナム訪問時に、桜田先生の文章を分かち合いたいと思います。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since 1990
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2011-02-23

桜田先生が書き遺したこと(2)

では、桜田先生が書き遺したことを、ご紹介していきましょう。 桜田先生が、2001年7月15日に書かれたものです。

(1)亡き父の無念と遺言

 今を去る56年前、敗戦年の1月に父は44歳で病没した。当時11歳で小学校5年生の私は、空襲警報に怯えながらの日々を送っていた。

 父は、駿河湾沿いの海辺の地で、零細な造船業を営む家の末っ子として出生。小学校を卒業後、弱冠15歳でアメリカに出稼ぎ中の親戚を頼り、出国した。在米中の詳細は定かではないのだが、異国の新天地で、働きながら び取った事柄は、多大であったろう。
 1929年の世界大恐慌を機に帰国。故郷の地で、かの国の経験を生かし、温室設備による園芸的農業を始めた。敷地内には、配水や温度管理を施したガラスばりの温室塔が連なっていた。冬場に夏野菜のトマトや胡瓜を出荷しており、当時としては先進的でハイカラな農家であった。将来、さらに規模を広げ、「大農園」を夢見ていたようだ。

 ところが、その後、日本国は戦争へと急傾斜してゆき、父の夢も押しつぶされていく。父の年齢から徴兵こそ逃れたが、この海辺の地は海軍の目に止まり、「予科練」施設建設のため、敷地建物を強制収容されてしまった。折角の温室等が取り壊される時、父の目は天空を睨み、「アメリカに勝てるはずがない」と呟いた。軍国少女であった私には、それがとても奇異に聞こえたことを覚えている。

 夢と生業を奪われた父は、親戚の木材加工の軍需工場へ、遠距離通勤することになる。が、慣れない仕事に長時間従事した結果、頑健そのものだった体に病魔がとりついてしまう。空爆下に、医薬不足の病院で、再起の願いは叶えてもらえるはずもなかった。

 病床での父は私を呼び寄せ、「この先、何が起こるか分からないが、お前は将来、本当にこうなりたいと思ったら、女だからだめ、あきらめるということは市内でいいのだよ」と諭すように語った。私はただならぬ雰囲気に押され、返す言葉を失っていた。

 父の死と敗戦が同じ年に重なり、我が家の戦後は、思いも寄らない窮地に立たされた。子ども心にも、突然の不運と世間の非情さが身に沁みた。

でも、高校・就職・大学での学びを通して、父の生きた時代と、父から夢を奪い、死に追いやった、その歴史・社会的な背景について目を開かされていった。そして、およそ不器用で「世間並み」が苦手、納得するまでに時間のかかる私が、自分なりの人生を辿れたのは、行くべき道に迷いや弱気が生じた時に、父の「遺言」が後押ししてくれたから、とつくづく思う昨今である。(2001年7月15日)
                                                                     猫のイラスト
戦争に潰された桜田先生のお父さんの夢・・・ベトナムの多くのお父さんに重ねあわせることができるのではないでしょうか?そして、苦しい時に、お父さんの遺言とも言える生前の言葉を思い出しながら、桜田先生は歯を食いしばって生きていったのですね。(つづく)

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since1990
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