2006-10-23

支援活動  私の10年(下)

10年の支援活動を振り返って   
支援隊副会長 大釜 芙美子

毎年、ベトナムを訪問し、10年間の変わりようも見させて頂きました。

すごい発展のしようで、現在は道路も整備され、歩道が出来て、信号も交差点に付き、何よりもきれいになったのは、道路と商店街です。

今年などは目的地に予定よりも早く着き、ハノイ近県を家庭訪問して歩く私たちにとっては何よりもありがたいことでした。

バイク、自転車は相変わらずですが、今は車が溢れています。ショーウィンドーもなかったのが、今ではウィンドーにウェディング・ドレスなどが飾ってあり、10年前には、ドレスもスカートもみたことはありませんでした。

経済的には豊かになっていると思いますが、私たちが訪問する枯れ葉剤の被害者のお宅は、何も潤っていません。豊かな生活とはほど遠い、相変わらずの貧困生活です。ベトナムの近代化に乗り切れずにいるのは、枯れ葉剤に冒された家だけかもしれません。(下の写真は、ハノイ市内の公営アパート)

国から支給される手当は微々たるもの。痛みがあってもその痛み止めの薬代にもなりません。ベトナム社会から見捨てられるとしか考えようがありません。アメリカは、日本に二度原爆を落として、その威力を確かめました。原爆を落とさなくても、枯れ葉剤を日本で試す計画があったと聞いております。あの枯れ葉剤(ダイオキシン)が日本で撒かれたら・・・と思うと、ぞっとします。今でも原爆による白血病で苦しんでいる方は日本国内にもたくさんいますが、世代が変わる毎に核や化学兵器への恐怖の意識は薄れてきているように思います。

枯れ葉剤は、そうはいきません。どこまで行っても症状は全く同じで、今や第三世代に及んでいます。

戦争で一番被害を被るのは、一般国民、特に女性、子どもです。しかし、枯れ葉剤の場合は、戦争に参加した兵士も、きれいな霧が降ってくるのをみていましたし、それが入った川の水も飲んでいたために、たまったものではありません。

その恐ろしい化学物質(ブルー、ピンク、オレンジ、ホワイト、パープルなど虹色に似せた名前をつけていました)を、その時は火傷や爆発がないので、気にもせず平気でかぶっていたようです。
 この化学物質を扱ったり、戦場でかぶったアメリカ軍の元兵士、アメリカ軍に協力したオーストラリア、韓国、ニュージーランドの元兵士にも、同じ症状が出ているのです。

戦争が終わっても、その苦しみは一生涯続いています。ベトナム戦争に終わりはありません。

この10年、ベトナムの方々と交流する中で、自立して働く多くの女性と出会いました。平和村理事長のグエン・ティ・ミー・ヒエン先生。その後任のグエン・ティ・タイ・フォン先生。

枯れ葉剤被害者協会常務委員で、グエン・ティ・ゴック・トアン先生(上の写真で、右側で茶色の服を着ためがねをかけた女性、その左隣は筆者)。この方は、フエの王室のご出身です。お年を召されて、なお勉強されています。今年も水俣病公式発見50周年のフォーラムに参加されました。

ベトナム枯れ葉剤被害者訴訟原告の第1号、ファン・ティ・フィ先生。ハノイ医科大学を定年退官されても、教壇に立ち、故郷のクアンガイ省への社会貢献もされています。
Posted by Picasa 559部隊元女性兵士のニンビン省のチャン・ティ・ビンさん。自らも枯れ葉剤後遺症のガンと闘いながら、元兵士を家庭訪問して元気づけています。

越独友好病院元院長夫人のヴィー・ティ・ホーさん(写真中央の緑の服の方。その後ろが筆者)。ご主人のトン・タット・トゥン先生は、フエの王族のご出身で、全財産を共産党政権に投げ出し、自ら先頭を切って弱者の救済に当たって来られた方と聞きました。惜しくも枯れ葉剤研究の途上で亡くなられたのですが、奥さんのホーさんはそのご主人をほんとうに支えて来られた方だそうです。

こういう方々が、皆さん真剣に生きています。そして、社会で活躍しています。

私の尊敬する人生の師匠が、「21世紀は女性の世紀」と言われたそのものを、見ることが出来ました。

これからも健康である限り、おカネの続く限り、支援活動を続けて参りたいと思います。(了)

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