アメリカのあるB隊の一行の心理状態は、一触即発の危機にあった。 彼らはその前日、5人の仲間を失っていたからだ。
そして、1968年2月8日の早朝、歓迎されざる命令が出て、ベトナム中部・クアンナム省海岸沿いの水田が多い田舎での掃討作戦を始めなくてはならなかった。
一行は、これといった特徴のない一般の定住地に入って行ったが、何の抵抗も受けなかった。
医療班で20歳のジェイミー・ヘンリー(Jamie Henry)は、小屋の上にライフルを置いて、タバコに火を付けた。
ちょうどその時、中尉の声が、無線機をはじくように聞こえた。
彼は、19人の市民を拘束したことを報告し、彼らをどうすればいいかの指示を求めていた。
B隊の指揮官の答えは、「動く物は何でも殺せ」だった。
ヘンリーが小屋の外に出てみると、女性と子どもの一団がみえた。それから銃が火を吹き始めた。その直後、村人たちは死にあるいは死に絶えつつあった。
故郷のカリフォルニアに戻って、ヘンリーは虐殺の説明書を提出した。自分の主張を放送するために記者会見を開いた。だが、戦争犯罪を告発した彼と他のベトナム復員兵には、反逆者とか嘘つきのレッテルが貼られた。
そして、その虐殺事件では、誰一人として、告訴されなかった。
最近機密情報のリストから解禁された文書には、ヘンリーは、2月8日の殺人やB隊の他の残虐行為について真実を語ったとなっている。
その文書は、1970年代初期の国防総省の調査団が編集したかつての秘密扱いの文書の一部だった。それらの文書は、ベトナムにおいてアメリカ軍が確認した残虐行為は、当初知られていたよりも張るかに広範にこなわれたいたこを示している。
文書は、アメリカ陸軍の調査団によって確認された320の事件の詳細を伝えている。しかも、これには、アメリカの残虐行為で最も悪質な事件である1968年のミーライ村の虐殺は含まれていない。
ベトナム戦争犯罪を完全に解きほぐしているわけではないが、その資料は、現在まで表面化したものの最大の集大成である。およそ9000頁に及ぶ資料には、目撃者による宣誓の供述書や、軍高級幹部の報告書も入っている。
記録は、ベトナム人一般人への再三の攻撃も詳しく触れている。調査員とのインタビューと指揮官への手紙の中で、何百という兵士は、罰としての殺人、レープ、拷問を行った暴力的少数派の行動の詳細を述べた。
書類の閲覧をすれば、残虐行為はベトナムで作戦行動を展開した各師団で暴露された。
調査団員として調査に当たり、自らもベトナム退役軍人であったジョン・ジョーンズ(John Johns)退役准将は、「自分もかつてはその書類を機密扱いのままにしておくことに賛成だったが、今は一般市民への攻撃とイラクの捕虜への虐待事件に鑑み、広く世間に知らしめる価値があると考えるようになった」と述べた。
「われわれは、過去のことを知らなければ、現在の慣習を変えることはできない」 78歳のジョーンズ氏は、こう話している。
因みに、書類の中に埋もれている具体的な数値を拾うと、
1)1967年から1971年までに、7人の虐殺者が、137人のベトナム一般市民を殺した。
2)非戦闘員への78の攻撃で、少なくとも57人が死亡し、56人が負傷、15人がレープを受けた。 3)兵士が一般市民あるいは捕虜を、鉄拳、棒、水、電気による拷問は、141回も発生している。
でも、こんなものではないはずだ。真実は、まだ闇の中だ。
ベトナムの一般市民や捕虜に危害を加えたとして公式の告発を受けた203人の兵士のうち、57人が軍法会議にかけられたが、有罪になったのはわずか23人で、懲役刑になったのは、さらに14人だけだ。そして驚くべきは、ほとんどの者が、判定を不服としてアピールすると減刑を勝ち取っていることだ。戦争は、人殺し容認の行為なのだ。
写真1)1965年、ベトコンと思われる人物を集合地点まで脅迫して歩かせる海兵隊員1865年です。写真2)非戦闘員に銃を向けるアメリカ兵 1966年です。写真3)婦女子を脅迫するアメリカ兵 1966年です。(北村 元)
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