支援隊副会長 大釜 芙美子
今から11年前の1995年、友人の櫻井恵美子さんから、ベトナム戦争の枯れ葉剤に冒されたベトナム人の現状を聞きました。
その中で、ハタイ省に住むタームさんのお宅の話が心に残りました。
「村一番の貧乏の家よ」と話してくれたことです。ご主人が戦地で枯れ葉剤を浴び、終戦から20年経った現在も入退院の繰り返しで、後遺症に悩まされ続けていること。
その影響で、生まれた子ども4人のうち、2人が脳性麻痺、後の二人が知的に遅れており、家族の中で働けるのはお母さんのタームさんだけだったこと。それも、脳性麻痺の子どもからは、ひとときも目が離せない現状であること。やっと近所の畑を手伝って入ってくる収入のみだということ。
そして、このお宅の生活が何とか成り立つように、村に1台もなかった精米機を贈り、村の人にも貸し出せば生計が成り立つので贈りたい・・・という話が櫻井さんからありました。
翌年の1996年、わが目で確かめ、状況を肌で感じたい思いで、ベトナム行きを決意しました。
当時はベトナム直行便などあるはずがなく、羽田発台北経由で、ハノイを目指しました。台北での乗り継ぎに5時間もかかりました。台北までは満席でも、ベトナム行きに乗り継ぐと、乗客はわずか15?6人です。それほど、ベトナムへの関心は薄かったのです。
早速、タームさん宅へ伺い、精米機の様子も見せてもらいました。なんと、精米機を寄付してくれた方ということで、私の写真も壁に貼ってくれてあり、「毎日拝むように写真に向かっていた」と聞き、思わず感激しました。
また、この時のベトナム訪問で忘れられないのは、グエン・サン・トゥン君(当時16歳)の家庭訪問をした時です。
トゥン君は、脳性麻痺のため、自分で寝返りも起きあがることもできないまま、庭の竹のベッドの上に寝ていました。口を大きく開けたままで、ハエが出たり入ったりしていました。弟も同じ症状でしたが、訪問した時には、亡くなって2ヶ月目の時でした。
見れば、お父さんのタイさん(当時58歳)は、目を大きく見開き(痩せているので、目だけが目立ったのかもしれませんが)、足も手も曲がり、辛うじて動かせるのは左手のみという状態でした。まるで、骸骨そのものでした。タイさんは、戦地では化学者として従軍したとのことでした。
たった一人健康なお母さん、フエさん(当時51歳)は、こう話していました。
「トゥン君も弟と同じ症状だから、そんなに長く生きられないと思います。今は、貧しくて2食しか食べさせてあげられませんが、食事はなんとか3食与えてあげたいです」
母親の願いに、私たちは、その場で、次男のお香典という形で、日本円にすればたしか2000円足らずのおカネを包んで、差し上げたと思います。
それを受け取ったお母さんは、涙を流して・・・・・。私たちは拝まれてしまいました。この時は、この家族には気の毒で涙が止まりませんでした。わずか2000円ですよ。日本では子どもにあげても、さほど喜ばない金額です。今でも、この時の状況を思い出すと、涙が出てしまいます。
10年前は、どこを走ってもデコボコ道。ちょっと雨が降っただけで道はぬかるみ、家畜の糞、泥、雨水で異様な臭いがしました。
空港からホテルまでの道のりも、小1地時間はかかったように思いました。
途中には信号機はありません。ハノイの町へ入ったところでやっと一つの信号機におめにかかったほどです。タイヤが穴に入っただけで、頭は天井にぶつかりそうになりました。センターラインはありません。車はまだ珍しいっほどで、バイク、自転車に取り囲まれて走る時代でした。われわれの乗った車に向かって、バイク、自転車が突進してくる!!!! 思わず、自分の右足に力が入ったものです。
道路を横断する時が、また命がけでした。「走らず、止まらず、すり足で」と教えてもらったように、ひたすら前をまっすぐ向いて横断するのです。(つづく)
写真説明 (1)2002年に訪問した時のタームさん夫妻。右がご主人のフエさん。左がタームさん。(2)2002年の訪問時に支援の物資を手渡す。指を指している人が筆者。(3)2006年の訪問で、ベトナムの子どもたちに囲まれる筆者(後列中央=ハノイ平和村で)
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