2006-10-25
2007年支援隊ツアー 日程決定
ハノイの中心部 ホアンキエム湖の風景です。
懐かしい方も多いでしょう。
すでに、東京で参加の手を挙げてくださっている方がいらっしゃいます。
来年は、さらに多くの方の参加をお願いして、枯れ葉剤被害者の実情を学び、真心の激励をしたいと思います。
下記の日程を発表します。
8月19日(日)成田 →ベトナム航空でハノイへ 希望者はベトナム床屋へ
8月20日(月)午前:友好村訪問 音楽療法 マンゴの木植樹 その後、ダン・フー・ズン理事長と懇談 午後:平和村 音楽療法 ガーちゃんらと懇談会 グエン・ティ・タイ・フオン理事長と懇談 ハノイ泊
8月21日(火) 行き先秘密の日帰りバスツアー 夕方:ハノイ国家大学構内で記念撮影 ハノイ泊
8月22日(水) ハノイ→高野記者墓参 中越国境観光 帰途:勉強会 ディエン・ビエン・フーでフランス軍のド・カストリ将軍を捕捉し降伏させた元人民軍兵士グエン・クアン・ビンさん(自宅で)と懇談 バクザン省障害児施設に立ち寄り ハノイ泊
8月23日(木) ハノイ→タインホア省立孤児・障害者・老人センター 音楽療法 日本のカレーライス・クッキング 中学生以上と懇談 ニンビン市泊 キンド・ホテル(予定)
8月24日(金) ニンビン ニャンちゃん宅支援訪問 昼食 559部隊兵士宅訪問(一人) タイビン市泊
8月25日(土) タイビン市 在宅訪問 車いす・補聴器支援 タイビン泊
8月26日(日) タイビン市 在宅訪問後ハノイへ ハノイ泊
8月27日(月) 午前中原告第1号フィフィ先生宅訪問 午後買い物 夕食 出発
8月28日(火) 成田着 解散
参加料金:18万5千円(予定)
機内食2食 ホテル7食 外食13食 自前2食となります。
現地ホテル、バス、通訳、コーディネーション費などが含まれます。
問い合わせ: 愛のベトナムさわやか支援隊
会 長 大釜 一男 055-971-0881
事務局長 宮尾和宏 055-976-8822
乞う! ご期待
2006-10-23
支援活動 私の10年(下)
支援隊副会長 大釜 芙美子
毎年、ベトナムを訪問し、10年間の変わりようも見させて頂きました。
すごい発展のしようで、現在は道路も整備され、歩道が出来て、信号も交差点に付き、何よりもきれいになったのは、道路と商店街です。
今年などは目的地に予定よりも早く着き、ハノイ近県を家庭訪問して歩く私たちにとっては何よりもありがたいことでした。
バイク、自転車は相変わらずですが、今は車が溢れています。ショーウィンドーもなかったのが、今ではウィンドーにウェディング・ドレスなどが飾ってあり、10年前には、ドレスもスカートもみたことはありませんでした。
経済的には豊かになっていると思いますが、私たちが訪問する枯れ葉剤の被害者のお宅は、何も潤っていません。豊かな生活とはほど遠い、相変わらずの貧困生活です。ベトナムの近代化に乗り切れずにいるのは、枯れ葉剤に冒された家だけかもしれません。(下の写真は、ハノイ市内の公営アパート)
国から支給される手当は微々たるもの。痛みがあってもその痛み止めの薬代にもなりません。ベトナム社会から見捨てられるとしか考えようがありません。アメリカは、日本に二度原爆を落として、その威力を確かめました。原爆を落とさなくても、枯れ葉剤を日本で試す計画があったと聞いております。あの枯れ葉剤(ダイオキシン)が日本で撒かれたら・・・と思うと、ぞっとします。今でも原爆による白血病で苦しんでいる方は日本国内にもたくさんいますが、世代が変わる毎に核や化学兵器への恐怖の意識は薄れてきているように思います。
戦争で一番被害を被るのは、一般国民、特に女性、子どもです。しかし、枯れ葉剤の場合は、戦争に参加した兵士も、きれいな霧が降ってくるのをみていましたし、それが入った川の水も飲んでいたために、たまったものではありません。
その恐ろしい化学物質(ブルー、ピンク、オレンジ、ホワイト、パープルなど虹色に似せた名前をつけていました)を、その時は火傷や爆発がないので、気にもせず平気でかぶっていたようです。
この化学物質を扱ったり、戦場でかぶったアメリカ軍の元兵士、アメリカ軍に協力したオーストラリア、韓国、ニュージーランドの元兵士にも、同じ症状が出ているのです。
戦争が終わっても、その苦しみは一生涯続いています。ベトナム戦争に終わりはありません。
この10年、ベトナムの方々と交流する中で、自立して働く多くの女性と出会いました。平和村理事長のグエン・ティ・ミー・ヒエン先生。その後任のグエン・ティ・タイ・フォン先生。
枯れ葉剤被害者協会常務委員で、グエン・ティ・ゴック・トアン先生(上の写真で、右側で茶色の服を着ためがねをかけた女性、その左隣は筆者)。この方は、フエの王室のご出身です。お年を召されて、なお勉強されています。今年も水俣病公式発見50周年のフォーラムに参加されました。
ベトナム枯れ葉剤被害者訴訟原告の第1号、ファン・ティ・フィ先生。ハノイ医科大学を定年退官されても、教壇に立ち、故郷のクアンガイ省への社会貢献もされています。
559部隊元女性兵士のニンビン省のチャン・ティ・ビンさん。自らも枯れ葉剤後遺症のガンと闘いながら、元兵士を家庭訪問して元気づけています。
越独友好病院元院長夫人のヴィー・ティ・ホーさん(写真中央の緑の服の方。その後ろが筆者)。ご主人のトン・タット・トゥン先生は、フエの王族のご出身で、全財産を共産党政権に投げ出し、自ら先頭を切って弱者の救済に当たって来られた方と聞きました。惜しくも枯れ葉剤研究の途上で亡くなられたのですが、奥さんのホーさんはそのご主人をほんとうに支えて来られた方だそうです。
こういう方々が、皆さん真剣に生きています。そして、社会で活躍しています。
私の尊敬する人生の師匠が、「21世紀は女性の世紀」と言われたそのものを、見ることが出来ました。
これからも健康である限り、おカネの続く限り、支援活動を続けて参りたいと思います。(了)
支援活動 私の10年(上)
支援隊副会長 大釜 芙美子
今から11年前の1995年、友人の櫻井恵美子さんから、ベトナム戦争の枯れ葉剤に冒されたベトナム人の現状を聞きました。
その中で、ハタイ省に住むタームさんのお宅の話が心に残りました。
「村一番の貧乏の家よ」と話してくれたことです。ご主人が戦地で枯れ葉剤を浴び、終戦から20年経った現在も入退院の繰り返しで、後遺症に悩まされ続けていること。
その影響で、生まれた子ども4人のうち、2人が脳性麻痺、後の二人が知的に遅れており、家族の中で働けるのはお母さんのタームさんだけだったこと。それも、脳性麻痺の子どもからは、ひとときも目が離せない現状であること。やっと近所の畑を手伝って入ってくる収入のみだということ。
そして、このお宅の生活が何とか成り立つように、村に1台もなかった精米機を贈り、村の人にも貸し出せば生計が成り立つので贈りたい・・・という話が櫻井さんからありました。
翌年の1996年、わが目で確かめ、状況を肌で感じたい思いで、ベトナム行きを決意しました。
当時はベトナム直行便などあるはずがなく、羽田発台北経由で、ハノイを目指しました。台北での乗り継ぎに5時間もかかりました。台北までは満席でも、ベトナム行きに乗り継ぐと、乗客はわずか15?6人です。それほど、ベトナムへの関心は薄かったのです。
早速、タームさん宅へ伺い、精米機の様子も見せてもらいました。なんと、精米機を寄付してくれた方ということで、私の写真も壁に貼ってくれてあり、「毎日拝むように写真に向かっていた」と聞き、思わず感激しました。
また、この時のベトナム訪問で忘れられないのは、グエン・サン・トゥン君(当時16歳)の家庭訪問をした時です。
トゥン君は、脳性麻痺のため、自分で寝返りも起きあがることもできないまま、庭の竹のベッドの上に寝ていました。口を大きく開けたままで、ハエが出たり入ったりしていました。弟も同じ症状でしたが、訪問した時には、亡くなって2ヶ月目の時でした。
見れば、お父さんのタイさん(当時58歳)は、目を大きく見開き(痩せているので、目だけが目立ったのかもしれませんが)、足も手も曲がり、辛うじて動かせるのは左手のみという状態でした。まるで、骸骨そのものでした。タイさんは、戦地では化学者として従軍したとのことでした。
たった一人健康なお母さん、フエさん(当時51歳)は、こう話していました。
「トゥン君も弟と同じ症状だから、そんなに長く生きられないと思います。今は、貧しくて2食しか食べさせてあげられませんが、食事はなんとか3食与えてあげたいです」
母親の願いに、私たちは、その場で、次男のお香典という形で、日本円にすればたしか2000円足らずのおカネを包んで、差し上げたと思います。
それを受け取ったお母さんは、涙を流して・・・・・。私たちは拝まれてしまいました。この時は、この家族には気の毒で涙が止まりませんでした。わずか2000円ですよ。日本では子どもにあげても、さほど喜ばない金額です。今でも、この時の状況を思い出すと、涙が出てしまいます。
10年前は、どこを走ってもデコボコ道。ちょっと雨が降っただけで道はぬかるみ、家畜の糞、泥、雨水で異様な臭いがしました。
空港からホテルまでの道のりも、小1地時間はかかったように思いました。
途中には信号機はありません。ハノイの町へ入ったところでやっと一つの信号機におめにかかったほどです。タイヤが穴に入っただけで、頭は天井にぶつかりそうになりました。センターラインはありません。車はまだ珍しいっほどで、バイク、自転車に取り囲まれて走る時代でした。われわれの乗った車に向かって、バイク、自転車が突進してくる!!!! 思わず、自分の右足に力が入ったものです。
道路を横断する時が、また命がけでした。「走らず、止まらず、すり足で」と教えてもらったように、ひたすら前をまっすぐ向いて横断するのです。(つづく)
写真説明 (1)2002年に訪問した時のタームさん夫妻。右がご主人のフエさん。左がタームさん。(2)2002年の訪問時に支援の物資を手渡す。指を指している人が筆者。(3)2006年の訪問で、ベトナムの子どもたちに囲まれる筆者(後列中央=ハノイ平和村で)
2006-10-21
ヴィンリンのトンネル(2)
ヴィンリンの地名は、1069年に南部探検を行ったリー・トゥオン・キエットが築いたマ・リン大地に因んでつけられました。 ヴィンリンがなぜ有名になったかといいますと、1954年のジュネーブ協定で、ベトナムが南北を分けられた時に、クアンチ省のヴィンリン郡の南を流れるベンハイ川が、南北の境界線になったからです。そして、その川を境に、社会主義国であるクアンチ省の一部であるヴィンリン郡はベトナム民主共和国に属することになったのです。
写真は、1962年のベンハイ川です。手前北ベトナム。川向こうは南ベトナムです。
歴史は、この場所を、共産主義勢力と自由主義勢力の激しいせめぎ合いの場所としてしまいました。統一を目指す勢力と、分断国家のままにしようという国家の接点となりました。
反共の砦を名目に、アメリカは、ジュネーブ協定破棄のために、いかなる手段も使いました。アメリカは、このヴィンリンの自衛軍に挑発行為をしたそうです。とくに、1965年、アメリカは、北部に対して破壊的戦争を仕掛けました。そして、ヴィンリンが最初の攻撃目標になったのです。
なぜか?
ここは、北部の社会主義の最前線であるばかりでなく、南部への人的、物質的供給の強力な後方基地になったからです。
ヴィンリン地区は、800平方メートルに満たない狭い地区です。ここが、アメリカ軍が落とす多量の爆弾、砲弾の被害を受けました。
つまり、空からは、B52を含めて多種の戦闘機が爆弾を落とし、南部からは、ベンハイ川の北岸を目指して、砲弾を飛ばしてきました。ヴィンリンの東部は海岸です。沖に停泊するアメリカ軍第7艦隊の艦船からひっきりなしに艦砲射撃がきます。
1965年から1972年まで、ヴィンリンで砲撃の絶えない日はなかったといいます。
8年間で、この地に落とされた爆弾・砲弾の量は50万トン。ヴィンリンの一人ひとりが、7トンの爆弾・砲弾を受けたことになります。これを、第二次大戦中にアメリカ軍に日本に落とした爆弾の量0.43トンと比較するとよくわかってもらえると思います。 上の写真は、B52が落とした爆弾で出来たクレーターです。
侵略する者には伝統的な勇気をもって戦い、ヴィンリンの人々・軍隊は、村と大地を守りきりました。村人は、ホーおじさんの掲げる“独立と自由ほど尊いものはない”は、人類にとっても正しいものと信じました。
ダイヤモンドは、戦闘の煙の中で明るく輝きました。ヴィンリンの人々に”不思議の建設”をさせたのは、強い意志と創造性でした。ヴィンリン地区の周辺に地中深く散った人々をつなぐためのトンネルでした。(つづく) (文責:北村 元)
2006-10-20
クアンチ省ヴィンリン・トンネル(1)
シェルター、と言ってもつまりトンネルです。この世に生を受けた以上、誰人とも生きる権利があります。それは、すべての権利の一番最初のものです。その権利は、何も人間だけのものではありません。自然界の中の動植物すべてに存在します。
近年、世界のあちこちで、美しい声と言葉で、人権が叫ばれるようになりました。生存の権利、存在する権利は、すべての人間の権利の中で基本的にして最初の権利であることを忘れてしまっている人がいるように思えます。
ベトナム国、そしてクアンチ省の長い歴史のなかで、なかんずく好むと好まざるとにかかわらず非武装地帯となった17度線上に位置したヴィンリンの人々、草木、自然には、存在する権利すらもっていませんでした。
“この土地を石器時代に戻してやる“と言ったのは、アメリカ軍のお偉いさんでした。破壊的な戦争が、その目的のために遂行されました。その目的とは、「アメリカの国境を17度線に」でした。
800平方キロの狭い地域に50万トンの爆弾がすだれの如く落とされたことを、皆さんはご存じでしょうか。その結果、50万トンの爆弾を受けたヴィンリンの7万の人々の戦いとは何だったのでしょうか?
それは、アメリカに対するテロ行為の報復だったのでしょうか? 違います。断じて違います。
故国で生きる権利、生存する権を求めた戦いだったのです。
シェルターとは、否トンネルとは、ヴィンリンの人々が手で、鍬で、シャベルで故郷の大地に穴をあけて生き延びようとした結果です。彼らは、戦争時でも行き来できるようにたくさんの穴を掘り、生きていくために地下深くトンネルを掘ったのです。
一家族の絶滅を防ぐために、別々のトンネルで、家族が別々に住む智恵を考え出しました。彼らは、老人を北部に疎開させ、教育のために子どもたちを遠く離れた所に行かせました。残った人は、砲台を築いたり、銃をとってアメリカ軍機を攻撃したりしたのです。
地下から生まれた伝説は、ここには山ほどあります。
ここの人たちは、114のトンネルを掘り、総延長は40キロになりました。いずれも、手と鍬で掘った手作りのトンネルです。
地下のトンネルで何年もの不思議な生活が続きました。不思議だが、普通の生活でした。子どもの誕生、学校、愛情、娯楽・・・普通のことがすべて地下にありました。生活している4メートルも上には、クアンチの青空が広がっています。
過去によってしか生きられない人は、誰一人としていません。しかしながら、ここの人たちには、過去を忘れる権利は持っていません。過去は、現在を生きるための重要な教訓であるばかりか、ここで起きたことは、もしかして、世界のどこかで、今起きていることかもしれないからです。
ヴンモック・トンネル村の建設は、ヴィンリン郡にできた114のトンネルの典型的なものの一つです。(写真は、ヴィンモックトンネル入り口、今と昔です) (文責:北村 元)
つづく
2006-10-18
長く隠蔽された秘密 むごい真実 ベトナム戦争
アメリカのあるB隊の一行の心理状態は、一触即発の危機にあった。 彼らはその前日、5人の仲間を失っていたからだ。
そして、1968年2月8日の早朝、歓迎されざる命令が出て、ベトナム中部・クアンナム省海岸沿いの水田が多い田舎での掃討作戦を始めなくてはならなかった。
一行は、これといった特徴のない一般の定住地に入って行ったが、何の抵抗も受けなかった。
医療班で20歳のジェイミー・ヘンリー(Jamie Henry)は、小屋の上にライフルを置いて、タバコに火を付けた。
ちょうどその時、中尉の声が、無線機をはじくように聞こえた。
彼は、19人の市民を拘束したことを報告し、彼らをどうすればいいかの指示を求めていた。
B隊の指揮官の答えは、「動く物は何でも殺せ」だった。
ヘンリーが小屋の外に出てみると、女性と子どもの一団がみえた。それから銃が火を吹き始めた。その直後、村人たちは死にあるいは死に絶えつつあった。
故郷のカリフォルニアに戻って、ヘンリーは虐殺の説明書を提出した。自分の主張を放送するために記者会見を開いた。だが、戦争犯罪を告発した彼と他のベトナム復員兵には、反逆者とか嘘つきのレッテルが貼られた。
そして、その虐殺事件では、誰一人として、告訴されなかった。
最近機密情報のリストから解禁された文書には、ヘンリーは、2月8日の殺人やB隊の他の残虐行為について真実を語ったとなっている。
その文書は、1970年代初期の国防総省の調査団が編集したかつての秘密扱いの文書の一部だった。それらの文書は、ベトナムにおいてアメリカ軍が確認した残虐行為は、当初知られていたよりも張るかに広範にこなわれたいたこを示している。
文書は、アメリカ陸軍の調査団によって確認された320の事件の詳細を伝えている。しかも、これには、アメリカの残虐行為で最も悪質な事件である1968年のミーライ村の虐殺は含まれていない。
ベトナム戦争犯罪を完全に解きほぐしているわけではないが、その資料は、現在まで表面化したものの最大の集大成である。およそ9000頁に及ぶ資料には、目撃者による宣誓の供述書や、軍高級幹部の報告書も入っている。
記録は、ベトナム人一般人への再三の攻撃も詳しく触れている。調査員とのインタビューと指揮官への手紙の中で、何百という兵士は、罰としての殺人、レープ、拷問を行った暴力的少数派の行動の詳細を述べた。
書類の閲覧をすれば、残虐行為はベトナムで作戦行動を展開した各師団で暴露された。
調査団員として調査に当たり、自らもベトナム退役軍人であったジョン・ジョーンズ(John Johns)退役准将は、「自分もかつてはその書類を機密扱いのままにしておくことに賛成だったが、今は一般市民への攻撃とイラクの捕虜への虐待事件に鑑み、広く世間に知らしめる価値があると考えるようになった」と述べた。
「われわれは、過去のことを知らなければ、現在の慣習を変えることはできない」 78歳のジョーンズ氏は、こう話している。
因みに、書類の中に埋もれている具体的な数値を拾うと、
1)1967年から1971年までに、7人の虐殺者が、137人のベトナム一般市民を殺した。
2)非戦闘員への78の攻撃で、少なくとも57人が死亡し、56人が負傷、15人がレープを受けた。 3)兵士が一般市民あるいは捕虜を、鉄拳、棒、水、電気による拷問は、141回も発生している。
でも、こんなものではないはずだ。真実は、まだ闇の中だ。
ベトナムの一般市民や捕虜に危害を加えたとして公式の告発を受けた203人の兵士のうち、57人が軍法会議にかけられたが、有罪になったのはわずか23人で、懲役刑になったのは、さらに14人だけだ。そして驚くべきは、ほとんどの者が、判定を不服としてアピールすると減刑を勝ち取っていることだ。戦争は、人殺し容認の行為なのだ。
写真1)1965年、ベトコンと思われる人物を集合地点まで脅迫して歩かせる海兵隊員1865年です。写真2)非戦闘員に銃を向けるアメリカ兵 1966年です。写真3)婦女子を脅迫するアメリカ兵 1966年です。(北村 元)
2006-10-13
支援のあるべき姿を見た 鯉渕 梓
私が枯葉剤に興味を持ったきっかけは、小学生の時に読んだ1冊の本でした。幼かった私は、平和な日本の現状しか知らず、その本を読んだときのショックはとても大きく、そして私も彼らの力になりたいと思ったのを覚えています。
大学生になり卒論を通して、枯葉剤についてきちんと勉強しようと思いました。たまたまネットで調べていたところ、この団体のことを知り、今回ツアーに参加させていただきました。
支援をするとは、どういうことなのか?
ただ車椅子・補聴器など物資を渡せばいい、そんな簡単なものではありません。
初めて使う車椅子、その被害者の症状や環境によって気を付けなければいけないことが違うし、1歩間違えると凶器にだってなりかねません。
さらに、少しでも自力で歩けるようなら、なるべく筋力を落とさないためにも歩くようにと一言アドバイスもします。
補聴器も人によっては合わない人もいますし、貧しい彼らにとっては電池を買うのだって大変です。ですから、必ず寝る前には電源を切るようにと節約のアドバイスを。そして、その物資を渡して相手が喜ぶ姿を見た時に、初めて支援をしたといえるのだと思いました。
また、支援にもいろいろな形があることも学びました。
それは、音楽を通して生きることの喜びや希望を持つことができる心のケア。落ち込んだ気持ちの時、私は友人に会って、笑い楽しみます。気付けば心がすっきりして前向きな気持ちになれます。
笑うこと、楽しむことには、そんな風にさせるパワーがあります。
彼らも、私たちには想像できないような苦しみを抱えていると思います。生きていくことがつらくなることだってあるでしょう。
今回、おこなった音楽療法で、彼らにとって少しでも生きることの楽しさを感じてもらえたらうれしいです。あの笑顔をみる限り、そう思ってもらえたのではないかと思います。
他にもこの10日間で感じた思いがたくさんあります。とても書ききれません。
最後に、このツアーに参加させていただいたことに感謝します。そして、これからもどうぞよろしくお願いします。 (筆者は、現在、大東文化大学 国際関係学部 国際関係学科4年生です)
写真1:ハノイの友好村で写真を撮る筆者。
写真2:ハノイ郊外の平和村で音楽療法の後、写真に収まる鯉渕さん。
写真3:1箇所の贈呈を終えて、また次へ。支援は休みなく続いた。筆者は一番左。
2006-10-11
支援隊 2006さわやかツアー報告記(14)忘れ得ぬ笑顔
そして、その瞬間に立ち会えたことのうれしさは、また格別である。
こんなに美しい笑顔をもっていたのか、
いやそうじゃない、
みんなこういう笑顔を本来持っているんだ、と再発見した。
彼女の感激の サム・アップ。
聞こえた?
はい・・・・・
良かったね。
はい。
この簡単な会話が出来ることの偉大さを、
普通の皆さんに分かって頂けるだろうか?
生命が輝いた時の笑顔ほど美しいものはない。
ハンディをものともせずに、突き進んで頂きたい。
あなた以外に、誰があなたの人生を生きることができるだろうか。
今どきの日本なら、これは、おカネの印だろうか。
ここタイビンでは、
「ついに聞こえたんだ」というアピールなのだ。
苦しんだがゆえに、このありがたさを分かってもらえるはずだ。
この青年の表情からは、「よし、遅れた分を取り戻そう」というガッツが読みとれる。
明日からは、さらに前へ前へ進んで頂きたい。
昨日よりも今日。今日よりも明日。
そのための補聴器である。補聴器は、その推力なのだ。
「きこえたわよ」
喜んだ視線の先に、彼女の両親がいた。
素直に喜んでくれた
あなたとご両親、
精一杯の正装で来てくれたあなたとご両親に、
私は乾杯したい気持ちになった。
あなたの笑顔は、私たちの喜びだ。
同時に、寄付をして下さった方の歓喜であるはずだ。
会話が聞こえることは、「明日」が確実にあることだ。
ハンディを克服して、笑顔の毎日であって頂きたい。
もっともっと輝けるあなたに、
さあ、今日から、明日へ明日へと進もうではないか。
今回も、帰国してから、私は自分の記憶に輪郭を付けてきました。輪郭をつけるとは、書くことです。ツアーの責任者の一人として、今日はどうしよう、何をどうすればいいか、と常に神経を張りめぐらせる毎日です。大事なところでメモを取り忘れたり、写真のチャンスを逸することも多々あります。衣類を含めて寄付をして下さった方のためにも、記憶をたぐり寄せて書くことは仕事です。何10人と会う時、メモは欠かせません。メモをとるということは、記憶を忘却の彼方に押しやることを防ぐだけではありません。相手の話したことを聞き逃すまいとする真摯な姿勢の表れです。メモで話は広がります。これが相手を動かすのです。
物を差し上げたり、金銭を置いてくるほど楽なことはありません。皆様から頂いたものに付加価値をつけてゆくには、何はさておき絶対に対話が不可欠です。医者と患者の関係でもない、教師と生徒の関係でもない、役人と庶民の関係でもない、しかし、人間と人間の、どこかに慈愛溢れる精神外科医的、いや菩薩的要素が、この支援には強く求められていると感じます。相手の苦しんでいるところをいかにして探り出すか。他者のどこに痛みを感じるか。われら支援隊の愛をこめた熱血行動を、この種々の行動と文章の中から少しでも感じ取っていただければ、大変に幸いです。
最後にもういちど、今季の支援隊への暖かいエールに感謝申し上げます。ありがとうございました。すばらしい現場に立ち会わせて頂いたことに、心より感謝申し上げるとともに、来季もまた、引き続きよろしくお願い申し上げる次第です。(おわり) (文責:北村 元)
支援隊 2006さわやかツアー報告記(13)最終日
「あと2週間かかりそうです」と言われた。車から降りて、私は、ホーさんをグループ全員に紹介しました。
ホーさんは、故トンタット・トゥン教授(越独友好病院)夫人です。故教授は、生後18日目に中部から送られて来たベトちゃん、ドクちゃんの面倒を見たほか、枯れ葉剤の被害者の調査にあたった方です。ハノイ医科大学の前の通りには、故教授の名前が付いています。
越独病院のベトナム人初の院長ともなられた方だった。45年前の1961年9月20日に、故教授が、ベトナムで初めて公開で肝臓手術を成功させた日だった。その記念日から1週間後の28日に、お目にかかれたのも、不思議なことでした。
結婚当時、ホーさんは、同病院の美人看護婦でした。「夫であり、恋人であり、先生でした」と、いつか話してくれたことがあります。故教授がいなければ、ベトナムの枯れ葉剤研究は、もっと遅れていたかもしれません。何回か、ホーさんのお宅で話を窺わせて頂いたことが思い出されます。息子さんのバックさんも、越独病院の副院長として、昨年、ラオカイ省で、山岳民族の人を手術したその日の夜に、亡くなられた。貧しい人とともに、苦しむ人とともにあれ・・・の父の理想を追い続けた息子さんだった。今でも、バックさんのお声が耳朶に残っています。
写真上は、ホーチミン廟の前で記念撮影する支援隊。
左は、1972年12月のアメリカの北爆時に撃墜されたB52(ベトナム語で、ベー・ナム・ハイと言います)です。(ドンダー区で)
帰国の日まで、枯れ葉剤につながった旅でした。鯉渕さんも大庭君も、枯れ葉剤の被害者の苦しみを、体で感じ取ってくれたなら、最高です。
私は、「裸形の個人」に近い人間をみてきただけに、強くそれをお願いしたいです。「裸形の個人」に「他者」は存在しません。「他者のどこに痛みを感じるか」は、大事なことです。多くの人にそれを伝えていってくれれば、これもまた、今回の支援ツアーの大きな収穫の一つになるに違いありません。
他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意志で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、わが生命に「不死」の大生命が湧現してくる。
「瞬間の心」である、「一念」にすべての現象がおさまっています。
一念に深い労苦を尽くして他者ために尽くしていくなかで、豊かな生命が湧現して、献身の行動にさらに励んでいく・・・・。「一念の変革」が、自他ともの幸福と成長をうながし、その繰り返しが社会をも変革していくと思えば、この支援の旅は、果てしなく意義があると思います。
多くの方々のご協力を深謝し、支援の旅のご報告に代えます。上の写真は、ハノイ空港で。出発の遅れもなんのその。タインさん(一番左)が、妙ににこにこしているのは、なぜでしょう。ほっと一安心? (つづく)
支援隊 2006さわやかツアー報告記(12)ハイフォン2
グエンさん宅を失礼して、昼食。
大衆食堂で、おかずを吟味するタインさん。ここは、安くておいしかったです。
午後は、また雨に。そぼ降る雨の中を、原告第2号のクイさん宅へ。
まだお会いしていないクイさんの奥さんにお会いする約束で伺ったが、「急用で出ていきました」といいます。タインさんの話では、「やはり会いたくないのでは・・」と。
クイさんは、「前ほど元気はありません。病気は進行しています」と開口一番言った。クイさんの化学治療は、2005年に終えています。2005年までに、11回の化学治療を受けた。
訪問の前日に病院で受けた診断の結果が出ていました。
「左肺に6センチくらいの腫瘍大のものあり。境が明瞭でない。肺ガンの恐れあり」となっている。レントゲンも2枚見せてもらった。左肺は1/3くらいしか造影がされていない。診断は、ヴィエト・ティエップ(越チェコ友好)病院です。
赤血球が減ってきているそうです。350万の時もあり、230万に落ち込む時もあるそうです。クイさんの食欲も落ちてきた。1食1杯で精一杯だそうだ。夜も4?5回起きてしまうそうです。胸が痛むそうです。「息を吸い込むだけでも痛いです。100メートル歩くと休みます。「去年までは食事を作っていましたが、今年はできません。二人の子の面倒も見られなくなりました」。
病院からは、自宅で治療してもいいといわれているそうです。そこで、今どんな薬を飲んでいますか?と聞きました。
見せてくれたのが、なんと日本の某薬品会社の箱です。しかも、実際は薬ではありません。『補助食料品』となっています。彼は薬と信じて服用しています。調査の必要があります。250万ドンの箱を月2箱買うそうです。途方もない金額です。
なのに、クイさんの手当は、20万ドンぽっきり。基準が分かりません。子ども二人に、35万ドンずつの枯れ葉剤被害者手当が支給されています。「手当は増額されましたが、物価が上がっているので価値はかわりません」と言いました。傷痍軍人の保険に入っていますが、薬は保険の対象外だそうです。
市場に売りに出ている奥さんの収入は、一日2?3万ドン。生活費の不足分は、お母さんの母親から出してもらっています。義母からの補填は、やはり大きな安心材料と言えます。
アメリカでの裁判の棄却を、どう受け止めたか?
「怒りと不満でいっぱいです。最初から否定するなんて、とんでもないことです」
アメリカに訴えたいことは? ゆっくりと話し始めました。
「枯れ葉剤の恐ろしさは、本人だけでなく、子ども、そして次の子どもの生活に影響を与えることです。アメリカ政府は、責任をとって、何か行動すべきです。枯れ葉剤の製造会社には、賠償してほしい。生活ができるように、金銭的援助をしてほしい。全然無関係のように振る舞うのは、人間性に欠けています。元の軍用飛行場には、ダイオキシンが残っています。洗浄する責任があります。私は、パスポートの手続きも終えており、いつでもアメリカの裁判に行く準備が出来ています」
奥さんは何か言っていますか?
「『裁判の結果は、不公平です。不満です』と言っていました」
今まで話が通じないと思っていた長男のチュン君に、外務省のタインさんが一生懸命話しかけてくれて、話が通じ始めました。サッカーに興味を持っていることがわかりました。マンチェスター・ユナイテッドのファンであり、個人的にはブラジルのロナウドが好きなようです。「ワールドカップの時は、夜でも起きてテレビ観戦していた」と、お父さんは言います。2006年ワールドカップでのフランスのジダンの頭突きも知っていました。「イタリアの選手が、ジダンに悪口を言ったからだ。イタリアはディフェンスが強い。イタリアは、相手を挑発して、引っかけて来るチームだ。フランスチームは、芸能人のスターみたいだ。技術もすごい。日本は余り強くなかった」と言いました。
チュン君は、ベトナムのチーム「テ・コンチーム」(軍隊のチーム)を応援していたのですが、最近振るわず、今は応援していないことも分かりました。「カー・クオック(いいことではない)」と言いました。すごく勘のいい子どもです。サッカーのことをいろいろ勉強していることもわかりました。
チュン君は、日本のアニメ「忍者」「ナルト」のファンでした。いろいろな知識をもっています。
こういう話で、チュン君の興味・関心を引き伸ばしてあげることも、われわれの大事な支援の一つです。
そういえば、アジアカップ2007は、2007年に開かれる第14回のAFCアジアカップ。開催国となるのは、タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアで、4カ国の共同開催です。アジアカップが複数国の共同開催となるのは、大会史上初めてです。
ともあれ、2007年のアジアカップでは、またチュン君が興奮する場面がでてきそうです。次回の訪問では、サッカーのユニフォームとボールを届けることにしたい・・と密かに考えていますが、いかがでしょうか。
皆さんからの古着の支援をしました。これだけ話をしてくれたチュン君。話を聞いてくれた私たちが帰る時に、涙を浮かべていました。辛い別れ。「また遊びにきます」
一路ハノイへ。(つづく)
支援隊 2006さわやかツアー報告記(11)ハイフォン1
呼吸の苦しさ。体の痛み。だるさを訴えていました。足の関節にも痛みが増しているようです。1年前までは、家の外を歩いていたグエンさんですが、「もう家の中しか歩きません」と言います。戸外へ出ることはほとんどなくなってしまったようです。トイレは戸外にありますが、家の中ですませるます。
体の痛みで、寝ては起き、寝手は起きの連続のようです。今服用しているのは、鎮痛剤のみで、1日2回(1回2錠から4錠)です。テレビも「ニュースくらいしかみません。他の番組は見る気もしません」と、力無い声で話す。
食欲も落ちて、お代わり出来ないこともあるようです。最近では、ご飯のお茶碗を持つのも精一杯の時も。シャワーも一人ではできなくなり、奥さんのタ・?ティ・ムイ(TaThiMui=1950年生まれ)さんに手伝ってもらいます。「体が痛む時はシャワーをいやがり、お湯を捨ててしまいます」と、奥さんは言いました。
野菜を売り歩いていた奥さんは、野菜売りをやめた。「野菜を売る元気もなくなりました。朝歯を磨いてあげて、ご飯を食べさせ、体が痛む時は、1日2回ほどマッサージをしてあげます」
グエンさんは、今年1月に病院に行ったのが最後です。「病院にいく元気がなくなりました。どこまで行っても同じ結果なので、もう行く気はありません」と、言った。
奥さんも「結果が同じなので、もうどこの病院にも行かせません。赤血球が減ったと言うので、手術はもう出来ないと病院では言われました」と話しています。
現在薬代は月に20万ドン近く。枯れ葉剤の手当は、月額59万3千ドンに増えました。が、収入はこれだけだといいます。「米は作っていますが、人を借りなくてはならない」といいます。
子どもが身近に住んでいるので、安心ではないかと思いましたが、そうではないようです。
「長男の嫁には子どもが出来たし、仕事をもっています。家を出るのは早く、帰りは遅いです」
敷地の中に、長男夫婦が住んでいます。次男が結婚して、母屋に同居し、グエンさんは、狭い部屋で寝ています。長女は結婚して子ども二人が出来ました。次女も結婚して、家を出ました。4-5キロ離れた所に住んでいます。3ヶ月前に女の子が生まれて、今のところ異常はない。ただ8ヶ月の早産(体重1.5キロ)だったそうです。
「病気が出ていなくてうれしかった。でもまだ心配です」と、グエンさんは言います。次女のカインさんは、すでにイボを発症しており、そのことを父親は心配しているのです。次女の義母は559部隊の出身であるだけに、父親のグエンさんは、「間違いなく、枯れ葉剤の影響を受けていると思います」という。
グエンさんは、赤血球の減少で、手術は不可能という判断が、今年1月に地元病院で下されたそうです。私たちもそれを聞いて、グエンさんの手術は諦めざるをなくなりました。
地元の退役軍人協会のブイ・フイ・ディオ(BuiHuyDieu)さんと話し合いました。
「今年の初め、グエンさんの血液検査をしました。遺伝子が血に流れているので(よくわからない)、治療をしても直らない。赤血球も減っています。1700万-1900万(赤血球がこんなにあること自体が間違い)になっているので、全身のイボをカットすると、血が止まらないそうです。家族も全員入院・手術には反対しています。
戦場から生きて戻ってきただけでも、幸運だったと家族は思っています。枯れ葉剤の手当も今年なって増額されました。そのうち治療ができれば、イボの数をおさええることが出来るかも知れないと、家族は考えています。
私たちは、家族の意見を尊重したいです。病院で治療してもなおりませんし、それが死亡を早めることにつながるかもしれません。家族の絆で介護すれば、より長生きできるのではないかと考えています」と説明してくれました。
これで、グエンさんには、当面薬代の援助しか方法はなくなりました。皆様のご支援のなかから、薬代として、金一封を差し上げました。(つづく)
支援隊 2006さわやかツアー報告記(10)ハノイ市
ダン・ヴー・ヒエップ会長、チャン・スアン・トゥ副会長兼事務局長、マイ・テ・チン広報部長、グエン・ティ・ゴック・トアン常務委員ら最高幹部が出席してくれました。
支援隊の方から、米大統領宛ての、枯れ葉剤裁判の嘆願書にわれわれ全員が署名して本日に臨んだ旨をご報告し、その席上で、枯れ葉剤被害者協会によるアメリカでの訴訟支援に対して、金一封を贈呈致しました。
また、協会からは、出席者全員に、非売品の『枯れ葉剤犠牲者の痛み』という貴重な資料写真が入っている本を頂戴しました。
ヒエップ会長からは、「明日の引っ越しを手伝ってください」という深刻なお話があり、全員が大爆笑しました。写真上は、大釜会長と握手するヒエップ会長。右にトゥ副会長(教授です)、その右に、グエン・ティ・ゴック・トアン常務委員(フエの王族のご出身です)。
トゥ副会長からは、「今年の12月ごろ、原告92名の書類が揃います。裁判所では原告、被告双方の弁論が行われています。当方の弁護士は、アメリカ人です。12月頃の裁判に参加する派遣団は、トゥ副会長を団長として、女性一人(ドンナイ省ビエンホア空港近くに住む住人)とフエ在住の男性一人(元サイゴン政権の軍人の子ども)の3人です。先月(8月)韓国の退役軍人がニューヨークでデモ行進をしました。11月ごろに、またどこかの国がデモをかけられればいいのだが・・。枯れ葉剤の調査は、第3者機関に検査を依頼している。ドイツのオラバベンさんの研究室に依頼している。一つの検査に750ドルかかるが、ベトナムが依頼すると350ドルくらいで済みそうだ。それでもわずかだけしか依頼できなかった」と、概要このような話をされました。
また、水俣病公式確認から50周年の行事に参加したトアン先生からは、水俣病国際会議の報告も窺いました。
枯れ葉剤被害者協会の引っ越し先は、バクマイ病院に近い元日本大使館のビル。不思議な縁ですね。今後とも連絡を密にして、行動することを確認しあいお別れしました。
続いて、対米訴訟のベトナム側原告第1号のフィフィ先生のお宅へ。ハノイには11月のAPECのための新しい会議場がほぼ完成していますが、フィフィ先生のお宅は、その国際会議場に近いところです。ホーチミン市へ向かうあわただしい時間の中を会ってくださいました。
フィフィ先生を通じて、フィフィ先生の故郷、クアンガイ省に贈る車いす3台を贈呈致しました。
フィフィ先生は、アメリカにおけるベトナム枯れ葉剤被害者訴訟の原告の第1号ですが、いつもこう言われます。「クアンナム省、クアンガイ省、ビンディン省、トゥアティエン・フエ省には患者が多いです。私は軽い方です。どうか、私より重い人を助けてあげてください」と。「皆さんが来てくださるなら、クアンガイに一緒に届けたいです」と仰ってくれました。来年のテット前には、クアンガイ省に運んでくださるそうです。できれば、私も同行させて頂いて、実情をみたいと思っています。
そして、クアンガイ省の故郷の話をされました。「ものすごく静かで、きれいな川、美しい山がある所です。山と山の間に、きれいな小さな町があります」と。
抗仏、抗米の戦争を振り返って、「自分の目で見ても、戦争の被害は大きいです。枯れ葉剤問題は未解決です。若い世代が、戦争をなくすために努力してほしい。人生は短いです。抗仏、抗米の戦争後は絶対、平和で幸福な人生を送りたかったです。有意義に過ごしたかったです。正義と思われている戦争でも、被害者は出ています」と、力説されました。
クアンガイ省といえば、ソンミ村の虐殺のあった省です。504人が虐殺されました。(写真左)この時フィフィ先生は、クアンナム省の戦場にいました。当時、第1号移動病院(野戦病院)の院長をされていました。
午後は、初めての休養に。でも、ひとときの貴重な時間を、おみやげを買いに走る人も。いや、全員が買い物で同一行動でした。が、途中からスコールが。買い物も休みなさいということでしょうか。あの雑踏が、雨とともに、急に人通りが少なくなります。
夕食後は、翌日に備えて、フットマッサージに行く人も。チップ込みで1時間10万ドン。
ちょっと行ってみるかぁ。
(つづく)
2006-10-10
支援隊 2006さわやかツアー報告記(9)タイビン省5
奥さんのグエン・ティ・ズオン(NguyenThiDuong)さん(写真下)も復員軍人で、ここ数年で難聴になりました。559部隊に入隊して、クアンチ省で医療部隊として救援に当たっていました。爆弾の投下による炸裂が難聴の原因ではないかと言っています。
そして、難聴に加えて、糖尿病と偏頭痛を抱えています。その上に、子宮粘膜ガンにかかっているようで、ご主人ハイさんの話では、「妻はあまり長くないです」と、その数日前に会った時に聞かされました。糖尿病のために、麻酔がかけられないそうです。長男のホー・シ・チュン(Trung)さんは、1971年生まれ。次男のホー・ドゥック・チン(HoDucChinh)さんは、1974年生まれ。いずれも終戦前にうまれています。
長女は1979年に生まれましたが、リンパ腫で5歳で病死しました。可愛い盛りです。愛娘の遺影を、タンスの奥から出してきてくれました。
長男次男は、超難聴です。
1980年に生まれた3男のホー・シ・ハウ(Hau)さんは、知的障害を抱えて、家を出たまま行方不明です。3男にはどこが自宅か認識がないそうですが、時々帰宅しては、また長い旅に出る・・・といいます。最近では、9月21日に帰ってきたといいます。どこへ行っているのかわらないので、探さないそうです。父親のハイさんは、「3男の心の中には、善と悪があります。善の時は、もどってきます。でも・・・」と、後は言いませんでした。
ハイさんを除いて、同居の家族がすべて耳が聞こえない人との生活。私にはその苦しさの想像がつきません。
補聴器3個を贈呈しました。一人ずつ、耳につけて調整してあげるたびに、表情の変化が私たちにも伝わってきます。それが、私たちの喜びの波動になっていきます。 小生も、ハノイ支局長時代に、友人と補聴器の贈呈を行いましたが、それ以来のことで、胸にこみ上げてくるものがありました。 荘厳な儀式に立ち会っているような、生命の蘇生を感じさせる時でした。
一見壮健そうに見えるご主人のハイさん(とはいえ、枯れ葉剤被害の症状が何カ所かに出ていますが)ですが、妻は聴力を冒され、第二世代は、病死と難聴、精神的に冒された三男の家出と、いずれも障害を持って生まれた子供たち。子どもたちといいましても、長男次男ともすでに30代です。教育の必要な時期に、極貧で補聴器も買えず、超難聴のために教育の機会をふいにした人たちです。いまさら、耳が聞こえても、学校に行くわけにはいきません。戦争の大きな被害者です。
そういう大きな問題が背後にはありますが、補聴器3個で、一気に夫婦の会話が戻りました。子どもたちも、手話を交えながら、声を出し始めました。長男は笑顔で、両手の人差し指をクロスさせました。親のハイさんが、「結婚できるかもしれない」と云っていると通訳してくれました。夢が膨らんできたのです。「きてよかった」「差し上げてよかった」と、皆が思ったことです。阿部さんにも、仙台のパイロットクラブの方々にも、また寄付をしてくださった方々と、この感動を現地で分け合いたかったと強く感じました。
6時過ぎに、私たちはハイさんの家を辞しました。真っ暗になってしまった夜道を、一路ハノイへ。みなで遅い夕食をとりながら、外務省の友人が、タイビン省のハイさん宅へ電話を入れてくれました。すると、近所の人が集まり、皆で喜び合っていると話してくれました。疲れた私たちの体に、大いなる疲労回復剤になりました。
そういえば、今回のどこだったか車いすを届けている時に、私の家内に、「どうもありがとう」と声をかけてくれた村人がいたそうです。他人のことを自分ことのように喜ぶ風習は、もはや日本ではなかなかみられなくなりました。
この6日間、通訳のマイさんには、大変お世話になりました。実は、マイさんは、昨年までの7年間の留学中、東京の大東文化大学に通っていました。今回参加の鯉渕梓さんの先輩にあたります。世間は狭いですね。他の仕事のために、マイさんは、今回はこの日まででした。ありがとうございました。音楽療法、車いすの実技指導は、マイさんの誠実な人柄無くして出来ませんでした。ここに厚く御礼を申し上げます。(つづく)