2011-02-24

桜田先生が書き遺したこと(3)

このブログでは、蓮の花奨学金に資金援助をしてくださっている「桜田基金」の故桜田百合子さんが書き遺された文章をご紹介し、支援している私たちだけでなく、受け取るベトナムの奨学生ともシェアし、飛躍のための跳躍台にしようと考えています。


(2)亡き母の「後家の頑張り」
桜田先生と10年間生きたGENKI
  敗戦と父の早世が同じ年に重なり、我が家の戦後は、スタート地点で予想外の窮地に立たされていた。狂瀾怒涛の時代状況下に、小学校5年生の私を頭に4人の子どもを残された母の辛苦は、筆舌に尽くし難かったに違いない。だが、私の知る母は、降りかかった不幸を悲しんでいる余裕もなく、捨て身の構えで目前の苦難の苦難へ立ち向かった。

 経済的には、かなりの預貯金があり、当分の間、生活費には困らないだろう、との生前の父の予想は見事に外れた。戦後の悪性インフレで、預貯金の資産価値はみるみる下落。その上、預貯金引き出しの限度額が月500円とされ、わが家の家計運営には大打撃、預金暮らしの道を断たれてしまった。

 そこで、母はまず、家屋続きのわずかな畑地で農作業を始め、食べ盛りの一家の食糧難に備えた。また、私の(旧制)高等女学校受験に控え、当時の世間常識では、こうした母子家庭の娘の場合、家計を支えての就職が当たり前だったが、母は父の遺言もあり、私の進学希望を言葉少なに承諾してくれた。

 引き続き母は、弟たちの教育費支出に備えて稼得収入の道を迫られた。特にその方便を持たない40代の母は、あれこれの後、野菜や花などを入れた籠を背に、近郊の町家へ行商を始めた。昼夜を問わずの力仕事で、母の背はみるみる曲がっていった。おかげで私も弟たちも、目指す高校に進み、また働きながら大学にも進学した。

 士族出身を誇りとして育った母は、これまでに家事育児の他では手を汚さず、ましてや頭を下げて物を売り歩くなど思いもよらなかったであろう。こうしたなりふり構わぬ捨て身のパワーは、一体、どこから出てくるのだろうか。生前の母は、「お宅のお子さんは皆立派に育って、あんたが苦労した甲斐があったね」と言われるのが「何よりうれしくて」と当時の苦労話を締めくくっていた。

 戦後とはいえ、母の世代には「子どもを育て上げることこそ女の勤め」という使命感が脈々と波打ち、社会的な支援策が乏しいなかで、ここ一番では、なりふり構わずの「後家の頑張り」が必要だったのだ。こうした母(女性)の生きざまに対して、私は率直な賞賛・容認とはならず、母子福祉の充実を目指す際の「反面教師」として受け止めている。

 その母の13回忌が今秋、哀悼と感謝を込めて執り行なわれる。(記:2001年8月10日)

この8月10日は、偶然にも、ベトナムでは、ベトナム枯れ葉剤被害の日ですね。この文章に書かれたことは、ベトナム戦争後のベトナム家庭の多くにあてはまりそうですね。どこでも、母親が苦労しています。そして、自分が受けられなれなかった高等教育を子どもに受けさせようと頑張っておられます。ベトナム訪問時に、桜田先生の文章を分かち合いたいと思います。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊since 1990
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