2006-10-08

支援隊 2006さわやかツアー報告記(3)タイビン省1

9月21日。 いよいよ本日からタイビン省へ車いす、補聴器の贈呈が始まります。ベトナムのことですから、平穏無事と言うことは絶対ありません。必ず、何かが起きます。 事実、いろいろ起きたのです。

一路国道1号線を南下。タイビン省は、ベトナムでも有数の貧困の省で有名でした。「5トン姉ちゃん」という言葉があるといいます。穀倉地帯というと響きはいいですが、この地域では、農家の娘が一人で5トンの米の収穫を上げなくてはならない、と昔から揶揄されていました。いわば「酷倉地帯」です。

そして「棒の橋」という言葉もあります。「タイビン省には棒の幅の橋しか無い」と、他地域の人から馬鹿にされていた省なのです。その上、タイビン省は、「お粥工場」とも言われていた。米の収穫が悪く、お粥しかとれないことを笑われていたのです。 だが、今は違います。農業の「省」から工業の「省」へ姿を変えつつあります。それがいいかどうかは別として。立派な橋も架かりました。「5トン姉ちゃん」の姿は、急速に消えつつあります。

タイビン省枯れ葉剤被害者協会で贈呈の打ち合わせをしました。その後、人民委員会で、女性副委員長ホー・ティ・ラン(Ho Thi Lan)さんと会見しました。ご専門は脳神経で、医学博士だそうです。 グリーンをベースにしたアオザイを着て正装で会ってくれました。感謝。

「ところで、皆さんの今回のご訪問の目的は何ですか?」 この質問には、正直驚きました。では、逆にどういう目的で、私たちと会って下さったのでしょうか。せめて、「支援活動以外に、何か目的はありますか」と質問して頂きたかった。心の通じ合うまでには時間のかかりそうな、権威をみせつける女医さんでした。これで、民衆の苦しみ、患者の痛みを診察できるのだろうか、と心配になりました。そうでなくても、枯れ葉剤の被害は4代目まで出ていると、一言失言しました。


ラン副委員長の話では、「タイビン省は、戦後被害者が大量に発生したところです。住民たちも農業が多く、貧困です。人民委員会は支援に努力をして来ましたが、支援は足りていません。省の支援の他、海外からの支援も受けています。皆様のような海外からの支援は、被害者にとって貴重なものです。タイビン省の被害者に今後ともご支援を与えて頂きたい。人民委員会と貴会との関係を樹立して行きたいがどうか」と、話がありました。関係を樹立する前に、じっくりとお話をしたいというのが、私たちの本音でした。

 昼食後、戦争中に中部ベトナムで3回枯れ葉剤を浴びたホアット元中佐宅を再訪しました。ホアットさんは、ベトちゃんドクちゃんが生まれた中部のサタイという所を中心に従軍して闘っていた方です。

枯れ葉剤の撒布で、ホアットさんの部下には気絶した人が出たそうです。ホアットさんご自身も、息苦しくなって気絶したそうです。
写真は、帽子の方がホアットさんです。右に、ご長女、次に3女のティ・グエンさんです。後ろに奥さんのトゥエンさんです。一番後左は、親戚の人ではなくて、宮尾事務局長です。

このお宅では、長女が知的障害者。次女は6歳で死去。3女は軽い障害。優しい人たちが来たと思ってくれたのか、知的障害の長女ズエンさんが、表の道路まで送りにて来てくれました。笑顔で手を振って別れを告げるズエンさん(29歳)。7月に下見訪問した時は、われわれの車にのって一緒に行こうとしました。

このあとから、車いすと補聴器の宅配が始まりました。「日本政府と同じことはしまい・・・人に託して、あげっぱなし・・贈呈対象の人の顔を見ない支援はよそう」と。

ところが、どっこい、地方権力を持った人が、自分の顔で配布先を決めてしまったのです。当方に配布されたリストにない人への贈呈を行っているのが、分かってきました。納得行かない・・・。そういう人たちに贈呈しても、感動がないのですぐわかります。

感動的だったのは、ブー・ティ・タイン・ヴァン(Vu Thi Thanh Van)さん(24歳)でした。きれいな女性でした(写真)。極貧の家庭です。訪問した時に、お母さんは親戚の家に行って不在でした。タイン・ヴァンさんはおばあちゃんと家の中にいました。おばあちゃんは盲目に近いです。家は2メートル半四方くらい。そこに板のベッドが一つ。母親とおばあちゃんとヴァンさんの3人住まいです。家の中には、洗面所もキッチンも、トイレもありません。

家内が、「一人でいる時に、トイレに行く時はどうするのですか?」と聞きました。
「我慢するんです」 24歳の女性ですよ。意外な答えでした。

彼女は、義務教育は受けました。その間、両親が、毎日代わる代わる背負って学校に行ってくれたようです。その父親も、2001年に亡くなりました。お兄さんがいます。しかし、兄も先天性の病で、両手、両足が弱いということです。兄は、ホーチミン在住で、親戚が面倒をみていると、彼女は言います。タイン・ヴァンさんの手の力を見てみました。握力は弱くて、「重い物がもてない」と言います。ですが、訓練次第でなんとかなるかもしれません。

私が、「どこかに行きたいですか?」と聞きました。「どこにもいきたくありません」と言いました。その時、私は、心の中で、今日中に必ず、外に連れて出てあげようと思いました。

そこですぐ、新谷文子さんの実習に移りました。母親の代わりに、隣家の奥さんが、気持ちよく母親役を買って出てくれました。やはり、地域で応援できるとうれしいです。新谷文子さんが、ベッドから車いすへの移動を練習しました。

そして、表の道路へ出て見ました。表情が俄然変わってきました。写真を見てください。さわやかな外の風に、笑みが浮かんできたのです。50メートルほど移動しました。いろいろな風景に興味がわき始めたようです。そして、折り返し。また、家の中に入りました。(写真下) Posted by Picasa  
                                        
すると、今度はベッドに移りたくないと言いました。
「ここの方がいい」と、車いすを何回も指さしました。それはそうでしょう、板一枚のベッドです。寝心地がいいはずがありません。タイン・ヴァンさんに少し意欲が出てきたのです。

ベッドに移る練習をした後は、車いすに座ったまま。本当に楽しそうでした。

家の入り口からまっすぐ行くと、そこは、そのまま崖になっています。危険なので、ストッパーを必ず置くように、隣家の方にお願いしました。

彼女は、車いすに座ったまま、私たちを送ってくれました。 活用してくれれば、こんなうれしいことはありません。 支援してくださった方、ありがとうございました。

この日最後の訪問は、ズン・ティ・ヌー(Dung Thi Nu)さんでした。
1950年生まれ。クアンチ省ケサインの戦場で、工兵として道路工事建設に従事し、山を崩すために発破をかけていた。
今の難聴は、その時の爆発音の影響なのだろうか。1969年からケサインにいったが、1974年に健康を害し、そのまま1974年に除隊した。
結婚してこども3人をもうけた。1977年に生まれた次男が膝が腫れて、痛みが出てきた。1989年に日本の医者から手術をしてもらった。膝関節液を交換して結果なおった。


おじいさんの家に入っている。彼女の家には、小さいこどもが大勢いた。どういう関係かわからない。
補聴器を付けるのは初めてだ。「とても良く聞こえる」と言って相好を崩した。

彼女は2週間ほどハノイの108病院に入院していた、という。
かつて8万8千ドンだった手当が、現在は9倍ほどの73万ドンまで引き上げられた。彼女の家は経済的にはよくない。
いずれまたいつか、話を聞きに訪問することにしたい。

(つづく)             

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