2007-05-22

中国国境の町ラオカイで出会った老兵士

「死ぬに死ねない」と、ロンさん

中国・雲南省と接する国境の町、ラオカイ省ラオカイ。
経済的な話をすれば、ラオカイは、華南経済圏に組み込まれている。華南経済圏と北部ベトナムを連結する陸上輸送ルートは3つある。雲南省とベトナム、ラオ・カイ省を結ぶラオカイ・ルート、広西チワン族自治区とランソン省を結ぶランソン・ルート、. そして広西チワン族自治区とベトナム・クアンニン省を結ぶモンカイ・ルートがあります。中国国境と聞くと、田舎で寂れているとお思いでしょうが、いやなんの、結構繁盛・繁栄しているのです。

1979年2月の中越紛争では、この国境の町にも、中国は大量の部隊を派遣しました。保養地サパもやられました。中国軍は懲罰行為として、ランソン省まで入ってきました。しかし、ベトナムはぼこぼこに中国をやっつけました。中国人民軍の近代化の必要性が叫ばれたのは、この時の戦争だったと言われます。

この国境が再開されたのは1993年5月18日。
狭いナムティ川の向こうが大中国です。立派なビルが建設されていました。

中国の河口駅につながるキエウ橋は、周囲の環境の変わりようもあって、立派な鉄橋にみえました。

かつては、厳しい規制で中国側に渡るのも容易ではなかったものです。警備兵にパスポートをみせてほんの短時間、鉄橋をおっかなびっくり渡って中国側に行かせてもらったのが、10年前。

ラオカイの駅が完成したのは1994年のこと。すでに10年以上が経過しています。ハノイに戻るために、夜、そのラオカイ駅前で、8時15分の夜行列車を待っていました。

駅前のオープン・カフェですから、屋根などありません。上を見上げると、雲の合間から、ところどころ星が見えます。大釜会長ら同行の5人がそれぞれ好きな物を飲んでいました。

何となく親しみを覚えたカフェの店主。毎日朝4時半から夕方8時まで働きづめとのこと。74歳という年齢が一層、同情にも似た感じを受けさせたのかも知れません。

ご主人の名前は、グエン・バック・ロンさん。
喜劇俳優的な顔。妙に陽気。でも何かありそうだ、と思いました。


そばにいる奥さんは、二人目でした。ベトナム戦争に出征している間に、奥さんが浮気(ご本人のはなしによれば)。戦争から戻ってきてから離婚。最初の奥さんとの間に出来た男の子2人は健常者とのこと。2番目の妻にバクザン省出身の女性をもらった。

「死にたいけど、死ねない」(死ぬに死ねない)とさりげなくぽろり。この一言が、妙にひっかかりました。

外務省職員のタインさんとの話の中で、おぼろげながら生活背景がわかりました。

ご主人は、中部の激戦地クアンチ省に6年も駐屯。枯れ葉剤もたっぷり撒かれました。武器、食料などの補給活動に従事していました。ロンさんは、防空壕に入っている時に爆撃されました。爆弾の破片が頭にささり、右目に障害が出ました。左目の角膜を移植しましたが、視力は30%しか回復しませんでした。


タインさんの通訳で、元兵士で、枯れ葉剤被害の子がいることがわかりました。子ども4人出産。男2人。女2人。男の子は健常。長女は脳性麻痺。次女は発育不良。


私がベトナム最北端で出会った初めての戦争被害者、枯れ葉剤の被害者でした。
「どこにでも戦争被害者はいる」の認識を新たにした日でした。

チップが何の役にもたたないことはわかりながら、釣り銭は頂けません。
ただ、覚えておいて貰うには十分です。 固い握手を交わして、別れました。

再訪・再会しようと思いました。一期一会に終わらせるわけにはいきません。(北村 記)Posted by Picasa

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