2007-05-26

元南ベトナム政府軍兵士 ヴーさんの場合

「私は枯れ葉剤を撒きました」


私たちは、5月16日の午後、ホーチミン市に住むマイ・ザン・・ブーさんをお宅に訪ねました。

枯れ葉剤撒布作戦に参加した南ベトナム政府軍兵士はたくさんいながら、自分が撒布作戦に参加したことを正直に告白したのは、ヴーさんが初めてと思います。

1937年、北部のフン・イエン省で生まれました。ハノイから60キロちょっと離れたところです。

抗仏戦争の大団円ディエンビエンフー作戦が1954年に終わって、ジュネーブ協定の下で、ヴーさんは、お父さん、兄弟で1955年に南部への移住を決意します。ヴーさんはキリスト教徒でした。おそらく、共産主義を嫌って南部への移住を決意したと想像します。お母さんと妹さんはフン・イエンに残ったそうです。

「戦争中でしたから大学まで行けませんでした」とヴーさん。戦争で高等学校を卒業が精一杯でした。

1968年7月に、南ベトナム政府軍に徴兵制で入隊しました。
軍隊にいくのがいやでいやで、ずいぶん理由をつけては延ばしていたそうです。そして、歩兵第25師団第3連隊第50部隊に配属されました。

この時から、枯葉作戦を目の当たりにします。

そして、1970年に運命の空軍への移動です。左の写真は、ヘリコプター飛行団のヴーさんの姿です。空軍では、72年まで、ずいぶん枯れ葉剤を空から落としました。

ヴーさんは、1965年に結婚し、7人の子どもをもうけました。ところが、1970年生まれの長男ヴィンさん、1973年生まれの次男クアンさん、3男フイさんが、成長してはそれぞれ23歳、25歳で判を押したように亡くなっていきます。
3人とも標準の体重で健康体で生まれました。ヴーさんには大きな希望があったはずです。12歳を過ぎる頃から体が曲がって、しまって・・最後は学校にも通えず、寝たきり生活になりました。

3男フイさんがお父さんに残した言葉です。「ぼくが死んだら、ぼくの祭壇を作ってください。いつも寝ている所にその祭壇をおいてください。お願い・・・」

フイさんがお母さんに残した言葉です。『お父さん、お母さん、ぼくの病気がどういうものかわからないけど、もう死んでいきます。お母さん、元気でね、体を大切にして下さい』

お父さんのヴーさんからは、体が曲がった我が息子の遺体を棺に収めるのも大変だったと伺いました。

もし、今これを読んでいるあなたが、父親ヴーさんの立場だったら、そして、可愛い子どもから、上のような言葉を残された母親ビック・ゴックさんの立場だったらどうなさいますか?

ヴーさんは、パリ和平協定が締結された時に、上官のゴ・クアン・チュオン中将から、停戦違反の攻撃を命じられました。解放戦線の反撃を受けて、ヴーさんのヘルメットの破片が目に入り、現在では左目が失明状態です。

この時の上官のチュオン元中将は、2007年1月22日、アメリカ、バージニア州のなくなっていた。ヴーさんは、ご存じないようだ。

ヴーさんは、貰えることになっていたアメリカ軍からの補償金も、1975年の終戦であっけなくご破算。貧乏に耐えに耐えたヴーさんですが、南ベトナム政府軍に所属していたが故に、現政府からの手当は貰えていません。

撒いたヴーさんも、大きな戦争犠牲者であることを、私たちは認識しなくてはいけないと思います。

ヴーさんの戦争中の行為を責めるのではなく、敵味方に関係なく被害者を作り出していく戦争を憎むことを、ヴーさんとともに訴えていく方法が正しい姿勢と思います。私たちは、今後ともヴーさんと連帯していこうと考えています。(北村 記)Posted by Picasa

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