グエン・ティ・ティさん(タイン・ホア省)
故郷のタインホア省からハノイの友好村まで、2時間以上もかけて路線バスでやってきたその日に、私はティさんと会った。
「酔い止めの薬を10錠も飲んできました」
どこでもそうだが、車社会と無縁な生活をしている人たちが、車に乗るとすぐ車酔いを起こす。薬の効果があってか、彼女は落ち着いている様子だった。
「私は目まいが続いているので、自転車にも乗れません。呼吸が苦しくなる状態も続いています。村の診療所で診察も受けました。いろいろな薬を飲みましたが、よくなりません。畑の仕事も出来なくなりました、すぐ熱射病になりますので・・・」
彼女のベトナム戦争の総決算は、働けない体になってしまったことだ。写真で見る限り、健康そうにみえるが、人の内面はわからないだとつくづく思う。
1953年にタインホアに生まれたティさんは、五五九部隊の女性兵士として1971年1月に入隊し、抗米戦争中に国道20号線の建設に従事していたグル-プの料理担当者として、その後は、戦没兵士の墓地建設要員として4年間をチュオンソン山脈で過ごした。1977年に除隊した。
夫のグエン・ヴァン・タインさんも、1973年に559部隊に入隊して1981年に除隊した。石油パイプラインの建設工事に従事した。終戦から3年を経て、1978年3月に結婚した。559部隊の“おしどり夫婦”である。
ティさんの心はいつも晴れることがない。自分が連続して障害児を生んだからだ。
第1子フン君は、1979年に。精神的異常はないが、手の指に障害が。
第2子は、1982年生まれ。頭脳明晰だが、寝たきり。四肢の筋肉がつかない。最初は理由を知らなかった。いろいろな病院に入院して診てもらった。ハノイの小児中央病院を初め、バクマイ病院、東独友好病院など。我が子かわいさで、必死になって病院をかけめぐった。
どこの病院に行っても、「手当・治療のしようがない」というのが結論だった。親に原因があるという病院側の判断は下されなかった。
「自分では、子供に原因があると思っていました。年に4回も入院させたりしました。そして、どんどんおカネがなくなっていきました」
「一人目の障害児を生んだ時は、ほんとうに何とも言えない寂しい気持ちでした。つくづく私たちは運が悪いと思いました。障害児を生んだ時には、何の事かわかりませんでしたので、運命と諦めました。
2番目の子は、生まれた時は正常でした。10歳になってから、筋肉が縮み始めました。劣化を始めたんです。今はテレビを見っぱなしです。
子供が言うんです。『友達と遊びたい、なんでこんなになってしまったのぉ・・・。僕、生まれ変わりたいよ』と。それを聞くととっても辛いです。
主人も辛い思いをしているのがよくわかります。一生懸命子供の面倒をみています。子どもはいつまで生きられるのでしょうか。障害児でも長く生きてくれたらうれしいです。死んでしまったら、もっと悲しい思いをしなくてはなりません」
ティは、2002年初めに枯れ葉剤被害者の認定を受けた。手当は月額8万8千ドン。第二子に月8万4千ドンが支給されている。(註:今はもっと増額されてはいるが・・)
第一子の指の障害は認定されていない。
「今年初めまで何も支給されていませんでした。主人は1982年から、第2級傷病兵に認定され、月13万ドンの国の手当をもらっています」
傷病兵の基準は、第一級が健康の80%以上を失った人。第二級は、健康の60%以上を失った人。そして第三級は、健康の41%から60%を失った人なっている。
「チュオンソンでは、まず料理を作る任務を果たすのが精一杯でした。カッサバの葉やジャングル中で葉をとって漬け物を作ったりしました。時々魚をとって料理しましたが、主には缶詰と塩漬けしたジャングルの葉です。米は汗腺道路沿いにいましたので、入手には苦労しませんでした。北部に近いので米の不足はありませんでした。4人の賄い婦で120人の食事を作りました。
私がいた所は71年の時はよく爆撃されました。特に夜です。居場所がわかると、当然すぐ爆撃されました。72年の末からは、爆撃の回数はかなり減りました。1日2~3回の爆撃なんて少ない方です。何十個という爆弾が落とされるとすぐ移動し、道路から離れた所で食事作りです。そして、また危なくなれば、夜も昼も移動です。みんな固まらずに、バラバラになって移動します。そんなことの繰り返しでした。幸い、その時は一人が怪我したくらいですみました」
食事作りの苦労を聞かせてくれた。
「75年になってからは、料理担当から墓地を作る任務に変更になりました。終戦になってから、北ベトナム兵戦没者のためのチュオンソン墓地の建設に参加しました。昔のマクナマラ電子線地域です。最初の所は普通のジャングルでした。しかし、南下しますと、木々は枯れていました。大きな木がありませんでした。草しかありませんでした。おかしいなと思いました。でもそれ以上は深く考えませんでした」
「墓地建設は、本当に怖かったです。戦死した人がビニ-ル袋に入れられて、山のように積まれていたんです。カラスが集まってきて、人肉を食べていました。それと腐乱して臭かったし・・・・。袋の中に人名と出身地名が書かれて袋の中に入れてありました。ラオスやカンボジアから運ばれてきたものでした・・。
五五九部隊のグループも解体されて、200人くらいで、チュオンソン墓地建設グル-プとして一七五部隊所属となり、ました。すごく怖かったです。死体をみてしまったので、缶詰の肉も食べられませんでした。ごはんですら食べられませんでした。私の心の中はパニック状態でした。でも、1ヵ月もすると、少し慣れて、200人も一緒に寝ていたので怖さも少し和らいで、疲れた時はぐっすり寝られました」
「ある日、怖い夜がありました。精神病院から逃げした患者がいました。見晴らし台のような所に駆け上がって、声をあげて泣いているんです。夢かと思いましたが、現実でした」
「強烈な現実を脳に焼き付けられた戦争でしたから、今でも時々夢に出ます。自分がリュックザックを背負っている夢。部隊の兵士が活動している姿が夢に・・。タイビン省出身の兵士からご飯を下さいと声をかけられた夢をみてはっとして醒めたりします・・・・ハハハ困りますね」
「戦争には全員参加の運動があったので、中学卒業の後参加しました。私の心の底には遠い所に行ってみたいという夢もありましたし・・・国を解放したら、きっといい将来が待っていると思いましたが、まだまだ苦しい生活をしなければならないのは残念です。子供たちも苦しみの生活を送らねばならないので、大変です」
「こうやって家族と離れて友好村に来ても、ぜいたくな気分に浸る気持ちにはなれません。でも、親戚は行ってらっしゃいと勧めてくれました。夫も『豚や牛の面倒はみるから・・』とバイクを借りて送ってくれました」
「村の電話番号を聞きましたので、夫には無事の到着を知らせました。ホ-ムシックにかかったら、夫に電話します。普段は夫が出かければ、私が子供の面倒を当然みるわけですが、顔を洗い、鏡をみせたり、テレビを見せたり、ごはんを食べさせたり・・・いま頃、夫は大変だと思います。出発する前は興奮して眠られませんでした。ここ(ハノイ)は騒音がうるさいです。入隊した後、家を離れるのはこれで2回目です。タインホアは貧しい省です。夫から10万ドンのお餞別をもらいました」
夫唱婦随の五五九部隊兵士である。
道路作りに邁進する五五九部隊の兵士の胃袋を満たし、その後はチュオンソンに戦死した兵士の亡骸を収める墓地建設に携わったティさんは、感傷に浸るでもなく、自分が歩んできた道を、背筋をきちんと伸ばして淡々と語った。
自宅に残してきた夫を終始気づかい、子供に思いを馳せ、こんな施設で2ヵ月も過ごしていいのかという遠慮をはしばしにみせたティさん。
別れ際に、ティさんは、出稼ぎに行っている息子の子褒めをして目を細めた。
「一番上の子が中学を卒業して、親戚の人と南のザ-ライ省へ出稼ぎにいっています」
この時の表情が、いかにも嬉しそうだった。
あの戦争は、国を壊し、家族を破壊し、何にもまして、生き残った国民の健康を末代まで壊しつつある・・。(2002年8月27日 ハノイ友好村で取材)(北村 元記)
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