長い間、お会いしたいと願っていたニュットさんに、5月17日、私の夢が実現した。
ベトナム戦争中、あちこちの監獄を転々として6年。かつ、枯れ葉剤の被害者としても大変な苦痛を味わっておられる。伺うお話一つ一つに、濃縮された戦争の歴史が刻み込まれているようだった。
彼女は、今、ホーチミン市郊外の施設で、障害者と孤児の面倒をみている。将来ある若者に、少しでも光を当ててあげようと情熱を注ぎ込んでいる。
開所してまだ1年にもならないが、ニュットさんは物静かな話しぶりの中に、子どもをたちを何とかしたいという使命感をたぎらせていた。すべては、子どものために、なのである。
1枚目の写真は、枯れ葉剤被害者3兄弟だが、ニュットさんは真っ先に紹介しくれた。
運営費は、すべて社会のカンパ、企業からの寄付や援助でまかない、国からは出ていない。
総床面積1000平米の施設で、彼女の子どもに光を当てる闘争が始まった。
「子ども達の毎日の食事代は、米とか野菜の現物援助も含めて、仏教関係の人が援助してくれています。いまではまだ不十分ですが、もっとカンパに力を入れて、もっといい食事ができるようにしようと考えています」 彼女の目は輝いていた。戦争中のあの苦しさを、子ども達に味わわせたくない・・と。
彼女は、革命一家に生まれた。小さい時から、通信連絡など、秘密の仕事をして両親のする役割の分担をしていた。
が、1966年、南ベトナム政府軍に捕まった。以後、監獄の流転が始まる。それも、いくつもの拷問を耐えながら・・である。
有名なコンダオの虎の檻の監獄も経験した。1972年10月に解放されるまで、6年の”監獄暮らし”である。
逮捕される前の1965年は、枯れ葉剤、特にエージェント・オレンジがまかれ始めた時だ。その枯れ葉剤に汚染され、彼女は、1977年に、流産を繰り返す。
「仇を仇で返す考えはベトナムにありません。仇を恩で返す・・これが本当の姿です。戦争の傷跡は深いです。アメリカには自分の罪を認めなさい・・と」
昨年、原告の一人として、アメリカに渡った。
解放戦線当時、拷問を生き抜いた鋼のような精神は、衰えていない。
いつか、彼女の生きてきた道をしっかとご報告してみたい。