2007-05-31

ダン・フォン・ニュットさんのこと

「流産で生まれた私の胎児が、トゥーズー病院の見本室にあります 」

長い間、お会いしたいと願っていたニュットさんに、5月17日、私の夢が実現した。

ベトナム戦争中、あちこちの監獄を転々として6年。かつ、枯れ葉剤の被害者としても大変な苦痛を味わっておられる。伺うお話一つ一つに、濃縮された戦争の歴史が刻み込まれているようだった。

彼女は、今、ホーチミン市郊外の施設で、障害者と孤児の面倒をみている。将来ある若者に、少しでも光を当ててあげようと情熱を注ぎ込んでいる。

開所してまだ1年にもならないが、ニュットさんは物静かな話しぶりの中に、子どもをたちを何とかしたいという使命感をたぎらせていた。すべては、子どものために、なのである。

1枚目の写真は、枯れ葉剤被害者3兄弟だが、ニュットさんは真っ先に紹介しくれた。

運営費は、すべて社会のカンパ、企業からの寄付や援助でまかない、国からは出ていない。

総床面積1000平米の施設で、彼女の子どもに光を当てる闘争が始まった。

「子ども達の毎日の食事代は、米とか野菜の現物援助も含めて、仏教関係の人が援助してくれています。いまではまだ不十分ですが、もっとカンパに力を入れて、もっといい食事ができるようにしようと考えています」 彼女の目は輝いていた。戦争中のあの苦しさを、子ども達に味わわせたくない・・と。
彼女は、革命一家に生まれた。小さい時から、通信連絡など、秘密の仕事をして両親のする役割の分担をしていた。

が、1966年、南ベトナム政府軍に捕まった。以後、監獄の流転が始まる。それも、いくつもの拷問を耐えながら・・である。

有名なコンダオの虎の檻の監獄も経験した。1972年10月に解放されるまで、6年の”監獄暮らし”である。

逮捕される前の1965年は、枯れ葉剤、特にエージェント・オレンジがまかれ始めた時だ。その枯れ葉剤に汚染され、彼女は、1977年に、流産を繰り返す。 Posted by Picasa

「仇を仇で返す考えはベトナムにありません。仇を恩で返す・・これが本当の姿です。戦争の傷跡は深いです。アメリカには自分の罪を認めなさい・・と」

昨年、原告の一人として、アメリカに渡った。

解放戦線当時、拷問を生き抜いた鋼のような精神は、衰えていない。

いつか、彼女の生きてきた道をしっかとご報告してみたい。

2007-05-28

私の男兄弟は全員死亡しました

久しぶりにクチ・トンネルを訪ねた帰りに、クチの解放戦線の闘士カオさんを訪問しました。
1960年以前にクチ地区で秘密活動をしていた時期は、本名と違うカオという偽名を使っていました。敵にも、その名で知られていました。

何回も逮捕されましたが、本名を突き止められることはありませんでした。それで、釈放されました。


現在でも、地域の人は、「Bac Cao(カオ翁)」と呼んで、本名では呼ばれません。

カオさんは、9人兄弟。一番上がお姉さんですが、戦後しばらくして亡くなりました。男はカオさんを筆頭に8人いて、7人が戦没者。今、長男のカオさんが生き残っています。男兄弟全員が、クチで亡くなっています。
母親は英雄の母という称号をもらっている。
最初に亡くなったのは、4番目の兄弟。政府軍第9師団との戦闘で死亡。

「5番目の弟が亡くなった時も、葬式どころではありませんでした。皆あちこちに散っていましたので。タイニン省の近くで亡くなりましたので、私が家族を代表して行きました。そして、そのまま死亡した所に埋葬しました。

その後落ち着いてから、お骨をとって家の墓に埋めました。今では、クチの戦没者慰霊墓地に埋葬されています」
その後、3番目、5番目、7番目、6番目、8番目。2番目の順で亡くなっていった。


「クチ地区が一番戦闘が激しかったのは、1970年と71年です。この2年間で、多くの同士が亡くなり、自分しか生き残れませんでした。

多くの犠牲になった仲間が出た時に、一人で地下トンネルに住んでいました。食べ物もほとんど無く・・・。多くのアメリカ軍兵士がクチに駐屯していました。

トンネルの入り口からアメリカ軍兵士のところまで50メートルしかありませんでした。ちょっと、様子をうかがったりしました。

アメリカ軍はお金持ちの軍隊ですよ。食べ物を捨てるんです。装備している手りゅう弾とか重いので、食糧も捨てるんです。手りゅう弾、弾薬、肉とか、水とか、ジュースとかを拾ってきては、それで生活していました。私は、そういう経験をしました」

ここは鉄の三角地帯と呼ばれていました。
「クチを制すれば、サイゴンを守ることができる。クチを失えば、サイゴンも失う」とアメリカ軍に言わせたところです。


ところが、革命軍は、「クチを死守できれば、サイゴンを解放できる」と言っていました。

当時は、この二つのスローガンがせめぎ合っている激しい時期でした。だから、地方幹部にこの地域住民の精神を安定させる努力と意志がなければ、団結できずとっくに負けていました」

「戦闘が激しくなったのは、1970年から1973年までです。
このクチ地区の当時の勢力バランスは、8割がアメリカ軍とサイゴン政府軍、2割が現地の解放軍でした。勢力分野はこれほど違っていました。

戦争の時、アメリカは一番危険な敵でした。大嫌いでした。アメリカ軍は負けました。現在はベトナム国家の政策で、過去は過去にしよう、敵と見なさないでほしい・・・。広く寛大な心をベトナム国民はもっていると思っています。現在は友人になれると思っています。怒りは持たない・・・ようにしています」

写真説明:①カオさん②鉄の三角地帯③アメリカ軍がトンネルの入り口を発見したところ④
現在のクチ・トンネル。こうやって出入りする。
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2007-05-26

元南ベトナム政府軍兵士 ヴーさんの場合

「私は枯れ葉剤を撒きました」


私たちは、5月16日の午後、ホーチミン市に住むマイ・ザン・・ブーさんをお宅に訪ねました。

枯れ葉剤撒布作戦に参加した南ベトナム政府軍兵士はたくさんいながら、自分が撒布作戦に参加したことを正直に告白したのは、ヴーさんが初めてと思います。

1937年、北部のフン・イエン省で生まれました。ハノイから60キロちょっと離れたところです。

抗仏戦争の大団円ディエンビエンフー作戦が1954年に終わって、ジュネーブ協定の下で、ヴーさんは、お父さん、兄弟で1955年に南部への移住を決意します。ヴーさんはキリスト教徒でした。おそらく、共産主義を嫌って南部への移住を決意したと想像します。お母さんと妹さんはフン・イエンに残ったそうです。

「戦争中でしたから大学まで行けませんでした」とヴーさん。戦争で高等学校を卒業が精一杯でした。

1968年7月に、南ベトナム政府軍に徴兵制で入隊しました。
軍隊にいくのがいやでいやで、ずいぶん理由をつけては延ばしていたそうです。そして、歩兵第25師団第3連隊第50部隊に配属されました。

この時から、枯葉作戦を目の当たりにします。

そして、1970年に運命の空軍への移動です。左の写真は、ヘリコプター飛行団のヴーさんの姿です。空軍では、72年まで、ずいぶん枯れ葉剤を空から落としました。

ヴーさんは、1965年に結婚し、7人の子どもをもうけました。ところが、1970年生まれの長男ヴィンさん、1973年生まれの次男クアンさん、3男フイさんが、成長してはそれぞれ23歳、25歳で判を押したように亡くなっていきます。
3人とも標準の体重で健康体で生まれました。ヴーさんには大きな希望があったはずです。12歳を過ぎる頃から体が曲がって、しまって・・最後は学校にも通えず、寝たきり生活になりました。

3男フイさんがお父さんに残した言葉です。「ぼくが死んだら、ぼくの祭壇を作ってください。いつも寝ている所にその祭壇をおいてください。お願い・・・」

フイさんがお母さんに残した言葉です。『お父さん、お母さん、ぼくの病気がどういうものかわからないけど、もう死んでいきます。お母さん、元気でね、体を大切にして下さい』

お父さんのヴーさんからは、体が曲がった我が息子の遺体を棺に収めるのも大変だったと伺いました。

もし、今これを読んでいるあなたが、父親ヴーさんの立場だったら、そして、可愛い子どもから、上のような言葉を残された母親ビック・ゴックさんの立場だったらどうなさいますか?

ヴーさんは、パリ和平協定が締結された時に、上官のゴ・クアン・チュオン中将から、停戦違反の攻撃を命じられました。解放戦線の反撃を受けて、ヴーさんのヘルメットの破片が目に入り、現在では左目が失明状態です。

この時の上官のチュオン元中将は、2007年1月22日、アメリカ、バージニア州のなくなっていた。ヴーさんは、ご存じないようだ。

ヴーさんは、貰えることになっていたアメリカ軍からの補償金も、1975年の終戦であっけなくご破算。貧乏に耐えに耐えたヴーさんですが、南ベトナム政府軍に所属していたが故に、現政府からの手当は貰えていません。

撒いたヴーさんも、大きな戦争犠牲者であることを、私たちは認識しなくてはいけないと思います。

ヴーさんの戦争中の行為を責めるのではなく、敵味方に関係なく被害者を作り出していく戦争を憎むことを、ヴーさんとともに訴えていく方法が正しい姿勢と思います。私たちは、今後ともヴーさんと連帯していこうと考えています。(北村 記)Posted by Picasa

2007-05-23

支援隊活動報告 タイビン省6

贈呈(6)
ビンさんを訪ねて、地元の枯れ葉剤協会の人がどうしてもたどり着けない。
確かに、ベトナムの人を訪ねるのは難しい。番地が飛んでいたりする。
とんでもないことだ、とこういう時に感じる。

何分待ったか。
行っては、戻り・・・・。

ビンさんの家の手前1キロほどのところに、きれいな花が咲いていた。
すかさずパチリ。
受領者:ファム・ヴァン・ビンさん。

お父さんは、ファム・ヴァン・フンさん。
お母さんは、トゥエン・ティ・ホアンさんといいます。

子どもは4人。
1)1979年生まれ。

 
2)1981年生まれ。 

3)1985年生まれ。

4)1986年生まれ。この4番目の子がビンさんです。



下の写真でお分かりのように、ビンさんの足の形が変形です。

タインさんの指導で、早速車椅子の扱い方を実習しました。
お父さんは、自宅から前庭に出る段差に、スロープを付ける約束をしてくれました。寄り安全に使ってもらえると思います。

お父さんの入隊は、1972年8月。

歩兵としてクアンチ省に長く駐屯しました。

その後中部からサイゴンに向かった。

1978年除隊。

二日間のタイビン滞在で、目標の5台の車椅子の宅配を完了しました。二日でわずか5台。少ないことは百も承知です。しかし、10台持ってきて、事務所において、「はい、取りに来てください」・・これは私たちには出来ないことです。

タイビン省枯れ葉剤被害者協会のハイン議長が、「支援隊の配布は数は少ないけど、被害者家族から高い評価が寄せられています。私たちは職員2~3人で、山のような仕事をかかえており、支援隊が現場に入ってくださり、大変嬉しく思います」と、感謝の気持ちを述べてくれました。

家庭環境を見て、お話をさせてもらって、喜ぶ笑顔をみて、初めてわれわれの仕事は完結します。

ビンさんの家に入る時には全く気づかなかった広大な水田が広がっていました。こんな広い畠があったのか・・と。 もう実りの季節を迎えようとしています。

外務省のフンさんが一枚取ってくれました。宮尾事務局長とのツーショット。さわやかな風でした。

季節も環境も違いますが、中国の柳 宗元(りょう そうげん)という詩人の「江雪」という詩を思い出しました。

千山(せんざん) 鳥 飛ぶことを絶え
万径(ばんけい) 人(じん)蹤滅(しょうめつ)す
孤舟(こしゅう) 蓑笠(さりゅう)の翁(おう)
独(ひと)り釣る 寒江(かんこう)の雪に

どの山にも鳥の飛ぶ姿は絶え、どの小道にも人の足跡が消えている。ぽつんと一艘の小舟、蓑と笠を身にまとった老人が、白一色の雪の渓谷で一人、釣り糸を垂れている、という意味です。


タイビンに来てみれば、われわれたったの4人。車椅子をもって・・・人の喜ぶ顔をひたすら求めて・・。何かこの漢詩に通じる物があるような気がするのです。
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支援隊活動報告 タイビン省5

贈呈(5)
受領者は、ファム・クアン・トアンさん、60歳。

壮健さを失ってしまったトアンさんに補聴器と車椅子を差し上げました。

奥さん:ライ・ティ・トゥエンさん、55歳。

現在、頭と胸の痛みがあるそうです。
耳も不自由です。

以前に転んで半身不随になったと聞きました。

食事はご自分で取ることができないそうです。
トアンさんの入隊は、1962年。

そして80年除隊。長い軍隊生活でした。

1975年の終戦に一旦家に戻ったのですが、また戦場へ。おそらく、このときはカンボジアへ向かったのではないでしょうか?

奥さんの後押しで、外出が出来るようになります。

少し表情が少ないですが・・きちんと分かっています。


子どもは3人です

(1)長女 28歳 既婚

(2)長男 26歳 精神障害 家を出たまま。時々戻る。

(3)次男 22歳 精神障害 

ところが、精神障害というご長男が、車椅子を贈呈する時に、その場にいたのです。(セーターに赤い色が入っています)

そして、きちんと御礼を言うのです。もっと時間をかけてみないと、異常があるのかどうかわかりません。
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支援隊活動報告 タイビン省4

贈呈(4)
受領者は、ホアン・バイン・クアンさん 61歳。

在宅訪問した時に、ホアンさんはベッドの上に寝ていた。ホアンさんは、ここ1年半寝たきりの生活が主体になりました。

左耳は聞こえませんが、右耳が使えるのがわかりました。


そこで私たちは、補聴器と車椅子を贈呈した。


現在顔の皮膚に漂白したように白い症状が現れています。写真で、お気づきになれると思う。クチの周辺の皮膚が白くなっています。これは白い髭ではないのです。症状はまだ軽い方です。

これは、軍を退役した1989年ごろから出てきたという。

そして、視力も衰えています。
近所に、健康そうな弟さん、ホアン・ゴック・ヒエップさんが住んでいて、車椅子の助っ人としては心強い人です。早速、車椅子の扱い方の練習をして頂きました。

寝たきりだったクアンさんの表情に笑みが浮かび、明るさが戻ってきました。

クアンさんのお宅は、外へのアクセスがよく、中庭にでる石段さえ気を付ければ、気持ちよく車椅子で近所の散歩に出られるので、より世界が広がるのではないかと思います。

ホアンさんは、1965年9月14日に北ベトナム人民軍に入隊。歩兵304師団の一員として、南部のヴンタウ、タイニン、ロンカインで従軍。
1989年に除隊した後、警察にも勤務。警察中尉として退役しました。

ベトナム戦争終結の翌年1976年に結婚して、お嬢さんがいます。
ホアン・ティ・フオンさん。1978年生まれ。

お嬢さんは、1回目流産しています。2回目はよくなりましたが、結局4回流産の末、女の子が生まれました。現在14歳だそうです。

久しぶりに母屋を離れて、外に出たホアンさん。たった20メートルでも新鮮だったに違いありません。

「まじまじと、庭の木の葉を眺めていた」と、私の家内は言いました。やはり、晴れの日の外の景色は、クアンさんにとって格別だったのです。衰えた視力でも、木々や葉、花が新鮮に見えたのです。補聴器と車椅子で、クアンさんの世界は広がったと確信します。

同行してくれた人民委員会の人の良さそうなお役人さんが、われわれに御礼をいってくれました。
「薬よりいいものをありがとうございました」と。

この一言は嬉しかったです。「まさにわれわれの願いです」Posted by Picasa

支援隊活動報告 タイビン省3

贈呈(3)
車椅子受領者は、グエン・ティ・ヴァンさん(1978年生まれ)です。 

坊主刈りにしていますが、29歳の女性です。多分、頭を清潔にするためか、よく髪の毛をむしり取る人がいます。そのいずれかと思います。

左は、次女ヴァンさんを抱く父親のグエン・ティエン・チエン(1947年生まれ)さんです。タイビン省生まれ。
奥様:ヴー・ティ・ガイさん
お子さんは二人の間に4人です。
①グエン・ティ・リン(1972年生まれ)
1児を出産したあと、奥さんは5回流産しました。「5ヶ月目に出血があり、父から注射の薬を送ってもらいました」と奥さん。


②グエン・ティ・ヴァン(1978年生まれ)

③グエン・ティ・フオン(1981年生まれ)頭痛が激しい。

④グエン・ティエウ・ソン(1983年生まれ)健常者
お父さんの グエン・ティエン・チエンさんは、1965年 18歳で北ベトナム人民軍入隊しました。ラオス南部の9号線を中心に輸送部隊として従軍。除隊したのは1986年です。

今は、健康を害しています。関節が痛い。歯も多く抜けました。

「アメリカ軍の枯れ葉剤を、顔に受けました。一番早く悪くなったのは、目でした。

アメリカ軍が撒くと、タオルに水をつけました。これが一番大事なことと言われていました。

撒布のことははっきり覚えています。撒布は、毎日の午後でした。

全部葉が無くなるまで撒きました。直径2メートルもある木の葉が、3日後には落ちました。何か毒が入っているとは思っていました。

9号線では、木の葉が枯れても、アメリカ軍は何回も撒布しました」と、当時の思い出を語ってくれました。
手当は、父親のチエンさんが、66万ドン。
2004年から受給が始まり、17万5000ドン→32万5000ドン→2007年1月には49万5000ドン→今66万ドンと、増額が続いています。

ヴァンさんは、2002年から受給が始まり、35万ドンから現在47万ドンもらっています。

ヴァンさんの家の中も3部屋分は、車椅子で移動できます。
家からは、出口が少し狭いのですが、手を挟まないように気を付ければ、車椅子で直ぐ前の歩道に出られます。歩道をしばらくは行ったり来たり出来そうです。ご活用を願うのみです。

父親チエンさんの詩が、地元紙に掲載されています。もの静かなチエンさんの心の中に、戦争に対する煮えたぎるような憎しみを感じ取れます。

『オレンジの痛み』

戦争は通り過ぎた。
わが子は、まだ横になったまま。
20歳(はたち)を過ぎたが、
話すことも、笑うことも知らない。
立つことも、歩くことも出来ない。
眠れぬ夜が多い。
これは苦い運命(さだめ)なんだと、
悩む日々。
いや、違う。そうでは無い。
これは戦争で残された枯れ葉剤のせいだ、
我が子は。
わが子の姿をみて、
涙が止まらぬ日々が続く。
もう60歳に近い。
白髪交じりになったが、
心穏やかな日は
まだまだ来ない。
戦場にもう銃の音は聞こえない。
平和に囲まれる故郷。
そして、どんどん変わる国。
しかし、私の中に、
永遠に存在する
埋められない心の穴がある。

(共訳:ベトナム外務省グエン・ファン・フン氏、静岡県富士市在住 レ・タイン・トゥン)Posted by Picasa

支援隊活動報告 タイビン省2

贈呈(2)
車椅子の受領者グエン・ティ・クエンさんは、重い脳障害です。
自分が自分を分かりません。

クエンさんのお父さんは、元兵士のグエン・ヴァン・ヒューさん、67歳です。お母さんは、ダオ・ティ・スアン(66歳)さんです。

クエンさんは、1974年に生まれました。家の中の一室に閉じこめられているのか、閉じこもった方がクインさんにとって居心地がいいのか、わかりません。

外務省職員のタインさんが昨年11月に下見に行ってくれた時の報告は、「大も小も床に垂れ流し」でした。
部屋の中では、常に素っ裸のようです。親の手間を考えてこうしているのか、不明です。

部屋の中では、常に素っ裸です。寒くなれば毛布状のものをかけているようです。

美系の顔をしています。外に出ないので、顔は色白です。

お父さんが抱いて外に出てきた時には、いやがりませんでした。そして、贈呈した車椅子に乗るときもいやがりませんでした。

いやがったのは、危険防止の太い帯を付けた時でした。括られると思ったのか、異常に恐怖心を見せました。

お父さんに聞きましたが、「いままで娘の体を縛ったことは一度もない」と。
その言葉は信じられそうでした。

それでは、なぜ?

何か、恐怖心と結びつく経験が過去にあったのではないでしょうか?

問題がもう一つあります。
車椅子にクエンさんを楽に乗せたりするほど、父親が若くないこと。父親の腰痛があること。母親の血圧が高く、こちらも娘を乗せるための力仕事が出来ないことです。

そこで、近所にいる息子さんのお嫁さんティンさんに来てもらって、車椅子の扱い方を覚えてもらいました。44歳ですから、協力してもらえれば、両親にとっても助かることです。

折角息子のお嫁さんグエン・ティ・ティンさんが助っ人として来てくれたのですが、結局、車椅子に載せて移動することはできませんでした。                         
            
ここは、もう一つ問題がありました。


クエンさん宅の井戸水が汚いのと、両親は腰痛や高血圧を抱えて、その水でさえ運ぶのが容易ではないことが分かりました。そこで、熟慮の末、オーストラリアのエイドリアン・ハーリーご夫妻から頂いた寄付金を、井戸掘りに充てることにしました。

現在の井戸は深さ20メートルもありません。汚い水が出てきます。後は、雨水を貯めた水しかありません。

60メートル掘ると、きれいな水の水脈に当たるらしいです。それに汲み上げのためのポンプをつけて、300米ドルで出来そうです。

私はカンボジアでも経験がありますが、60メートルほどの深い水脈にあたるときれいな水が出てきます。カンボジアの場合も、井戸の掘削料を出してあげたら、そこのおじさんが早速きれいな水を売り歩いていました。

わが支援隊の新しい方向付けになるかと思い、試し掘りのつもりで決断しました。

世界中でも、きれいな水を飲める人口はごく限られています。日本でも、輸入する食料の生産に必要な水の量は年間数百億立方メートルに相当するといわれております。水問題の深刻化は、私たちに無関係ではありません。

できれば、クエンさん宅の井戸が8月までに完成していることを祈っています。完成していれば、8月にちょっと立ち寄らせてもらおうと考えています。
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2007-05-22

支援隊活動報告2007年春 タイビン省1

このたび、5月9日~5月18日まで、ベトナム南北で支援隊として2007年初の活動を行いました。これは、そのご報告です。参加者は、大釜一男会長、宮尾和宏事務局長、北村 元 登喜子の4名です。現地から、ベトナム外務省のレ・ドゥック・タインさん、同じく外務省のグエン・ファン・フンさん です。
贈呈(1)

ラム・ヴァン・タン(Lam Van Tan)さん。
69歳。

右耳は機能していません。左耳も、大声ではなさないと、勿論通じません。

補聴器は左耳を使用しました。

「先日、補聴器のことを詳しく聞きました。慣れるまでに2~3週間かかると言われました」と、話す。

通じた時のお顔は、輝いていました。


1965年に北ベトナム人民軍に入隊。
1967年8月、歩兵として戦場に赴く。

戦場は南部で、タイニン省、ホーチミン市(旧サイゴン市)クチ、ドンナイ省、カンボジアにも出入りしていた。

枯れ葉剤の撒布は、数えられないくらいほどたくさん戦場でみた。特にタイニン省で。

B52の爆撃を受けたこともしばしば。タイニン省には、67年から72年まで駐屯した。

戦争が終わって、サイゴンに入った。


だが、カンボジア紛争のために、1979年からカンボジアに再度出征した。

1987年9月1日除隊。

長い戦地での生活。
 
左上の写真は、前列中央がタンさんご夫妻。


「腰がいたくて動けないこともある」と言うと、大釜会長が、自分用に持参した鎮痛消炎剤を差し上げました。

心配していた奥さんが、何度も何度も御礼を言って涙を流して喜んでいました。

人の話が自分の耳に聞こえるほどうれしいことはありません。
少しでも役にたてたことは、支援隊の大きな喜びです。
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中国国境の町ラオカイで出会った老兵士

「死ぬに死ねない」と、ロンさん

中国・雲南省と接する国境の町、ラオカイ省ラオカイ。
経済的な話をすれば、ラオカイは、華南経済圏に組み込まれている。華南経済圏と北部ベトナムを連結する陸上輸送ルートは3つある。雲南省とベトナム、ラオ・カイ省を結ぶラオカイ・ルート、広西チワン族自治区とランソン省を結ぶランソン・ルート、. そして広西チワン族自治区とベトナム・クアンニン省を結ぶモンカイ・ルートがあります。中国国境と聞くと、田舎で寂れているとお思いでしょうが、いやなんの、結構繁盛・繁栄しているのです。

1979年2月の中越紛争では、この国境の町にも、中国は大量の部隊を派遣しました。保養地サパもやられました。中国軍は懲罰行為として、ランソン省まで入ってきました。しかし、ベトナムはぼこぼこに中国をやっつけました。中国人民軍の近代化の必要性が叫ばれたのは、この時の戦争だったと言われます。

この国境が再開されたのは1993年5月18日。
狭いナムティ川の向こうが大中国です。立派なビルが建設されていました。

中国の河口駅につながるキエウ橋は、周囲の環境の変わりようもあって、立派な鉄橋にみえました。

かつては、厳しい規制で中国側に渡るのも容易ではなかったものです。警備兵にパスポートをみせてほんの短時間、鉄橋をおっかなびっくり渡って中国側に行かせてもらったのが、10年前。

ラオカイの駅が完成したのは1994年のこと。すでに10年以上が経過しています。ハノイに戻るために、夜、そのラオカイ駅前で、8時15分の夜行列車を待っていました。

駅前のオープン・カフェですから、屋根などありません。上を見上げると、雲の合間から、ところどころ星が見えます。大釜会長ら同行の5人がそれぞれ好きな物を飲んでいました。

何となく親しみを覚えたカフェの店主。毎日朝4時半から夕方8時まで働きづめとのこと。74歳という年齢が一層、同情にも似た感じを受けさせたのかも知れません。

ご主人の名前は、グエン・バック・ロンさん。
喜劇俳優的な顔。妙に陽気。でも何かありそうだ、と思いました。


そばにいる奥さんは、二人目でした。ベトナム戦争に出征している間に、奥さんが浮気(ご本人のはなしによれば)。戦争から戻ってきてから離婚。最初の奥さんとの間に出来た男の子2人は健常者とのこと。2番目の妻にバクザン省出身の女性をもらった。

「死にたいけど、死ねない」(死ぬに死ねない)とさりげなくぽろり。この一言が、妙にひっかかりました。

外務省職員のタインさんとの話の中で、おぼろげながら生活背景がわかりました。

ご主人は、中部の激戦地クアンチ省に6年も駐屯。枯れ葉剤もたっぷり撒かれました。武器、食料などの補給活動に従事していました。ロンさんは、防空壕に入っている時に爆撃されました。爆弾の破片が頭にささり、右目に障害が出ました。左目の角膜を移植しましたが、視力は30%しか回復しませんでした。


タインさんの通訳で、元兵士で、枯れ葉剤被害の子がいることがわかりました。子ども4人出産。男2人。女2人。男の子は健常。長女は脳性麻痺。次女は発育不良。


私がベトナム最北端で出会った初めての戦争被害者、枯れ葉剤の被害者でした。
「どこにでも戦争被害者はいる」の認識を新たにした日でした。

チップが何の役にもたたないことはわかりながら、釣り銭は頂けません。
ただ、覚えておいて貰うには十分です。 固い握手を交わして、別れました。

再訪・再会しようと思いました。一期一会に終わらせるわけにはいきません。(北村 記)Posted by Picasa

ご報告3 クアンガイ省に車椅子5台 贈呈

(5)
氏名:ファム・ボイ

生年:1985年。

住所:クアンガイ省ギアソン郡ギア・トー村

母親:ファム・ティ・ヌイ(兵士の経験なし)

子ども4人あり。
うち1人 奇形という意味の障害児あり。

体の縦軸に対して、ややS字型の線が認識できますね。
また、足の細さからして、歩行経験はほとんどないと判断します。


なお、父親がどうなったのか、軍事的背景、家族的背景は不明です。

【お礼状】
ファム・ボイと申します。

両足が不自由です。三島の皆様から車椅子1台を頂き、クァンガァイ省ダイオキシン/枯れ葉剤被害者協会から受け取りました。

車いすが無かった時、私はとても動けませんでした。今、外出できるようになって、人にも会うことできて、人生がとても楽しくなりました。

大釜一男会長、外務省のレ・ドック・タイン様、枯れ葉剤被害者協会にお礼を申し上げます。皆様と皆様の家族のご健康とご多幸をお祈りいたします。

2007年2月9日  ファム・ボイ

こういう方々が、少しでも外の世界を広げていけることは大事なことだと思います。
なお、支援隊では、一層車椅子使用の安全を期して、太い帯を作成し、この5月のタイビン省での車椅子贈呈から太い帯も一緒に贈呈しております。
皆様のご支援を心より感謝申し上げます。
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ご報告2 クアンガイ省に車椅子5台 贈呈

(3)
氏名:グエン・ズイ・ティエン (脳性麻痺)

生年:1987年

父親:グエン・ズイ・リン 4人のお子さん (うち2人は不自由=政府からの支援を受けている)

住所:クアンガイ省ソンハー郡ジーラン村カー・ダオ社

写真を見る限り、脳性麻痺に加えて、発育不良が考えられます。

ファム・ティ・クップ
証明
枯れ葉剤被害者協会
車椅子 贈呈を証明致します。

2007年2月9日
枯れ葉剤協会印

お礼状の代わりに、この証明書が同封されていました。


(4)

氏名:ディン・ヴァン・リン

生年:1971年 今年36歳

住所:クアンガイ省ギアハイン郡ハイン・ニャン村 ニャラン社


父親:ディン・ドゥオン・


母親:グエン・ティ・ボン


36歳という年齢を顧慮しても、足の太さから、日常的に足を動かしていたとは思えません。
まして、足が交差しています。運動は不可能と思います。

多分、家の中に閉じこもりきりにさせざるをえなかったと判断します。

外へ出られるようになったのはうれしいですが、自力歩行は無理かも知れません。

【お礼状】
私はリン ドォンと申します。70歳になりました。
息子のリン バー リンは枯れ葉剤の被害者です。

日本の三島の皆様から一台の車いすを、枯れ葉剤被害者協会から直接に受け取りました。

私の家族はとても感謝しております。
車いすが無かった時の息子は、とても動きにくかったです。今、車いすを頂いて、外に出て、人に会って、息子はとても喜んでいます。


家族全員も喜んでいます。私の家族は何とお礼を申していいか分かりません。皆さんにありがとうと申し上げます。

日本の皆様、外務省のタイン様、クァンガァイ省枯れ葉剤被害者協会にお礼を申し上げます。
いつまでも皆様のご健康をお祈りいたします。

2007年2月9日 サイン(リンドォン)Posted by Picasa