「彼等は助けを求めて私を見つめていた。背を向けて去ることはできませんでした」 これは、彼が1998年にAP通信に語ったトンプソン氏の言葉です。
1968年3月16日の早朝、ベトナム・ミライの村落で、トンプソン氏と、同乗していた射撃手ローレンス・コルバーン氏、グレン・アンドレオッタ隊長の3人は、米軍兵が地元市民を虐殺している場面に遭遇しました。
トンプソン氏らは、米軍兵の砲火の前にヘリコプターを着陸させて、ベトナム市民を避難させ、虐殺を止めさせるために、米軍の地上部隊へ銃を向けたのです。
コルバーン氏とアンドレオッタ隊長は、米軍地上部隊の指揮官に向かって行くトンプソン氏を援護しました。トンプソン氏は地下壕に隠れた市民を説得して避難させ、負傷した子供を病院に運ぶために再度ヘリコプターを着陸させたそうです。、ミライ地区に休戦命令が発令されたのは、トンプソン氏らの行動によってでした。
この勇敢なる元兵士も、2006年1月に、ルイジアナ州の病院で癌のため亡くなっています。62歳。若すぎませんか。
私たちがソンミで植樹をした前日、しかし、時間的には24時間もたっていない19日、 「ソンミ村虐殺事件」で、部隊を率いたウィリアム・カリー元中尉(66)が、41年間の沈黙を破って当時の状況を語り、犠牲者と家族らに謝罪したのです。
米ジョージア州の地元紙によると、カリー氏は19日、同地で開かれた実業家の昼食会に招かれ、事件について「良心の呵責を感じなかった日は一日たりともない」と振り返るとともに、犠牲者とその家族、当時の部下らに「大変申し訳ない」と謝罪したそうです。
なぜ、いま? なぜ41年後? なぜ、ジョージア州で? なぜ、ベトナムではないのでしょうか? 無関係の人の前での謝罪は、謝罪なのでしょうか? 暗に伝わることを計算にいれたのでしょうか?
この方は、虐殺生き残りの一人ファム・ティ・・トゥアンさんです。私たちは、虐殺博物館に来ていただき、話を伺いました。
ファム・ティ・トゥアンさん。今年71歳。
虐殺がおきた時は、30歳でした。子どもは女の子二人。ご主人は、虐殺の前に亡くなっています。「1968年3月16日の朝、早く起きると、ヘリコプターがいっぱいありました。軍人が村人を取り囲みました。私は、豚と牛を撃つのだと思いました。村の子どもたちも泣きました。そして殺されました。命乞いしても、お願いしても、殺されました。その時、私の子どもは、3歳と6歳でした。3歳の子どもにお乳をあげていました。多くの人が、お腹と頭を撃たれました。そして、死ぬまで撃たれました。
血がいっぱい流れ出ました。走っても走っても殺されました。家族6人でしたが、父はそのときに、殺されました。私は、アメリカの兵隊から発射されましたが、弾は当たりませんでした。死んだふりをしていたので、死んだと思われ、撃たれませんでした。早く、大通りまで逃げたかったです。
(灌漑用の)川に落とされました。4~5時間いたでしょうか。6時すぎから、11時くらいまで・・でしょうか。子どもも一緒にいましたが、泣きませんでした。自分の上にいた人は、亡くなりました。私は、一番下にいたので、弾が届かなかったのでしょう。一番下にいたときは、とにかく、恐怖しかありませんでした。何も考えることなどありませんでした。
やっと、他の村に逃げてご飯を作ってもらいました。そこから、毎日、村の畑に戻りました。
当時6歳の子がトラウマになりました。その時の記憶がまるでないのです。」
下の写真は、トゥアンさんの当時のものです。虐殺の起きた村に嫁ぎ、今もソンミで暮らすトゥアンさん。残りの人生が、平穏無事でありますように!
なお、このトゥアンさんに関しては、できるだけ早い機会に、もう一度ブログでご紹介したいと思います。私はトゥアンさんに2度お会いしていますが、より記憶が鮮明なときの話が出てきていますので。
世界の人は、現実に起きたこういう現場での話を聞かないと、戦争の事実、戦争の愚かさ、アメリカ軍の蛮行を分からないでしょう。分からないということは、蛮行が繰り返される恐れがあります」
鋭い指摘でした。蛮行を語り継いでいかなくてならないのです。人類が、いつでも賢明とは限らないのは、歴史をみれば明白です。この事件のカリー中尉率いるアメリカ軍の実に恐ろしい、愚かな行為です。
アインシュタインはこう言っています。
「ごく普通の人の心の中に、特別な動機がなくても、無限の悪を為す能力がある」 「悲しいことに、善を為すとも悪を為すとも決めることのできない人間が、最大の悪を為すのです」
「私たちに必要なのは、海の向こうの人々を、自らの隣人と思うことのできる“新しい思考”と“心の変革”なのです」 では、ないですか、カリーさん!時代は変わったのです。
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