2009-10-26

戦争の現実

戦争の現実は、こういうものだという記事が、今年7月12日付けのオーストラリアのサン・ヘラルド紙に掲載されましたので、皆さんの理解のためにも翻訳を掲載します。
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オーストラリア軍兵士が、ベトナム戦争中に軍用車でべトコンの遺体を引きずり回したことが発覚したが、オーストラリア軍当局はこれまで40年間も否定してきた。

ここにいたって、作戦行動中に戦死したベトコン兵士の遺体を爆破した場所を特定してほしいというベトナム政府の要請で、1969年5月にトゥア・ティック村とスエン・モック村での悪行の真実がやっとベールを脱ぐかもしれなくなった。

ドン・テートさん(写真下)は、今、60歳。オーストラリア軍の醜い行為が行われた時には、第2D・E小隊所属の兵士だった。

「40年間もでたらめな隠蔽がされてきたんだよ。それが、やっと明るみに出ようとしているんだ。彼らは墓などみつけられやしないだろう。だって、(骨も)何もありゃしないんだから」と、ドンは言った。

幻の第2D・E小隊が存在していたとオーストラリア軍がついに認めたのは、テート氏の著作”内なる戦争”(The War Within)が昨年出版された後になってからに過ぎない。マイク・ケリー国防政務次官は、7月に、幻の小隊が正式に召集されたものではないが、戦闘活動に従事していたと認めたのだ。
テート氏(ウーロンゴン南部のシェルハーバー出身)は、「39人の幻の小隊は、1969年5月に、それよりはるかに大規模のべトコン集団を待ち伏せして攻撃した。それは小隊規模での戦闘では、ベトナム戦争最大のものでしたよ」と言った。
公式報告書では、戦死したベトコン兵士の遺体は緑色ののポンチョにくるみ、埋められたとされている。

しかし、当時小隊の一兵士だったテート氏は、「遺体はクレイモア地雷とC4爆薬を充填された穴に引きずり込まれて、”工科兵士式埋葬”と言われる方法で処置した 彼らは吹き飛ばされたんだよ。彼らが見つける遺体や骨なんかありっこないよ」と証言した。

別の5遺体は、足首を紐で兵員装甲輸送車の後部に結わかれて、べトコン同調者への警告として地元の村まで引きずっていかれた。

テート氏は、彼の本でこう書いている。「結局、残りの遺体はスエン・モック村の中央まで引っ張って行って、村の中央で捨てられた。頭はなかった。彼らは、頭が落ちるまで、兵員装甲輸送車の後ろで叩いていた。頭がどこで落ちたか、神は分かっている」と。

遺体が兵員装甲輸送車に引きずられていたので、その時に撮られた写真は村民のぞっとするような反応を示している(写真下)。(北村註:子どもですら、異様な光景に、手で口をふさぐ子、両手を胸に当てて引きずられる様をみている子、呆気に取られている幼児の姿が見られる)

昨年ケリー政務次官が公式に認めたことで、ベトナム政府はハノイのオーストラリア大使館とれんらくをとり、戦死した全ベトナム兵の埋葬場所を情報の提供を求めた。

駐ハノイのオーストラリア大使館武官、スチュアート・ドッズ大佐は、当時の第2D・E小隊員と連絡をとって、墓の場所に関する情報提供を求めた。

テート氏は言った。「オーストラリア兵は、命令を受けて行動していた。その極悪な行為に蓋をするために、軍は39人のオーストラリア兵の公認記録を抹消したのだ。そして、何人かの兵士は軍人年金の支給を拒否されている。やっと、真実が白日の下にさらされるのだ」

兵員装甲輸送車の運転手、アラン・スタントン氏は、別の騎兵隊部隊の出身だった。彼はは、今年初めに自著「私が忘れる前に」(Before I Forget)を出版した。彼は、第2D・E小隊の説明を確認したのだ。

ベトナム退役軍人で、元兵役問題に関する首相の諮問会議のメンバーでもあるニール・ウィークス退役准将は、この問題の存在に気づいていたが、私見しか述べられないと言った。「私は、そこのなんらかの問題があるようだ、そして、かなりハイレベルで解決する必要があると思う」と、彼が言った。

ジョージ・マンスフォード准将(その人はヴェトナムで4つのビクトリア十字勲章を授賞したオーストラリア軍訓練部隊のキャプテン)は、墓を探さないほうがいいと述べた。「残っていたとしても、若干のものだ。われわれが聞いたことが真実であるならば、それは間違いなく傷口を塩でこすることになろう」と。

オーストラリア戦争博物館の広報担当は、「トゥア・ティックでの作戦成功の公式見解は存在しない。作戦の記録と元兵士の説明は、敵の遺体の処分方法について一致していない」と言った。

国防省広報係は、「ハノイのオーストラリア大使館のスチュアート・ドッズ武官が、ベトナム側の行方不明兵士の捜索を支援するために、オーストラリアの退役兵士グループからの情報を求めてきている」と、明らかにした。

以上が、記事の内容です。戦死した敵の兵士を車で引き回したりしたのは、なにも、オーストラリア軍が初めてではないと思います。小生には、戦場での経験はありませんが、そう思います。これが、戦争の現実の一つです。

戦死した兵士の遺体の扱いについて、ある方がこう書いています。
戦死者埋葬は捕虜の仕事になります戦時国際法では兵士(士官は別)に対価を払えば労働をさせても良いのでこういった兵士が嫌がる仕事をさせたりします。その他に法務官は戦死者数の調査を行ったりします。
後の戦没者慰霊碑を作る資料になりますし論功行賞や戦時犯罪の摘発に必要になるからです。基本的には可能な限り全部埋めます。
何故そうするかというといくつか理由があります。遺体の放置は病気の蔓延や鼠の大量発生という衛生的な問題がありますし、野晒しではあまりに惨いし、士気が落ちます。また遺体を移送する時に友軍が見ますと士気が落ちたりすることもあります。
補給部隊の帰路を搬送に使うと衛生の問題も出てきますし、負傷兵の後送にも使わねばなりませんから。基本的には衛生の問題もあって戦場に残った側の軍が処理することになります。
場合によっては敵味方の現地野戦軍指揮官が申し合わせて遺体回収埋葬をしたりします。この場合は利敵行為とはなりません。日本では日露戦争の記録が残っています。一次大戦では塹壕間に取り残された遺体をそうして処理したようです。
その他軍隊や各国の習慣によって微妙な特徴があります。米国海兵隊は遺体をなるべく持ち帰るようですが、海軍は基本的に水葬です。アリゾナ記念館は有名で、あの戦艦そのものがお墓です。
最終的には戦後に墓地なり慰霊碑などを建立してまとめます通常こういった施設に冒涜的な行為を行えば野蛮人とみなされます。観光で行ったとしても日本人の誇りを持って礼儀を尽くす方が良いでしょう。
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この方はこう書かれていますが、実際はなかなか、そうはいかないでしょう。ベトナム戦争でも、戦死者に対しても、憎しみを表す行為をしていた兵士もいるようです。自分の所属する部隊の行為に触れる元兵士はなかなかいませんので、実態はつかめません。兵士の良心に訴えるしかありません。
戦争は、間違いなく青年の未来を奪っていきます。だからこそ、多くの悲惨な経験を、未来に生かしていかなくてはなりません。平和への強い情熱を、いかにして若い世代に継承していくか・・・大きな課題です。Posted by Picasa

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