さらに、”もっと恐ろしいことに、それは輸送路だけではなく、何百という方向にくまなく走る曲がりくねった道路網を構成していたことだ。この道路網は、ベトナム共産主義者によって、戦場の迷路ヘと仕上げられた。彼らは、この種の作戦を展開するのが得意だったのだ。”
アメリカの高級将校も、旧南ベトナム軍も、ベトナム軍がチュオンソン山脈の中に、妨げられることなく輸送のネットワークの構築を始めたことに、無能力を晒し始めた。彼らは自分たちが利用可能なあらゆる手段を用いたり、北の食糧、弾薬という重要物資を絶つために北からの重要な補給ルートを絶とうとして、ルートの破壊を試みた。
しかし、彼らの努力の全ては、時間の浪費だった。なぜなら、何百万トンという爆弾、砲弾や有毒化学物質を投下・撒布させ、さらに特殊部隊や破壊活動部隊が多くの襲撃したにもかかわらず、南部戦場におけるアメリカ軍、及び旧南ベトナム政府軍の周辺の拠点を締め上げながら、ホーチミン・ルートは機能し続けた。
1959年5月19日のホーチミン主席の誕生日に、南部戦場に戦闘能力をもった軍隊を増強できるように、党中央委員会と政治局は、チュオンソン山脈の中に、北から南へ走る特別ルートを建設するという大胆な決定をした。
「ホーチミン・トレイル」あるいは「ホーチミン・ルート」と名付けられた軍事輸送ルートに沿っての戦いの凄さは、人々の話し、記憶、日記、そして南北双方の文書にも記録されている。それはまた、従軍記者が撮影した無数の写真にも現れている。
1959年~1972年の間に、アメリカの空軍機が7,526,700の高性能爆弾と対人地雷を投下したこと。B52爆撃機の爆撃出動回数は20,000回に達したこと。ホーチミン・ルート上に、たくさんの飛行機が有毒化学物質を撒布したこと、が戦終報じられた。これらの行動により、マスコミをして、ホーチミン・ルートをベトナム戦争中最も恐怖の「最前線」と呼ばしめた。
爆撃の強烈さについて、チュオンソン部隊の司令官だったドン・シー・グエン中将は、「アメリカ空軍は、山を切り開き、南へのルートを開くために、私たちにたくさんの爆弾をくれましてね」と、冗談交じりに話した。
1959年から1975年までの16年にわたって、兵士、青年奉仕隊、徴用された労働者などほぼ2万人が、1975年の北ベトナム勝利に繋がったチュオンソンの道路に命を捧げた。
ドン・シー・グエン中将の人生もまた、この歴史的なホーチミン・ルートに深く関わっているのだが、同中将は、こう話した。「依然としてアメリカ軍は、ホーチミン・トレイルという言葉に取り憑かれたままだ。なぜなら、この小道が彼らにベトナム戦場での敗北を受け入れさせるのに役だったからだ」と。
「ベトナム戦争が1975年に終わって、30年以上が過ぎた。しかし、ホーチミン・ルートについて真実と物語は、人々の記憶に絶えず留められ、議論されるだろう。しかし、このルートが誰もコースがほぼ6,000昼夜連続の爆撃に耐えたという事実は誰も否定できない」と。
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