2008-09-20

支援隊ツアー2008(7)痛恨の大失敗

バクザン省障害子ども村で、補聴器を贈呈することになりました。そもそも出発時にこの予定はありませんでした。コーディネーションを依頼している外務省氏の願望的依頼で、実現してみました。だが、ここで、私は痛恨の失敗をしたのです。隣の部屋で、名古先生が、眼科の検診を続けておられる折り、外務省氏がいる部屋で、補聴器贈呈の準備が行われていたのです。
それに気づかなかった小生に、宮尾事務局長と家内が、外務省氏が補聴器を生徒の耳に付けている・・と連絡してくれました。行ってみましたが、外務省氏が補聴器の準備をしていたので、自分で音の試験をしていると思いました。まさか、贈呈する生徒につけていたとは、夢にも思いませんでした。彼の言う「チェック」とは、上げる人の耳に付けて試すという意味だったのです。
補聴器が作り出す笑顔

補聴器の贈呈の最大の喜びは、貰う方もあげる方も、聞こえた瞬間です。生命が蘇生するこの瞬間を見られるに優る感動は他にありません。彼らが二度と同じ歓喜の表情を見せることはありません。日本からきた皆さんが、感動を味わうのもこの瞬間です。二度目以降なのに、初めてと称して見せる類の行為が、テレビ局のやらせです。

それを「チェック」とは言え、先に外務省氏がやっていたのです。その瞬間の喜びの写真を私は、1枚も撮っていません。贈呈は、チェックから始まっていると考えるべきです。一人の人の耳に切れた音が繋がる・・・いわば開通の瞬間にこそ、最大の喜びがあり、それは彼は十分承知しているはずなのに、時間をはしょったのです。

 
「誠実に君の時間を利用せよ!」というゲーテの叫びを、思い出しました。私は失敗した、と思いました。テレビ局の撮影の時に、こういうポカをすれば、怒号が飛び交います。その瞬間に命をかけるカメラマンが怒鳴るのも当たり前です。

私の全ての内臓が、怒りのモードに変わりました。家内が「北村修治さんが撮っているわよ」「そういう問題じゃない。全員がそれをみられたかどうかなんだ」

補聴器を贈呈する深瀬宏子さん

私は、ハノイ在住時代、個人で支援活動をしていました。補聴器を最初に贈呈したのが、1995年です。フート省でした。外務省氏のふるさとです。その時15個の補聴器を友人と一緒に贈呈しにいきました。

それはそれは感動のシーンでした。友人が書いた感動の手紙を今も持っています。その感動が、私に教訓を与えました。一人でも多くの人が、こういう場に立ち会うべきだと。15人同時に付けてはだめです。一人ひとり調整してあげながら、聞こえる過程を確かめるのです。これは、まさに補聴器贈呈のドラマです。

贈呈する川津康代さん

私は、このツアーで、同時進行はほとんど認めません。音楽療法をしながら、片方で植樹をする・・等ということは無意味です。ツアーに参加した一人ひとりが、一つの場に立ち会うことに意義があると考えているからです。皆で、同じ物をみていると、見えない物が必ずみえてきます。

例えば、今年もある省で、棟続きの家に息子夫婦と住みながら、息子夫婦があまりにも協力的ではない・・などというのが見えてきます。地方の枯れ葉剤被害者協会のお役人さんが、「はいよ、車椅子置いていくよ」などと言って配って歩いたのでは、見える物もみえません。それが多くの人が同時にそこにいることによって見えてくるのです。

今回もたまたま隣の部屋に行っていた人は、その瞬間を楽しめたはずです名古先生ご一家や、検診をずっと見守っていた人には、その感動の波動を受けることは出来ませんでした。本当に痛恨の失策であり、見られなかった方には、申し訳ない気持ちです。どんなことでも、同時進行は絶対避ける・・この当たり前の鉄則を痛いほど味わった日でした。

贈呈式などはどうでにもなります。贈呈で手渡した時の喜びは、全く取るに足らないものです。それは単なる形式です。補聴器を装着して音が通じた時の喜びを見て、友人や他人に伝えることの波動は、そんな形式を吹き飛ばすほど規模が違います。

「ちゃんと聞こえるね?」「はい」

五体満足であるにこしたことはありません。しかし、障害を克服して、普通の人より立派になった人も、世界には数え切れないほどいるわけです。文明の利器を使って聞こえた瞬間の歓喜を体に受けて、感動の波を伝えていく、つまりこういう人に喜びを与えていけるのは、そこに立ち会った人たちだと思うのです。
                            
来年からは、朝食時のブリーフィングが欠かせないと、心に誓いました。私の最大の失敗、今日の今でも、悔しさは抜けていません。Posted by Picasa

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