この家に入って最初に目にしたのは、少しだけ見える3人目の少女が、台所らしき所で藁のような物を燃やしてお湯を沸かしていました。この少女は、私たちの前に来ることをすごく嫌がりました。美咲さん、くらいでしょうか、15歳くらいにみえました。4人の子どもたち、最初は顔が見えません。全員下を向いているからです。
それでも、同行した目医者さんの名古先生が目を検査し、この娘さんは直りそうだと伝え、暮らしの土台を作るために子豚を2頭あげて・・・そんな話をしているうちにだんだんとお顔が上を向いてきました。心の中に、光が差し込んだ、おじいさんはそう思いました。
この6人の手を握りしめて別れました。「元気でね」という言葉しか言いようがありません。でも、握り返すその強さが、心がつながったように私には思えました。
実は、沼津の写真展を見て、生子(いくこ)おばあさんの名前で三島の支援する会にお金を送りました。今でも、みんな生子おばあさんの名前の領収証です。あの人が生きていたら、きっとベトナムに来ていた、あの人が生きていたらきっとこうするに違いない、そんな思いが私にはあるのです。
おばあさんが歌っていたその中に、「ベトナムの友 撃ちにいく」という一節がありました。
日本は大東亜戦争に負け、沖縄は今でもアメリカの軍事基地です。ベトナム戦争当時、沖縄からB52爆撃機がベトナム攻撃に飛び立ちました。
おじいさんは良く知らないのですが、枯れ葉剤はアメリカがベトナムの人々の暮らしを根底から破壊するために、田んぼや畠に雨のように降り注いだ、中には直接それを浴びた人もいたはずです。
日本の戦争のようにアメリカがベトナムから攻撃されたのではないのです。ベトナムが社会主義の国になることを妨害するために軍隊を送り枯れ葉剤をまいたのです。
枯れ葉剤の被害者は、ベトナム人だけではなく、アメリカの軍人とその子孫、アメリカに軍事協力させられた韓国人、春実ちゃんの住むニュージーランドも何かで見たように思います。
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