愛のベトナムさわやか支援隊ツアー2008の御報告をさせて頂くことにします。すでに、今回初参加の北村修治さんの含蓄のある「孫への手紙」を読んで下さったことと思います。どこで、誰に会い、何をし、何を想ったかは、常に大事なことです。
旅の実行者が発言することではありませんが、支援の幅、内容は、過去最高に充実し、成功を収めたことは、参加者を初めとして、この運動を支えて下さっている方々の真心の賜と、感謝の気持ちで一杯です。御礼を申し上げます。
「対話」と「被害者のニーズに合わせた支援」を心がける我が支援隊の活動を、少しずつ時間をかけてアップしていこうと考えます。では、Let's Go!!!!
ノイバイ空港に着いたツアー参加者 8月21日、ハノイのノイバイ空港に到着した一行14名の表情には、緊張感が満ちあふれていて、少々心配にはなった。記念写真の表情には、それが如実に現れています。
前日先乗りで来ていた小生には、この日の暑さと湿度が心配でした。すぐ、宿舎に向かいました。だが、最終の29日深夜の出発まで、ダウンする方は一人もなく、笑いと感動、緊張と新発見の連続だったに違いありません。
宿舎で荷ほどきをするのも束の間、最初の行事が始まりました。
ベトナム戦争中 クアンガイ省でアメリカ軍アメリカル軍団に射殺されたハノイ出身の女医、故ダン・トゥイ・チャムさんの母親ドアン・ゴック・チャムさん宅を訪問しました。この日、3人娘が全員揃って下さいました。母親の左から次女ヒエン・チャムさん、4女キム・チャムさん、3女フオン・チャムさん。
日記が出版されたことは、ブログですでに詳細にのべているので、割愛します。そもそも、最終的に私がお宅を訪問しようと思ったのは、参加者の中に、眼科医として沼津でご活躍の名古良輔先生ご一家がいらしたことも大きいです。長女を戦場に送る母親の決意を全員が伺っておくことも、大事かと思ったのです。母親は、薬学のご専門です。父親は、他界されていますが、外科医でいらっしゃいました。
「日記が届けられた時、感動して読めませんでした。娘が書いた日記を見ただけで、感動してしまって・・・。私は、家族の中で一番読んでいません。すぐ泣いてしまうのです」
「トゥイ・チャムが戦場に行く時に、私と夫も反対はしませんでした。その時代では、そういう行為は普通のことでした。娘は戦いにいくのではなく、国を守るために行くのだから、良いことだと考えていました。トゥイ・チャムが戦場に行って、医療行為をするという意志は、前から持っていました。最初は、作家になる夢を持っていました。そのうち、作家になる夢を捨てて、医師になる決心をしたのです。そして、『戦争に出られる年になったので、行ってきます』といいました」
3人の子を“世界的芸術家”に育てた千住文子さんはで「すべての鍵は愛である」(『千住家の教育白書』(新潮文庫))と。愛するからこそ、子どもを信じる・・・・。
その母から、戦争は娘を奪っていきました。まさに、「戦争は愛想事じゃなく、この世で最大の醜悪事なんだ」というトルストイの言葉が思い出されます。
私が、最大にトゥイ・チャムを尊敬する理由は、学んだ学問を、戦争で傷ついた人々に役立てようとしたからです。福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で「活用無き学問は無学に等し」「懶惰(らんだ)と言うべし」と、切って捨てています。
実母ゴック・チャムさんは、今年83歳。私たちが書店で買ったベトナム語版「ダン・トゥイ・チャムの日記」に1冊ずつ丁寧にサインをして下さいました。個人から家族への広がり・・。この友好の裾野を広げることが大事だと私は考えています。人間的な絆の広がりが、真実の平和の基礎となることを信じていきたいと思います。
恩師の著作に「出会いは泉を掘ることに似ている。それがやがて、友情の川をつくり上げていく」とあります。それが平和へのうねりになると思います。
↑語らいを終えから、ゴック・チャムさんの家の近くの広場で記念撮影です。
その足で、私たちは、ルオン・ティ・ロックさん宅を訪問しました。↑ この前日、急にこの訪問が私の頭の中にひらめきました。前日夜お願いに伺い、喜んで引き受けて下さいました。このお宅は、日本軍がベトナムに進駐した時に、日本軍軍医と結婚したロックさんが住んでいるからです。
そして、ロックさんの次女が、眼科医として地元のドンダーで長く貢献されてきたので、名古良輔先生にご紹介しようと思いました。が、チャムさん宅に長居をしてしまい、お嬢さんのとしみさんには、お会いできませんでした。残念!
としみさんも、来年には定年を迎えられるとか。新進気鋭の時にお会いした眼科医も、いつの間にか大ベテランになられていたのです。でも、いつか必ず、名古先生にお引き合わせしようと、考えています。
そして、この後、ハノイで最初の夕食会に向かいました。