2008-09-30

支援隊ツアー2008(11)ヴァン・ロンのボート乗り

8月23日 私たちは、タイビン省に向かって、午前8時過ぎに、ハノイを出ました。初めての観光です。ニンビン省のヴァン・ロンの河で、舟を浮かべました。昨年行った「タムコック」と同じ水系です。ですが、何が大きく違うかといいますと、ここは静寂そのものです。あちらは、物売りがしつこくて、閉口です。舟縁に来て物を売るし、舟の上でも物を売るし、客は逃げようにも逃げられないのです。あれは、商売が下手です。

 この景色を見たとたんに、浮かんできたのは、松尾芭蕉の『奥の細道』の序文でした。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、・・・・・・・

自分でも何でか分かりません。なぜ、ここで奥の細道なのか?多分、『舟の上に生涯を・・・』の一節が、頭をよぎったのでしょうか。あるいは、「片雲の風にさそわれて・・」の一節でしょうか。舟の上に生涯を浮かべているわけでもないし、旅をすみかとしてわけでもありません。

この序文は、御年46歳。元禄2年3月27日~9月6日の作です。静寂の中で、自然の風に吹かれて、頭の中を掃除するのはうれしいことだ。命を切って支援をしていると、一切の喧噪から離れることが出来るのも、また支援の旅の冥利に尽きるといえます。

私は、名古先生と一緒の小舟に乗りました。 船上対談を続けました。一つだけご紹介しておきます。

富裕者による寄付行為の話になりました。豪州でもそうですが、富を積んだ者が社会に還元する行為です。この額が低いと、非難が飛んできます。名古先生は、「つまるところ、そういう行為より、福祉社会がしっかりと成立することが大事ではないかと思います」と仰いました。

なるほど、その通りです。

それでも、且つ、私には、こういう思いがあります。

仮に福祉体制がしっかりした社会が出来ても、弱者に対する痛みを分かち合おうとする気持ちを、社会の構成員がもつことが大事だと思います。福祉体制を充実させるのは政治で、苦しむ人を助けようとする気持ちをもつことは社会を構成する人として永久に大事だと考えます。

対談というのは、単なる意見交換ではありません。また自己宣伝でもありません。魂のふれ合いであり、別の社会を生きて来られた方から学ぶチャンスです。

名古先生は、真剣に支援を考えていらっしゃいました。あるべき支援の姿を模索する私は、これからも対談を続けたい方だと思いました。すばらしいお医者さんです。

名古先生は、コースの最後は、竹竿をもってこぎ始めました。われわれの舟の漕ぎ手は若い女性で経験が浅いのか遅れる一方。とうとう皆が陸にあがってもまだ船着き場に着きませんでした。1時間半のボートの旅は、有益な語らいとなりました。Posted by Picasa

2008-09-24

支援隊ツアー2008(10)バクザン省のクアン君

AOベトナム・ツアー

この少年、クアン君といいます。バクザン省の障害子どもの村に住んでいます。これは、今年の3月訪問した時の写真です。誰かに言われたのか、自発的にか、彼はこの赤い椅子を私のところに運んできてくれました。やさしい心遣いに、感激したものです。

それ以来のおつきあいです。

いくつに見えますか?

クアン君の年齢は、7歳だそうです。

知的障害があるそうで、意思疎通は図れるようですが、ちゃんと話すことができません。体の大きさを考えても、発達障害もあるかもしれません。

ご両親がいないのではないかと内心思っていましたが、やはりご両親は亡くなっており、現在の保護者は、祖父母だそうです。

そのため、他の子ども達は、季節ごとに帰省しているのに、クアン君が 家に帰ることができるのは、年に1度、旧正月の時だけだそうです。

障害がとれて、良い方向にいくと、いいなあと願っています。

先日、海外青年協力隊の新井智子隊員のお話ですと、友達と喧嘩して、思い切り、頭から血を出したそうです。もう、直ったかな?

新井智子隊員からの連絡です。

「クアンは、すっかり元気になり、いたずらばかりして、大人を困らせています(苦笑)。彼は、両親を亡くしていますが、お正月だけは、親戚の家に帰ることができます。お姉さんも入所しています。
それでも、一生懸命、愛を得ようと、彼らなりに日々をがんばって生きています。
彼の行動一つ一つによく現れていますよね。健気です」

「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなくて、友の足音だ」(野村修訳『ヴァルター・ベンヤミン著作集14』晶文社)という、思想家ベンヤミンの言葉があります。どんな人にも、私たちが支援している人には、私たちの足音が友の足音と思えるようにしたいものです。

彼の人なつっこい表情を集めてみましたので、写真の上をクリックしてみてください。20枚の写真が出てきます。また画面右に赤い印のついた地図が出てきます。写真をご覧になった後、赤い点をクリックしてみてください。

私たちが、バクザンのセンターを訪問した時のにこやかな表情に、何か和むものがあります。

支援隊ツアー08(9)新谷文子の"体を動かそう(2)

(バクザン省)

先ず、ウォーミングアップのリズムダンスとボディーパーカッションでは、「2008(8)」に掲載された中秋節のお嬢さんたちがムードメイカーとなり、最前列でパフォーマンス。彼女達の身体の芯から湧き出るリズムでノリノリ。後列で参加の子供たちもノリノリ。感じたままの飾り気の無い音楽の森は笑顔でいっぱいになりました。
「タンバリンを叩いてね」
聴覚障害の子ども達の為に視覚で楽しめる音楽と、身体リハビリを目的とした「フルーツ畑」と「風船」。初めての試みでしたが子供たちは大はしゃぎ。特に風船・・・身長が70~80センチ位の5歳のアインちゃんは風船の手前から「だれか、何とかしてよ。届かない?」とでも言いたげにモジモジ歓声を。
「高すぎて触れないよ」
しかし常に視点は風船でした。同年の子どもの半分程の体重しかないアインちゃん・・・愛くるしい笑顔と全身表現の喜びが伝わって来ました。ハンディキャップチルドレンの希望を託して、澄み渡る青空いっぱいに舞い上がる風船。
「うん、今度は叩けたぞ」
新井さんに差し上げて帰りましたが、今日もバクザンの地でリハビリに役立てて下さっている事と思います。「ガンバレ!負けるな!可愛いみんな!」と来年の再会を祈り、声援を送ります。(記:新谷文子)
「はい、ジャンプ」
終了後、「メディオ薬局代表取締役 稲垣紀行さま が贈って下さった施設で使える薬品を、名古先生は贈呈して頂きました。
兵庫県三田市安田秀美さんが贈って下さった新品の女性用Tシャツ(20着)をここで贈呈しました。
支援隊から、紫色のボールペン50本+ノート150冊を、ここの生徒さん40数人に差し上げました。一人当たりボールペン1本とノート3冊になります。Posted by Picasa

2008-09-22

支援隊ツアー2008(8)新井隊員から”補聴器その後”

下の写真を、ご覧下さい。誰も知らない人ばかり?
そんなことございません。ヒントは、私たちが訪問した下の写真です。同じ人を探してください。
上の写真は、今年の中秋節のイヴェントで着飾った子ども村の子どもたちです。 新井隊員から、今晩(9月22日)送られてきましたので、ご披露します。
さて、バクザン省の障害子どもの村に寄贈した補聴器のその後の活用が、新井智子隊員から寄せられました。ここにご報告します。
                            
『最近、聴覚障害の子ども達の間で「音読」?が流行っています。
私までやらされます。
そして、私の口がちゃんと動いていると 、「うまいじゃーん☆」といった具合で・・・(苦笑) ・・・なんだか嬉しいことです。
                                                
これも、みなさまからいただいた補聴器のおかげだと思います。
こうやって、コミュニケーションの幅が広がっていくことを願っています。

ありがとうございました!!!
新井智子』
                          
使いこなしてくださることが大事です。嬉しいニュースですね。
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2008-09-21

支援隊ツアー2008(5)新谷文子の”体を動かそう”(1)

順序が狂いました。話は友好村に戻ります。奨学金を贈呈して、さていよいよ音楽療法開始という時に、停電が発生しました。ベトナム語で、マット・ディエン(mat dien)と言います。でも、トは発音しません。人が亡くなった時にも、俗語としてこの言葉は使います。
さあ、どうしよう。大会議室から、発電機のある建物の玄関ホールに急遽変更になりました。アンプも使えるので、音楽も出せて、音楽療法士の新谷さんは一安心。友好村の職員が迅速に動いてくれました。タイルが滑るので、気をつけなくてはなりません。
今年も待っていてくれました。初めて見る子どももいます。馴染みの顔もみえます。みな、1年間を元気に過ごしたようです。
果物のトンネルをくぐる
シースルーの生地にオモチャの果物がぶら下がった、これは果物のトンネルです。頭を下げて、トンネルをくぐっていきます。紅白の綱が出てきました。「もっと頭をさげて!」 っと、声が飛びました。
人生にもいろいろあります。腰を屈めなきゃならない時もあれば、思い切り飛び越えなくてはならない時も。帽子をかぶっていた子が、帽子をとりました。ひっかかるのが気になったのでしょう。皆くぐって、先に進みたいんです。
新谷さんの工夫が、子どもたちの動きに変化を生みました。
紅白の縄の下をくぐる

病気の友を見舞う時、どうしたら喜ばれるだろうか、某紙にこうかかれてありました。

「★病床にあった経済学者の小泉信三氏を元気づけたのは、友人から贈られた運動靴だったと。“早く戻って来いよ”と、思いやってくれた友の“心の情景”が見えたからだろう

★ベラルーシ共和国の、ある小児白血病棟で、つらい治療に負けそうな子どもたちが、ある日を境に明るく変わる。学校に戻った時に授業に遅れないようにと、ボランティアの教師が勉強を教えに来てくれた日からだ。勉強するということは、いつか退院できるということ。そこに希望が芽生えた

★励ましとは、相手に“希望の花”を咲かせることだ。人は皆、希望の種を持っている。相手の状況、置かれた環境を踏まえながら、それを、どう芽吹かせ、はぐくむか――「自分には、こんなに思ってくれる人がいる!」。その心が、どれだけ友の励みになることだろう・・・」

と。

ベトナムへ行く前に、新谷さんとメールで確認し合ったことは、「今年もたくさんの笑顔を作ろうね」でした。
                            
障害者と健常者の、互いの心の中にある垣根をぐ~んと低くすること を、彼女はいつも心がけています。いや、低くするどころか、取り払おうとしているのかもしれません。工夫を重ねた今年の音楽療法。それも障害者への愛があるからこそ、です。
                          
今年も友好村の子どもたちに、適度の運動量と大きな笑顔を与えることが出来ました。Posted by Picasa

2008-09-20

支援隊ツアー2008(7)痛恨の大失敗

バクザン省障害子ども村で、補聴器を贈呈することになりました。そもそも出発時にこの予定はありませんでした。コーディネーションを依頼している外務省氏の願望的依頼で、実現してみました。だが、ここで、私は痛恨の失敗をしたのです。隣の部屋で、名古先生が、眼科の検診を続けておられる折り、外務省氏がいる部屋で、補聴器贈呈の準備が行われていたのです。
それに気づかなかった小生に、宮尾事務局長と家内が、外務省氏が補聴器を生徒の耳に付けている・・と連絡してくれました。行ってみましたが、外務省氏が補聴器の準備をしていたので、自分で音の試験をしていると思いました。まさか、贈呈する生徒につけていたとは、夢にも思いませんでした。彼の言う「チェック」とは、上げる人の耳に付けて試すという意味だったのです。
補聴器が作り出す笑顔

補聴器の贈呈の最大の喜びは、貰う方もあげる方も、聞こえた瞬間です。生命が蘇生するこの瞬間を見られるに優る感動は他にありません。彼らが二度と同じ歓喜の表情を見せることはありません。日本からきた皆さんが、感動を味わうのもこの瞬間です。二度目以降なのに、初めてと称して見せる類の行為が、テレビ局のやらせです。

それを「チェック」とは言え、先に外務省氏がやっていたのです。その瞬間の喜びの写真を私は、1枚も撮っていません。贈呈は、チェックから始まっていると考えるべきです。一人の人の耳に切れた音が繋がる・・・いわば開通の瞬間にこそ、最大の喜びがあり、それは彼は十分承知しているはずなのに、時間をはしょったのです。

 
「誠実に君の時間を利用せよ!」というゲーテの叫びを、思い出しました。私は失敗した、と思いました。テレビ局の撮影の時に、こういうポカをすれば、怒号が飛び交います。その瞬間に命をかけるカメラマンが怒鳴るのも当たり前です。

私の全ての内臓が、怒りのモードに変わりました。家内が「北村修治さんが撮っているわよ」「そういう問題じゃない。全員がそれをみられたかどうかなんだ」

補聴器を贈呈する深瀬宏子さん

私は、ハノイ在住時代、個人で支援活動をしていました。補聴器を最初に贈呈したのが、1995年です。フート省でした。外務省氏のふるさとです。その時15個の補聴器を友人と一緒に贈呈しにいきました。

それはそれは感動のシーンでした。友人が書いた感動の手紙を今も持っています。その感動が、私に教訓を与えました。一人でも多くの人が、こういう場に立ち会うべきだと。15人同時に付けてはだめです。一人ひとり調整してあげながら、聞こえる過程を確かめるのです。これは、まさに補聴器贈呈のドラマです。

贈呈する川津康代さん

私は、このツアーで、同時進行はほとんど認めません。音楽療法をしながら、片方で植樹をする・・等ということは無意味です。ツアーに参加した一人ひとりが、一つの場に立ち会うことに意義があると考えているからです。皆で、同じ物をみていると、見えない物が必ずみえてきます。

例えば、今年もある省で、棟続きの家に息子夫婦と住みながら、息子夫婦があまりにも協力的ではない・・などというのが見えてきます。地方の枯れ葉剤被害者協会のお役人さんが、「はいよ、車椅子置いていくよ」などと言って配って歩いたのでは、見える物もみえません。それが多くの人が同時にそこにいることによって見えてくるのです。

今回もたまたま隣の部屋に行っていた人は、その瞬間を楽しめたはずです名古先生ご一家や、検診をずっと見守っていた人には、その感動の波動を受けることは出来ませんでした。本当に痛恨の失策であり、見られなかった方には、申し訳ない気持ちです。どんなことでも、同時進行は絶対避ける・・この当たり前の鉄則を痛いほど味わった日でした。

贈呈式などはどうでにもなります。贈呈で手渡した時の喜びは、全く取るに足らないものです。それは単なる形式です。補聴器を装着して音が通じた時の喜びを見て、友人や他人に伝えることの波動は、そんな形式を吹き飛ばすほど規模が違います。

「ちゃんと聞こえるね?」「はい」

五体満足であるにこしたことはありません。しかし、障害を克服して、普通の人より立派になった人も、世界には数え切れないほどいるわけです。文明の利器を使って聞こえた瞬間の歓喜を体に受けて、感動の波を伝えていく、つまりこういう人に喜びを与えていけるのは、そこに立ち会った人たちだと思うのです。
                            
来年からは、朝食時のブリーフィングが欠かせないと、心に誓いました。私の最大の失敗、今日の今でも、悔しさは抜けていません。Posted by Picasa

2008-09-19

支援隊ツアー2008(6)あいあい眼科巡回診療(1)

22日 私たちは、いよいよバクザン省の障害子ども村へと車を走らせました。ここで、沼津のあいあい眼科クリニックの巡回診療が始まったのです。個人的に申しあげるなら、お医者さんが同行して下さるまでに10数年かかったということです。地元のお医者さんを、小生個人が有料でお願いしたことはありました。被害者が日本のお医者さんに会ってもらうのは私の長年の夢でした。声をかけてくれた新谷さん(音楽療法士)と、応じてくださった名古先生ご一家に最大の感謝です。
センターに入ると、診察をする教室の黒板に、「ありがとう! 名古先生」と、文字が書かれていました。センター側のうれしいお心遣いに、ひとえに「ありがとう」と申し上げます。
診察の準備をする名古先生ご夫妻

山崎豊子さんの『大地の子』にも、中国奥地の巡回診療のシーンが描かれていますね。ベトナムの現状はあそこまで酷くはないにしても、地方の住民にとって、医療はやはり遠い存在のようにみえます。だからこそ、こういう地道な医療活動が大事なのです。小生がながらくお世話になった歯医者さんが、カンボジアに出かけていらっしゃるのを知って、やはり羨ましかったです。

「はい、こっちを見てねぇ」

検診された名古先生のお話です。

「バクザン省の障害子ども村にて、眼科検診を実施しました。現在の眼科診療では検査に種々の器械を駆使する必要があり、ライトのみの検診では辛いものがありました。中枢神経を侵されているためか、数人の子に強い眼振が見られました。

名古先生の奥様にしっかり抱かれて
視力検査の設備もなく、まだまだこれから、という状況でした。日本の子ども達と比較すると、アレルギー疾患が少ないためか、むしろ綺麗な眼をしている、とも言えます。治療可能な疾患も放置されている可能性があり、これからの検討課題と思われます 」

子どもの検診に医師の笑顔が絶やせない
問題ありと認められる児童を、今後どうするか。地元の病院での精密検診は可能なのか。医療費をどう工面するのか。考えていきますと、とめどもなく支援の枠が広がります。大ハノイ市の隣の省で、こういう状態です。
                           
写真上は、優しい笑顔で診察する名古先生。右は、このセンターに勤務する海外青年協力隊の新井智子隊員です。新井さんには、診察する生徒40数名のリストの作成を、事前にシドニーからお願いしました。こういう連携作業があって始めて短い時間の中での流れるような診察が出来ると思います。有難うございました。
*
*生理的眼振は別にして、 病的眼振には、 先天性眼振と後天性眼振があります。

★先天性眼振は生後よりみられ、何かを注視すると増強して、注視を止めると抑制される(後天性は逆の場合が多いです。先天性でも他に乳幼児に多いものは振り子様眼振といって先天性視力障害に伴うもので眼科的検査が必要です。

あるいは衝動性眼振といって、生理的にも病的にも見られ、眼科耳鼻科脳神経外科などを検査するのが多いと言われています。
                             
★後天性眼振は、生後は眼振はなかったのですが、後に内耳系(目眩を伴う)脳幹部(大脳から延髄から小脳など)疾患によって、目眩症状を主に伴うことが多い疾患と同伴して起こる異常な目の動きで、大人にも起こりますし、もちろん子供でも目眩を伴う内耳疾患でも起こる場合もあったり、これもいろいろです。後天性眼振イコール目眩疾患とも片付けずに、精密検査がひつようです。Posted by Picasa

2008-09-17

支援隊ツアー2008(4)蓮の花奨学金贈呈Ⅰ

ハノイの友好村 二つ目の目的は、奨学金の贈呈です。
バオ君に蓮の花奨学金を渡す大釜会長

チン・クオック・バオ(Trinh Quoc Bao)君です。1995年生まれです。ハノイ市タイン・オアイ郡(旧ハタイ省) ノン(菅笠)の生産地で有名なハドンに近いところです。

大釜会長から、証書と奨学金130万ドンが贈られました。

証書の内容です。「私たちは、バオ君が一所懸命勉強できるように、愛のベトナムさわやか支援隊として今後1年間にわたり、学資金の一部130万VNDの奨学金をお贈りし、バオ君を応援致します。
人は、ひとりぼっちでは生きていけません。たくさんの友人を作って、人の役に立てる人になって下さい。そしてベトナムの平和に力を尽くしてください。2008年8月10日

バオ君のご家庭を簡単にご紹介します。

父親のチン・スアン・ディンさんは、戦争中に、第510部隊で、中部チュオンソンの交通部に所属。武器の輸送に従事しました。南はカントーまで、北はヴィンリン、ラオスのアトポーなどに輸送したそうです。「トラック30台のコンヴォイで行って、10台しか残らなかったこともあるし、10台のコンヴォイで行って、1台も残らなかったこともありましたよ」

それを生き抜いた方なのですね。

「障害者の学校で勉強するには、補聴器もいります。子ども2人は家が遠いので、学校まで連れて行かなくてはならず、ヘルメットも必要です。バオは、耳が聞こえません。話せません。音などはほとんど聞こえません。」と父親は言っていましたが、バオ君は少し声を出して話せました。練習が必要と思います。ズン理事長は、「声を出して話すようにしなさい」とアドバイスしていました。

精神的には安定していますが、音が聞こえたりすると、すぐ起きて走ります。布団から飛び出して、家中を走り回り、外に飛び出します。少ししたら、戻ってきます」と、お父さん。

父親ディンさんは農業。2人の子どもを朝連れて行って、夕方また連れて帰ります。往復40キロの行程。息子とは、手話の会話です。

「息子は学校に行くのが楽しみです。朝5時過ぎに起きて、6時には家を出ます。この子は、友好村に2年住み、ここで育てて頂き、大きくなりました。友好村では刺繍をしていました。スポーツはサッカーが好きです。ほんの少しでも援助して頂ければうれしいです」と、この3月に話していました。

奨学金証書を読み上げる大釜芙美子副会長(下)

ダオ・スアン・トゥン(Dao Xuan Tung)君です。1993年生まれ。 出身は、ハノイ市フー・スエン郡(旧ハタイ省)です。大釜芙美子副会長から、証書と130万ドンが贈られました。

証書の内容です。「私たちは、トゥン君が勉学に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊として今後1年分の学資金の一部130万VNDの奨学金をお贈りし、激励したいと思います。人間は、ひとりぼっちでは生きていけません。
貧しさや障害に負けることなく、自分の能力を磨き、健康で、有意義な学校生活を送り、良い友人を作ってベトナムの平和に役立って下さい。2008年8月10日」

男性二人とも聾唖の生徒さんです。頑張っている二人です。ご両親も苦労して、学校に送り出しています。今回の奨学金受領にあたり、大変喜んで、御礼を述べて下さいました。

宮尾事務局長に笑顔をみせるランちゃんとズン理事長(右)

3人目は、クアック・ティ・ラン(Quach Thi Lan)さんという女生徒です。1992年3月24日生まれ。出身は、タインホア省ニュー・タイン郡マウラン村です。タインホア省は大きな省ですが、ニュー・タイン郡は南部で、マウラン村は、省都タイン・ホアから車で小1時間の所です。タインホアの少数民族出身の子です。そこにお母さんがいます。お父さんは、亡くなっています。「家には、牛5頭と豚2頭しかいません」と、ランちゃん。

証書の内容「私たちは、ランさんが一所懸命勉強に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊として、学資金の一部130万VNDの奨学金をお贈りし、ランさんを応援致します。人は、ひとりぼっちでは生きていけません。立派な画家になって、お母さんを喜ばせてあげて下さい。現代のハイ・バー・チュンとして、画でベトナムの平和に尽くして下さい。2008年8月10日」 宮尾事務局長から贈られました。

ランさんをちょっと紹介します。末っ子。1年に1回、テット(旧正月)の時に故郷に帰ります。ニャンちゃんと同じく脾臓肥大で、2006年に手術で一部を切除しましたが、現在は問題がないそうです。「手術前は、痩せて顔色も青白かったです。切除しなかったら、命にも影響があったと思います」と。「手術前は怖かったです」と、ランさん。中学1年生ですが、既に16歳です。「健康を心がけています」 

友好村の近くの中学校に、友好村が買ってあげた自転車で通学していますズン理事長が英語とアートが得意。刺繍作業が好き。

画家を目指しているそうです。風景画が好きで、クレヨンを使います。下の画は、私が3月に行った時に約束してくれて、今回頂戴した画です。車椅子に乗った友達を助け合っている画です。弱者を思う彼女の画です。他にもう1枚ありました。12月に沼津で開催する写真展(主催:愛のベトナムさわやか支援隊=三島市)で、この絵も展示する予定です。

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支援隊ツアー2008(3)友好村の植樹

8月21日 午前8過ぎにホテルを出た私たちは、ハノイ友好村に向かいました。今回は、3つの支援目的があります。 その一つが、植樹です。午前中とはいえ、すでに高湿度の33度では、涼しい顔など、出来ません。
名古澄代さん(左)と金原昇さん

友好村から、昨年、「木が枯れたので、同じ木を植えてくれませんか?」と。依頼されたのは、10本のカウ・ヴアという木です。日本語名は、ビンロウ樹。園芸の業者といっしょになって、10本を植えました。

少しだけ、ビンロウ樹のはなしをしましょう。

ココヤシの幹は太くて反っていますが、ビンロウ樹の幹は細くても、天を突くように一直線に伸びています。 ベトナムでは、「ビンロウの実」「キンマの葉」「石灰」をセットにして噛みます。ビンロウの渋みに、キンマの辛みが混ざり合って、強烈な刺激です。

ビンロウの実には興奮物質アルカロイドが含まれ、コカの葉(コカインの原料)のように精神を高揚させる作用があります。実際にビンロウを朝噛むと眠気が消えるそうです。若干の依存性もあり、常習者はビンロウがきれると眠気や倦怠感などの軽い禁断症状を起こす、とか。ビンロウとキンマを噛む習慣はとくに高齢の女性に多く、たまったツバを吐き出しながら長時間噛みつづけます。ときどき道路でみかける真っ赤な血のような吐き出したツバがありますが、あれは、これです。事件でも、病気でもありません。

「土をかぶせました」と、北村修治さん

さて、木を植えることは、命を育てること・・・本当に枯れないように、育てて頂きたい・・・ほんとうにそう思いました。友好村では、私たちが2003年に植樹した木が、数本か枯れました。再び寂しい思いをしたくないので、「ご面倒をおかけしますが、成長のためにご協力をお願いします」と、ヅン理事長には切にお願いしました。

川津康代さん(左)宮尾事務局長(中央)

植樹中に、蟻と格闘している人もいました。全員参加で汗を流した植樹。成長には10年はかかります。

ロシアの諺に、「森を伐ることは、自分に傷つけること」 「木を植えることは、命を延ばすこと」とあります。「木を枯らすことは、自分の命を絶やすこと」と、ロシアでは言われてしまうかもしれません。

名古彩香さん(左)名古良輔さん(中央黒服の人) 深瀬宏子さん(右帽子の女性)
三草二木の譬え」があります。大地には、さまざまな草木があります。同じ雨を吸収しても、個性に応じて枝を広げ、多彩な花を咲かせる、という話です。雨は平等に大地を潤しますが、その雨を受ける草木は、上中下の草(三草)や、大小の樹木(二木)などさまざまであり、その種類に従って生長していきます。
個性豊かに成長することを祈っています。
                            
このカウ・ヴアの木が、ここの大地に影を落とすようになり、その下で子どもたちが憩う姿をみたいものです。
友好の植樹が、やがて亭々たる巨木となっていくよう、お互いにしっかり育てていきたいと強く思いました。「信頼と友情の絆」です。そして、何にもまして強調したいのは、利害を超えた友好村と支援隊との「人間の絆」であるということです。Posted by Picasa

2008-09-14

支援隊ツアー2008(2)参加者のお誕生日

夕食後、レストランの明かりが消えた。蝋燭が乗ったケーキを持ったウェートレスが入ってきた。この日、参加者の名古良輔医師のXX歳のお誕生日であり、沼津のあいあい眼科クリニック開院20周年の記念すべき日だった。「ハッピーバースデー・トゥーユー~~」 期せずしてコーラスになった。

澄代夫人と笑顔のTwo Shot(8月21日)

レストランも、ハノイの風景を描いた石の楯を誕生祝いに贈呈してくださった。

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こういう和やかな一時でも、ベトナムとアメリカはぎしぎしやり合っていたのです。

これから、その話を短くします。

越米合同諮問委員会(JAC)のケビン・タイクマン共同議長は、ダナン国際空港(下の写真)にベトナム戦争当時から残されたままの残留オレンジ剤や残留ダイオキシンを一掃するためには、一連の努力が必要である、と語りました。

タイクマンはハノイで開かれたレンジ剤/ダイオキシン問題合同諮問委員会の3回目の年次総会に出席し、アメリカ上院がヴェトナムに認めた300万ドルの補助金の運用方法について議論していました。

この議論の仕方についても、いつか、ブログに書きます。

ダナン国際空港は、許容レベルより300ー400倍も上回るダイオキシンが含まれており、いわゆる高濃度汚染地点なのです。空港周辺の浄化費用は1400万ドルと予想されており、米国からの補助金の半分がこの汚染対策に費やされます。 ダナン空港

「300万ドルは、巨額の費用だ。他の機関が我々の仕事を注視していることは、喜ばしい。そして、彼らは我々の支援を望んでいる。私は我々がより良い結果を出すためにいろいろの組織を結合できると思っており、ずっと多くの支援が受けられること希望している」と、同共同議長は語りました。

何が巨額の費用なのでしょうか。冷静に考えてください。被害者に一銭も出していないアメリカが出したにしては、巨額かもしれません。

しかし、ベトナムの被害者は、現在300万を超えていると思われます。”巨額”と言われる金額を被害者の数で頭割りをしてみてください。なんと、一人1ドルにも満たない微少の援助額に早変わりします。実態は、そこです。

タイクマン共同議長は、べトナムとの作業はスムーズに進んだと述べ、彼がダナン地域の環境と公衆衛生の改善のために300万ドルの補助金を使いたいと言いました。

ダナン空港周辺の住宅地
「昨年はうまくいった、来年もさらによい結果になるだろう」と、タイクマンが期待を表明しました。
JACは、この活動には、アメリカの国務省、国防総省、保健当局、環境保護局、防疫管理センターなどの機関が参加することになりそうです。委員会は、将来の政策の参考に寄与するために両国政府に提言するため、健康管理と、科学的討議を通してオレンジ剤とダイオキシンが環境に与える影響に関する研究で、両国間の調整と協力を増進するために取り組むのですが、
ここでも戦争に負けたアメリカの”我”が出ています。決して「人間に与える影響」と言いません。「環境に与える影響」と表現します。環境が汚染されていると言っても、人間に影響を与えるとはアメリカは言わないのです。わかります? このからくり。   
                        
そういう中での、私たちの支援旅なのです。Posted by Picasa

愛のベトナムさわやか支援隊ツアー2008

愛のベトナムさわやか支援隊ツアー2008の御報告をさせて頂くことにします。すでに、今回初参加の北村修治さんの含蓄のある「孫への手紙」を読んで下さったことと思います。どこで、誰に会い、何をし、何を想ったかは、常に大事なことです。
旅の実行者が発言することではありませんが、支援の幅、内容は、過去最高に充実し、成功を収めたことは、参加者を初めとして、この運動を支えて下さっている方々の真心の賜と、感謝の気持ちで一杯です。御礼を申し上げます。
「対話」と「被害者のニーズに合わせた支援」を心がける我が支援隊の活動を、少しずつ時間をかけてアップしていこうと考えます。では、Let's Go!!!!
ノイバイ空港に着いたツアー参加者

8月21日、ハノイのノイバイ空港に到着した一行14名の表情には、緊張感が満ちあふれていて、少々心配にはなった。記念写真の表情には、それが如実に現れています。

前日先乗りで来ていた小生には、この日の暑さと湿度が心配でした。すぐ、宿舎に向かいました。だが、最終の29日深夜の出発まで、ダウンする方は一人もなく、笑いと感動、緊張と新発見の連続だったに違いありません。

宿舎で荷ほどきをするのも束の間、最初の行事が始まりました。

ベトナム戦争中 クアンガイ省でアメリカ軍アメリカル軍団に射殺されたハノイ出身の女医、故ダン・トゥイ・チャムさんの母親ドアン・ゴック・チャムさん宅を訪問しました。この日、3人娘が全員揃って下さいました。母親の左から次女ヒエン・チャムさん、4女キム・チャムさん、3女フオン・チャムさん。

日記が出版されたことは、ブログですでに詳細にのべているので、割愛します。そもそも、最終的に私がお宅を訪問しようと思ったのは、参加者の中に、眼科医として沼津でご活躍の名古良輔先生ご一家がいらしたことも大きいです。長女を戦場に送る母親の決意を全員が伺っておくことも、大事かと思ったのです。母親は、薬学のご専門です。父親は、他界されていますが、外科医でいらっしゃいました。

「日記が届けられた時、感動して読めませんでした。娘が書いた日記を見ただけで、感動してしまって・・・。私は、家族の中で一番読んでいません。すぐ泣いてしまうのです」

「トゥイ・チャムが戦場に行く時に、私と夫も反対はしませんでした。その時代では、そういう行為は普通のことでした。娘は戦いにいくのではなく、国を守るために行くのだから、良いことだと考えていました。トゥイ・チャムが戦場に行って、医療行為をするという意志は、前から持っていました。最初は、作家になる夢を持っていました。そのうち、作家になる夢を捨てて、医師になる決心をしたのです。そして、『戦争に出られる年になったので、行ってきます』といいました」

3人の子を“世界的芸術家”に育てた千住文子さんはで「すべての鍵は愛である」(『千住家の教育白書』(新潮文庫))と。愛するからこそ、子どもを信じる・・・・。

その母から、戦争は娘を奪っていきました。まさに、「戦争は愛想事じゃなく、この世で最大の醜悪事なんだ」というトルストイの言葉が思い出されます。

私が、最大にトゥイ・チャムを尊敬する理由は、学んだ学問を、戦争で傷ついた人々に役立てようとしたからです。福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で「活用無き学問は無学に等し」「懶惰(らんだ)と言うべし」と、切って捨てています。

実母ゴック・チャムさんは、今年83歳。私たちが書店で買ったベトナム語版「ダン・トゥイ・チャムの日記」に1冊ずつ丁寧にサインをして下さいました。個人から家族への広がり・・。この友好の裾野を広げることが大事だと私は考えています。人間的な絆の広がりが、真実の平和の基礎となることを信じていきたいと思います。

恩師の著作に「出会いは泉を掘ることに似ている。それがやがて、友情の川をつくり上げていく」とあります。それが平和へのうねりになると思います。

語らいを終えから、ゴック・チャムさんの家の近くの広場で記念撮影です。
その足で、私たちは、ルオン・ティ・ロックさん宅を訪問しました。↑ この前日、急にこの訪問が私の頭の中にひらめきました。前日夜お願いに伺い、喜んで引き受けて下さいました。このお宅は、日本軍がベトナムに進駐した時に、日本軍軍医と結婚したロックさんが住んでいるからです。
                          
そして、ロックさんの次女が、眼科医として地元のドンダーで長く貢献されてきたので、名古良輔先生にご紹介しようと思いました。が、チャムさん宅に長居をしてしまい、お嬢さんのとしみさんには、お会いできませんでした。残念!              
                            
としみさんも、来年には定年を迎えられるとか。新進気鋭の時にお会いした眼科医も、いつの間にか大ベテランになられていたのです。でも、いつか必ず、名古先生にお引き合わせしようと、考えています。                    
                           
そして、この後、ハノイで最初の夕食会に向かいました。Posted by Picasa

2008-09-13

北村修治さん 孫への手紙(2-3)

おじいさんの車には、「60年間一人も殺さず、殺されず。日本国憲法第9条のおかげです」と、書いた紙が貼ってあります。他人様(ひとさま)がみればバカなことをしていると思うかも知れません。皆さんが大人になった時どのように評価するのでしょう。

このベトナムに来て『60年間・・・』というのは、すごい言葉、自分のやっていることの正しさ、大切さを実感しています。こういうのを手前味噌というのでしょうか。

でも考えてみてください。同じ軍隊を持ちアメリカと仲良くしながら、韓国はアメリカと一緒にベトナムを攻撃したのに、にほんはそうならなかった。それはなぜか。まさに『日本国憲法9条のおかげです』ということになりはしないでしょうか。憲法9条がなかったら、日本の自衛隊は韓国やニュージーランドと一緒にアメリカのベトナム攻撃に参加し、日本の中にも枯れ葉剤の被害者が出たはずです。

あの時代『アメリカはベトナムから手を引け』と書いたゼッケンを胸に8年間も街を歩いた人がいます。たしか、金子さんといったと思います。この人とくらべたら、おじいさんのしていることは思いつきですから、たいしたことはありませんが、何もしないよりましだと思っています。

べ平連機関紙創刊号
ベトナムに来て田中正造悪魔を退治しないでのさばらせておくなら、自分も悪魔と同じだ」という言葉を思い出しています。田中正造は、行動を起こせと言っているのだと思います。

人間一人のやることなんかたかがしれています。でも、勉強し、何が正義で何が悪魔かを見極め、一人でもいい、小さいことでもいい、自分の出来る範囲でいい、行動する人になってください。
田中正造
おじいさんは、7月19日、72歳になりました。あの日、食事会をしてお寿司を作りました。あのころから、朝起きても疲れが残っていて、このベトナムの旅もずっと迷っていました。来年のことはわかりませんが、できたらあなたちと一緒に来たいと思っています。

贈呈の車椅子に試乗する北村修治さん(ニンビン省)
ヒロシマナガサキ水俣足尾、その現場に実際にたってほしいと思います。外国ならベトナムです。ダイオキシンの被害は過去の話ではなく、未だに進行中なのです。

この手紙より先に日本に戻れますように。皆さん、お元気で。(終わり)
                          
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ハノイを離陸してすぐ、北村修治さんから頂いた孫への手紙のコピーを読み始めました。私が思うことのほとんどが、ここに入っていました。             
                                                       
読み進むうちに、涙が伝い落ちました。孫を思う強い気持ち。現場に立つことの大切さ、田中正造を引き合いに出して「悪を斬る」ことの重要さを優しい言葉で訴える北村修治さん。            
                          
孫とハノイへの夢を抱くおじいさん。そこには多くの人が見落としている大切なものを拾って歩こうという、孫との一種の共戦譜が描かれているように思えました。      
            
化学戦争という観点からみたら、ベトナムほどデータの揃っている戦場はありません。それは断言致します。その戦場を現場と言わずして何というのでしょうか。       
                                  
北村修治さんとの語らいは楽しい物でした。平和への示唆に富んだ語らいであり、真剣で、真面目で、大きな共鳴箱のなかで共鳴する心地よい響きでした。        
                                 
ご高齢ではあるが、大変お元気でした。今回の支援旅にご参加下さり、10日間を同行させていただいたことに、ひたすらの感謝を申しあげる次第です。         
                                    
どうか、今後ともお元気で。(北村元 記)Posted by Picasa