ダクト・ストーリー(上)
コントゥム省の省都コントゥムで話を聞いた後、私たちは、国道14号線ーこれは昔のホーチミンルートですーを北上し、アメリカ軍が1961年に初めてベトナムで枯れ葉剤を撒いたダクトに向かいました。コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会のビン会長みずから案内してくださいました。
そこで、私たちを待ってくれていたのは、当時の状況を知る3人と、さらに2人も加わってくれました。驚いたのは、朝7時から待っているとのこと。そんな早朝のミーティングを依頼した覚えはまったくないのですが、どういう連絡でそうなったかわかりません。まずはお詫びしまして、話をうかがいました。要約を掲載します。
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「1961年のダクトに何がおきたかと言いますと、ここがアメリカ軍からベトコンの基地と疑われたので、枯れ葉剤を巻いたのです。ダクレイとかダクト、そしてゴックリンという山がありますが、そこから撒いて、1区2区3区4区、そして6区までずっと撒きました。そして、ダナンの方までも撒きました。最初の目的というのは、草、食料の米とか、タピオカの芋など食料も食べ物もなくなるようにすることだったと思います。果物も枯れました。特に1968年から、大量に撒きました。
枯れ葉剤の撒布によって、大きな被害がでました。食べ物は、ほとんど枯れ葉剤に汚染されました。その汚染された食べ物を人々が食べましたよ。現在ダクトだけの被害者は800人くらいですが、一部の人は亡くなりました。また、一部の人には障害が出ています。飛行機から直接撒いたこともあれば、タンクから下ろして地上で撒いたこともあります。
トゥーさんは、1954年に軍隊に入隊。しかし1961年当時は、コントゥム省の役人でした。
「さっきも申し上げたように、アメリカの最初の意図は、枯れ葉剤を撒くことによって草が枯れるとか植物だけに影響するものだと言われましたが、実際は人間にも被害がありました。なぜ、まずダクトに撒いたのか?っていうことですが、ちょっと付け加えますとね、交通の要所であったことが理由にあげられるでしょう。軍が集結して、ここから北へ、ここから南へ行くところだからです。アメリカもこの辺を押さえておきたかったのではないですか。1961年から1971年まで、このコントゥムの1区から7区まで枯れ葉剤を撒き続けました。
前のダクト郡というのは広かったんですが、分割されて、現在ダクトの人口は4万人です。その中で800人程が被害者になっています。枯れ葉剤被害者としての国の手当を受けているのは、たったの39人です。家族の中で夫婦含めて4~5人も被害者がでているケースもあるのに、政府から手当を受けていない状態です。ベトナム人がアメリカ軍から大きな被害を受けているという状況は、今もかわっていませんよ」(つづく)
北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
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