枯れ葉剤撒布50周年に当たる今年、寄付をして下さった方々に厚くお礼を申し上げます。
1月18日 北村修治さま 支援金
4月01日 リンカーン瑞枝 さま 支援金
4月21日 鈴木嘉世子さま 衣類と 支援金
5月25日 松林美代子さま 高山竜司さま 支援金
6月01日 相澤 暢子 さま
7月16日 山本邦子さま お菓子と支援金
大切に使わせていただきます。
ダクトに行ってきました。ベトナムの中部高原地帯、コントゥム省の省都コントゥムから北へ行ったところです。ベトナム戦争では、ダクトの戦いがありました。これは、1967年11月3日から11月22日まで行われた一連の戦いを指します。写真は、仲間の治療を求めるアメリカ兵です。この戦いもいつかご紹介したく、後の機会に譲ります。
1月18日 北村修治さま 支援金
4月01日 リンカーン瑞枝 さま 支援金
4月21日 鈴木嘉世子さま 衣類と 支援金
5月25日 松林美代子さま 高山竜司さま 支援金
6月01日 相澤 暢子 さま
7月16日 山本邦子さま お菓子と支援金
大切に使わせていただきます。
ダクトに行ってきました。ベトナムの中部高原地帯、コントゥム省の省都コントゥムから北へ行ったところです。ベトナム戦争では、ダクトの戦いがありました。これは、1967年11月3日から11月22日まで行われた一連の戦いを指します。写真は、仲間の治療を求めるアメリカ兵です。この戦いもいつかご紹介したく、後の機会に譲ります。
ダクトに行くには、ハノイやホーチミンから飛行機でプレークまで行けば速いのですが、私は、ダナン~クアンガイ~バトー~ヴィオラク峠~コントゥム~ダクトと陸路を走りました。昔、ベトナム戦争を闘う兵士がとったであろう道のりです。途中の七曲りはたいしたことないと思いましたが、ヴィオラく峠のあたりになると、車酔いをしそうなうねりでした。
国道14号線上のダクトは、1961年8月10日に初めて枯れ葉剤が撒かれた地域です。コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会の会長。副会長にお会いして、聞かせて頂いた話を箇条書きにします。
「ご存知のように、1961年8月10日、H34ヘリコプターが、国道14号線のコントゥムの北部で枯れ葉剤を撒きました。これが、ベトナムで初めての撒布です。今年8月10日で、50周年を迎えます。その式典準備に、われわれは忙いです。本日、遠方を来てくださって、とても感謝しています。時間を作って、案内させていただきます。目撃者も生存しているので、いろいろと話しが聞けると思います。
北村さんたちが1989年からずっと資料を集めて本を出して下さったことに感謝しております。英語の冊子も出してくださったことは、われわれにとってもありがたいことです。枯れ葉剤の被害者はまだまだ多く、被害者の子供、孫まで続いています。
そして、環境問題にもなっています。
われわれ国民だけでなく、アメリカと闘うことに協力してくれる外国の理解ある方々にも、大変感謝しています。
枯れ葉剤問題は、今日とか明日に終わる問題ではなく、ずっと続く問題なので、われわれも、長期に闘うことを覚悟しています」
地図の中央右にDak Toという文字が見えます。そこを訪問しました。先程の話の中に、H-34というヘリコプターのことが出ました。
長くなるので、わずかな引用にとどめますが、アメリカ軍の資料の記述の中に、次のような文章がでてきます。
1961年8月10日。最初の落葉作戦の試験飛行が、コントゥム省北部の道路沿いで実行された。この試験飛行には、農薬ディノクソールを散布する殺虫剤液体撒布装置(HIDAL)を装備させた南ベトナム政府空軍のH-34ヘリコプターが使用された。
そのヘリコプターと同型機が下のヘリです。
コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会の話を続けます。
「コントゥムの被害状況を申し上げます。
コントゥム省には、311個のタンクが投下されましたが、撒いた総量は、合計で35万リットルになります。撒布面積は351ha、コントゥム省の5%に当たります。そのうち、エージェント・オレンジは3000リットル撒きました。エージェント・ブルー7万8千リットル。エージェント・ホワイトは、13万リットル。その他は、2万5千リットルです。一人当たり平均、4.8リットルの枯れ葉剤をかぶったことになります。
またダイオキシン換算で人口一人当たり6キロがばらまかれたことになります。ダイオキシンを85グラム水道に入れたら、800万人が致死に至る量であることを考えるとものすごい量です。
現在、コントゥム省の枯れ葉剤被害者は7千人です。その中で、国の手当を受けているのは800人だけです。私たちは、保健省にもっと認めるよう要請する活動をしています」
なぜコントゥムが最初に散布地に選ばれたのでしょうか?
「ダクトから18キロ北へ行ったところに、ゴック・ホイという所があります。そこは重要な交通の要所です。北から、西から、南からのルートが集まる所です。インドシナの交差点と言われています。ここに一度集まって、それぞれの戦場に向かう集合地点となっていました。そこに撒けば、他に集合するところがなくなるのではないか、それでアメリカは、まずコントゥムに撒いたのではないかと・・・思います。
私(副会長)も、1971年に・・そこから、戦場に行きました」
ここに試験的に散布するという選択は、Ngo Dinh Diemの意思と関係があると思いますか?
「調べてみましたが、ゴ・ディンジエム大統領とは関係ないと思います。61年からゴ・ディンジエム政権が始まりましたが、政権も知らなかったのではないか。また、枯れ葉剤というのは木や葉だけを枯らし、人体に被害があるというのも知らなかったのではないか。 私たちも草だけが枯れるという解釈でした。農家も草を刈らなくて済むというふうに宣伝されました。まさか、人間に影響があるとは思わなかったです。だから、今も、アメリカの会社はそういう説明で、賠償を拒否しているし、被害を認めていませんね」
「1961年から62年にかけて、このコントゥムに撒きました。その後中部にまきました。南部の東側、つまりクーチ、タイニン省、ビンズオン省に撒きました。そのあと、フエのアールオイ、アーサオなどに1971年まで、アメリカ軍は撒き続けました。このように段階的に撒きました。
更に少し追加させてもらうと、コントゥムを中心に結構撒いたのdすが、国道14号線沿いに北へ撒きました。一番撒かれたのは、ダクトです。その後サ・タイ(註:ベトちゃんドクちゃんの生まれたところ)です。カンボジア、ラオスとの国境周辺で、インドシナの交差点というところに撒いたのです」
もともっと色々とお話をうかがいましたが、これくらいにしておきましょう。
私が、一つ付け加えると、ヘリコプターは南ベトナム政府軍のヘリです。アメリカ軍のヘリではなかったようです。最初から、アメリカ軍が関与しているというのをカムフラージュしようとしていたのではないでしょうか。のちには、アメリカ軍機に南ベトナム政府軍のマークを貼り、南ベトナム政府軍の兵士の服を着て、散布活動をしています。
コントゥム省には、311個のタンクが投下されましたが、撒いた総量は、合計で35万リットルになります。撒布面積は351ha、コントゥム省の5%に当たります。そのうち、エージェント・オレンジは3000リットル撒きました。エージェント・ブルー7万8千リットル。エージェント・ホワイトは、13万リットル。その他は、2万5千リットルです。一人当たり平均、4.8リットルの枯れ葉剤をかぶったことになります。
またダイオキシン換算で人口一人当たり6キロがばらまかれたことになります。ダイオキシンを85グラム水道に入れたら、800万人が致死に至る量であることを考えるとものすごい量です。
現在、コントゥム省の枯れ葉剤被害者は7千人です。その中で、国の手当を受けているのは800人だけです。私たちは、保健省にもっと認めるよう要請する活動をしています」
なぜコントゥムが最初に散布地に選ばれたのでしょうか?
「ダクトから18キロ北へ行ったところに、ゴック・ホイという所があります。そこは重要な交通の要所です。北から、西から、南からのルートが集まる所です。インドシナの交差点と言われています。ここに一度集まって、それぞれの戦場に向かう集合地点となっていました。そこに撒けば、他に集合するところがなくなるのではないか、それでアメリカは、まずコントゥムに撒いたのではないかと・・・思います。
私(副会長)も、1971年に・・そこから、戦場に行きました」
ここに試験的に散布するという選択は、Ngo Dinh Diemの意思と関係があると思いますか?
「調べてみましたが、ゴ・ディンジエム大統領とは関係ないと思います。61年からゴ・ディンジエム政権が始まりましたが、政権も知らなかったのではないか。また、枯れ葉剤というのは木や葉だけを枯らし、人体に被害があるというのも知らなかったのではないか。 私たちも草だけが枯れるという解釈でした。農家も草を刈らなくて済むというふうに宣伝されました。まさか、人間に影響があるとは思わなかったです。だから、今も、アメリカの会社はそういう説明で、賠償を拒否しているし、被害を認めていませんね」
「1961年から62年にかけて、このコントゥムに撒きました。その後中部にまきました。南部の東側、つまりクーチ、タイニン省、ビンズオン省に撒きました。そのあと、フエのアールオイ、アーサオなどに1971年まで、アメリカ軍は撒き続けました。このように段階的に撒きました。
更に少し追加させてもらうと、コントゥムを中心に結構撒いたのdすが、国道14号線沿いに北へ撒きました。一番撒かれたのは、ダクトです。その後サ・タイ(註:ベトちゃんドクちゃんの生まれたところ)です。カンボジア、ラオスとの国境周辺で、インドシナの交差点というところに撒いたのです」
もともっと色々とお話をうかがいましたが、これくらいにしておきましょう。
私が、一つ付け加えると、ヘリコプターは南ベトナム政府軍のヘリです。アメリカ軍のヘリではなかったようです。最初から、アメリカ軍が関与しているというのをカムフラージュしようとしていたのではないでしょうか。のちには、アメリカ軍機に南ベトナム政府軍のマークを貼り、南ベトナム政府軍の兵士の服を着て、散布活動をしています。
北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & \support Vietnam Since 1990
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