コントゥム省の話をしたところで、アメリカ軍兵士が見つけた北ベトナム軍兵士の遺作画の話をしましょう。
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1968年、アメリカ軍は、ベトナム軍兵士のスケッチを発見しました。41年後、そのスケッチは、ベトナムに返却されました。しかし、スケッチを書いた兵士がどういう状態で戦死したのかはわからないままです。でも、アメリカ軍には何らかの記録が残っているのではないでしょうか?
ベトナム外務省とベトナム国防省国際局は、数年前から”抵抗戦争の遺産”を収集する運動を始めました。それに応えて、ベトナムで戦ったアメリカ軍の復員兵士、ウィリアム・ピアーズ将軍の家族が、ベトナム国内では、レ・ドゥック・トゥアンという名前でしられているベトナム軍兵士が描いた画がぎっしりつまったスケッチブックを返却しました。
”レ・ドゥック・トゥアン”が描いた数々の画は、戦争経験者を感動させただけでなく、若き兵士の献身的な犠牲に想いを寄せる人々に感動を呼び起こしました。
1968年3月、コントゥム省プレイクの解放戦線基地を破壊する索敵殲滅作戦の最中に、ロバート・B・シンプソン少佐(第四師団第八連隊第三大隊)は、レ・ドゥック・トゥアン兵士の物と思われるリュックの中に、スケッチブック、詩の本や私物を見つけた。
レ・ドゥック・トゥアン兵士の画には、生き返る強い運命と生命力があった。
シンプソン少佐は、画のうまさと画が持つ強い感情に心が動かされ、仲間の兵士が他の物と一緒に焼却処分にされないようにした。シンプソン少佐は、スケッチブックから3枚の画を引きちぎって、アメリカのベトナム研究センターで働く妻の元に送った。
「これらの画は最高のものではないが、”南下作戦”がトゥアンにどういう影響を与えたががわかるものだ」と書いて、シンプソン少佐は妻に書き送った。
第三大隊のアメリカ兵たちは、敵の内部事情を知る手がかりになると、スケッチブックを保存し、書かれたメモを英語に訳した。その後、ダクト、タンカイン(いずれもコントゥム省の地名)の戦闘の司令官であるウィリアム・ピアーズ将軍が、そのスケッチブックを受け取った。
1968年6月、アメリカの新聞”コロンバス・エンクワイアラー”が、 レ・ドゥック・トゥアンと彼の画について、特集を組んだ。記事には、こう書かれている。「これらの画は最高のものではないが、”南下作戦”がトゥアンにどういう影響を与えたががわかるものだ」と書いて、シンプソン少佐は妻に書き送った。
第三大隊のアメリカ兵たちは、敵の内部事情を知る手がかりになると、スケッチブックを保存し、書かれたメモを英語に訳した。その後、ダクト、タンカイン(いずれもコントゥム省の地名)の戦闘の司令官であるウィリアム・ピアーズ将軍が、そのスケッチブックを受け取った。
「 レ・ドゥック・トゥアンは、千マイルを歩いた。スケッチと画、詩は彼にとって大事なものに違いない。密林の中を歩いているときに、男は重要でないものは持たないものだ」と。
シンプソン少佐が引き剥がした3枚のスケッチを除いて、このスケッチブックには109枚の画が入っている。表紙には、”第三大隊の将校・兵士からピアーズ将軍へ”と書かれている。そして、次の頁には、”レ・ドゥック・トゥアンさん 従軍中の健康を祈る。あなたの親友 ホアン・トゥより 1967年3月15日” とのサインが。
スケッチブックの最初の画は、ほとんどが水彩で描かれている。その次には、グリースペン(顔料と油脂でできた芯を紙で巻いた鉛筆)で描かれ、その後には、デッサン用の木炭とインクで描かれた画が続く。レ・ドゥック・トゥアンの自画像は、うぶな若い時のの姿をえがき、裸足でボタンを外した制服姿を描き、あるいは、きちんと制服に身をまとった姿も描いている。
しかし、時間が経過すると、成長した、物思いに沈む表情の自画像となっている。その他の画には、レ・ドゥック・トゥアンがみた風景画も入っている。そして、170頁目の最後の画は、”中部高原地帯の通信用の裁縫のポーチ”という題名がついていて、1968年3月と書かれている。
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