2011-07-29

蓮の花奨学生からの便り(39)

ご寄付を頂きました

7月29日 奥井 悟さま(豪州) 習字道具一式20人分
ご好意に感謝し、頂戴致します。ベトナムで日越友好に役立つように使わせて頂きます。奥井さんは、シドニーのボンダイジャンクション、ダーリングハースト、ベトナム・ハノイの日本食レストラン「Wa」のオーナー・シェフです。当支援隊のサポーターです【愛のベトナム支援隊 北村 元】
お習字・国語(カラー)
蓮の花奨学生からの手紙がつづきますので、今日も3通をご紹介します。今日の3通は、ダナン市からのものです。最初はトゥオン君です。
+++
2011年6月15日
拝啓 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ
皆様、お元気ですか?仕事は順調にいっていますか?

この手紙で、私の学習成績を皆様に知らせたいと思います。今年の学習成績が良い成績になりました。来年、高校の2年生になります。

皆様の支援のお陰で、学習はとても順調に行き、感謝の気持ちが一杯で心からお礼申し上げます。

短い手紙ですが、皆様、お元気で、お体に気を付けて下さいね。
PHAN MINH THUONG より
トゥオン君 お手紙ありがとう。9月から高校2年生ですね。成績が良くなったということ。おめでとうございます。うれしいです。がんばってくれたんですね。どういう科目がよかったのか、今度会ったときに教えてください。
トゥオン君に去年、奨学金証書を渡してくれたあかねお姉さんは、今ハノイに住んでいますよ。グオイ・ハノイです。
私もこの間、ダナンに行きました。綺麗な都市になりましたね。また8月に行くのが楽しみです。今度はいろいろと話しを聞かせて下さいね【北村 元から】
+++

こんどは、チャン・ヴィエット君です。

2011年6月12日
拝啓  愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

皆様、お元気ですか?

愛のベトナムさわやか支援隊の皆様に私の学習だけではなく生活面でも心配して支援くださってとても嬉しく感謝の気持ちで一杯です。皆様の支援は私にとって何よりも大きな贈り物です。

心からお礼申し上げます。

短い手紙ですが、皆様、お元気でお体を大切にして下さい。

お世話になり有難うございます。

TRAN VIET より
ヴィエット君1 お手紙ありがとう。元気そうですね。
去年の8月からもうちょっとで1年が経ちます。どういう生活をしているのか、私たちは関心をもっています。学校のこと、家のこと、もちろん勉強のこと・・・色々と知らせてください。去年は、ダナンだけが、私たちと皆さんとの話し合いの時間がとれませんでした。今年は、ヒエン会長にお願いしてきましたので、話し合いの時間がとれます。私たちのことも知ってもらいたいし・・・
元気でお会いしましょう。【北村 元から】
+++
最後は、ホアン・ヴー・タイン・フエンさんです。
拝啓 愛ベトナムさわやか支援隊の皆様へ

皆様、お元気ですか?

去年の8月に、ベトナムに奨学金を贈呈に来て下さった支援隊の皆様に、お元気ですかとお伝えたいです。私が奨学金を頂いた時から、あっという間にもう一年になりました。支援隊から支援された奨学金は学業の為に使わせて頂いていますので、とても助かっています。感謝の気持ちでいっぱいです。
皆様が私の精神的な支えになってくださっているので、皆様をがっかりさせないように学校の成績で精一杯で頑張りたいと思っています。勉強に努力したおかげで、良い成績を獲得しました。皆様に喜んで頂けると思っています。全学習成績は「7.8」で「良」と評価されました。次の学年では「優」に達するように、目標を立ててしっかり勉強を頑張りたいと思います。

実は、日本の東北大震災や津波の被害のニュースなどを見た時に、皆様の事をすごく心配しました。被害がおきた時、ベトナムでは、私達青少年として、災害を受けた人々の為にお祈りの会を行い被災者の無事を祈りました。私達の祈りが届く事を願っています。

あのように大きな震災を受けても、日本人は「苦難を克服する」と言う気持ちと、いつも冷静で秩序を守り、力を合わせ協力し合える強い意志を持っている日本人だからこそ、世界の人々は日本人の精神力と忍耐力を見て感心するのだと思います。日本人のように精神力・忍耐力を持って、私もどんな困難があっても乗り越えたいと思います。皆様に私の事をガッカリさせないように良い人間になる為、しっかり勉強して将来は社会貢献したいと思っています。

最後に、皆様お元気で、どんな事があっても頑張って困難を乗り超えて下さい。そして被災地の一日も早い復興をお祈りしています。  かしこ

ダー・ナン2011年6月13日
HOANG VU THANH HUYENより
+++
フエンさん。お手紙ありがとう。しっかりと、そして立派に書かれたお手紙を読ませてもらいました。感動しています。
「良」の成績がとれたこと。おめでとうございます。とても、嬉しいです。そして、次の目標も書いてあるので、安心しました。その目標に向かって、毎日全力をあげましょう。

あれから、一年たとうとしています。あの時の眼科検診で、フエンさんが、奨学金の入った封筒で片目を塞いで検診を受けていたのを思い出します。おしゃもじなどを用意すればよかったのですが、こちらの準備不足ですいませんでした。フエンさんのあの時の姿が、なぜか強烈に私の脳裏に残っています。眼科検診で封筒は滑稽ですよね。

東北大震災のことで、お祈りの会を開いて下さったんですね。ありがとうございました。その時の事をもっと知りたいですね。そういうお祈りをの会が開かれたのというのは、初めて聞きました。東北の被災地の方々にいえば、喜びますよ。フエンさんたちの祈りは届いていると思いますし、私もまた、新たに届けるようにしたいと考えています。ほんとうにありがとうございました。祈りの会に参加した方々によろしくお伝え下さい。

苦しんでいる人たちに寄り添おうという気持ちはとても大事なことです。今度の震災で、「もうだめだ」「もう立ち上がれない」と思った人たちが、たくさんいたはずです。フエンさんたちのように、好意を寄せて下さった人たちの暖かい絆が、被災地の人たちに、立ち上がれるんだ、立ち上がらなくてはいけんないんだ・・という気持ちを育んでいきます。良いお話しを教えてくださいました。
8月にまた、お会いしましょう。【北村 元から】

北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

2011-07-28

蓮の花奨学生からの便り(38)


寄付金を頂きました
①7月25日 瑞枝・リンカーン さま(在豪州)
②7月27日 佐々木 あかね さま(在ベトナム)
ありがとうございました。大事に、有効に使わせて頂きます。 愛のベトナム支援隊 北村 元
蓮の花奨学生からのお便りのご紹介です。今回はニンビン省とダナン市から来た手紙のうし3通です。
ニンビン省のドー・トゥ・フエンさんからのものです。
+++

2011年5月25日
拝啓  愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

2011年3月11日に東北大震災や津波の被害を受けた方々にお見舞いを申し上げたいと思います。この災害は日本人が悲劇、損失等を抱えるだけでなく、世界にもパニックを引き起こしました。また、大震災が起きた所のガレキの画像をテレビや新聞などを見て、すごく心配しました。
「日本のこの災害を乗り越える」ために、日本に何かをしてあげたいという気持ちで一杯になりました。そのために、ベトナム共和国は勿論ですが、私の家族も日本へほんの少しお金を寄付をさせていただきました。この被害状況の中でも、日本人は冷静で皆で力を合わせ忍耐力を持って立ち向かっているからこそ、私はすごく日本人をとても尊敬をします。
フエンさん
昨年、皆さんにお会いした時、色々な応援していただきましたので、一生懸命勉強しました。各科目成績結果は全「優秀」で、それに全学校の数学試験は2位を獲得しました。

そして、次の新学期からはもっと良い結果を得る為に、毎日努力し続けます。私の夢は日本へ留学する事です。何故なら、ずっと前から、日本の科学技術の目覚しい発展と日本人の勤勉さ、厳しい自然条件の中でも頑張って克服する事などを聞くと、すごく憧れて、その様な日本へどうしても行って勉強したいと思っています。

私たちは愛のベトナムさわやか支援隊の皆さんに支援を継続してもらいと望んでいます。

最後に、皆さまと皆さまのご家族がお元気で、「ご幸福、ご成功」をお祈りしています。かしこ

DO THU HUYEN ドー・トゥ・フエン
フエンさん、全「優」 おめでとございます。数学も2番目ですか。数学が苦手だった私は、正直に尊敬します。私は中学校の期末試験で百点を取った自信があったのですが、答案用紙には百が消されて零点がついていました。先生に文句を言いに行きましたら、名前が書いてないからだと言われました。・・・それから、ひねくれて、数学は勉強しなくなりました。今頃反省しても、遅すぎるのですが。
フエンさんは、日本留学を目指していますか? 枯れ葉剤の被害者でアメリカ留学している人もいると聞きますが、ぜひ日本留学を勝ちとって下さい。日本留学は、決して楽では無いと思いますが、それはアメリカとて、同じと思います。
今年の奨学金贈呈式では、フエンさんに、サプライズがあると思います。お会いできるのを楽しみにしています。【北村 元から】
+++
次は、ダナン市のトアン君からのものです。

愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ
皆様、お元気ですか?

9ヶ月の学習が終わり、今日から3ヶ月くらいの夏休みに入りました。この夏休みが終わると、高校3年生になり、最後の学年ですから、頑張って勉強したいと思います。でも、体があまり丈夫でないので、高校を卒業したら、大学に進学できないと思います。

皆様、今まで支援していただき、本当にありがとうございます。3月11日の東日本大震災が起きて、多くの人々が亡くなり、現在でも、とても困難な生活している人々も沢山いると思います。私よりもっと困っている人々がいると思いますので、もし皆さんが、私にして下さったように支援してあげたら、喜ぶと思います。

(中略=プライバシーに関することが書かれていますので、カットしました)
 私の学習成績が「良」になりました。

最後に、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様、どうかお元気で、体を大切にしてください。

LA THANH TOÀN君 ラ・タイン・トアン 高校2年生
お母さんとトアン君
お手紙ありがとうございました。
東北の震災に想いを寄せてくれてありがとうございます。そして、いよいよ、最後の高校生活ですね。「良」になったのはよかったですね。体が不自由で勉強も大変だったと思います。よく頑張って勉強をされたと思います。尊敬します。大学への進学の希望はあるんでしょ? 体のことが問題なのでしょうか? まだ考える時間はたっぷりあるし、今年訪問したときに、また話しあいをしましょう。
東北の人たちも、明日に向かって立ち上がっています。トアン君も、将来に向かって進んでください。
元気で、会いましょうね。【北村 元から】

+++
次は、ダナン市のグエン・トゥイ・ハンさんのお手紙です。

ダー・ナン、2011年6月13日
拝啓 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様と宮尾和宏さんへ

時間が早く通り過ぎて、後2カ月で静岡の支援隊の方々から奨学金を受け取って丸一年になります。これは2回目のお手紙です。

皆様はお元気ですか?仕事は順調に行っていますか?
私は東日本大震災・津波の被害で日本の国民の皆様の悲劇に心を痛めています。心からお見舞いを申し上げたいと思っています。私達は災害復旧を心から応援したい気持ちでいっぱいです。どんな苦難に遭っても勇気と強調の精神を持って立ち向かう日本人をみていると、とても感心し、心から尊敬します。

最近、私の健康はあまり良くありません。特に、天気が激しく変わると、よく病気になりますが、母に心配をかけさせないように我慢しています。
ところで、今年の後期の試験が終わり、2年生の最終成績は「良」になりました。そして、夏休みは一週間で、健康診断の為に、ハノイに行くつもりです。

3年生になって元気な体、丈夫で健康になることを望んでいます。そして勉強が順調に行く事を願っていますが、現在の健康の状態が自分で十分分かっていますので、出来るだけ無理の無いように頑張りたいと思います。

最後に、特にダー・ナン市でベトナム戦争の枯葉剤の被害者に対しても愛のベトナムさわやか支援隊の皆様から支援を受け続けることを心から願っています。今まで、大変お世話になりまして、心から感謝します。それに、支援隊を応援して下さっている方々にも宜しくと申し上げたいです。皆様、何時までもお元気で、幸せになるようにお祈りしています。

NGUYEN THUY HANG(グエン・トゥイ・ハン)より
ハンさんの綺麗な手紙 
ハンさん、お手紙ありがとうございました。ハンさんの写真が、実はないんですよね。それは去年の8月16日の奨学金贈呈式に、病気のために出席できなかったからですね。今年は、絶対にお会いしましょうね。「絶対に出席するんだ」と心に決めてください。
体の調子があまりよくないようで、心配になります。しかし、一生は長いです。無理せず、長い間かけて勉強するようにしましょう。生涯勉強です。
ところで、6月12日の日曜日、枯れ葉剤被害者の代表の一人としてスピーチをしたそうですね。良い経験をしましたね。今度あったときに、その内容を教えて下さい。興味があります。
東北の人々のことを心配してくれてありがとうございました。東北の人も、大変です。まだ、会ったことも無い人からの絆に元気づけられています。現地の子供達が一番安心する言葉は、「大丈夫だよ」という言葉だそうです。被災した方々は、ほとんどがゼロからの出発です。物の復旧も大事ですが、「心」の復旧もとても大事です。でも、「まげてたまっか」と東北弁で、少しずつ立ち上がっています。後ろを向いてもしかたがありません。皆前を向いて、上を向いて進んでいます。お金や物の支援だけが支援ではありません。離れていても、寄り添う気持ちが嬉しいのです。
8月には、元気なお顔を見せて下さいね。【北村 元より】Posted by Picasa

2011-07-27

蓮の花奨学生からの便り(37)

今日は、ニンビン省から来た3通の手紙です。
まずは、明るい笑顔のタオ・ランさんからです。

拝啓 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

皆さま、お元気ですか?健康と成功をお祈りしたいです。

皆さんは去年、ニンビン省へ来まして、経済的に苦しい家族の中で私たちに奨学金を出して下さり、すごく嬉しかったです。心から感謝の気持ちで一杯です。皆さまの期待通りに、私の学習成績は2年間連続で「優と良」の結果を得ました。

ところで、テレビで東日本大震災や津波のニュース等を見て、私の心は痛みます。日本国民の皆様に、この災害を乗り越えて、「頑張ってください」と言う応援の言葉をお伝えしたいと思います。

そして、私自身も、支援隊の皆様とニンビン省の枯葉剤被害者協会の方々の期待にお応えできるように、勉強を精一杯頑張りたいと思っています。

最後に、愛のベトナム支援隊の皆様!お元気で、お体を大切になさって下さい。   かしこ

2011年05月28日
DUONG THI THAO LAN 
ズオン・ティ・タオ・ラン
ランさん、「優と良」おめでとうございました。よかったですね。枯れ葉剤被害者協会の方が、「成績が少し上がってきました」と、仰っていました。立派です。そして、頑張ってくれてありがとうございました。私は、ランさんの去年の奨学金証書に「苦労すべきときに苦労し、勉強すべき時に勉強するのが、幸福な青春です。それが、一生涯の幸福の礎石となります。若い時に楽をし、苦労しないのは、もっとも不幸な青春です」と、書き入れました。その気持で、この1年間も頑張ってください。また、お会いしましょう。【北村 元から】
今度は、ディン・ティエン・コン君です。

2011年05月30日 NINH BINH

拝啓 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ
 私はディン・ティエン・コンです。2010年に蓮の花奨学金を頂いた者です。今日、学校へ行く時間がまだ早いので、皆さまにお手紙を書く時間があります。

「皆さまのご健康、ご成功を」という私の気持ちをお伝えしたいです。蓮の花奨学金を頂き、私たちは将来の希望を持つことができました。何よりも有難たく心から感謝しています。今年、私は高校の3年生で、人生の中で一番大事な時期です。自分自身、良い成績を目指して、勉強を精一杯で頑張ります。学校の勉強以外、夜の塾にも通っていますので、すごく大変です。しかし、家族、先生の方々と友達に応援して頂いて、辛い事を乗り越え、勉強をもっともっと頑張りたいと思っています。

今年の成績はクラスの中で2位を獲得しました。それに学校から良いリーダーとしての表彰状も頂きました。そして、皆さんの期待通りに高校の最終卒業試験は良い点数を習得できるように、頑張りたいと思っています。

ところで、2011年3月のメディアから、東日本大震災や津波の影響で何千何万の方々が死亡と行方不明になったとの報道を見て、私の心は痛んでいます。それに、工場や家などが破壊されて日本の経済にも影響を与えているようです。

2011年3月18日、インターネットで「少年と食べ物」という日本人の警察官(ベトナム人のハーフ)からの話を読んで、涙が止まりませんでした。なぜなら、その話では、災害の中で他の人に迷惑を掛けないために、お腹が空いても、長い列の中で食糧を順番でもらえるようになるまで我慢している9歳の少年の話を読んでとても感動しました。そして、日本は絶対に早く復旧、復興することを信じている、という記事が書いてありました。私もそう信じています。この手紙を通して、大震災を受けていた人々にお見舞い申し上げたいと思います。

私はもうそろそろ登校する時間になりました。手紙はここまでです。最後に、皆さま、どうかお体を大切になさってください。敬具

 DINH CONG TIEN ディン・ティエン・コン ↓
高校卒業おめでとうございます。2番目の成績、おめでとうございます。証書を読んで贈呈した私の奥さんも喜んでいました。蓮の花奨学金を運営している私たちの希望の星です。
また、日本の東北大震災にいろいろと関心を持ってくれてありがとうございました。東日本の人たちも、大変な中、復興へ向けて立ち上がっています。心の中で応援して下さい。
昨年、日本のある女性大臣が、「2位ではいけないんですか」と、発言し物議を醸しました。いろいろな意味を含んでの話ですが、2位でいいということはありません。1位を狙うべきです。2位で良しと甘んじる心がよくありません。
8月に会う時には、大学が決まっていますね。握手させてください。【北村 元から】
3人目はラム君です。
ラム君は、下の写真ですが、上のイラストも似ていると思いませんか?

拝啓  愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

私はグエン・コン・チュ高校の1年生で、ホアン・ホン・ラムです。2010年と2011年の成績をご報告します。

学習について

私は病気があっても、学校へちゃんと行きます。授業の中でよく聞き、メモをしっかりノートに記入します。家へ帰りましたら、すぐに宿題をして、予習もします。学校で勉強以外夜も塾に通っています。勉強が終わったら、お母さんの家事も手伝います。

2010-2011年の成績:

■数学:5.7  物理:5.5  ■化学:5.7  ■生物:5.7  ■パソコン:5.3 ■文学:5.7
成績評価:中


マナーについて

国の法律と学校のルールを守り、家族の中で常に良い息子です。 今年の夏休みは学校の活動を参加し、新学期のために勉強を予習します。

今年の成績を皆さんに報告しました。最後に、皆さまが「ご健康、ご幸福」になるようにお祈りしています。体を大切にしてください。   敬具

2011年5月  
HOANG HONG LAM 
ラム君の笑顔はいいですね。
去年の奨学金証書に「「夜はどんなに長くとも夜明けは必ず来る」は、アフ
リカの諺です。勝利の朝を開いてください・・」と、書き入れました。辛い時もあるかもしれません。今がそうかもしれません。しかし、どんな窮地に追い込まれても、弱気は禁物です。自分に負けてしまうことが一番怖いんですよ。ひたすら時を待って、忍耐・執念・気迫・勇気を欠かさないように・・。どんな時でも、陰で応援してくれている人が必ずいます。希望をいだいて進んでください。一歩でも二歩でもね。【北村 元から】

上は、ニンビン省の2010-2011年の奨学金受領者の記念撮影です。


北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

2011-07-25

蓮の花奨学生からの便り(36)

久しぶりに、蓮の花奨学生からの便りをご紹介します。このすぐ前のブログの記事が、ニンビン省のディエン君でしたので、ディエン君の手紙をご披露します。
今、ニンビン省は収穫の季節です。ディエン君の家の前の通りには、刈ったばかりの稲が干されています。その上を人が通っていきます。収穫の季節、ベトナムのどこでも見られる風景です。
ちょっとした大きな通りにも、稲を広げて乾燥します。
拝啓

愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

私は1990年8月12日に生まれ、ホア・ルー高校の3年生で、トン・ヴァン・ディエンです。
住所:(北村:省略しました)
 東日本大災害や津波の被害状況をテレビやインターネットのニュースなどを通じて見て、心が痛みます。

ところで、私は2010年に皆さまから奨学金を頂きました。すごく感動しています。学校で一番優秀になりますように勉強を精一杯で頑張りたいと思います。

今年の高校の卒業試験が終わりましたら、大学の進学の試験も一生懸命勉強します。自分の将来のために、一人前の男性として社会に貢献したいと考えます。

私の家族も、皆さんから援助と応援を頂いて、心から感謝しています。

最後に、皆さまもどうかお元気で、「ご健康、ご幸福」になるようにお祈りしています。      敬具
 

こういう決意が述べられています。ディエン君は、もう高校を卒業しました。旅行・観光関係の短期大学への入学を希望していました。その希望を達成できるように、応援したいと思います。8月には、合格の話を聞ければいいなあと、願っています。
上は、お父さんとお姉さんに挟まれた、ディエン君です。
家の前庭は、穫(と)たれたばかりの籾つきの米がびっしりと敷き詰められていました。これでも、一家が一年食べていくにはたりないとのこと・・・苦学してでもなんとしても、学問を修めてもらいたいと強く私たちは願っています。

北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam
<本ブログの写真・記事の無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

2011-07-24

トン・ヴァン・ディエン君宅を訪問

ニンビン省の枯れ葉剤被害者協会との話し合いで、ディエン君の家の生活はかなり厳しいと聞いて、急遽訪問しました。
+++
前は、別の所に住んでいたそうですが、支援する企業のお金で家が建ちました。「以前の家は、住むのに大変だった」と協会の方が言っていましたので、新しい家になって、生活環境も少しは快適になったようです。

ディエン君(写真下。メガネの青年)は、いま(6月)受験勉強中。物を見るときに、少し顔を上に向けるようにしてみる癖があるのですが、それはなぜなのだろうかと思いました。
ディエン君は、今メガネをかけていますが、外すと霞んでよくみえなくなり、字は読めないそうです。メガネ無しでは「黒板の字も見えない」と言います。メガネ無しで教科書や本を読もうとすると、目が痛くなるそうです。夜になると、更に視力が落ちると言います。
良く見えない理由は近視だと、本人は言われているそうです。ベトナム流にいうと2.0だそうですが、残念ながら、国際的な基準に換算するとどういう差があるのか、私には分かりません。まだ手術はしていませんし、手術で解決できるかもわかりません。お父さんも目が霞んでいて、あまり良く見えないそうです。
「中学校の時は、余り勉強しなくてもよかったですが、高校に入ると勉強の量が違いますので、視力の衰えは厳しいです」と、ディエン君は言います。勉強力が一番伸びるこの時期に、視力の衰えに勉強を遮られるのは痛いです。

「ハノイで度数をはかってもらって、ニンビンに帰ってニンビンで買います」と言いますが、物価の高いハノイではなくて、少しでも安い地元のニンビンでメガネ作りをするのでしょう。

いま、自分でできる家の手伝いは、食事を作ること。後は掃除したりする。「勉強に集中したい」と言うのですが・・・。「度が変わってきたので、そろそろメガネも買わなくてはなりません」
目の手術をうける予定はあるのですか?ト聞くと、「希望していますが、いつになるかわかりません」という答えでした。
日本の先生の検診を受ける気持ちはありますか?と聞いてみました。
「そうなれば、ありがたいです。なおるものなら、とてもうれしいです」と、言いました。私たちは、ハノイを中心にボランティアの治療を続けていらっしゃる服部先生には、すでにお話をしてあるのですが、ディエン君には「まず正確な診断を受けましょうね」と、伝えました。
「旅行・観光業の関係学部のある短期大学を目指したい」と希望するディエン君にとって、きちんと見えるようになることは大事なことです。
マンさん ディエン君 お父さん
日本の先生の検診を受ける気持ちはありますか?と聞いてみました。
「そうなれば、ありがたいです。なおるものなら、とてもうれしいです」と、言いました。私たちは、ハノイを中心にボランティアの治療を続けていらっしゃる服部先生には、すでにお話をしてあるのですが、ディエン君には「まず正確な診断を受けましょうね」と、伝えました。

「旅行・観光業の関係学部のある短期大学を目指したい」と希望するディエン君にとって、きちんと見えるようになることは大事なことです。
昨年8月のディエン君(左端)
ディエン君のお父さんは、枯れ葉剤の被害者。お父さんは、1966年に入隊し、南部のタイニン省で従軍。カンボジアを行ったり来たりした。飛行機から枯れ葉剤を散布している様子は、当然「何度も見ている」と話していました。

大きなタンクを投下しているのをみたそうです。そこから、液体がでてきた。「オレンジ色の・・・」と言いましたが、これは勘違いでしょう。枯れ葉剤は、基本的に無色ですから。

お父さんは、米や物資を運ぶ輸送部隊でした。驚いたことに、抗仏戦争の時と同じように、「物資を自転車で運んでいた」と言いました。チュオンソン山脈の方も行ったそうですが、「輸送は歩くか自転車だった」と話していました。

お父さんの健康はどうですか?

「体が弱くなっています。体全体に骨が痛いです。この家を建ててもらってからは、いくらか体がよくなりました。古い家の時は、寝たきりの時もありました。家を建ててもらって嬉しいので、少し元気になりました。政府からの手当は、二級の手当で月120万ドンです。ディエンの兄も二級の手当で71万7千ドンを受けています。ディエンは、まだ認定されていません」
強い日差しの中で米を乾かすお嬢さん
奥さん(59歳)も小柄で痩せているそうです。それでも、この家では、男の子がいながら、女性が重労働をしなくてはなりません。

ここには5人が住んでいます。両親 兄(重い精神障害=服を着せてもすぐ破ってしまうので、いつも裸のままで、別の部屋にいる) 姉(とん・ティ・マンさん=23歳 五女) ディエン君は末っ子です。


兄弟姉妹は7人。長女 次女 長男 三女 四女 五女 次男。この家庭では、特に息子に障害がでているようです。

収穫の季節は、朝は四時から、午後は二時から畑にでるそうです。このご家庭では、五女のマンさんが結婚して家をでたら、大きな働き手を失い、大きな問題を抱えることになります。

自宅の畑の広さは、2880平米。米は、1年1回の収穫しかできないそうです。今の収穫が終わると、雨季になって、水浸しになって畑が使えなくなる、と言います。

米は1トン(精米の前の状態か?)取れるそうですが、一家が一年食べていくには全然足りないのです。

足りない分は、「買うしか無い」と、お父さんは言いました。「しかも、最近は、米の値上がりがすごいので、結構高いです」と。

この家で、田植えや米の収穫など農作業ができるのは、お母さんと長女マンさんしかいません。お父さんもディエン君も農作業はできません。

長女マンさんは、毎日12キロを自転車通勤して、縫製工場で働いています。「仕事は安定していない」と言いますから、季節労働者に近いかも知れません。

裸のママのお兄さん
枯れ葉剤被害者家族の一例です。
まずは、ディエン君の眼の状態を正確に把握することから初めてみようと思います。

北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>


Posted by Picasa

2011-07-23

ニンビン省枯葉剤被害者協会との話し合い

2011年6月に、ニンビン省の枯葉剤幹部との話し合いをしました。
ここにその概要を掲載します。私たちはニンビン省の生徒・学生合計8人に奨学金を贈呈してます。差支えのある個人情報については、掲載してありません。
ニンビン省の田舎の風景・1995年・筆者撮影
クアック・タイン・ミエン会長から、次のようなご挨拶がありました。

本日、再会できてとてもうれしいです。会長、副会長として、まず皆様のご健康をお祈り申し上げます。今回の下見のご旅行が大きな成果を達成されますように祈っています。
日本で大震災が起きたことで、国民の皆さんも大変だったと思います。
被災された皆さんが、復旧のために、困難を乗り越えようという姿勢に感銘を受けております。ささやかなものですが、私たち枯れ葉剤被害者としても義援金を出させていただきました。ニンビン省の市民を代表して、日本の皆さんが早く復旧を成し遂げられるように祈っています。
愛のベトナム支援隊らは、毎年のように奨学金を与えてくださり、とてもありがたく感謝しています。
これから、ティン副会長から報告してもらいますが、奨学金を受けている子供たちの大変な励ましになっており、勉強も頑張っています。今は学期末ですが、成績もとても上がってきています。奨学生の現状などについて、お話しをしたいと思います

そして、ティン副会長から奨学生についての種々説明がありました。

「ニンビン省のVAVAの代表の一人として、奨学金の支援に対して皆様に御礼を申し上げたいと思います。また皆様の一層のご活躍をお祈り申し上げます。
今回の地震、津波、原発事故など大震災で大変だったと思いますが、われわれ枯れ葉剤の被害者として、又、ニンビン省の住民として義援金を贈らせていただきました。日本人が困難な時でも団結して、早い復旧の実現を目指している姿勢にとても感激しています。
そういう状況のなかで、引き続きこういう活動を継続してくださって、感謝申し上げます。
ミエン会長からのご下命で、私ティンが、子供たちについて、報告させていただきます。
2010年11月と2011年5月に、愛のベトナム支援隊にお手紙を出すということが、昨年の約束でした。生活のこと、成績のこと、大震災のお見舞いについてふれるように子供たちに連絡いたしました。(北村註:手紙をくれた率は、ダナン市についで、ニンビン省が二番目です)
現在、子供たちの手紙を何通か預かっております。日本に送ろうと思ったのですが、皆様が近いうち来られるとうかがったので、本日お渡しします。
それでは、奨学生6人について、ご報告いたします。
ディン・ティエン・コン君: 今、高校三年生です。優秀な成績で、クラスで二番目で、級長も務めています。これから、大学受験です。彼なら、必ず大学に入れるのではないかなと自信を持っています。

トン・ヴァン・ディエン君: コン君とおなじく、今年高校を卒業します。ディエン君は、勉強はかなり大変です。枯れ葉剤の被害者であるお父さんの影響を受けて、視力が落ちてきています。昨年奨学金を受けた後、ニンビンで目の手術をしました。家の経済はとても大変で、貧しいです。家も建てられない状況で、昨年一企業からの助成金を受けて家を建てました。ディエン君のお兄さんは、生まれつきの精神障害をもっています。われわれ枯れ葉剤被害者協会としても、多方面に声をかけて、被害者の生活改善に努力しています。

ディエン君が、このまま大学に入るのは、(視力のために)とても難しいと思います。
レ・ティ・タイン・スアンさん: 今年5月に短期大学を卒業しました。彼女の次の奨学生の候補を探します。

ズオン・ティ・タオ・ランさん(田鶴子・テイさん支援): ニンビンの医療短期大学に通っています。成績少し上がってきました。あと卒業までに一年です。また一年奨学金を贈ってやってください。
ドー・ティ・フエンさん:(川津康代さん支援) 今年9月から高校三年になります。良く勉強できています。数学が得意です。優秀な学生です。高校は後一年です。このままでいくと、大学はどこかに入れると思います。又引き続き、支援をお願いします。

ホアン・ホン・ラム君:(相澤暢子さん支援) 今年高校二年が終わって、9月から高校三年になります。お父さんの影響をうけて、同じ障害が出てきました。あと高校生活は一年ですが、障害のために、大学進学がぎりぎりのところです
 
お話をうかがっていて、ニンビン省枯葉剤被害者協会の誠実さを感じました。情報の交換はとても大事で、有意義でした。
 
北村 元 愛のベトナム支援隊
Lovve & Support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

2011-07-21

枯れ葉剤撒布50周年 ダクトで(下)

募金活動1
東京・町田市の小林 健人さま 登和子さま ご夫妻から寄付金が送られてきました。
大変にありがとうございました。奨学金に使わせていただきます。節電でむさくるしい中、ベトナムの生徒学生に想いを寄せて下さり、ありがとうございます。
厚く厚くお礼を申し上げます。

Dak To ストーリー(2)
Nguyen Van Tuyen (85歳)さん
トゥエンさん
8月10日の午後1時か2時頃でした。アメリカ軍が撒いたのを目撃しました。自分が見た色は白もありましたし、オレンジ色に見えたのもありました。珍しかったので、アメリカの飛行機が去ってから、撒いた所に見に行きました。最初は、どういうものなのか、何なのか分かりませんでした。ベトナム軍がそのあと調べたら、これは普通の液体ではなくて、枯れ葉剤のようなものだと初めてわかりました。(北村註:枯れ葉剤と分かるまでに、相当時間的な経過があったと、私が会った当時の軍医やベトナム人科学者の話から推察します)」
当時私は、食糧、武器などを調達して軍に運ぶ輸送の担当でしたが、軍の中の行政機関にあたる軍人民委員会副委員長でした。
最初撒かれた時は、さきほども言いましたように、何が何だかわからなかったので、市民が見に行きました。軍も調べました。タンクの中に武器が入っているのか、爆弾が入っているのではないか、いろいろと情報を集めて、やはり最終的には薬品だということになりました

トゥエンさんの話は短いものですが、1961年8月10日の撒布を直接目撃した証言として貴重です。いままでどこの文献にもなかったものです。市民の心理として、大変よくわかる気がします。しかし、その液体に触れたりしたら、危険なことでした。トゥエンさんも触れたのかも知れません。
トゥエンさんは、心臓病を患っています。他には、「この3年、全身に痒みがでてきました。病院に行きましたが、治せないと言われました」と言っています。
被害者としての認定はまだで、申請中ということでした。85歳になられても、申請中はしんどいものがあります。

ダクト市のロン会長
私は、1961年8月10日当時は、まだ軍隊に入っていません。私が軍に入ったのは1965年です。最初は、北部にいました。
 こちらに来たのは、戦争が終わった1975年4月30日のサイゴン陥落後です。その前は、クアンチにいました。しかし、クアンチでも17度線以北にいたので、枯れ葉剤は浴びていません
 ダクトは1972年に解放されました。1975年にこちらにきましたので、人々は普通の生活に戻っていました。我々は軍に入っていましたが、軍から一般の行政機関に移って(註:南ベトナム政府が潰れたので、一時的に軍が代行したことを話しています)、この街づくりに力を尽くしました。
この辺は森林がいっぱいあった所ですが、大きな木でも葉が全部落ちました。いまでも、そのままになって、根っこのまま残っている木もあります
コントゥム省の被害者協会の方々
1975年にきましたが、ゴックリン山系からゴックトゥーという所まで、木は枯れて、何も生えていませんでした。その後、草が生えてきましたが、乾期が来ると自然に燃えてしまって・・また生えてきて、また自然に燃えてしまう・・・その繰り返しでした。そして現在、緑は再生されましたが、ベトナム政府がカネを出して、いろいろな木が植樹されたからです。だから、緑が戻りました

ベトナム政府 保健省の規定があって、枯れ葉剤被害適用の17の疾病該当しないと認定されません。それで、ここでは、今のところ39人しか認定患者になっていないのです。後30人の追加認定を求めて、申請中です。800人の被害者という数を考えれば、まだまだ認定患者は少ないです」と、被害者の声を代弁していました。
ダクトのすぐ近くにあった旧アメリカ軍の飛行場跡 滑走路が見えます。
もう一人、ア・リ・キウさんという52歳の方が見えていました。この方は、1959年生まれでした。

1961年8月10日当日は、ダクトにいましたが、その時は、1~2歳でしたので、何も知りません。自分が枯れ葉剤撒布をみた記憶があるのは、1968年1969年頃です。白かったのを覚えています。山脈の上空を飛んで、撒いているのを見ました。自分の村には被害者がいますが、幸いに私の家族には被害者は出ていません

最後にダクト市枯れ葉剤被害者協会のロン会長から丁寧なお言葉を頂戴しました。
「遠方からいらしてくださってとても感謝しています。われわれ軍人にとって、日々危険な状況に置かれたので、撒かれたものが何だったのか、枯れ葉剤とわかってもどういう物だったのか、全然気にしませんでした。
すぐ死んでいくということがなかったので、関心がまったくありませんでした。その後、今日まで被害が残っているので、メデイアも取り上げてくれるのですが、当時は、殆ど枯れ葉剤について話すことはありませんでした。
皆様ご関心の8月10日はどうだったのかということですが、コントゥムにとって8月10日だけでなく、毎日そして、何回も撒かれたのです。枯れ葉剤が入っていたタンクも、かつてはたくさんありました
メディアの皆さんにお願いしたいのは、世界中の人々に、ベトナムで枯れ葉剤が撒かれたということを伝えてほしいです。
皆さんが無事にご帰国されることを祈っています。ありがとうございました」

私からも、ご挨拶させてもらいました。
「被害の状況を多くの人に知らせ、少しでも多くの被害者が心やすまる状態になれるように微力ながら努力してきましたが、その戦いはまだまだ続けなくてはならないと思います。また、皆さんにお会いする機会を作って、支援運動の意識を高めていきたいと念じております。
今日は貴重な時間をありがとうございました」
+++
被害者は南部一帯はおろか、全国に広がっており、枯れ葉剤が人の生命、遺伝子を傷つけた他、未だ十分に緑の再生を許さない所があることをみれば、この戦争の負の遺産は、あまりにも大きすぎると想うのです。
北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

Nguyen Thanh Long(64歳)さんDak To市被害者協会会長

2011-07-20

枯れ葉剤撒布50周年ダクトで(上)

ダクト・ストーリー(上)
コントゥム省の省都コントゥムで話を聞いた後、私たちは、国道14号線ーこれは昔のホーチミンルートですーを北上し、アメリカ軍が1961年に初めてベトナムで枯れ葉剤を撒いたダクトに向かいました。コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会のビン会長みずから案内してくださいました。
そこで、私たちを待ってくれていたのは、当時の状況を知る3人と、さらに2人も加わってくれました。驚いたのは、朝7時から待っているとのこと。そんな早朝のミーティングを依頼した覚えはまったくないのですが、どういう連絡でそうなったかわかりません。まずはお詫びしまして、話をうかがいました。要約を掲載します。
+++
トップバッターは、今年84歳のレ・スアン・トゥさんです。84歳・・お元気そうですね。嬉しくなりました。トゥーさんは、8月10日にはダクレイという所にいて、ダクトにはいなかったそうで、撒き始めの10日のことは知りませんでした。しかし、61年から68年まで、そして、72年から73年にかけては、何度も撒布を見たそうです。後の部分の72年から73年の撒布は、もうアメリカ軍は撒いていませんので、これは南ベトナム政府軍による撒布になるものと思われます。

1961年のダクトに何がおきたかと言いますと、ここがアメリカ軍からベトコンの基地と疑われたので、枯れ葉剤を巻いたのです。ダクレイとかダクト、そしてゴックリンという山がありますが、そこから撒いて、1区2区3区4区、そして6区までずっと撒きました。そして、ダナンの方までも撒きました。最初の目的というのは、草、食料の米とか、タピオカの芋など食料も食べ物もなくなるようにすることだったと思います。果物も枯れました。特に1968年から、大量に撒きました。

枯れ葉剤の撒布によって、大きな被害がでました。食べ物は、ほとんど枯れ葉剤に汚染されました。その汚染された食べ物を人々が食べましたよ。現在ダクトだけの被害者は800人くらいですが、一部の人は亡くなりました。また、一部の人には障害が出ています。飛行機から直接撒いたこともあれば、タンクから下ろして地上で撒いたこともあります。
トゥーさんは、1954年に軍隊に入隊。しかし1961年当時は、コントゥム省の役人でした。

さっきも申し上げたように、アメリカの最初の意図は、枯れ葉剤を撒くことによって草が枯れるとか植物だけに影響するものだと言われましたが、実際は人間にも被害がありました。なぜ、まずダクトに撒いたのか?っていうことですが、ちょっと付け加えますとね、交通の要所であったことが理由にあげられるでしょう。軍が集結して、ここから北へ、ここから南へ行くところだからです。アメリカもこの辺を押さえておきたかったのではないですか。1961年から1971年まで、このコントゥムの1区から7区まで枯れ葉剤を撒き続けました。
前のダクト郡というのは広かったんですが、分割されて、現在ダクトの人口は4万人です。その中で800人程が被害者になっています。枯れ葉剤被害者としての国の手当を受けているのは、たったの39人です。家族の中で夫婦含めて4~5人も被害者がでているケースもあるのに、政府から手当を受けていない状態です。ベトナム人がアメリカ軍から大きな被害を受けているという状況は、今もかわっていませんよ」(つづく)

北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa

2011-07-17

北ベトナム軍兵士の遺作画

コントゥム省の話をしたところで、アメリカ軍兵士が見つけた北ベトナム軍兵士の遺作画の話をしましょう。
++++

1968年、アメリカ軍は、ベトナム軍兵士のスケッチを発見しました。41年後、そのスケッチは、ベトナムに返却されました。しかし、スケッチを書いた兵士がどういう状態で戦死したのかはわからないままです。でも、アメリカ軍には何らかの記録が残っているのではないでしょうか?
ベトナム外務省とベトナム国防省国際局は、数年前から”抵抗戦争の遺産”を収集する運動を始めました。それに応えて、ベトナムで戦ったアメリカ軍の復員兵士、ウィリアム・ピアーズ将軍の家族が、ベトナム国内では、レ・ドゥック・トゥアンという名前でしられているベトナム軍兵士が描いた画がぎっしりつまったスケッチブックを返却しました。
”レ・ドゥック・トゥアン”が描いた数々の画は、戦争経験者を感動させただけでなく、若き兵士の献身的な犠牲に想いを寄せる人々に感動を呼び起こしました。
出撃前の訓示か
1968年3月、コントゥム省プレイクの解放戦線基地を破壊する索敵殲滅作戦の最中に、ロバート・B・シンプソン少佐(第四師団第八連隊第三大隊)は、レ・ドゥック・トゥアン兵士の物と思われるリュックの中に、スケッチブック、詩の本や私物を見つけた。
レ・ドゥック・トゥアン兵士の画には、生き返る強い運命と生命力があった。
シンプソン少佐は、画のうまさと画が持つ強い感情に心が動かされ、仲間の兵士が他の物と一緒に焼却処分にされないようにした。シンプソン少佐は、スケッチブックから3枚の画を引きちぎって、アメリカのベトナム研究センターで働く妻の元に送った。

「これらの画は最高のものではないが、”南下作戦”がトゥアンにどういう影響を与えたががわかるものだ」と書いて、シンプソン少佐は妻に書き送った。

第三大隊のアメリカ兵たちは、敵の内部事情を知る手がかりになると、スケッチブックを保存し、書かれたメモを英語に訳した。その後、ダクト、タンカイン(いずれもコントゥム省の地名)の戦闘の司令官であるウィリアム・ピアーズ将軍が、そのスケッチブックを受け取った。
入隊間もない頃と思われる自画像
1968年6月、アメリカの新聞”コロンバス・エンクワイアラー”が、 レ・ドゥック・トゥアンと彼の画について、特集を組んだ。記事には、こう書かれている。

「 レ・ドゥック・トゥアンは、千マイルを歩いた。スケッチと画、詩は彼にとって大事なものに違いない。密林の中を歩いているときに、男は重要でないものは持たないものだ」と。

シンプソン少佐が引き剥がした3枚のスケッチを除いて、このスケッチブックには109枚の画が入っている。表紙には、”第三大隊の将校・兵士からピアーズ将軍へ”と書かれている。そして、次の頁には、”レ・ドゥック・トゥアンさん 従軍中の健康を祈る。あなたの親友 ホアン・トゥより 1967年3月15日” とのサインが。
自画像
スケッチブックの最初の画は、ほとんどが水彩で描かれている。その次には、グリースペン(顔料と油脂でできた芯を紙で巻いた鉛筆)で描かれ、その後には、デッサン用の木炭とインクで描かれた画が続く。レ・ドゥック・トゥアンの自画像は、うぶな若い時のの姿をえがき、裸足でボタンを外した制服姿を描き、あるいは、きちんと制服に身をまとった姿も描いている。

しかし、時間が経過すると、成長した、物思いに沈む表情の自画像となっている。その他の画には、レ・ドゥック・トゥアンがみた風景画も入っている。そして、170頁目の最後の画は、”中部高原地帯の通信用の裁縫のポーチ”という題名がついていて、1968年3月と書かれている。
水彩画
描かれた絵日記には、短い説明書きがあり、それが一兵士の思い、経験、感情を表している。
筆の細い線の中に、 ベトナムの勝利を祈る生命力のようなものを、レ・ドゥック・トゥアン兵士は吹き込んでいたのか。これらの画を見ながら、一本の細い道が生と死を分ける戦場の厳しさの中で、 レ・ドゥック・トゥアン兵士が、どうやって素晴らしい絵をかいていたのか不思議に思う。同時に、若き芸術家 レ・ドゥック・トゥアン兵士の最期がどうだったのか、当然気にならざるをえない。(おわり)
北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を禁止します>Posted by Picasa

2011-07-16

枯れ葉剤撒布50周年 ダクトで・・・

枯れ葉剤撒布50周年に当たる今年、寄付をして下さった方々に厚くお礼を申し上げます。

1月18日 北村修治さま 支援金
4月01日 リンカーン瑞枝 さま 支援金
4月21日 鈴木嘉世子さま 衣類と 支援金
5月25日 松林美代子さま 高山竜司さま 支援金
6月01日 相澤 暢子 さま
7月16日 山本邦子さま お菓子と支援金

大切に使わせていただきます。

ダクトに行ってきました。ベトナムの中部高原地帯、コントゥム省の省都コントゥムから北へ行ったところです。ベトナム戦争では、ダクトの戦いがありました。これは、1967年11月3日から11月22日まで行われた一連の戦いを指します。写真は、仲間の治療を求めるアメリカ兵です。この戦いもいつかご紹介したく、後の機会に譲ります。
 
ダクトに行くには、ハノイやホーチミンから飛行機でプレークまで行けば速いのですが、私は、ダナン~クアンガイ~バトー~ヴィオラク峠~コントゥム~ダクトと陸路を走りました。昔、ベトナム戦争を闘う兵士がとったであろう道のりです。途中の七曲りはたいしたことないと思いましたが、ヴィオラく峠のあたりになると、車酔いをしそうなうねりでした。
国道14号線上のダクトは、1961年8月10日に初めて枯れ葉剤が撒かれた地域です。コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会の会長。副会長にお会いして、聞かせて頂いた話を箇条書きにします。
コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会の皆様 スイ会長(中央)
「ご存知のように、1961年8月10日、H34ヘリコプターが、国道14号線のコントゥムの北部で枯れ葉剤を撒きました。これが、ベトナムで初めての撒布です。今年8月10日で、50周年を迎えます。その式典準備に、われわれは忙いです。本日、遠方を来てくださって、とても感謝しています。時間を作って、案内させていただきます。

目撃者も生存しているので、いろいろと話しが聞けると思います。

北村さんたちが1989年からずっと資料を集めて本を出して下さったことに感謝しております。英語の冊子も出してくださったことは、われわれにとってもありがたいことです。枯れ葉剤の被害者はまだまだ多く、被害者の子供、孫まで続いています。

そして、環境問題にもなっています。

われわれ国民だけでなく、アメリカと闘うことに協力してくれる外国の理解ある方々にも、大変感謝しています。

枯れ葉剤問題は、今日とか明日に終わる問題ではなく、ずっと続く問題なので、われわれも、長期に闘うことを覚悟しています」
地図の中央右にDak Toという文字が見えます。そこを訪問しました。先程の話の中に、H-34というヘリコプターのことが出ました。
長くなるので、わずかな引用にとどめますが、アメリカ軍の資料の記述の中に、次のような文章がでてきます。

1961810日。最初の落葉作戦の試験飛行が、コントゥム省北部の道路沿いで実行された。この試験飛行には、農薬ディノクソールを散布する殺虫剤液体撒布装置(HIDAL)を装備させた南ベトナム政府空軍のH-34ヘリコプターが使用された。
そのヘリコプターと同型機が下のヘリです。
コントゥム省の枯れ葉剤被害者協会の話を続けます。
「コントゥムの被害状況を申し上げます。
コントゥム省には、311個のタンクが投下されましたが、撒いた総量は、合計で35万リットルになります。撒布面積は351ha、コントゥム省の5%に当たります。そのうち、エージェント・オレンジは3000リットル撒きました。エージェント・ブルー7万8千リットル。エージェント・ホワイトは、13万リットル。その他は、2万5千リットルです。一人当たり平均、4.8リットルの枯れ葉剤をかぶったことになります。

またダイオキシン換算で人口一人当たり6キロがばらまかれたことになります。ダイオキシンを85グラム水道に入れたら、800万人が致死に至る量であることを考えるとものすごい量です。

現在、コントゥム省の枯れ葉剤被害者は7千人です。その中で、国の手当を受けているのは800人だけです。私たちは、保健省にもっと認めるよう要請する活動をしています」

なぜコントゥムが最初に散布地に選ばれたのでしょうか?

「ダクトから18キロ北へ行ったところに、ゴック・ホイという所があります。そこは重要な交通の要所です。北から、西から、南からのルートが集まる所です。インドシナの交差点と言われています。ここに一度集まって、それぞれの戦場に向かう集合地点となっていました。そこに撒けば、他に集合するところがなくなるのではないか、それでアメリカは、まずコントゥムに撒いたのではないかと・・・思います。

私(副会長)も、1971年に・・そこから、戦場に行きました」

ここに試験的に散布するという選択は、Ngo Dinh Diemの意思と関係があると思いますか?

「調べてみましたが、ゴ・ディンジエム大統領とは関係ないと思います。61年からゴ・ディンジエム政権が始まりましたが、政権も知らなかったのではないか。また、枯れ葉剤というのは木や葉だけを枯らし、人体に被害があるというのも知らなかったのではないか。 私たちも草だけが枯れるという解釈でした。農家も草を刈らなくて済むというふうに宣伝されました。まさか、人間に影響があるとは思わなかったです。だから、今も、アメリカの会社はそういう説明で、賠償を拒否しているし、被害を認めていませんね」

「1961年から62年にかけて、このコントゥムに撒きました。その後中部にまきました。南部の東側、つまりクーチ、タイニン省、ビンズオン省に撒きました。そのあと、フエのアールオイ、アーサオなどに1971年まで、アメリカ軍は撒き続けました。このように段階的に撒きました。

更に少し追加させてもらうと、コントゥムを中心に結構撒いたのdすが、国道14号線沿いに北へ撒きました。一番撒かれたのは、ダクトです。その後サ・タイ(註:ベトちゃんドクちゃんの生まれたところ)です。カンボジア、ラオスとの国境周辺で、インドシナの交差点というところに撒いたのです」

もともっと色々とお話をうかがいましたが、これくらいにしておきましょう。
私が、一つ付け加えると、ヘリコプターは南ベトナム政府軍のヘリです。アメリカ軍のヘリではなかったようです。最初から、アメリカ軍が関与しているというのをカムフラージュしようとしていたのではないでしょうか。のちには、アメリカ軍機に南ベトナム政府軍のマークを貼り、南ベトナム政府軍の兵士の服を着て、散布活動をしています。
北村 元 愛のベトナム支援隊
Love & \support Vietnam Since 1990
<本ブログの無断転載・複製を固く禁じます>Posted by Picasa