2006-12-30
ああ、忘れじのハノイの屠殺
家畜の屠殺が不衛生な状態で行われていて、ハノイ市民はいくら苦情を言おうが問題の解決は為されなかった。
家畜の屠殺は、実に早朝に行われるのだ。私は、ハノイに赴任した最初の数ヶ月は驚いたものだ。毎朝切り裂くような悲鳴を聞いて、こんなに人が殺されたり障害事件が起きているのか、と真剣に思ったくらいだ。ハノイは、危険な所だと錯覚したのだ。早朝のあの悲壮感いっぱいの豚の鳴き声は、命乞いをしているように、私には聞こえる。
間違いなく、あの声は心の平安を破る。少なくとも、その日をスタートする朝に聞く声ではない。この断末魔の声が途絶えるのが、わずかテットの数日だけなのだ。
豚は、夜10時から11時ごろまでにタインホア、ハイフン、ナムハーの各省から屠殺場に送られてくるのだが、時として夜中の1時とか2時までかかることもある。その時間になると、人々は深い眠りに入っているが、どうしても豚の鳴き声で目が覚めるのである。
チュオン・ディン人民委員会のファム・スアン・トゥオン(Pham Xuan Thuong)委員長は、「私の家は2、3箇所の屠殺場に近いので、毎朝早朝から眠られなくなる。その他に、豚の毛、汚水などで、近所が汚染している」と話す。
ハノイ獣医局によると、ハノイ地区には営業許可証をもつ屠殺場は120箇所にのぼるという。このうち90箇所はハノイ市内にあり、ハイバーチュン区にはそのうちの50%が集中していた。私のすんでいたのも、ハイバーチュン区。その鳴き声の大きさを想像して頂きたい。
どうやら、多くの屠殺場で、税を逃れるための違法活動がおこなわれているのが実態らしい。やがて、なぜか屠殺場は、全体で50に減った。これらの屠殺場は、給水や廃物処理の点で一応ハノイ獣医局の規定を満たしているという。信じるに足る話ではない。
ある時、私は、大きな屠殺場があるチュオン・ディン通り、カウ・チェ通り、ヴォン交差点、バックマイ通りなどを夜中に回ってみた。夜10時過ぎ、豚を載せたトラックが国道1号線から市内に入ってくる。各トラックには20頭ほどの豚が乗っている。
そして、早朝3時頃から、ホアン・マイ通り、ダイ・ラ、カウ・キーという橋の近くで屠殺活動が一斉に始まる。ある屠殺場では、一晩というか早朝に、約30頭の豚が処理される。
シクロが、ハノイの各所に豚肉を運んでいっては、また戻ってくる。ファン・フー・ティエン通りやヴォン交差点の近くにある屠殺場などは、歩道や車道に廃物を捨てる。キム・グー(KimNguu)通りにある屠殺場は、キム・グー川に捨てる。大体が、近くの池や下水道に直接捨てるので、環境汚染は酷くなる一方だ。さばいた後、屠殺場が水で洗浄されるのだが、本当にきれいになるものなのか。
獣医局の規定は一体どう生かされているのか?
そして空気汚染はないのか?そういうことはないと誰が言えるのか?
各通りとハノイ市役所は、どうしてこの問題を解決できないのか?
ハノイの屠殺は盛んで、首都の胃袋の85%を満足させていると聞く。
だが、まか不思議なのは、屠殺税の90%は、毎年徴収漏れになったままだという。ほんとうなら、なぜそんなことがお目こぼしになっているのか?ハノイ人民委員会は法令を作って、夜11時から早朝4時まで、家畜を運んで屠殺する行為を禁止したが、全く実効がない。
ハノイ獣医局のホアン・ティ・タン(HoanThiThang)副局長は、「100%の屠殺場が獣医法に違反している。ハノイの官庁は、この問題にあまり関心がない・・。当局もただ罰するだけだ・・」と、腰を抜かすような途方もないお返事。
各屠殺場の環境汚染の実態、並びに騒音はひどいものだったが、管理が強化されたり、処分が発動されなかったのは、なぜなのだろうか?
住んでいてもよくわからなかった。果たして今は、どうなっているのだろうか?と、しきりに思うのだ。願わくば、防音装置付きの清潔な建物で・・やってもらいたいと、当時ひたすらに思ったものだ。(おわり)
今年のブログは、これで終了させて頂きます。
この1年間の支援隊へのご協力、まことにありがとうございました。
また、来年、ブログを再開したいと思います。(北村 元)
2006-12-27
沼津市立高等学校中等部の生徒さんから(2)
先日は、訪問させて頂き、ありがとうございました。
お話を聞き一番印象に残ったのは「ダイオキシン」の話でした。「ダイオキシン」という言葉は耳にしたことがありましたが、それを口にしたり体に触れることで体があんなになってしまうのかとすごく驚きました。
また、遺伝子にも続いていくので、子孫を増やすことをやめない限り永遠に続いていくと知ったときは、とても悲しい気持ちになりました。
写真をみせてもらったとき、その病気の子たちは笑顔で生き生きしていました。「生きている喜び」を感じているのだと思います。
アメリカがダイオキシンをまき、自分達は苦しい思いをしているのに、アメリカを憎まないことにとても感心しました。ベトナムの人たちの心はとても優しく広いものだと思いました。
ベトナム戦争、貧しい人たちのお話を聞き、戦争は二度と起こしてはならないものだと思います。戦争をして喜ぶ人はいない、苦しい思いをして嫌な思い出が残るだけだからです。
終戦を迎え六十年になりますが、戦争が終わったといえ、世界はまだ平和だと言い切れません。ダイオキシンの後遺症で苦しむ人たちがたくさんいて、戦争をやっている国もあるからです。世界が早く平和になってほしいと心から願います。ありがとうございました。
P.S. 三島に住んでいるので、ぜひ、また、うかがわせて下さい。
校外学習を終えて 松尾 京美
先日は、お世話になりました。
ベトナムに関する情報や、写真を見せてもらい、少し普段の生活を改めるようになりました。大釜さんのおかげです。
今はとりあえず勉強して、大学に行こうと思っています。ベトナムの人達がダイオキシンの被害に犯(冒)されているのは、私達の身代わりになったようなものですし、その上私達だから出来る事に挑戦しないのは、失礼かなということを感じました。
これから先、ベトナムの人々にも、服など寄付しようと考えています。その時は、大釜さんの自宅に送るので、よろしくお願いします。
私達のように、仕事もできて、おしゃれもできて、美味しいものたべられれて、ほんとに幸せです。
ベトナムの事を知ってよかったと思います。
もしも知らなかったら、勉強しないわがままなボーヤになっていたままでした。
自分が変われたことはすごい事だから、きっと忘れないと思います。
今回の福祉体験に協力してくださって、本当にありがとうございました。
(おわり)
沼津市立高等学校中等部の生徒さんから(1)
2年部の担当の望月先生を通じて、生徒さんの感想文が寄せられました。学校のご許可を頂いて4回にわたって掲載させていただきます。(すべて原文のまま)
校外学習を終えて 石橋 美咲
先日は、たくさんのお話をしていただきありがとうございました。私は、『戦争』というものを体験したことがないので、どんなつらいことがあったのか、知りませんでした。ですが、大釜さんやふみこさん(註:奥さん)、櫻井さんのお話をお聞きして、戦争がどれだけ人を悲しみや苦しみを与えているのかを知ることができました。
戦争の種は誰でも持っている。戦争は“わがまま”から始まるんだと話してくださり、人を苦しめるような戦争は、本当に無い方がいいと思いました。戦争を知らない人には、ベトナム戦争を知らない人には、枯れ葉剤の恐ろしさはわからないと思いました。
写真を見せていただき、例え、言葉が通じなくても、笑顔で相手を見ていれば、心は通じるということがわかりました。大釜さんと一緒にうつっていた男の子の笑顔がとても良かったです。
櫻井さんのお話の中で、本当の貧しさを見に行ったことがきっかけで始めた支援隊の話をお聞きして、今の日本では見ることが出来ない、世界の中ではこんな生活をしている人々がいることも、人生の中で必要なのでは?と思うことが出来ました。
櫻井さんのお話に感動しました。ベトナムの女性の様に強くなりたいと思いました。
大釜さんがおっしゃってくださいました『肌の色が違くても、例え自分とは違うと思って一人の人として見ること』が、今の子ども達にとって必要だと。すばらしいお話を本当にありがとうございました。
お茶とケーキとみかん、ごちそう様でした。櫻井さん、帰りに液まで送って下さりありがとうございました。
校外学習を終えて 小川 明華
先日は、おいそがしい中私たちのために時間をさいていただき、ありがとうございました。私は今回で2回目の訪問となります。
2度目ということでだいたいは感じもつかめていました。やはり、ベトナムで起こっている現状は、とても悲しいものでした。
私たちの子どもでは大きなことはできないけど、少しでも協力できることはないかと考え、いらなくなった古着を友だちがもってきてくれて、それを渡すことにしました。着る物も十分に与えてもらうことのできない人に使ってもらえたら嬉しいです。
いろいろな資料もわけていただき、ありがとうございました。「アメリカの化学戦争犯罪」(註:北村元著=梨の木舎刊)を見て、どれだけ強力な毒がダイオキシンに入っていたか、それを撒布した結果、第1世代から第3世代にわたり、多くの被害者を生み出しているかなど、私たちが目にする内容ばかりでした。
同じ地球上で生活しているのに、こんなにも違いがあるなんておどろきも感じました。
私たちが思っている以上に苦しんでいる人たちがたくさんいます。そんないとたちのために、少しでも力に名れればと思いました。
人はそれぞれみんな違います。それを、同じ人間としてみればいいと教えていただきました。この現状を知らない人に知ってもらいたいと思いました。(つづく)
2006-12-17
今年も真心のご支援 ありがとうございます。
でも、ここにこぎ着けるまでには、皆様の金銭・物品にわたるご支援あってのこと。被害者の方々の本当に美しい笑顔を、皆さんを代表して受けて参りました。
今年、後半に寄付金、古着をお寄せ下さった方々に、私どもの感謝をこめて、お名前を掲載させていただきます。
衣類(受領日順)
8月 2日 鈴木 行江さま(函南町)
11月 8日 岩崎 守幸さま(沼津市)
11月11日 若槻 孝子さま(東京都)
11月15日 臼井 素子さま(調布市)
12月19日 池田 秀子さま(東京都)
音楽療法の材料
9月2日 鷹箸 多恵子さま(三島市)
寄付金
9月 2日 鷹箸 多恵子さま(三島市)
9月10日 冨部まち子さま(藤枝市)
9月10日 森 静名さま(沼津市)
9月18日 沢谷 和子さま(三島市)
9月18日 映心宗流・内田壱貴さま
9月18日 映心宗流・教授会さま
9月13日 山本 邦子さま(東京都)
9月30日 遠藤 信利さま(沼津市)
10月1日 井原 春子さま(函南町)(平成17年にもご寄付を下さり、ブログ上で落ちておりました。不手際をお詫び申し上げます)
10月16日 足利 和子さま(東京都)
10月18日 桑田弘一郎さま(東京都)
10月18日 岩崎 守幸さま(沼津市)
10月18日 石渡 清司さま(三島市)
10月18日 阿部 静子さま(長泉町)
10月18日 石井 竹男さま(三島市)
10月18日 宮尾 和宏さま(三島市)
11月15日 山本 尊久さま(富士市)
11月21日 沼津一中同窓会さま
11月24日 北村 登喜子さま(豪州)
11月25日 川津 康代さま(流山市)
12月15日 阿部 敬子さま(小金井市)
12月18日 大森 由紀さま(船橋市)
12月25日 宮地 瑞枝さま(豪州)
どうぞ よいお年をお迎え下さいませ。来年のご健康をお祈りを申し上げます。
愛のさわやかベトナム支援隊 一同
2006-12-16
補聴器・車椅子のお礼状 その3
私は、グエン・ヴァン・ルオンと申します。
1971年生まれです。タイビン省フンハー郡ヴァンカム在住です。
父が枯れ葉剤の被害を受けたために、私は耳が聞こえなくなりました。
このたび、静岡の皆様がタイビン省に来てくださり、私は補聴器を頂きました。そして、いま、周りの人たちの声やテレビの音などが良く聞こえるようになりました。
道を歩いている時、車の音やバイクの音などが聞こえるようになったおかげで、叱られなくなりました。
なんと申し上げてよいかわかりません。
日本、特に静岡の皆様にありがとうと心より御礼を申し上げます。
グエン・ヴァン・ルオン
お礼状(8)
私はグエン・ティ・トゥイと申します。1965年に生まれました。
タイビン省ティエンハイ郡ナン・チュンの在住です。
父の枯れ葉剤被害により、私の耳も聞こえないために、話もできませんでした。
38年もの間、何の音も聞こえませんでした。
このたび、静岡の皆さんがタイビンに来てくださり、私に補聴器を下さいました。耳が良く聞こえるようになりました。
皆様にありがとうと申し上げます。
この補聴器のおかげで、父と母にいろいろなお手伝いが出来るようになりました。ありがとうございます。
グエン・ティ・トゥイ
お礼状(9)
私はドー・ティ・ビンと申します。
1983年生まれです。タイビン省ティエンハイ郡ナンハイに住んでいます。
父の枯れ葉剤被害により、私は耳が聞こえなくなり、話もできませんでした。
24年間、何の音も聞こえませんでした。
このほど静岡の皆さんがタイビン省に来てくださり、私に補聴器を下さいました。父、母の声や、周りの人の声、友達の声が聞こえるようになりました。
皆さん、ありがとうと申し上げます。
補聴器のおかげでいろいろなことが、自分で出来るようになりました。父、母を助けることが出来るようになりました。本当にありがとうございました。
ドー・ティ・ビン
お礼状(10)
私はグエン・マイン・トアンと申します。1981年に生まれました。
現在タイビン省クアンチュン郡24組に住んでいます。
父の名はグエン・フィ・タンです。
ベトナム戦争に参加して枯れ葉剤を浴びました。そのせいで、私も26年間耳が聞こえませんでした。
静岡の皆さんが来てくださり、補聴器を頂きました。
そのおかげで、周りの人の声が聞こえるようになりました。そして、今まで知らなかった音が聞こえるようになりました。このお手紙で、静岡の皆様に有難うございましたと申し上げます。
グエン・マイン・トアン
お礼状(11)
私は、チャン・ティ・フエと申します。1982年生まれです。住所は、タイビン省タイトゥイ郡タイザンです。
私は両足が20年間不自由で歩けませんでした。父、母が私の面倒を見なければならないので、家庭教師を呼び、字を教えてもらいました。
静岡の皆さんがタイビンに来てくださり、枯れ葉剤被害者の家を訪問して、私に車椅子を下さいました。
いま、車椅子で動けるようになったので、家族が連れて行ってくれ、おんぶしなくても済むようになり、私はとてもうれしくなりました。
皆さん、ありがとうございます。
チャンテ・ティ・フエ
お礼状(12)
日本の静岡の皆さんへ
私は枯れ葉剤の被害者の一人です。
戦争が終わり、家に戻ってから枯れ葉剤のせいでいろいろの病気が出てきました。家族も巻き込まれました。私は一人の子どもを産みました。
その子どもは、脳性小児麻痺により、体が不自由になりました。
枯れ葉剤の苦しみは、一番の苦しみだと思います。
他の方もそう思っているでしょうか?
皆さん方は、日本からベトナムに来て、枯れ葉剤によるベトナムの被害者に対して支援してくださり、経済だけではなくて心まで支援して下さっています。
ベトナムの諺に「自分を大切にするのと同じように、他人を大切にする事が大事」とあります。
皆さんは、私達を激励し、人と人との愛、そして思いやりをプレゼントして下さり、私の苦しみも少し無くなりました。
私たち枯れ葉剤被害者は、心の底から皆さんに対しありがたく思っています。
皆様の支援活動が日々うまくいきますように、お祈りしています。
皆様の支援活動を通じて、枯れ葉剤によって起きたベトナムの被害に対して、アメリカ政府が責任を持たなければいけないと思いました。
どうか、いつまでもお元気で、お幸せをお祈りしています。
枯れ葉剤被害者 ライ・ホン・フエン
お礼状(13)
日本の皆さんへ
私は、ライ・ティ・ニャーと申します。
私は、ずっと以前より体が不自由で、歩くことが出来ませんでした。
この間、日本の静岡の皆さんが来て下さり、ステンレスの車椅子を頂きました。タイヤは空気がいらなく、そして車椅子のソファーがとてもいい感じです。
私はとても、うれしくなりました。
ありがとうございます。
ライ・ティ・ニャー
以下は、在住のタイビン省は省き、お名前と郡だけにします。
補聴器
ホアン・ティ・ハイン(フン・ハー郡)
グエン・ティ・トゥオイ(ティエンハイ郡)
チャン・ティ・ロアン(ティエンハイ郡)
ヴー・ティ・ガン(ティエンハイ郡)
ヴー・ヴァン・ルオン(ティエンハイ郡)
ヴー・ティ・ナー(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・アン(ティエンハイ郡)
チャン・ティ・トゥー(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・ルオン(ティエンハイ郡)
ファム・ヴァン・ダット(ティエンハイ郡)
チャン・ティ・フエ(タイトゥイ郡)
ファン・ティ・トゥイ(キエンスオン郡)
ブイ・ティエン・ホップ(キエンスオン郡)
ハー・ホアン・トゥン(キエンスオン郡)
ギエム・ティ・トゥエット(タイトゥイ郡)
ホアン・ゴック・ヒエン(ティエンハイ郡)
グエン・ヴァン・ニョン(ティエンハイ郡)
ファム・ティ・ウット(タイトゥイ郡)
トー・タイン・ニャン(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・トゥー・ハン(ティエンハイ郡)
グエン・ヴァン・ティン(ドンフン郡)
ヴー・ティエン・フン(ドンフン郡)
ゴー・イエン・ニー(ヴートゥー郡)
グエン・スアン・タイン(キエンスオン郡)
レ・ティ・ジエン(タイトゥイ郡)
グエン・ティ・ヴァン・アイン(タイビン市)
ヴー・ティ・トゥー(ティエンハイ郡) 車椅子もドー・ヴァン・チュオン(ヴートゥー郡)
車椅子
ヴー・ティ・タイン・ヴァン
グエン・チー・ホイ(タイトゥイ郡)
グエン・ティ・ヴイ(ヴートゥー郡)
ダオ・ヴァンドアン(タイトゥイ郡)
ヴー・ティ・フン(タイビン市)
ヴー・ティ・イエン(ヴートゥー郡)
ライ・ヴァン・ドー(ヴートゥー郡)
このお礼状はタイビン省で枯れ葉剤被害者協会の方が集めてくださり、それをハノイへ。ハノイから郵便で送られてきたものです。
たくさんのお気持ちをありがとうございました。
(完)
2006-12-15
補聴器 車椅子のお礼状 その2
お礼状(3)
日本静岡 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ
私は、グエン・ヴァン・ハウと申します。
タイビン省タイトゥイ郡トゥイソンに住んでいます。
息子のハインは、枯れ葉剤の影響で、両耳が聞こえなくなりました。いま、枯れ葉剤被害者協会及び日本の静岡の愛のベトナムさわやか支援隊のおかげ、補聴器を頂くことが出来ました。
ハインの耳が聞こえるようになりましたことは、ハインともども私たちは大変うれしく思います。
私たちは、言葉で表せないほどうれしく思っています。大変にありがとうございました。特に静岡の皆さんには、もう一度家族に代わって厚く御礼を申し上げます。
被害者に関心をもって下さっている方々、いつまでもお元気で。
2006年10月6日 トゥイソンにて
グエン・ヴァン・ハウ
お礼状(4)
静岡愛のベトナム支援隊の皆様へ
私は、ブイ・チョン・ホアと申しまして、ブイ・ティ・ジュの父親です。
タイビン省タイトゥイ郡トゥイリエンに住んでおります。
私は、アメリカが行った戦争で枯れ葉剤の影響を受けました。
そのために、子どもも被害を受け、そのせいで小さい頃から両耳が聞こえなくなりました。
このほど、枯れ葉剤被害者支援のキャンペーンにおり、私の子どもにも支援を頂き、静岡の皆さんから補聴器を頂戴し、子どもはたいへん喜んでおります。
補聴器を頂いてから、子どもも私の話が分かるようになりました。また、とても生き生きとしております。私たち家族全員で、喜びを感じております。言葉では表すことができません。ご協力下さった皆様、そして静岡の皆様にありがとうと申し上げます。
(裏面)静岡の皆様と、協力してくださった皆様方がいつまでもお元気でいらっしゃるように。ありがとうございました。
2006年10月14日
ブイ・チョン・ホア
お礼状(5)
タイビン省枯れ葉剤被害者協会さま
静岡愛の支援隊の皆様へ
私は、ハー・ティ・ホアと申します。ダオ・スン・ドアンの妻です。タイビン省タイトゥイ郡タイズオン・ドンティンに在住しています。
夫は、1966年6月に軍に入隊しました。そして、1966年10月から1975年まで、従軍していました。1975年12月15日に、戦場から帰ってきました。
1991年から病気が発症。2003年には全身が不自由になりました。家族では、父親と子どもも犠牲者になりました。そのせいで、家族全体が(経済的に)苦しく、車椅子を買うおカネはありませんでした。ですから、3年間も、夫は動くことができませんでした。
このほど、日本の静岡の皆さんが、私の夫の家まで来てくださり、車椅子を下さいました。私はとてもうれしいです。
静岡の皆様の暖かい心が、私たちの苦しみを減らしてくれました。私はとても感動しました。私は、何より静岡の皆様、及び枯れ葉剤被害者協会、そしてベトナム外務省にありがとうございましたと心から御礼を申し上げます。
もっともっとベトナム政府と関係者が、ボランティアの方々の関心を持って頂きたいと思います。
2006年9月28日
妻 ハー・ティ・ホア
お礼状(6)
静岡の皆さん タイビン省枯れ葉剤被害者協会
ベトナム外務省へ
私は、グエン・クアン・メオと申します。タイビン省タイトゥイ郡トゥイズオンに住む者です。
ベトナム戦争の時、私は従軍したために、枯れ葉剤による後遺症で、今私の傷病の度合いは2/4度となっています。
戦争から戻り、結婚して、子どもが生まれました。子どもの名前は、グエン・クアン・ビンと申します。子どもは、父親が受けた枯れ葉剤の後遺症で両足が不自由になりました。
私たちはいろいろなところに行き治療を受けましたが、少しも良くならなくて、すべてが無駄になりました。そのために経済的にすごく苦しんでいます。周りの人々や政府に助けて頂いておりますが、それでも苦しんでおります。
なぜなら、息子のビンが動けないために、私たちは何もかもビンのために世話をしなければならないからです。
今月、2006年8月25日(9月の間違い)は、私たちにとってうれしく、且つ感動の日でした。なぜなら、タイビン省政府や特に静岡の皆さんの関心のおかげで、ビンが車椅子を頂けたからです。
この車椅子のおかげで、久しぶりにビンが動けるになりました。私は、静岡の支援隊の皆さん、そして協力してくださった方々に心から感謝申し上げます。静岡の支援隊のご家族全員がいつまでもお元気で、そして支援活動が順調にいくことを祈っております。
家族に代わって・・グエン・クアン・メオ(写真は、お礼状を下さったメオさん)
2006-12-14
補聴器・車椅子のお礼状
ベトナム社会主義共和国 タイビン省枯れ葉剤被害者協会
独立・自由・幸福
感謝状(1)
タイビン枯れ葉剤被害者の子どもたちへのプレゼントについて(2006年9月22日ー9月25日)
愛のベトナムさわやか支援隊隊長及び隊員の皆様へ
タイビン省枯れ葉剤被害者協会へ皆さんがいらして下さり、私たちは大変うれしく思いました。
私たちの所は、戦地から遠く離れた所ですが、それでも3万人の枯れ葉剤被害者がいます。
日本の皆様も、第2次世界大戦において、原子爆弾の被害を受け、その苦しみは私たちもよく理解している積もりです。私たちは、いつも憐憫の情をもっております。
このたびは、タイビンで被害者に補聴器と車椅子を贈呈して頂き、被害者のみならずタイビンの人々にとっても大変うれしく思った次第です。また、大変にありがたいことだと思ってります。
また、近いうちに、静岡の皆さんと再会できることを願っております。おそらく、皆さんも同じお気持ちではないかと思います。
本日、3万人の被害者を代表して、静岡の支援隊の隊長さま及び皆様に厚く御礼を申し上げます。
静岡の支援隊の皆様、いつまでもお元気で。
本当にありがとうございました。
枯れ葉剤被害者協会会長 グエン・ドゥック・ハイン
お礼状(2)
私は、ホー・シー・ハイと申します。
枯れ葉剤の被害者の一人です。
私は5人家族の中で、4人が枯れ葉剤の被害者となりました。
この間、静岡の愛の支援隊の皆様がいらして下さり、私の妻と子ども二人に、3個の補聴器を下さり、妻も子どもも耳が大変良く聞こえるようになりました。
皆さんが、私の家族に幸せを与えて下さいました。
ありがとうございました。
家族に代わって、御礼を申しあげます。
タイビン 2006年10月20日
ホー・シ・ハイ
編集部註:このホー・シ・ハイさんの記事は、2006年10月のブログの中の報告記(9)タイビン省(5)に掲載されておりますので、併せてご覧頂ければ、より一層ご理解頂けると思います。
2006-11-19
トン・ヌー・ティ・ニンさん(1)
説得力と通訳力で十分名の知れたベトナムの外交官として、彼女は、ベトナム外交の成功に十分貢献してきた。
フエに生まれた彼女は、家族とともに彼女が3歳の時にサイゴンに引っ越した。
彼女は、それから18年間、フランスとイギリスで生活し、ソルボンヌ大学とケンブリッジ大学に学んだ。
学生時代の早々から、海外で南ベトナム民族解放戦線への政治活動に参加した。
彼女は、1960年代にパリのソルボンヌ大学で英語と英文学の教鞭をとった。彼女のフランス語と英語の語学力が買われて、1972年までパリ和平会議の臨時革命政府代表団の通訳としてかり出された。その年、彼女は、南ベトナムに戻り、サイゴンの反戦運動に積極的に関わった。サイゴン師範大学の英語教師として1975年まで教壇に立った。そして、その間に、彼女は民族解放戦線から役割を任された。
「ベトナムに戻ったあと、国の反戦運動に貢献しなくてはならないと思いました。私がどうなるとか、この活動から私がどう恩恵を受けるかなんて考えたことはありません。母国の子どもとして国を守るために何かをしなくてはならなないと思っただけです」と、彼女は言う。
長い間ヨーロッパで学び暮らしていたので、彼女は、事実共産党指導者の注目を集めるようになった。
そして、ハノイの共産党対外関係委員会で働くように声が掛かったのだった。3年後、グエン・コ・タク外相の招請で、外務省にトラバーユした。2000年から2003年までは、ベルギー大使、欧州連合大使として務めた。2002年には、国会対外関係委員会の副議長に就任した。
輝かしい彼女の経歴の陰には、家族の応援がある。夫と子どもの話をする時に、彼女の顔が輝く。「私は大変に幸せです。私の仕事を深く理解してくれる夫がいるからです。私の仕事に多くの支えになってくれています。
夫は、数学の教授だ。妻が海外に行っている間は、家庭を切り盛りする。
「私は、何回海外で出かけたかはわかりません。まして、何カ国を訪問したかなど全くわからないほどです。でも、夫は一度も不満を漏らしたことがありません」(つづく)
2006-10-25
2007年支援隊ツアー 日程決定
ハノイの中心部 ホアンキエム湖の風景です。
懐かしい方も多いでしょう。
すでに、東京で参加の手を挙げてくださっている方がいらっしゃいます。
来年は、さらに多くの方の参加をお願いして、枯れ葉剤被害者の実情を学び、真心の激励をしたいと思います。
下記の日程を発表します。
8月19日(日)成田 →ベトナム航空でハノイへ 希望者はベトナム床屋へ
8月20日(月)午前:友好村訪問 音楽療法 マンゴの木植樹 その後、ダン・フー・ズン理事長と懇談 午後:平和村 音楽療法 ガーちゃんらと懇談会 グエン・ティ・タイ・フオン理事長と懇談 ハノイ泊
8月21日(火) 行き先秘密の日帰りバスツアー 夕方:ハノイ国家大学構内で記念撮影 ハノイ泊
8月22日(水) ハノイ→高野記者墓参 中越国境観光 帰途:勉強会 ディエン・ビエン・フーでフランス軍のド・カストリ将軍を捕捉し降伏させた元人民軍兵士グエン・クアン・ビンさん(自宅で)と懇談 バクザン省障害児施設に立ち寄り ハノイ泊
8月23日(木) ハノイ→タインホア省立孤児・障害者・老人センター 音楽療法 日本のカレーライス・クッキング 中学生以上と懇談 ニンビン市泊 キンド・ホテル(予定)
8月24日(金) ニンビン ニャンちゃん宅支援訪問 昼食 559部隊兵士宅訪問(一人) タイビン市泊
8月25日(土) タイビン市 在宅訪問 車いす・補聴器支援 タイビン泊
8月26日(日) タイビン市 在宅訪問後ハノイへ ハノイ泊
8月27日(月) 午前中原告第1号フィフィ先生宅訪問 午後買い物 夕食 出発
8月28日(火) 成田着 解散
参加料金:18万5千円(予定)
機内食2食 ホテル7食 外食13食 自前2食となります。
現地ホテル、バス、通訳、コーディネーション費などが含まれます。
問い合わせ: 愛のベトナムさわやか支援隊
会 長 大釜 一男 055-971-0881
事務局長 宮尾和宏 055-976-8822
乞う! ご期待
2006-10-23
支援活動 私の10年(下)
支援隊副会長 大釜 芙美子
毎年、ベトナムを訪問し、10年間の変わりようも見させて頂きました。
すごい発展のしようで、現在は道路も整備され、歩道が出来て、信号も交差点に付き、何よりもきれいになったのは、道路と商店街です。
今年などは目的地に予定よりも早く着き、ハノイ近県を家庭訪問して歩く私たちにとっては何よりもありがたいことでした。
バイク、自転車は相変わらずですが、今は車が溢れています。ショーウィンドーもなかったのが、今ではウィンドーにウェディング・ドレスなどが飾ってあり、10年前には、ドレスもスカートもみたことはありませんでした。
経済的には豊かになっていると思いますが、私たちが訪問する枯れ葉剤の被害者のお宅は、何も潤っていません。豊かな生活とはほど遠い、相変わらずの貧困生活です。ベトナムの近代化に乗り切れずにいるのは、枯れ葉剤に冒された家だけかもしれません。(下の写真は、ハノイ市内の公営アパート)
国から支給される手当は微々たるもの。痛みがあってもその痛み止めの薬代にもなりません。ベトナム社会から見捨てられるとしか考えようがありません。アメリカは、日本に二度原爆を落として、その威力を確かめました。原爆を落とさなくても、枯れ葉剤を日本で試す計画があったと聞いております。あの枯れ葉剤(ダイオキシン)が日本で撒かれたら・・・と思うと、ぞっとします。今でも原爆による白血病で苦しんでいる方は日本国内にもたくさんいますが、世代が変わる毎に核や化学兵器への恐怖の意識は薄れてきているように思います。
戦争で一番被害を被るのは、一般国民、特に女性、子どもです。しかし、枯れ葉剤の場合は、戦争に参加した兵士も、きれいな霧が降ってくるのをみていましたし、それが入った川の水も飲んでいたために、たまったものではありません。
その恐ろしい化学物質(ブルー、ピンク、オレンジ、ホワイト、パープルなど虹色に似せた名前をつけていました)を、その時は火傷や爆発がないので、気にもせず平気でかぶっていたようです。
この化学物質を扱ったり、戦場でかぶったアメリカ軍の元兵士、アメリカ軍に協力したオーストラリア、韓国、ニュージーランドの元兵士にも、同じ症状が出ているのです。
戦争が終わっても、その苦しみは一生涯続いています。ベトナム戦争に終わりはありません。
この10年、ベトナムの方々と交流する中で、自立して働く多くの女性と出会いました。平和村理事長のグエン・ティ・ミー・ヒエン先生。その後任のグエン・ティ・タイ・フォン先生。
枯れ葉剤被害者協会常務委員で、グエン・ティ・ゴック・トアン先生(上の写真で、右側で茶色の服を着ためがねをかけた女性、その左隣は筆者)。この方は、フエの王室のご出身です。お年を召されて、なお勉強されています。今年も水俣病公式発見50周年のフォーラムに参加されました。
ベトナム枯れ葉剤被害者訴訟原告の第1号、ファン・ティ・フィ先生。ハノイ医科大学を定年退官されても、教壇に立ち、故郷のクアンガイ省への社会貢献もされています。
559部隊元女性兵士のニンビン省のチャン・ティ・ビンさん。自らも枯れ葉剤後遺症のガンと闘いながら、元兵士を家庭訪問して元気づけています。
越独友好病院元院長夫人のヴィー・ティ・ホーさん(写真中央の緑の服の方。その後ろが筆者)。ご主人のトン・タット・トゥン先生は、フエの王族のご出身で、全財産を共産党政権に投げ出し、自ら先頭を切って弱者の救済に当たって来られた方と聞きました。惜しくも枯れ葉剤研究の途上で亡くなられたのですが、奥さんのホーさんはそのご主人をほんとうに支えて来られた方だそうです。
こういう方々が、皆さん真剣に生きています。そして、社会で活躍しています。
私の尊敬する人生の師匠が、「21世紀は女性の世紀」と言われたそのものを、見ることが出来ました。
これからも健康である限り、おカネの続く限り、支援活動を続けて参りたいと思います。(了)
支援活動 私の10年(上)
支援隊副会長 大釜 芙美子
今から11年前の1995年、友人の櫻井恵美子さんから、ベトナム戦争の枯れ葉剤に冒されたベトナム人の現状を聞きました。
その中で、ハタイ省に住むタームさんのお宅の話が心に残りました。
「村一番の貧乏の家よ」と話してくれたことです。ご主人が戦地で枯れ葉剤を浴び、終戦から20年経った現在も入退院の繰り返しで、後遺症に悩まされ続けていること。
その影響で、生まれた子ども4人のうち、2人が脳性麻痺、後の二人が知的に遅れており、家族の中で働けるのはお母さんのタームさんだけだったこと。それも、脳性麻痺の子どもからは、ひとときも目が離せない現状であること。やっと近所の畑を手伝って入ってくる収入のみだということ。
そして、このお宅の生活が何とか成り立つように、村に1台もなかった精米機を贈り、村の人にも貸し出せば生計が成り立つので贈りたい・・・という話が櫻井さんからありました。
翌年の1996年、わが目で確かめ、状況を肌で感じたい思いで、ベトナム行きを決意しました。
当時はベトナム直行便などあるはずがなく、羽田発台北経由で、ハノイを目指しました。台北での乗り継ぎに5時間もかかりました。台北までは満席でも、ベトナム行きに乗り継ぐと、乗客はわずか15?6人です。それほど、ベトナムへの関心は薄かったのです。
早速、タームさん宅へ伺い、精米機の様子も見せてもらいました。なんと、精米機を寄付してくれた方ということで、私の写真も壁に貼ってくれてあり、「毎日拝むように写真に向かっていた」と聞き、思わず感激しました。
また、この時のベトナム訪問で忘れられないのは、グエン・サン・トゥン君(当時16歳)の家庭訪問をした時です。
トゥン君は、脳性麻痺のため、自分で寝返りも起きあがることもできないまま、庭の竹のベッドの上に寝ていました。口を大きく開けたままで、ハエが出たり入ったりしていました。弟も同じ症状でしたが、訪問した時には、亡くなって2ヶ月目の時でした。
見れば、お父さんのタイさん(当時58歳)は、目を大きく見開き(痩せているので、目だけが目立ったのかもしれませんが)、足も手も曲がり、辛うじて動かせるのは左手のみという状態でした。まるで、骸骨そのものでした。タイさんは、戦地では化学者として従軍したとのことでした。
たった一人健康なお母さん、フエさん(当時51歳)は、こう話していました。
「トゥン君も弟と同じ症状だから、そんなに長く生きられないと思います。今は、貧しくて2食しか食べさせてあげられませんが、食事はなんとか3食与えてあげたいです」
母親の願いに、私たちは、その場で、次男のお香典という形で、日本円にすればたしか2000円足らずのおカネを包んで、差し上げたと思います。
それを受け取ったお母さんは、涙を流して・・・・・。私たちは拝まれてしまいました。この時は、この家族には気の毒で涙が止まりませんでした。わずか2000円ですよ。日本では子どもにあげても、さほど喜ばない金額です。今でも、この時の状況を思い出すと、涙が出てしまいます。
10年前は、どこを走ってもデコボコ道。ちょっと雨が降っただけで道はぬかるみ、家畜の糞、泥、雨水で異様な臭いがしました。
空港からホテルまでの道のりも、小1地時間はかかったように思いました。
途中には信号機はありません。ハノイの町へ入ったところでやっと一つの信号機におめにかかったほどです。タイヤが穴に入っただけで、頭は天井にぶつかりそうになりました。センターラインはありません。車はまだ珍しいっほどで、バイク、自転車に取り囲まれて走る時代でした。われわれの乗った車に向かって、バイク、自転車が突進してくる!!!! 思わず、自分の右足に力が入ったものです。
道路を横断する時が、また命がけでした。「走らず、止まらず、すり足で」と教えてもらったように、ひたすら前をまっすぐ向いて横断するのです。(つづく)
写真説明 (1)2002年に訪問した時のタームさん夫妻。右がご主人のフエさん。左がタームさん。(2)2002年の訪問時に支援の物資を手渡す。指を指している人が筆者。(3)2006年の訪問で、ベトナムの子どもたちに囲まれる筆者(後列中央=ハノイ平和村で)
2006-10-21
ヴィンリンのトンネル(2)
ヴィンリンの地名は、1069年に南部探検を行ったリー・トゥオン・キエットが築いたマ・リン大地に因んでつけられました。 ヴィンリンがなぜ有名になったかといいますと、1954年のジュネーブ協定で、ベトナムが南北を分けられた時に、クアンチ省のヴィンリン郡の南を流れるベンハイ川が、南北の境界線になったからです。そして、その川を境に、社会主義国であるクアンチ省の一部であるヴィンリン郡はベトナム民主共和国に属することになったのです。
写真は、1962年のベンハイ川です。手前北ベトナム。川向こうは南ベトナムです。
歴史は、この場所を、共産主義勢力と自由主義勢力の激しいせめぎ合いの場所としてしまいました。統一を目指す勢力と、分断国家のままにしようという国家の接点となりました。
反共の砦を名目に、アメリカは、ジュネーブ協定破棄のために、いかなる手段も使いました。アメリカは、このヴィンリンの自衛軍に挑発行為をしたそうです。とくに、1965年、アメリカは、北部に対して破壊的戦争を仕掛けました。そして、ヴィンリンが最初の攻撃目標になったのです。
なぜか?
ここは、北部の社会主義の最前線であるばかりでなく、南部への人的、物質的供給の強力な後方基地になったからです。
ヴィンリン地区は、800平方メートルに満たない狭い地区です。ここが、アメリカ軍が落とす多量の爆弾、砲弾の被害を受けました。
つまり、空からは、B52を含めて多種の戦闘機が爆弾を落とし、南部からは、ベンハイ川の北岸を目指して、砲弾を飛ばしてきました。ヴィンリンの東部は海岸です。沖に停泊するアメリカ軍第7艦隊の艦船からひっきりなしに艦砲射撃がきます。
1965年から1972年まで、ヴィンリンで砲撃の絶えない日はなかったといいます。
8年間で、この地に落とされた爆弾・砲弾の量は50万トン。ヴィンリンの一人ひとりが、7トンの爆弾・砲弾を受けたことになります。これを、第二次大戦中にアメリカ軍に日本に落とした爆弾の量0.43トンと比較するとよくわかってもらえると思います。 上の写真は、B52が落とした爆弾で出来たクレーターです。
侵略する者には伝統的な勇気をもって戦い、ヴィンリンの人々・軍隊は、村と大地を守りきりました。村人は、ホーおじさんの掲げる“独立と自由ほど尊いものはない”は、人類にとっても正しいものと信じました。
ダイヤモンドは、戦闘の煙の中で明るく輝きました。ヴィンリンの人々に”不思議の建設”をさせたのは、強い意志と創造性でした。ヴィンリン地区の周辺に地中深く散った人々をつなぐためのトンネルでした。(つづく) (文責:北村 元)
2006-10-20
クアンチ省ヴィンリン・トンネル(1)
シェルター、と言ってもつまりトンネルです。この世に生を受けた以上、誰人とも生きる権利があります。それは、すべての権利の一番最初のものです。その権利は、何も人間だけのものではありません。自然界の中の動植物すべてに存在します。
近年、世界のあちこちで、美しい声と言葉で、人権が叫ばれるようになりました。生存の権利、存在する権利は、すべての人間の権利の中で基本的にして最初の権利であることを忘れてしまっている人がいるように思えます。
ベトナム国、そしてクアンチ省の長い歴史のなかで、なかんずく好むと好まざるとにかかわらず非武装地帯となった17度線上に位置したヴィンリンの人々、草木、自然には、存在する権利すらもっていませんでした。
“この土地を石器時代に戻してやる“と言ったのは、アメリカ軍のお偉いさんでした。破壊的な戦争が、その目的のために遂行されました。その目的とは、「アメリカの国境を17度線に」でした。
800平方キロの狭い地域に50万トンの爆弾がすだれの如く落とされたことを、皆さんはご存じでしょうか。その結果、50万トンの爆弾を受けたヴィンリンの7万の人々の戦いとは何だったのでしょうか?
それは、アメリカに対するテロ行為の報復だったのでしょうか? 違います。断じて違います。
故国で生きる権利、生存する権を求めた戦いだったのです。
シェルターとは、否トンネルとは、ヴィンリンの人々が手で、鍬で、シャベルで故郷の大地に穴をあけて生き延びようとした結果です。彼らは、戦争時でも行き来できるようにたくさんの穴を掘り、生きていくために地下深くトンネルを掘ったのです。
一家族の絶滅を防ぐために、別々のトンネルで、家族が別々に住む智恵を考え出しました。彼らは、老人を北部に疎開させ、教育のために子どもたちを遠く離れた所に行かせました。残った人は、砲台を築いたり、銃をとってアメリカ軍機を攻撃したりしたのです。
地下から生まれた伝説は、ここには山ほどあります。
ここの人たちは、114のトンネルを掘り、総延長は40キロになりました。いずれも、手と鍬で掘った手作りのトンネルです。
地下のトンネルで何年もの不思議な生活が続きました。不思議だが、普通の生活でした。子どもの誕生、学校、愛情、娯楽・・・普通のことがすべて地下にありました。生活している4メートルも上には、クアンチの青空が広がっています。
過去によってしか生きられない人は、誰一人としていません。しかしながら、ここの人たちには、過去を忘れる権利は持っていません。過去は、現在を生きるための重要な教訓であるばかりか、ここで起きたことは、もしかして、世界のどこかで、今起きていることかもしれないからです。
ヴンモック・トンネル村の建設は、ヴィンリン郡にできた114のトンネルの典型的なものの一つです。(写真は、ヴィンモックトンネル入り口、今と昔です) (文責:北村 元)
つづく
2006-10-18
長く隠蔽された秘密 むごい真実 ベトナム戦争
アメリカのあるB隊の一行の心理状態は、一触即発の危機にあった。 彼らはその前日、5人の仲間を失っていたからだ。
そして、1968年2月8日の早朝、歓迎されざる命令が出て、ベトナム中部・クアンナム省海岸沿いの水田が多い田舎での掃討作戦を始めなくてはならなかった。
一行は、これといった特徴のない一般の定住地に入って行ったが、何の抵抗も受けなかった。
医療班で20歳のジェイミー・ヘンリー(Jamie Henry)は、小屋の上にライフルを置いて、タバコに火を付けた。
ちょうどその時、中尉の声が、無線機をはじくように聞こえた。
彼は、19人の市民を拘束したことを報告し、彼らをどうすればいいかの指示を求めていた。
B隊の指揮官の答えは、「動く物は何でも殺せ」だった。
ヘンリーが小屋の外に出てみると、女性と子どもの一団がみえた。それから銃が火を吹き始めた。その直後、村人たちは死にあるいは死に絶えつつあった。
故郷のカリフォルニアに戻って、ヘンリーは虐殺の説明書を提出した。自分の主張を放送するために記者会見を開いた。だが、戦争犯罪を告発した彼と他のベトナム復員兵には、反逆者とか嘘つきのレッテルが貼られた。
そして、その虐殺事件では、誰一人として、告訴されなかった。
最近機密情報のリストから解禁された文書には、ヘンリーは、2月8日の殺人やB隊の他の残虐行為について真実を語ったとなっている。
その文書は、1970年代初期の国防総省の調査団が編集したかつての秘密扱いの文書の一部だった。それらの文書は、ベトナムにおいてアメリカ軍が確認した残虐行為は、当初知られていたよりも張るかに広範にこなわれたいたこを示している。
文書は、アメリカ陸軍の調査団によって確認された320の事件の詳細を伝えている。しかも、これには、アメリカの残虐行為で最も悪質な事件である1968年のミーライ村の虐殺は含まれていない。
ベトナム戦争犯罪を完全に解きほぐしているわけではないが、その資料は、現在まで表面化したものの最大の集大成である。およそ9000頁に及ぶ資料には、目撃者による宣誓の供述書や、軍高級幹部の報告書も入っている。
記録は、ベトナム人一般人への再三の攻撃も詳しく触れている。調査員とのインタビューと指揮官への手紙の中で、何百という兵士は、罰としての殺人、レープ、拷問を行った暴力的少数派の行動の詳細を述べた。
書類の閲覧をすれば、残虐行為はベトナムで作戦行動を展開した各師団で暴露された。
調査団員として調査に当たり、自らもベトナム退役軍人であったジョン・ジョーンズ(John Johns)退役准将は、「自分もかつてはその書類を機密扱いのままにしておくことに賛成だったが、今は一般市民への攻撃とイラクの捕虜への虐待事件に鑑み、広く世間に知らしめる価値があると考えるようになった」と述べた。
「われわれは、過去のことを知らなければ、現在の慣習を変えることはできない」 78歳のジョーンズ氏は、こう話している。
因みに、書類の中に埋もれている具体的な数値を拾うと、
1)1967年から1971年までに、7人の虐殺者が、137人のベトナム一般市民を殺した。
2)非戦闘員への78の攻撃で、少なくとも57人が死亡し、56人が負傷、15人がレープを受けた。 3)兵士が一般市民あるいは捕虜を、鉄拳、棒、水、電気による拷問は、141回も発生している。
でも、こんなものではないはずだ。真実は、まだ闇の中だ。
ベトナムの一般市民や捕虜に危害を加えたとして公式の告発を受けた203人の兵士のうち、57人が軍法会議にかけられたが、有罪になったのはわずか23人で、懲役刑になったのは、さらに14人だけだ。そして驚くべきは、ほとんどの者が、判定を不服としてアピールすると減刑を勝ち取っていることだ。戦争は、人殺し容認の行為なのだ。
写真1)1965年、ベトコンと思われる人物を集合地点まで脅迫して歩かせる海兵隊員1865年です。写真2)非戦闘員に銃を向けるアメリカ兵 1966年です。写真3)婦女子を脅迫するアメリカ兵 1966年です。(北村 元)
2006-10-13
支援のあるべき姿を見た 鯉渕 梓
私が枯葉剤に興味を持ったきっかけは、小学生の時に読んだ1冊の本でした。幼かった私は、平和な日本の現状しか知らず、その本を読んだときのショックはとても大きく、そして私も彼らの力になりたいと思ったのを覚えています。
大学生になり卒論を通して、枯葉剤についてきちんと勉強しようと思いました。たまたまネットで調べていたところ、この団体のことを知り、今回ツアーに参加させていただきました。
支援をするとは、どういうことなのか?
ただ車椅子・補聴器など物資を渡せばいい、そんな簡単なものではありません。
初めて使う車椅子、その被害者の症状や環境によって気を付けなければいけないことが違うし、1歩間違えると凶器にだってなりかねません。
さらに、少しでも自力で歩けるようなら、なるべく筋力を落とさないためにも歩くようにと一言アドバイスもします。
補聴器も人によっては合わない人もいますし、貧しい彼らにとっては電池を買うのだって大変です。ですから、必ず寝る前には電源を切るようにと節約のアドバイスを。そして、その物資を渡して相手が喜ぶ姿を見た時に、初めて支援をしたといえるのだと思いました。
また、支援にもいろいろな形があることも学びました。
それは、音楽を通して生きることの喜びや希望を持つことができる心のケア。落ち込んだ気持ちの時、私は友人に会って、笑い楽しみます。気付けば心がすっきりして前向きな気持ちになれます。
笑うこと、楽しむことには、そんな風にさせるパワーがあります。
彼らも、私たちには想像できないような苦しみを抱えていると思います。生きていくことがつらくなることだってあるでしょう。
今回、おこなった音楽療法で、彼らにとって少しでも生きることの楽しさを感じてもらえたらうれしいです。あの笑顔をみる限り、そう思ってもらえたのではないかと思います。
他にもこの10日間で感じた思いがたくさんあります。とても書ききれません。
最後に、このツアーに参加させていただいたことに感謝します。そして、これからもどうぞよろしくお願いします。 (筆者は、現在、大東文化大学 国際関係学部 国際関係学科4年生です)
写真1:ハノイの友好村で写真を撮る筆者。
写真2:ハノイ郊外の平和村で音楽療法の後、写真に収まる鯉渕さん。
写真3:1箇所の贈呈を終えて、また次へ。支援は休みなく続いた。筆者は一番左。
2006-10-11
支援隊 2006さわやかツアー報告記(14)忘れ得ぬ笑顔
そして、その瞬間に立ち会えたことのうれしさは、また格別である。
こんなに美しい笑顔をもっていたのか、
いやそうじゃない、
みんなこういう笑顔を本来持っているんだ、と再発見した。
彼女の感激の サム・アップ。
聞こえた?
はい・・・・・
良かったね。
はい。
この簡単な会話が出来ることの偉大さを、
普通の皆さんに分かって頂けるだろうか?
生命が輝いた時の笑顔ほど美しいものはない。
ハンディをものともせずに、突き進んで頂きたい。
あなた以外に、誰があなたの人生を生きることができるだろうか。
今どきの日本なら、これは、おカネの印だろうか。
ここタイビンでは、
「ついに聞こえたんだ」というアピールなのだ。
苦しんだがゆえに、このありがたさを分かってもらえるはずだ。
この青年の表情からは、「よし、遅れた分を取り戻そう」というガッツが読みとれる。
明日からは、さらに前へ前へ進んで頂きたい。
昨日よりも今日。今日よりも明日。
そのための補聴器である。補聴器は、その推力なのだ。
「きこえたわよ」
喜んだ視線の先に、彼女の両親がいた。
素直に喜んでくれた
あなたとご両親、
精一杯の正装で来てくれたあなたとご両親に、
私は乾杯したい気持ちになった。
あなたの笑顔は、私たちの喜びだ。
同時に、寄付をして下さった方の歓喜であるはずだ。
会話が聞こえることは、「明日」が確実にあることだ。
ハンディを克服して、笑顔の毎日であって頂きたい。
もっともっと輝けるあなたに、
さあ、今日から、明日へ明日へと進もうではないか。
今回も、帰国してから、私は自分の記憶に輪郭を付けてきました。輪郭をつけるとは、書くことです。ツアーの責任者の一人として、今日はどうしよう、何をどうすればいいか、と常に神経を張りめぐらせる毎日です。大事なところでメモを取り忘れたり、写真のチャンスを逸することも多々あります。衣類を含めて寄付をして下さった方のためにも、記憶をたぐり寄せて書くことは仕事です。何10人と会う時、メモは欠かせません。メモをとるということは、記憶を忘却の彼方に押しやることを防ぐだけではありません。相手の話したことを聞き逃すまいとする真摯な姿勢の表れです。メモで話は広がります。これが相手を動かすのです。
物を差し上げたり、金銭を置いてくるほど楽なことはありません。皆様から頂いたものに付加価値をつけてゆくには、何はさておき絶対に対話が不可欠です。医者と患者の関係でもない、教師と生徒の関係でもない、役人と庶民の関係でもない、しかし、人間と人間の、どこかに慈愛溢れる精神外科医的、いや菩薩的要素が、この支援には強く求められていると感じます。相手の苦しんでいるところをいかにして探り出すか。他者のどこに痛みを感じるか。われら支援隊の愛をこめた熱血行動を、この種々の行動と文章の中から少しでも感じ取っていただければ、大変に幸いです。
最後にもういちど、今季の支援隊への暖かいエールに感謝申し上げます。ありがとうございました。すばらしい現場に立ち会わせて頂いたことに、心より感謝申し上げるとともに、来季もまた、引き続きよろしくお願い申し上げる次第です。(おわり) (文責:北村 元)