2008-12-28

バクザン省からカードが

2008年のブログを閉じたら、ヴェトナム・バクザン省の障害子ども村の新井智子隊員から、連絡を頂きました。

こう書いてありました。

「昨年に引き続きの企画で
子ども達全員がそれぞれの力を出し合っての作業活動でした。

ぜひとも支援隊の皆様にお送りしたかったのですが
バタバタしていて郵便局に行くことができず
やっと行けたと思ったら
親切な(?)局員さんに「...高いし間に合わないからやめておきなさい」と。
本当に残念でなりません。
ということで、
クリスマスは過ぎてしまいましたが、
少しでも子ども達が楽しく作った雰囲気が皆様にお伝えできればと思い
写真をお送りします」と。


嬉しいです。写真で頂いても。子ども達が制作に時間がかかったのでしょう。でも、子ども達の気持ちは、十分に伝わってきます。
「有難う。綺麗なカードに仕上がりました。みんなでよく頑張ったんですね」と伝えてください。

この気持ちを、今年ベトナム支援隊ツアーに参加された方と、今年支援をして下さった方にブログ上で御報告させてもらいます。
ポップアップ式のカード。立派ですね。
頑張ったのはリエンちゃんだけではないでしょうが、不自由な体で作ってくれたリエンちゃんの星は、特別綺麗ですよ。 リエンちゃんの、そしてみんなの真心を、満天下に知らせてあげたいです・・大きな努力賞  です。

バクザン省障害子ども村の皆さん どうもありがとう。一生懸命 オリガミで折ってくれたんですね。
楽しかった? 大変だった? 
ヴェトナムのTetまでにはちょっと時間がありますが、2009年を幸せの年にしてください。
応援します。
また、会いましょうね。ガップ・ライ・ニャー!!!!

そして、お手紙の最後に新井さんは、こう書いてくれてあります。

「クリスマスイブ、歌もツリーもケーキもありませんでしたが、わたしがサンタクロースをやりました!
日本のある施設の利用者の皆様からのカードとお菓子、そして
子ども達が作ったカードの売上金の一部で購入したプレゼントを贈呈しました。

サンタクロースの衣装が無かったので。赤いニット帽をかぶった新井サンタでしたが、
大人は苦笑、子ども達は大興奮でした。
予想以上に大騒ぎになってしまったので、急遽3部構成に。

~1部(イブ夕方)~子ども達全員に、日本のお友だちからのカードとお菓子を贈呈。

~2部(イブ夜)~チビたちが寝静まってから、大きな子たちにプレゼント贈呈。
一人ひとりに「ありがとう!」と手渡し。
子ども達の「ああ!」と驚き、喜んだ顔は忘れられません。

~3部(クリスマス朝)~残りのチビたちにプレゼント贈呈。再び大騒ぎ

正直、サンタクロースは大変でしたが、翌日もプレゼントやカードを握り締めている子ども達の様子にとっても癒されました。

ここに来て1年8ヶ月、子ども達は日々成長をし、パワーアップしています。
うまく表現できませんが、 「自信」とか「意欲」とか、そういったものが身について
キラキラしています。

これも皆様からいただいた素敵な経験が
彼らの中に宝物のように輝いているからなのだと思います。
本当にありがとうございました。

年内も余日少なくなり、ご多忙とは存じますが
どうぞご自愛の上、良いお年をお迎えください。

  新井智子」

新井さん!有難うございました。
支援隊一同 感激しております。

どうか、良いお年をお迎えください。

ベトナムのあちこちで、喝采のない使命の舞台上で、生命を守り、生命を開花させる、新井さんのような方々に賞賛を贈りたいと思うのですが、皆様はいかがお考えですか?(北村 記) Posted by Picasa

2008-12-27

2008年最後のお話・・・

旅行に出たりしていまして、長らくブログから遠ざかっていました。
皆様 本年も相変わりませず、大変にお世話になりましたことに対して、暑く御礼を申し上げます。
                                              
12月の三島市での写真展も、大成功に終わったと、報告をもらいました。
これもひとえにご支援下さっている皆様のおかげです。特に、地元の中学生の皆さんが来場してくださったことで、役員一同大変に喜んでおります。

今年のブログの終わりは何にしようかと考えましたが、戦争は語り継ぐもの・・・との気持ちから、ベトナムの新聞から、翻訳した話で今年の最後をしめることにしました。
ここにご紹介するのは、16人の子どもを作ったある男性の話です。トゥオイ・チェ紙の記事の訳です。拙訳ですが、お読み下さい。

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ある日の夕方、砂地の丘の麓で、男が小さな墓碑の前で線香を燃やし、いくつもの墓石をなでて回った。

彼は一つの墓石を指さし、これが私の最初の子どものです・・と言った。線香が燃え尽きると、男は頭を墓石にすりつけ、泣き始めた。
男は、ドー・ドゥック・ジウという。彼は、涙に苦しめられてきた。「9人目の子どもを埋葬した後何年にも渡って泣き続けたので、涙が涸れてしまった」と言った。

失ったもの

ジウは、クアンニン省ヴォー・ニン社に住んでいる。彼は、1972年に北ベトナム人民軍に入隊した。戦争中、彼はトゥア・ティエン・フエ省アー・ルオイ郡のモー・タウ地区でエージェント・オレンジの撒布を受けた。

あの時人々は、敵の飛行機が白い粉末を撒いていたのをみた。そして数日後、広大な森が枯れてしまった。「でも、それがエージェント・オレンジだというのは誰も知らなかった」と、ドー・ドゥック・ジウは力説する。
その数年後、國が解放されると、ジウは故郷に帰った。村の女性ファム・ティ・ヌックさんと結婚した。

結婚後、軍隊に再入隊した。そして、最初の子どもの誕生を待った。二人は、すでに最初の子の名前を“ドー・ドゥック・ホア”と決めていた。

誕生してわずか二日後、待望の息子は死んでしまった。二人とも大きな衝撃が心に残った。息子が死ぬ前に、息子の頭は膨れあがった。肌は黄色になり、肌からは濃い液体が滲み出てきたのだった。

ジウとヌックは、これは何かの事故だと思った。そして、次の子どもの誕生を期待した。1981年の初め、2番目の子どもを授かって、二人は幸福感に包まれた。女の子だった。健康そうで、長女にドー・ティ・ビンと名付けた。

その1年後、二人には3人目の子どもが出来た。その子は、引きつけを繰り返して死んでいった。

長女は順調に成長し健康な子だったので、夫婦はもっと子どもをもてると信じた。

ところが、次から10人目までの子どもは、誕生直後に亡くなっていった。そのほとんどは、名前を付ける間もなく旅立っていった。二人は、子ども達の名前を思い出せなかったので、ノートに命日を付けていった。命日には間違いなく冥福を祈れるようにと、墓に番号も振った。

夫婦の自宅の裏にある20平米の土地は、自分の子どもたちが眠るの一家の集団墓地になってしまった。

「ほとんど毎月のように、子どもの祥月命日がやってくるので、ベトナムの習慣にのっとってお参りをしなくてはなりません」と、ジウは苦笑した。

ジウ夫妻は、この辛いことを村人から隠そうとつとめてきた。しかし、ジウの親戚は、妻が悪いんだ・・と思っていた。

ジウは妻のことが好きだったが、息子ほしさに家を出て、他の女性のもとにいった。2年間の別居後、彼は戻ってきて、妻に白状した。「他の女性と子どもを作ったが、やはり死んでいったよ。この問題は自分のせいだ、お前じゃない」

ヌックは夫を好きだったがゆえに、また迎え入れた。

ジウはハノイに行って、検査を受けた。医者から言われたことは、“あなたはエージェント・オレンジの影響を受けている”だった。
生きている子どもたち

この診断の後、ジウ夫妻は、長女のドー・ティ・ビンさんが生きていることが奇跡だと思うようになった。それでも、夫妻は、健康な子どもがもっと欲しいと願った。

幸運はやってきた。14人目の子どもを授かったのだ。健康な子どもだった。ド・ティ・ハンと命名した。

その1年後、妻ヌックさんは15人目の子どもを出産した。女の子だった。ドー・ティ・ガーちゃんだった。この子が、夫妻の“最後の奇跡の子”になった。

生存している子どものうち、長女ビンさんは比較的問題が少ない。彼女は結婚した。しかし、時々、痙攣を引き起こす。

残りの2人については、7~8歳の頃から、引きつけを起こし始めた。

「天気が悪くなるとよだれを垂らし始め、体はひきつけ、ねじれてしまうのです。まるで動物のようにみえます」

と、ジウさんは言うと、涙があふれて頬から胸に伝わり落ちた。トゥオイ・チェ紙12月4日づけ)(文責:北村 元)
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こういうご夫妻の人生をどのように思われますか? この不幸が、ひと組のご夫婦のとどまらrないことに、憤怒と呵責と同情と寂寥の念がこみ上げてきます。この拙訳をもって、本年は筆を休ませていただきます。
私たちは、こういう方々と連帯していきます。「朝の来ない夜はない」と信じて・・・。「民衆ために一身を捧げよう。自分と人の世のために尽くすという仕事とのあいだにはー例えどんなことであれ割り込んでくる余地はない」とは、ロッシィの叫びです。
「民衆の苦しみをわが苦しみとすることによって、われわれは『人間共和』の市民、召使として献身することを誓う」とも、述べています。
                              
今年も残りわずか。2009年の皆様のご健勝とご多幸を、遙か地球の底・オーストラリアからお祈り申し上げます。
そして、2009年も、少しでも結構です、皆さまの暖かいお気持ちを、苦しむ被害者に分けていただければ、最高です。
                          
来年も宜しくお願い致します。北村 元Posted by Picasa

2008-11-05

ベトナム中北部の水害 その4

11月5日 今日も、ベトナムから入手した情報をお伝えします。数字などは、その時点である程度正しいものですが、全体の中で正確かどうかは、わかりませんので、その積もりでお読みになって下さい。まずは、非常に悲しいニュースから。

火曜日、自宅のベッドから落ちた生後13ヶ月の坊やが、溺れ死ぬという事故が、ニンビン省であった。

床下浸水になっていて、坊やがベッドから転げ落ちえ、亡くなったものです。家の中で亡くなるという、なんとも痛ましい事故です。火曜日現在で、この1歳児の坊やを含めて、この水害による死者は65人です。

以下は、メモ風に書いていきます。

グエン・タン・ズン首相は緊急会議を開き、23年ぶりの最悪の水害に苦しむ被災者の支援方法について、協議した。
今後さらに降雨が予想されているために、関連大臣を被災地域に派遣して、今後の雨対策の仕切りをさせることになった。
首相は、ハノイ市には、予想される最悪の洪水対策の立案を命じた。

洪水管理防止中央委員会の統計では、中部諸省で161戸が倒壊し、被災者の数は12万6000人にのぼっている。

現在避難世帯は5000世帯以上に及び、26万ヘクタールの田畑が水に浸かっている。魚の養殖池は2万7000ヘクタールが水没し、農家の被害は約3億米ドルにのぼるという。
農業開発省は、農業部門だけ被害総額は1億8千万米ドルになるとしている。

ハノイ市は、最悪の被災地の一つで、火曜日現在の死者は20人に達した。多くの住宅地は、依然水に浸かったままで、ほとんどの通りで交通渋滞が起きている。

鉄道、バス駅は、機能マヒのままで、他省からの列車は、火曜日現在ハノイ駅に到着できないでいる。
ハノイ発の北部方面行きのバスすべては、ハー・ナム省のドン・ヴァン町経由で50キロの迂回を余儀なくされている。

ハノイ市当局は、ニュエ川の堤防が決壊したという噂を否定した。

ハノイ市のチン・ズイ・フン副市長は、「各河川の堤防は依然安全だ。

ハノイ市内の2302校の700校以上が、水曜日現在休校になっている。

ハノイの雨は小康状態だが、新たな問題が起きている。水を含んだゴミから悪臭がでていると、住民の苦情が寄せられている。

ハノイ市環境清掃社は、今後数日で、3500トンから4000トンのゴミが溜まると予想している。

同社は、ごみ箱を200個住宅地域に設置し、20台のゴミ清掃のトラックと20台の清掃車を出してゴミと死んだ動物の遺体の回収にあたっているが、追いつかない。

地下水が汚染されたために、料理用にボトルの水を買うことを余儀なくされている人も多い。

ドン・ダー区では、停電が続き、綺麗な水がないまま過ごしている人もいる。

ハノイの保健局では、市民に、明礬(みょうばん)とクロラミンBの粉末を使用して水を消毒し、その後煮沸するように注意を呼び掛けている。ハノイ市の防疫センターでは12トンの粉末を準備しているという。

防疫・環境管理局では、全市民が洪水後のゴミの処理と環境浄化に協力して欲しいと求め、さらにハノイ市とハノイ市民に、コレラやデング熱の発生に十分気を付けるように警告を出している。

さらに同局は、市民は井戸水を使用しないようにと注意を出し、郊外の人々は、消毒済の水のみしようするようにお触れを出した。

また、同局は、保健省にはクロラミンBの粉末は50トン以上の備蓄があると言っている。
一方、食品安全局は、係員を市内の市場に派遣し、食品の安全性の検査を行っている。

火曜日現在で、ハノイ市当局は、飲み水、135トンの米、50トンの即席麺の配給を行った。

ニンビン省か? 場所不明
ホーチミン市は、洪水による死者や負傷者を出したハノイ市の家族に5800米ドルを含む見舞金や救援金として12万ドル近くを、クアンガイ省、クアンナム省、トゥアティエン・フエ省、ゲアン省、ニンビン省の家族には1万2000ドル近くを、ホアビン省、フート省、タイグエン省、ランソン省。ヴィンフック省、バクザン省へはそれぞれ5900ドルずつを見舞金として贈った。

ハーナム省では、住民への健康診断を始めた。

ハーナム省では、すでに1トンのくろらみんBの粉末の配給を住ませており、その上で環境の浄化を指示している。

ハティン省では、薬を便乗値上げしないように命令を出した。同時に、2トンのクロラミンBの粉末の配給も終えた。

ハティン省では、物価は統制されており、火曜日現在300トンの米と即席麺、数百トンの新鮮な野菜が運ばれてきているという。

今日から、さらに北部、中北部で最高300ミリの雨量が予想されている。ハノイの気温は21度~29度の予想だ。ハノイの紅河やタイビン、ルクナム川は依然増水を続けているが、タオ河やロ川では危険水域にあるものの水位は下がりき始めている。
なお、洪水関係のニュースはひとまず、これで終了する。(北村 記)
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2008-11-04

死者葉65人に・・・

11月4日 ベトナム保健当局は、昨日(11月3日)、コレラ、デング熱など病気が発生する可能性があると、警告を出しましたが、未確認ですが、ついに、病気が発生したと言うニュースも入ってきています。以下、最新の情報です。

今回の大雨による死者はついに、65人まで増えた。

保健省は、水害被災地域の保健所に、24時間態勢で備えるように、指示を出した。

ハノイでは、昨日は雨は小康状態を保っている。しかし、政府は、今週は、北部―中部の山岳地帯に更に大雨の危険性があると警告を出した。

国家気象予報センターは、タインホア省からゲアン省にかけて、河川の氾濫、地滑り、大規模な異常出水が予想されるという警報を出した。

多くの通りが水に浸かっているハノイ市内は、学校を休校にした。先週金曜日以来のハノイ市内の雨量は、500ミリに達している。

ハノイ市とホーチミン市を結ぶ国道一号線(ホーチミン・ハイウェー)は、中部のトゥアン・ティエン・フエ省内の土砂くれで、あちこちが寸断されている。

ベトナム政府は、北部諸省の河川の堤防修復工事と、洪水危険地域からの市民の避難活動を促進するように出動を命じた。

堤防が決壊したニンビン省では、数千人の生活が心配されている。しかし、詳細は不明である。私たちの支援家族らの安否も心配だ。皆の無事を祈ろう。

主要農業地帯である中部高原地帯はこの大雨の影響は受けていないが、雨で今週のコーヒーの収穫は延期された。
また、中国南西部の雲南を中心に被害がでている。(北村 記)Posted by Picasa

2008-11-03

ハノイを中心に広範に大被害

11月3日 依然としてハノイ市は水没状態だ。昨日の数字と違う部分もあるが、被害の全体像をつかむために、現時点でつかんだ情報をブログに載せておきたい。

この1週間の大雨によるベトナム中部北部の最新の死者の総数は、未確認だが、55名に達している。

首都のハノイでは、野菜が暴騰し、来週分の野菜が底をついており、野菜が来週市場にでるかどうか危ぶまれている他、水道水も汚染され、飲み水の確保も緊急課題になってきた。

ハノイでは雨は日曜日の朝一時止んだが、午後から降り出し、依然水没状態である。

当局は、水害はさらに悪化の様相を見せていると警告を出した。

全ての湖と河は氾濫しており、ハノイを取り巻く紅河(ホンがわ)の土手も危険状態になり、決壊も視野に入ってきている。

大雨は、家屋、発電所、学校、事務所など至る所で被害を与え、仕事場から帰宅できない人も多数に登っている。洪水で、市内の給水も汚染している。

「水が汚いので、泳いで帰るわけにもいかず、2日間オフィスで過ごしました。全くの悪夢です」と、グエン・ゴック・キエムさん(29歳)は言った。

ニンビン省では、河川が溢れ、1万戸が浸水している。土手の補強作業をしていた兵士1人が、土曜日に死亡したと、ニンビン省人民委員会のブイ・ヴァン・タン委員長は言った。

当局は、民兵1000人を動員して、村人を高台に避難させている他、水害地域に食糧を急送している、と、タン委員長は語った。

現時点での最優先課題は、堤防の決壊を防ぐことで、最悪の場合は、数十万の人の被害者がでる」と、タン委員長は予測する。

北部のホア・ビン省とフー・ト省で合わせて3人が水に流されたほか、ヴィン・フック省では2人が行方不明になっている。

ベトナム中部では水が引き始めたが、ハティン省で4人の死体が見つかり死者の合計は28人と増えた。ハティン省では、合計12人が溺れ死んでいる。

隣のゲ・アン省では、先週、下校途中の4人の子どもが水にさらわれ、これまでに合計12人の死者が出ている。

またクアンガイ省とクアンビン省で、合計4人の死者がでている。

更に悪いニュースだが、北部では後数日は降り続く様子で、さらに被害が広がることが懸念されている。
穀物の被害は広範囲に拡大しており、悲惨の二文字である。
                       
*再度ご説明しますが、ここに挙げた数字は必ずしも正確ではありません。それは、交通・通信事情のよくない地域で洪水が多数発生しており、正確な数字をつかむまでには、数週間はかかるとみられるからです。
                           
ほんとうに、ベトナムの皆様に、お悔やみとお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧を念じております。(北村 記)Posted by Picasa

2008-11-02

ベトナム北部の洪水 死者44人に

ハノイ市内の大洪水
今回は、少し詳しく水害の情報をお伝えします。
今はいってきた情報(日本時間の11月2日午後8時現在)では、ベトナム中北部の水害による死者は44名に増えました。すでに死者60名を超える数です。
タインホア省で20人、クアンガイ省で17人などの数字があがっています。ということは、更に死者の数は増え続ける可能性が濃くなっています。ご冥福を祈り、被害者にお見舞い申し上げます。
************
10月31日、ハノイ中心部のグエン・チャイとラン・トゥンの間で、午前1時から午前10時までの間に450ミリの雨量を記録しました。

10月31日は一晩中降り続いたようです。国家気象予報センターのブイ・ミン・タン長官は、10月の雨としては35年ぶりの雨量を記録したと言っています。
最新のニュースでは24人が死亡したとされています。ハノイ市内では、4人が死亡しています。
ハノイのほとんどの通りが冠水しており、グエン・クエン、グエン・ルオン・バン、チャン・クオック・トアン、トー・ニュオムなどの通りは水深1.2メートルとなっているそうです。

ホアン・ホア・タム、デ・ラ・タイン、イエン・フーの各通りでは、数千台の車両・バイクなどが動かなくなって乗り捨てられ、交通渋滞をひきおこしているようです。

半日ほど孤立した住民も一部いたようです。
住民の声「私は、午前11時に家を出て仕事に向かいましたが、4キロ離れた仕事場に着いたのは3時半でした。チャン・フン・ダオ通りのホアン・キエム区の公務員、レ・ホン・ハインさんです。
                      
「私は、バイクタクシーを拾って職場に行きました。仲間よりはついていました。同僚は、バイクタクシーを拾いましたが、泥水の中に落ちてしまいました。私のバイクは、プラグに水が入って動かなくなりました」ドンダー区のグエン・スアン・ヒエップさん。
グエン・タイ・ホック通りでは、バイクは、6時間足止めをくわされたそうです。
市内の排水作業を行うために、午前4時半から、ハノイの下水工事会社が1000人を動員されました。                              
警官も数百人が動員されました。
                        
停電は、カウ・ザイ区、ドンダー区、平和村のあるタイン・スアン区で発生。10便が、ノイバイ空港に着陸出来ず、行き先を変更しています。  
                            
大雨は、北部のフー・ト、ラオ・カイ、トゥエン・クアンの各省でも降り、山崩れが起きたり、穀物や家屋に被害が出ています。
                            
北部の河川も増水し、ボイ河では水位が14.75米に達し、注意3の警報が出されました。
ハティン省では、死者11人、クアンガイ省では3人、ゲアン省では1人が行方不明になっていると伝えられているが、正確かどうかわかりません。
                            
国家災害管理委員会の被害総額の予想は、2000億ベトナムドン(1250万米ドル)に達するということです。 また、山崩れなどで、数十人が負傷しており、家屋の損失も出ています。
                          
たった今、ベトナム外務省のタインさんからメールが来ました。ホーチミンにいるそうです。「24年間前の水害を思い出す。ハノイは湖になってしまっているようだ」と書いてあります。
                             
BBCテレビは、ベニスのようだと報道しています。
また、各地で山崩れなどで、数十人が負傷しており、家屋の損失も出ています。
被災地域では、数千に及ぶ学校が1米以上の水に浸かっており、また、養殖池でも水が溢れています。

田畑の被害も深刻となっていますが、最終的にはかなりの被害にのぼるとみられます。

中部のトゥア・ティエン・フエ省内の幹線道路が1米の冠水している他、国道14号E線と14号B線とクアンナム省内のホーチミン・ハイウェーが深刻な被害を受け、多くの車が立ち往生している。

また、ゲアン省内の7号線と15号A線も不通になっている。これらの国道は、いずれも旧ホーチミン・ルートに関連しています。
カー河の水位は7.5米、ラー河の水位も5.6米と増水し、警戒水位を突破し、気象センターは最高度の厳重警戒態勢を呼び掛けている。

また、多くの住民が安全な場所に避難している。

気象予報センターは、「今後3日間雨は降り続くので、、中部、北部の河川は最大警戒水位の6米を突破することが予想される」として、河川に対する厳重な警戒が必要だと言っている。
また保健省は、中部諸省の保健局に対し、厳重警戒地域では十分な医薬品と医療器具を確保するよう指令を出した。

また、孤立しそうな診療所は、必要なら安全な場所に移動するようにと指令を出しました。

移動診療班が24時間態勢で勤務に就いている。

また、保健省は、関連する機関にも医薬品や医療器具などを準備を整えるように緊急指令を出しました。

国家災害管理委員会は、高原地帯の省には山崩れ、低地帯の省には異常出水に注意するよう呼び掛けています。
毎年の洪水で、ベトナムで年間数百人の死者を出しています。
なお、ニンビン省のビンさんにも、被害状況を問い合わせています。また、私たちが支援した豚への被害も心配しています。
新たな情報が入り次第、ブログにアップします。Posted by Picasa

結合性双生児に関連して・・

前日(11月1日)のブログで、ビン・トゥアン省で結合性双生児誕生の話をしました。そのビントゥアン省で思い出したのが、このチャン・ティ・ホアンさんです。だから、10月26日に出生した結合性双生児が、枯れ葉剤の被害者と断定しているわけではありません。そこは、お間違いの無いようにお願いします。
アメリカ司法省の前で支援を呼び掛けるホアンさん
ここにご紹介するホアンさんは、このブログの10月2日で紹介した人と同じです。
彼女は、9月28日から、10月28日まで、ベトナムの枯れ葉剤被害者の代表として、同じく被害者の一人ダン・ホン・ニュッとさんと、アメリカ10都市を回って、被害者の実情と支援を訴えてきました。

1986年12月16日に、ベトナム南部のビン・トゥアン省ドゥック・リン郡に生まれました。枯れ葉剤が多量に撒かれたドンナイ省に隣接する郡です。10月26日に結合性双生児がうまれたバック・ビン郡よりはるかにビエン・ホア空港寄りです。

彼女は、第2世代の枯れ葉剤被害です。

お母さんが、戦争中にエージェント・オレンジに曝露したようです。

アメリカでの集会に参加するホアンさん他

ホアンさんは、生まれつき両足が無く生まれました。そして、左手に奇形性が見られます。

彼女は、辛い少女時代を過ごしました。小学校の通学年齢になっても、学校は行けなかったそうです。「皆が、怖がったから」といいます。

12歳から、ホーチミン市の平和村Ⅱに入り、そこで暮らしました。平和村Ⅱというのは、ベトちゃん(故人)ドクちゃんが入っていたトゥーズー病院の中にあります。彼女は、平和村育ちの世代なんですね。

7歳の時のホアンさん
ホアンさんは、ホーチミン市の大学で、コンピューター科学を学ぶ学生に育ちました。
この度のアメリカ訪問は、彼女にとって初めての旅でした。結構流暢に英語を話します。彼女は大きな使命を果たしたと思います。

VAVAのアメリカ派遣の予算は、4万2000ドル弱で、アメリカを1ヶ月、枯れ葉剤被害者の実情を訴え、支援を呼び掛けるツアーでした。
10月31日の時点で、集まったのは2万2000ドルちょっと。目標の半分しか達成できていません。
どこの国でも、弱者支援となると、なかなか身銭を切ってくれる人はいないものですね。
私たち支援隊は、ほんとうにささやかですが、協力をさせて頂きました。Posted by Picasa

結合性双生児が誕生しました

10月26日に ・・・

ベトナム南部の省ビントゥアン省で、女の子の結合性双生児が生まれました。

結合性双生児が生まれたのは、10月26日。ビントゥアン省ファンティエット市のアンフオック総合病院です。お母さんは、バクビン(Bac Binh)
郡ファンタイン(Phan Thanh)村(省都ファン・ティエットから国道1号線を60キロほど北上した所です)に住むグエン・ティ・ラップ(Nguyen Thi Lap)さんです。年齢は20歳です。

26日、ラップさんは、帝王切開の末、女の子の結合性双生児を出産しました。
帝王切開手術を担当した女医のカオ・ティ・ビン(Cao Thi Binh)先生の話では、双子の体重4.4キログラム。

胸部と腹部がつながっており、循環器系やへその緒なども一組しかないということです。

また、腕と足は4本ずつあるそうですが、腕2本と足2本が結合しています。

出生後の双子の状況は、「一人は元気。もう一人の呼吸が弱く人工呼吸器を装着している」 そうです。

お母さんはチャム族の子孫で、初産だそうです。妊娠4カ月目に同病院で超音波検査を受けた際には発見されなかったという。

母親と双子は、ドゥック君が入っていたホーチミン市のトゥーズー病院に運ばれ、分離手術が可能か道か、診察が続いているようです。

これだけの情報では、枯れ葉剤と関係があるかどうかわかりません。家族のバックグラウンドが分からない限り、何かを断定するのは危険です。

結合性双生児の場合、共有している部分に奇形性が見られます。つまり左右相称ではない現実があるということです。循環器系とへその緒がひと組というように、二人が生きて行くには厳しい状況です。また、共有している胸部と腹部にも、血管の奇形性があるかもしれません。これらは検査の結果を待つしかありません。

足と手も結合しているようですので、例えば血管にも奇形性が隠れているかもしれません。分離手術と言っても、2で割ればいいという簡単なものではありません。

何にもまして心配なのは、一人の赤ちゃんの呼吸が弱っていると伝えられることです。

私がハノイ勤務中に、たまたま2例の成功例を見ました。臓器ともに、二人分があったので助かりました。ひと組の手術を執刀した先生の話では、手術して初めて見つかる奇形性もあって、大変でした・・と話していました。

いずれにしろ、分離手術は行わなければならないでしょう。分離手術をして二人とも生きていけるのなら問題ないですが、それが不可能なら、どちらを助けるかという、生命救助の問題もでてくるかもしれません。祈る気持ちです。

ビン・トゥアン省と聞いて、ピンと来たのは、今年の9月から、ベトナムを代表して、枯れ葉剤被害者の惨状を訴えに渡米したチャン・ティ・ホアンさんも、ビン・トゥアン省の生まれです。

もちろん、これだけで枯れ葉剤被害だと双生児を結びつける気はありません。次のブログもご覧になって下さい。(北村 記)

2008-11-01

中・北部の皆様 お見舞い申し上げます

11月01日:今回の大雨による水害で被害に遭われた方々に、愛のベトナムさわやか支援隊として、衷心よりお見舞い申し上げ、一日も早い回復をお祈り申しあげます。

先週からベトナム中部に降った大雨による洪水で、現在までに14人が亡くなっています。
首都のハノイでは、多くの道路が冠水し、所にによっては、1米以上冠水しているところがあるようです。
大雨は、金曜日の朝から降り始め、山岳地帯を抱える6つの省で異常出水による洪水が懸念されていました。


24日以来9省を襲った大雨では、下校途中の11歳~12歳の2人の少女と、2歳の男の子が洪水に呑まれてしまったそうです。

ハティン省で7人、クアンガイ省で3人、ゲアン省で2人、クアンナム省フーイエン省でそれぞれ1名ずつの死亡が報告されています。水曜日以降でハノイ南部の300キロにあるゲアン省では、330ミリの雨量が観測された他、トゥア・ティエン・フエ省内を走る国道1号線は、山崩れなどであちこちが寸断されています。

これまでに、合計14人が亡くなっています。中部地方の雨期は、今月には終わる見込みです。

コーヒー・ベルト地帯と呼ばれる中部高原地帯や、米のかごと呼ばれるメコンデルタ地帯は、この雨による影響はないそうです。

中部高原地帯のコーヒー豆の収穫は、例年より2週間早く、11月中旬を予定しているそうですが、悪天候で、乾燥期間が伸びたり、豆の質にも影響が出るかも知れないと業者は心配しています。

私たちが、支援に行っている地方の皆様も、どうかご無事でありますように・・と祈っています。

2008-10-28

支援隊ツアー08(番外2) お便り頂戴しました。

10月27日 お二人からお便りを頂きました。一部をご紹介させて頂きます。このブログは、どこの国からアクセスしたかが、分かります。便利なものです。
まずは、ツアーにご参加下さったあいあい眼科クリニック名古 良輔先生からです。
支援について書かれている内容(註:10月27日掲載 番外編のこと)、まさにその通りだと思います。一番大切なのは、「世界はあな達を見守っている、関心を持ちつづけているのだ」ということを実感させてあげることではないでしょうか? 自分たちは世界から無視されている、と感じるときほど無力感を覚える瞬間はないのではないでしょうか?
マザー・テレサが言われたように、「愛の反対は、憎しみではなくて、無視だ」という言葉は真実です。

名古先生 ありがとうございました。誰かと繋がっているという確かな感触ほど強い物はないでしょうね。そう思います。マザー・テレサの言葉を紹介されたように、私たち世界市民が生活弱者に積極的にかかわっていくということが大事だと思いますね。それが、何にもまして、力を引き出すもとになると思います。

上の写真は、クアンガイ省で頂いた物です。無眼症の子です。お母さんの顔は写っていませんが、心中を察して余りあるものがあります。「死ぬに死ねない」気持ちと思います。そういう母の心を楽にしてあげられるのが、世界市民の連帯ではないでしょうか。力強いお言葉をありがとうございました。(北村 元)


オーストラリア暢子(のぶこ)さんから、頂戴しました。

口紅をさしてもらって、少しはにかんだようなニャンちゃんの笑顔。少し、大人っぽくなられていますね。。。

お姉さんのハノイ国家大学法学部合格は、本当にすばらしい!!弁護士になられるとのこと。心あふれる、世界一の弁護士さんになられると思います。ブログを拝見して思い出したことがあります。(中略) 理想郷そのものが存在するかどうかよりも、その理想郷を目指して、歩み続ける事に意味があり、目的があるというような内容だったと思います。

北村さんや、さわやか支援隊のみなさまのご心痛を計り知ることはできませんし、前途はとほうもないものかもしれませんが、皆さんが、心を合わせ目指して歩まれてきた後ろには、確かな道が、幸福と友情の道ができていることを信じてやみません。暢子

暢子さま ありがとうございました。貧困の中から勝ち取った大学合格証。父をうしない、2人の兄を失い・・彼女は、いまこの家庭の華です。希望です。目標を高い所に置いて、勉強してきた甲斐があったと感じてくれていれば、それはうれしいです。

姉のクエンさんが、私たちがくるという連絡をビンさんから受けて、高校から一所懸命自転車を飛ばして帰ってきてくれたときがありました。もう帰ってしまっているかもしれない・・でも絶対、会いたいという気持ちでペダルをこぐ・・・外国人には訴える物がありましたね。ちょっとでも御礼を言いたかったのでしょうか。あるいは、自分の羅針盤にセットした針路を聞いて欲しかったのでしょうか。さわやかな女子大生になりました。

脾臓肥大は治らないものでしょうか。黄疸症状も治らない物でしょうか。現代医学に怒りを感じながら・・・何が出来る、どうすればいい・・・と、焦りつつ・・・・ニャンちゃんが、一日も長く生きられること・・・を願わずにはいられません。名古姉妹が提案した家庭教師をつける・・・検討に値する案です。打診をしてみようと考えています。いつも、ご支援ありがとうございます。(北村 元 記)Posted by Picasa

2008-10-27

支援隊ツアー08(番外)今年のツアーを終えて

今年のベトナム支援ツアーは、最大時18人で回りました。私たちは、幸運にも、バクザン、タイビン、ナムディン、ニンビンの田舎を、回ることが出来ました。
これらの地方では過疎化が進んでいるという言い方が必ずしも当たっているわけではありませんが、枯れ葉剤被害者の家庭ではやはり老夫婦で生活する世帯が多いようです。障害ゆえに一家は子どもの時代に移行出来ず、いつまでたっても第1世代の夫婦を中心とした世帯をどう支えていくかが、今後のベトナム社会の地域の大きな問題になるのではないかと思います。高齢化する夫婦をどう支えていくか、大きな困難を伴いそうです。
そして、その問題がもうそこまで来ているように思うのです。
妻は死亡。男親が2人の障害児の面倒をみる(クアンガイ省)

今回の家庭訪問で強く感じたことは、そういう世帯では高齢化しつつある夫婦や、家庭の中心者が健康であることがとても、重要な条件になってくるということです。そして、本来なら生き甲斐であるはずだった子ども達の面倒を、自分たちが生きている限りみていかなくてはならないということを焦点に当てると、ではどうやったら、夫婦や中心者が精神面でも強壮な健康を保っていけるか・・・も、問題になってくるでしょう。

隣同士支え合っているんでしょうか? とある所で質問しました。役人からは嘲笑の表情が、私に向けられました。「あんた、そんなこともしらないんですか、助け合っていますとも・・・私たちは・」と、その笑いと表情は物語っていた。

だが、それは、表向きの、きれい事の発言でしょう。すでに、田舎の助け合いは、金銭関係 物々関係に変貌をとげつつあるように思うのです。聞き取りをした農家の多くが、そういう返答をするのです。私の質問は、勿論、無償の関係がまだ崩れていないのですか・・と問うたわけですから。それは、彼らも承知のはずです。本質に近かったから不快感をみせたのでしょう。

ベトナムの田舎は村社会です。濃密な人間関係で成り立っていました。それは理解している積もりです。しかし、そういうベトナムの田舎社会でも、大きな時代の変化が襲来していると言わざるを得ません。

枯れ葉剤の被害者のみならず、病人や高齢者を、村社会がどのように受け入れていくかです。

上のアインさん宅の台所

そこで、とりあえず今中心的役割をはたしている役人たちによる家庭訪問は大事です。いろいろな悪条件があって、なかなかそれが実現出来ていないことは理解できます。

だから、私たちが車椅子を贈呈するその直前まで、車椅子の受領予定者がとっくに死亡しているのが分からなかった現状に、出くわすのです。 3年前のことです。

家庭訪問は、大変意義のあることです。向こうから来てもらうのではないのです。その行為は、被害者や高齢者に、安心と喜びを与えます。これからは、役人のみならず、地域住民が、「顔を見に行く」家庭訪問が、大きな役割を果たして行くと思うのです。

今回、もっと効率の良い支援をしてくれないか、と暗に量的支援の拡大を、鋭く、且つ感情的に表明した省がありました。家を建ててくれという声も、別のところで聞きました。そういう声も貴重な声ではあります。物質的応援は、確かにあるレベルまでは大事です。生活経済の向上無くして、生活弱者に余裕もゆとりも生まれないからです。

第2世代第3世代に頼れないティ・イエンさん(左)クアンガイ省

しかし、それを完遂したところで、なおかつ超えられない物があります。立派な家を建ててあげても、解決できない問題は必ず残ります。いずれの時点でも、そういう弱者の「心」と役人や私たちの「心」とがどこかでつながっているかどうかがもっとも大切なことは論を待ちません。

 「精神的価値は結局において物質的価値に優るものである」(大道弘雄訳『我等の行く道』朝日新聞社)というルーズベルト大統領の言葉は、大きな意味をもってきます。

有名な箴言があります。「今の世間を見るに人をよくな(成)すものはかたうど(方人)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」

今の世間を見るならば、人を立派にしていくものは、味方よりも、むしろ強い敵であるとの言葉だ。確かに、困難があり敵がいるから、成長していく・・・しかと熟考してみようと思います。

今回、豚を贈呈したのは、わずか5世帯でした。この3月に、そのうちの1軒を、私は事前訪問しました。そこの女性が、「我が家はとても貧しいです。どうか、世界からも関心を寄せていただければ・・・」と、涙ながらに話しました。もちろん全世界から・・と彼女が言っているのではないことは、分かっていただけると思います。そしてまた、何かを具体的にほしいというのでもありませんでした。

レ・ティ・スエンさん宅の軒先(ニンビン省)
「両親は他界し、枯れ葉剤に侵された2人の妹、弟を面倒見なければならない・・状態に関心をもっていただきたい・・・」と言いました。その場の雰囲気と彼女の気持ちをそのまま素直に解釈するならば、「それで私たちも少しは元気がでると思うのです」ということだったと確信します。

今年の支援活動である程度やったな・・とこつんと当たった感触を得られるかどうかは、ひとえに下見にかかっています。

どうすれば、被害者や高齢化夫婦から元気をひきだせるか・・・それは贈呈する物の量に比例するものではありません。私たちが相手の心とどう繋げられるか・・にかかっています。それを見つけることが、下見の使命です。
さて、このツアーにご参加の皆様。今、わが胸に、何人の友の「顔」が浮かんできますか。きょうを真摯に生きるのは、単に自分のためだけではありません。胸に浮かんだ友の笑顔のためでもあります。そこに、己心の力も限りなく湧いてくるのではないでしょうか。 (北村 元:記)Posted by Picasa

2008-10-24

支援隊ツアー08(33=終)もう一人のお誕生日

8月28日:もう一人、ツアー参加者の中で、ハノイでお誕生日を迎えた方がいました。千葉にお住まいの川津康代さんです。大学時代の友人です。会場は、私の好きなイタリア・レストランの「パネ・エ・ヴィノ」・・オペラ座から歩いて1分です。
どうやって、お祝いしようか、27日、ニンビン省からハノイへの帰りのバスの中で、一人もくもくと考えました。誰にも相談しないで、内緒できめました。ハノイまで後1時間というときに、ただ一人、外務省のタインさんに相談しました。
グラスを合わせる川津さんと金原さん(左)

「一弦琴を弾ける女性はいないか」と。

彼は、バスの中から電話をかけてくれました。奏者は、40分ほどで決まりました。その方が、緑のアオザイを着たこの方です。後は、ケーキです。これは、私が住んでいた時の行きつけのお店で決めました。

川津さんんと奏者
ベトナムの曲、日本の曲を弾いてくれました。なかなか難しい演奏楽器です。ソロも良いですが、合奏もなかなかですよ。
ローソクの灯ったバースデーケーキを入れて、川津さんの写真を撮るタインさん。
挨拶する川津さん。初めてのベトナム。このツアーで、多分、たくさんの重い思い出を心の中にしまい込まれたと思います。ツアーの終わりのお誕生日。意味のあることと思いました。
                    
皆さんは、正確に言えば30日の午前零時5分発の成田行きで日本へ。
小生は、29日午後1時半の飛行機で、シンガポール経由ジャカルタへ。
今回ツアーで初めてお目にかかった方々はもちろん、支援旅で縁したベトナムの方々のご多幸を祈りつつ、ハノイを後にしました。
                          
皆様 お疲れさまでした。ご協力ありがとうございました。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(32)ちょっと観光

8月28日:VAVAを辞した後、ホーチミン廟周辺を大釜さんの案内で散策している間に、私は、郵便局でクアンガイ省へ送る奨学金の手続きをしました。その後合流して、ご案内したのが、撃墜されたB52爆撃機の機体の一部が落ちているヒュー・ティエップ湖です。その前で、記念写真に入りました。撃墜したのは、1972年12月27日の夜中の11時05分だそうです。撃墜の当事者は、第72連隊第285防空ミサイル部隊でした。
ヒュー・ティエップ湖の前の通りの人の家の軒先で、将棋を指す若者。必ず、そばで見ている人がいます。この外野が結構うるさいのです。 平和の証拠ですね。

次に私が、ご案内したのは、ここ(下の写真)です。アメリカ大統領候補のマケイン上院議員と関係のある場所です。
ハノイ市内にある大きな湖・西湖にしがみつくようにくっついている湖、チュク・バク湖と言います。漢字で書くと竹白湖です。きれいな名前ですね。その湖畔にひっそりと立つ小さな碑。
そこには、こう書かれてあります。
「1967年10月26日、チュクバク湖で、首都ハノイの市民と軍人が、イエンフ-発電所上空で撃墜されたA4B1戦闘機のパイロット・ジョン・マッケイン空軍少尉を逮捕した。これは当日に撃墜された米軍機の1機にすぎない」
マッケイン少尉のハノイ爆撃は、当時6回目の任務だったといいます。後日、マッケイン上院議員がこの碑の前に立った時、「私は、共産主義には降伏したつもりはない」と言ったそうですが、降伏という意味の単語や文章はこの碑にはありません。

マッケイン空軍少尉を捕まえた一人、マイ・ヴァン・オンさんを、チュク・バク湖畔の自宅に訪ねたことがあります。当時で86歳でしたから、生きていらしたら、94歳にはなっています。とにかく小柄で元気のいい方でした。

「午前11時頃、突然、防空サイレンがなった時、私はこの家にいました。防空サイレンが聞こえたので、50メ-トル先の防空壕にいきましたが、すでに満員で、入るには入りましたが最後で、外にいたも同然でした。その時アメリカの戦闘爆撃機が2つの編隊を組んで飛んでくるのが見えました。その時、北ベトナム防空部隊が対空ロケットを放ちました。それが後ろの戦闘機の尾翼に当たって尾翼が落ち、その後戦闘機は墜落しました。そして、白いパラシュ-トが飛び出しました。それが、チュク・バク湖の真ん中に落下したので、私はすぐ泳ぎました。当時の私は、上半身裸です。短いパンツをはいているだけでした。ようやく白いパラシュ-トの所に泳ぎ着いたら、パイロットが5メ-トルくらい沈んでいたように思いました。背中にはパラシュ-トがまつわりついていました。パイロットは死んだと思いました。すぐ引っ張りあげようとしましたが、太っていて大変重かったです。とにかく、水面まで引き上げました。」
と、まあこんな感じで話してくれました。
                     
さて、マケイン上院議員は、大統領になれるのか? 私は3-7で無理だとみています。
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支援隊ツアー08(31)VAVA表敬訪問

8月28日午前9時。私たちは、最後の公式行事であるベトナム全国枯れ葉剤被害者協会(VAVA)を訪問した。副会長のグエン・チョン・ニャン博士とは、1年ぶりの再会だった。
博士は、日本訪問を10回も果たしている。「ヒロシマナガサキ、名古屋 福岡へ行きました。1988年には、車で5合目まで登り、富士山を近くでみました。その後東京に行きました」と、楽しそうに話を切り出され、懇談的な話し合いになった。
以下は、ニャン博士の発言要旨である。
資料をもとに話をするニャン副会長

▼亡くなったダン・ヴー・ヒエッ会長の後は、新会長に、ドー・スアン・ジエンDo Xuan Dien)さんという人がなりました。やはり、枯れ葉剤の被害者です。チュオンソン山脈で枯れ葉剤を浴びました。余り健康はよくありません。

▼現在枯れ葉剤の被害者の数は、300万人と思ってください。来年、詳しく検査します。アメリカが1961年から撒き始めてから、たくさんの人が死んでいきました。そして、戦後は新しい被害者も出てきました。枯れ葉剤被害者は増えています。

▼ベトナムは経済優先で進んでいるので、枯れ葉剤の被害者をなかなか確定できないでいます。被害者の病気は、不治の病です。

▼赤十字、労働新聞、青年新聞などのメディアの他、子どもを守る団体もスポンサーになっています。各種団体が一緒になって、行動していますが、何も貰えない被害者もいます。
そこで、いま、各種団体を統一して、一つの計画を立ち上げたいと考えています。(註1)

支援隊から金一封を寄付する大釜会長(当時)

▼戦争中行方不明になったアメリカ軍の遺骨を探したのは、ベトナム人の広い心です。アメリカが応えないために、2004年にアメリカで裁判を起こしました。アメリカの裁判所は、ベトナムの訴えを棄却していますが、私たちは訴え続けています。

▼アメリカの裁判所は、却下の理由をいろいろ挙げていますが、全部間違っています。
例えば、ベトナムで撒いた枯れ葉剤の毒性は少ない・・と言うものです。あれは、葉を枯らすだけのもので、人体への影響は無い・・と言っています。しかし、現実をみていません。

▼アメリカでは、国家、詰まり政府が裁判所に圧力をかけたと思います。理由は、ベトナムが勝ったら、アメリカは賠償しなくてはならないという考えです。国際法では、枯れ葉剤、化学兵器を使用してはならないという規定があります。

▼二つ目の理由は、この裁判で、ベトナムが勝つと、アメリカ政府は人権に違反している人権の国になるからです。アメリカは、ベトナムに人権を守れと言ってきましたが、人権に違反しているのはアメリカです。

▼2008年10月にアメリカで会議があります。私も、文書で参加しようと思っています。この発言のタイトルは、「枯れ葉剤とアメリカの心」にしようと決めています。結論は、アメリカで心ある人は誰ですか? です。

以上が、ニャン博士の発言の概要です。

停電で、外でニャン博士と記念写真

一義的にも国際的にも、アメリカが誠意ある姿勢を見せることが肝要だと思う。そういう国際環境を作る国際的な連帯が必要である。

その一方で、国内的には、ニャン副会長が話されたように、国内での被害者支援の意識向上をはかることが大事だ。それは、昔の貧乏を分かち合う共産主義の清い精神に立ち返ることであり、ひいては苦しむ人たちと同苦するより高い精神運動を遍満させることである。

その点で、ニャン博士の発言と関連して、私たちの通訳を務めてくれたマイ・アインさんが、名古姉妹に話した内容(註1)は、一市民としての意識として大事であるので、ここに紹介しておきたい。

「今まで、貧乏な人がいることや枯れ葉剤被害者は知っていた。でも今回、実際家庭訪問をして、自分の目で見て、現実がわかった。彼らは手当てを貰っていても僅か。例え私たちが一ヶ月生活できるお金を彼らに渡しても、貧乏の悪循環は崩れない。こうした状況があっても、今もなお続くのは私たちの責任でもある。私たちも自分に何が出来るか考えていかなければならない。」(マイ・アインさん)

22歳のタイン・ニエン(ベトナム語=若者)のこの考えには、重なるところが多くあるのではないか。

支援隊にVAVAから送られた感謝状
ここの訪問を終えて、今ツアーでの私の役目はほぼ終了した。示唆に富んだ支援ツアーだった。
                          
「自然は、人間に一枚の舌と二つの耳を与えた。ゆえに話すことの二倍だけ聞け」という、古代ギリシャの哲学者ゼノンの言葉が伝えられている。人の話に真剣に耳を傾けることの大切さを強調したものだ。かと思うと、聞く耳をもたず、意地悪いことを話す「耳が一つで、2枚舌」の人間もいる。
                                                     
数多くの方々に会えて話に耳を傾けたことは、間違いなく有意義だった。賢明に言葉を紡ぎ、全力で対話に傾注したつもりであるが、私の力及ばずのところがあった。私たちは「聞き上手」でありたい。豊かな「同苦の心」を持って合わせたい。相手の思いを知らなければ、どんな激励の言葉も空回りになる。「聴く力」あって、初めて「語る力」が生かされることを常に心に留めておきたい。
タイビン省のVAVAからは、ちょっと違った角度での指摘もあった。支援の量を増やしてほしいという怒りにも近い声を聞いた。私たちが会ったのは、ほんの一握りの被害者でしかない。私たちは、毎年毎年、微力の限りを尽くしているが、被害者救済にはほど遠い。
                           
反面、現在、日本の平和教育で問題となっていることに、戦争体験の風化がある。平和の心を後世に伝え、広げることは、容易ではない。しかし、黙っていては伝わらない。乗り越える一つの方途は、「戦争体験」をさまざまな機会を通して伝え、訴えることだ。 
                           
このベトナムでは、今でも戦争を追体験できる。忘れない、忘れさせないための努力を永遠に続けていく義務も、私たちにはある。この地道な訴えこそ、平和への第一歩と心得る。
                              
いま、私たちが行っている、聞き取りと支援活動という両面作戦は、私たちの心の中に戦争風化の防波堤を築きながら、同時に被害者の中に少しでも負けない心を育てていく隠れた作業だと自負している。
                           
支援隊といっても、物をあげるだけではない。不幸な犠牲者の人生の応援団であり続けようと、少なくとも私は務めている。その点では、支援を数よこせというタイビン省のVAVAの主張と私たちの考えには隔たりがある。
そして、忘れてならないのは、「自分たちが励ます側にいることが、どんなにすばらしいことか」である。つまらないことでもめている場合ではない。
                            
来年も、再来年も、戦争風化を止め、支援と交流に一層力を入れていきたいと決意を新たにした今年である。“どげんかせんといかん”のではないか。
一つ一つに全力を注いできたつもりであるが、至らないところが多々あったと思う。「一人の心なれども二つの心あれば其の心たが(違)いて成ずる事なし」と、箴言にある。その時々の問題に集中し、情熱を込め、全力を出し切っていくことが、今後とも必要だと思う。
                            
皆さん方のお考えを聞かせて頂きたい、と願っている。Posted by Picasa