2006-08-28

ホーチミン書簡

ベトナムの建国記念日が近づいてきた。私は、今、この50年近くのベトナム史に立ち会ったベトナムの方々の話を整理しながら、出版の準備をしている。

ある元外交官との話し合いの中で、私はこう質問した。
「もしトップ同士が直接に話し合えば、もっと短い時間で解決できたのではないか?」

私の質問に、この元外交官はしばらく考えるかなと思ったが、返事は即答に近かった。
「ホ-チミンさんが後5年-
7年長生きしたとしても、それより短時間で解決できなかったろうと思います」と言った。彼の話の内容は別の機会に譲る。

ホーチミン主席がジョンソン大統領に宛てた書簡は、結局トップ同士の話し合いのきっかけにはならなかった。そして、ホーチミン主席は、1969年8月25日づけでも、ニクソン大統領に宛てて書簡を送っているのだ。今回はベトナム戦争を一番拡大したジョンソン大統領に宛てたホーチミン書簡を紹介したい。

ホーチミン主席がこの書簡に託した北ベトナムの決然とした態度が伺えるが、この文面からでも、アメリカの力の闘争が浮き彫りにされていると思う。

                 アメリカ合衆国大統領
リンドン・B・ジョンソン氏閣下閣下

1967年2月10日、私はあなたのメッセージを受け取りました。これは、小生の返書です。ベトナムは、合衆国から数千マイルも離れた国です。ベトナム国民が、合衆国にいかなる危害を加えたことなど一度もありません。しかし、1954年のジュネーブ会議で貴代表が行った約束に反して、アメリカは、ベトナムで絶えず介入を繰り返してきました。合衆国は、ベトナムの分断を引き延ばし、南ベトナムを新植民地化し、米軍基地化する考えをもって、北ベトナムにおいて侵略戦争を繰り広げ強化してきました。すでに2年以上も、合衆国政府は、空、海軍を使って、独立主権国家であるベトナム民主共和国に戦争を行ってきています。

合衆国政府は、戦争犯罪、平和に対する犯罪、そして人類に対する犯罪を行ってきました。南ベトナムでは、50万のアメリカ軍、同盟軍が、われわれの同志を虐殺し、穀物を破壊し、村々を完膚無きまでに壊すために、ナパーム弾、有毒化学物質や有毒ガスなどの最も非人道的な武器、かつ最も野蛮な戦争手段を行使しています。北ベトナムでは、何千というアメリカ軍機が、何千、何万トンという爆弾を投下して、町、村、工場、学校を破壊しています。貴メッセージでは、あなたは明らかに、ベトナムにおける苦しみや破壊を嘆いていらっしゃる。ご質問したい。誰が、一体これらの恐るべき犯罪をしでかしているのでしょうか? それは、合衆国であり、その衛星国軍なのです。ベトナムにおける極めて深刻な状況は、まったくもって合衆国政府に責任があるのです。

ベトナム人民に対するアメリカの侵略戦争は、社会主義国家への挑戦であり、民族独立運動への脅威であり、アジアと世界の平和に対する深刻な危険を構成しています。


Posted by Picasaベトナム人民は、独立、自由、平和を芯から愛しています。しかし、アメリカの侵略にあたって、彼らは犠牲と困難を恐れず、立ち上がり、一丸となって団結しました。彼らが本物の独立と自由、真の平和を勝ち取るまで、抵抗運動を行う決意です。われわれの公明正大な主張は、アメリカ国民の広範な層を含めて、全世界の人々から強い同情と支持を集めています。

合衆国政府は、ベトナムで侵略戦争を展開しました。この侵略を停止しなくてはなりません。これが、平和回復の唯一の方法です。アメリカ政府は、ベトナム民主共和国に対する爆撃と他のすべての戦争行為を、確実にそして、無条件に停止すること、南ベトナムから全アメリカ軍及び衛星国軍を撤退させること、南ベトナム解放民族戦線を承認すること、そして、ベトナム民族に民族自決を委ねること、これらは、ベトナム民主共和国政府の5項目方針の基礎になっているものです。それは、ベトナムに関する1954年ジュネーブ合意の根本原則と条項を具体化したものです。

貴殿のメッセージでは、ベトナム民主共和国と合衆国間の直接対話を提案しています。もしアメリカがそのような話し合いを真に望んでいるなら、まず民主共和国に対する爆撃と他のすべての戦争行為を、無条件に停止しなくてはなりません。ベトナム民主共和国と合衆国が話し合いに入り、両国に関する問題を討議するのは、ベトナム民主共和国に対する合衆国の爆撃と他のすべての戦闘行為を無条件に停止した後に限ります。

ベトナム人民は、決して力に服従することはしません。爆弾の脅威の下では会談を受け入れることは決してありません。

われわれの主張は、公明正大です。合衆国政府が、理性にかなってこうどうされることを望んで止みません。

敬具
ホー・チ・ミン(1967年2月15日)

上記の書簡は、「自由と独立ほど尊い物はない」という徹底抗戦のアピールをした1966年の翌年に書かれたものである。67年2月7日に受け取って、ほぼ1週間後の2月15日に返書を出している。その迅速さにも、注目したい。それ以前にも、ホーチミン主席は、1945年9月2日に「ベトナム民主共和国」独立宣言したが、そのころ、トルーマン米大統領に8通の独立支援の手紙を送るが無視されている。書簡の中には、「我々は60年前に会えたら良かったのに、、、」と主席の言葉が添えられている。アメリカ側に、聞く耳さえあったなら、どこかで直接の話し合いのチャンスは間違いなくあったと固く信じる。(北村 記)

2006-08-26

ダイオキシン国際会議 2006 (2)

ダイオキシン国際会議2006は、昨日オスロで終了したが、2回続きの最後は、ベトナム側が発表した資料の骨子その2である。

(2)ダイオキシンに高リスクで曝露(HRE)した患者の遺伝子、免疫、生化学、血液学的生物学的要因変化に関する研究

グエン・ヴァン・トゥオン(1) ファン・ティ・フィ・フィ(1) グエン・ヴァン・グエン(2) チン・ヴァン・バオ(1) ヴァン・ディン・ホア(1)
グエン・ティ・ハー(1) ドー・チュン・ファン(1) ノング・ヴァン・ハイ(3) バック・カイン・ホア(1) その他協力者

(1)ハノイ医科大学 ハノイ市ドンダー区 トン・タット・トゥン通り 1番地
(2)ベトナム国防省軍医学院 ハノイ市ハタイ区ホー・スアン・フオン通り15番地
(3)ベトナム科学技術学院 バイオテクノロジー研究所 ハノイ市 カウ・ザイ区 ホアン・クオック・ヴィエット 17番地

はじめに
ベトナム戦争中に、2,3,7,8TCDD600キロ以上を含んだエージェント・オレンジ8千万リットル以上が、南ベトナム領土に撒布された。多くの文献は、ダイオキシン、就中2,3,7,8TCDDへの曝露は、人体と環境への多大なる逆効果を引き起こすことを示している。ダイオキシンは、超有毒物質である。人体の健康に対するダイオキシン活動のメカニズムは、非常に複雑怪奇である。なぜなら、それは個々人の反応次第だからである。


従ってダイオキシン研究は、非常に複雑であり、多くの問題が未だに明らかにされていないのである。

目的:ビエンホア(ドンナイ省)、ナムドン郡(トゥア・ティエン・フエ省)、タイン・ケ(ダナン市)、ゴー・クエン郡とアン・ハイ郡(ハイフォン市)で実施された医学的記録と研究に基づく疫学研究と分類を通じて、患者をふるいにかけ、選別していくこと。調査対象は8歳から15歳までのダナン市の31人の子ども、ハイフォン市の27人の子どもと、残りは16歳以上の1584人である。

材料と方法:高度の正確さと自負する標準化した基準を使って、遺伝学、遺伝子、免疫学、生化学、そして血液学に関する基準を決定する。

結果と方法

得られたデータをまとめると、以下のようになる。
1. 有史以前にダイオキシンに曝露していた5世代の遺伝子を分析した。血液中のそのダイオキシンは、戦争中の曝露した対象物の中にも発見された。
P53遺伝子(*1)、Cyp aAl遺伝子、そして、AhR遺伝子(*2)の変化、特に特定のガンに関係するアミノ酸の変化がみられた。
2. ダイオキシンに高リスクで曝露(HRE)したグループにおける、良い抗体を作るために反応する能力は、コントロール・グループや低リスクに曝露したグループより、極めて低い。
Posted by Picasa3. 両グループの間の酸化を防止する酸素活動には差異が認められる。

4. リンパ球の障害の頻度は、HREの方に見つけられる。

5. ダイオキシン曝露と免疫系統の変化の間の関係調査、HREにおける生化学的血液学の調査では、われわれは、混合した血液サンプルと、遺伝子、免疫系統、生化学的血液学的に変化をきたした個々の血液サンプルのダイオキシン濃度の間の変化は一致する変化は発見できなかった。

* 1 P53遺伝子 (北村註:多くのガン患者の場合、「P53」というタンパク質を作る遺伝子が欠損していることが これまでの研究で分かっていた。P53遺伝子は、癌抑制遺伝子の一つであり、遺伝子産物としてP53蛋白質を作る。 P53遺伝子 は最も多くの悪性腫瘍において異常が認められる癌抑制遺伝子である )

* 2 AhR遺伝子(北村註:芳香族炭化水素受容体(AhR)遺伝子欠損マウスに3種類のPAH発がん物質による発がん誘発と代謝酵素誘導を比較検討した結果、芳香族炭化水素ごとに発がん感受性が異なりAhRを介した代謝径路以外の径路が発がん感受性に影響を与えることがわかった。これは、がん研究助成金 計画研究による11-11発がんにおけるDNA修復機構の関与についての研究から引用))

2006-08-25

ダイオキシン国際会議 2006 (1)

“オスロ・ダイオキシン2006”国際会議が開催中だ。
今回26回目を迎えたダイオキシン国際会議。正式なタイトルは、『ハロゲン化した永続的汚染物質に関する国際シンポジウムーダイオキシン 2006』


会議場は、ノルウェーの首都オスロの王宮に近いラジソン・スカンジナビア・ホテルだ。フィヨルドから緑の森林の丘に囲まれた絶景のオスロ。(写真左)  

多くのエージェント・オレンジ被害者を抱えているベトナム代表も参加している。否、中心的存在である。出発する前に、「行ってきます」と元気のいいメールを代表団からもらった。資源環境省のスタッフだ。会議は21日に開催され、本日25日に終了する。

このシンポジウム設立から前回のカナダ会議で四半世紀を迎えた。 今大会のモットーは、「友好的雰囲気の中でハロゲン化した永続的汚染物を分かち合う」今回も、科学の進歩、浮上した問題などの情報を交換しながら、学際的シンポジウムを開いている。

ベトナムが発表した資料の一部を入手したので、今日と明日にわたってブログに掲載する。入手した資料の原文は英語。この日本語は、公式の邦語訳ではない。誤訳もあるかもしれない。使用に当たってはご注意願いを願いたい。入手した資料を見る限り、依然としてベトナムの状態が明るくなっていないこと、枯れ葉剤関連の疾病リストの拡大に努力していることが伺える。

(1)ベトナム復員軍人における有毒化学物質/ ダイオキシンに関連する疾病の研究

レ・バック・クアン ドアン・フイ・ハウ ホアン・ヴァン・ルオン
国防省、軍医学院 ハノイ市ハタイ区ホー・スアン・フオン通り15番地

はじめに
ベトナム戦争中に、アメリカによる植物抑制剤/ダイオキシンの使用は、人体の健康と環境に種々の結果を引き起こした。多くの文献が、先天性奇形、ガン、血液病などを引き起こすことを示している。


全米科学アカデミーは、ダイオキシン関連の特定の疾病を証明した。そのうち、4疾病(肉腫、非ホジキンリンパ腫、ホジキンリンパ腫、クロルアクネ)は、確かにダイオキシンに関係あることを証明した証拠ありとした。また7つ(肺ガン、喉頭ガン、前立腺ガン、骨髄腫、脊椎破裂、晩発性皮膚ポルフィリン症、末梢神経症、糖尿病)は、ダイオキシンに証拠的関連ありと考えられている。

これとは別に、最近の研究では、除草剤/ダイオキシンは、呼吸器官、免疫、皮膚、遺伝子などの一部疾病にも関連があるとことを示している。それ故、有毒化学物質/ ダイオキシンの関連する疾病のリストは、さらに追加されるべきものである。

Posted by Picasa研究の目的は、以下である。
 ◎ベトナム復員軍人における有毒化学物質/ ダイオキシン関連の疾病(全米科学アカデミー)の比率とメカニズムを確認すること。
 ◎有毒化学物質/ ダイオキシン関連の疾病リストに各種疾病を追加すること。

資料及びデータ
1.主題: ベトナムの8省/都市(ホアビン省、タイグエン市、クアンチ省、ビンディン省、ダクラク省、ビンズオン省、カントー市)に住む47歳から65歳の年齢の復員兵で、1962年から1975年までの愛で南部ベトナムで従軍した合計47,893人の元兵士が、研究にボランティアで参加した、この研究は、1994年から2004年にかけて行われた。

2.方法:  ▼横断面的研究  ▼決められた質問を個々の面接で行う  ▼臨床試験 及び 前臨床試験  ▼EPI-INFOR 6.04及びSPSS 12.0を使用してのデータ分析

結果と討議
8省(市)の47,893人の復員兵の調査の結果、曝露の度合いはさまざまだが汚染された復員兵の中で、化学物質と関係及び証拠があると確認した全米科学アカデミーの認定した11の疾病のうち、9症までが示された。

糖尿病7.64%、肺ガン1.3%、ホジキン・リンパ腫0.2%、非ホジキン・リンパ腫0.49%、肉腫0.19%、末梢神経病0.09%、前立腺ガン0.57%、珍しい疾病として、クロルアクネ2件、多発性悪性骨髄腫3件があった。

曝露グループにおける有病率は、非曝露グループより極めて高い(p>0.01)また、直接曝露グループと間接曝露グループの間には、差異は認められなかった。化学物質/ダイオキシンに関連する疾病リストに入った残りの二つの病気は、肝臓ガンと精神的疾病だ。(つづく)

2006-08-18

今日 ロング・タンの戦いから40年

本日(8月18日) きょうは、ベトナム戦争多鋭気軍人の日です。オーストラリアのベトナム参戦史のなかでも大きな戦いから40周年を迎え、全国で行事が行われています。左は、首都のキャンベラでの早朝の式典を報じるテレビから、撮りました。

ロング・タンの戦いを簡単に振り返りましょう。
40年前の1966年8月18日、夕方近くから始まったロング・タンの戦い。オーストラリアがベトナムで闘った戦闘の中でも最も有名な戦闘の一つです。それは、南ベトナム・ヴンタウの北東40キロのフオック・トゥイ省ロング・タン村近くのゴム園での戦闘です。詳細は、一方的に、オーストラリア軍の報告に基づいて書きます。激しく降る雨の中で、雨中の対決となりました。戦争画家が描いて画をご覧下さい。

闘ったのは、オーストラリア軍第6大隊D中隊108人。(支援部隊、増強部隊除く)です。指揮官は、ハリー・スミス少佐。これに対して、ベトナム側は、第275連隊と地元のD445大隊(合計2500名とされていますが、大きな疑問あり)です。司令官は、グエン・タイン・ホン(Ngueyn Thanh Hong肩書き不祥)もちろん、オーストラリア軍は、アメリカ軍、ニュージーランド軍の支援を受けています。雨とゴム園の軟らかい土とで泥まみれの壮絶な戦いだったようです。

戦闘は、翌日まで続きましたが、最終的に、18日の3時間の戦闘で、オーストラリア側の死者18名。負傷24名。(これはほぼ正確とみていいでしょう)ベトナム側の死者少なくとも245名。負傷者750名。ここからは不正確です。戦闘後はおおざっぱにしか数えないからです。ベトコン側から押収した資料でオーストラリア側が推定した数字は、死者推定500ー800名。負傷者推定、約1000名となります。現在では、テレビでも、4時間の戦闘で800名を殺した・・という風に焦点を当てています。小さい時間枠の中でみれば、オーストラリア軍の圧倒的勝利です。しかし、勝ったとしても所詮、これは侵略戦争です。尊い人命という広大な枠の中で考えれば、なんというおろかな勝利感でしょうか。

Posted by Picasa今でも、このロング・タンの村は存在していますが、オーストラリア軍が駐屯していたヌイ・ダット(NuiDat)という地名は、ベトナム側によって消されました。理由は、わかりません。ちめいや省の名前まで変わるのは、ベトナムによくあることです。

左の写真は、多分カオダイ教とみられる寺院で真剣に祈る老婆の姿ですが、この老婆の願い(平和)が実現するまでには、さらに多くの人命の損失とかなりの年月を必要としました。ベトナム戦争退役軍人の日といっても、不戦の誓いが根底になければ、狭いところで勝った負けたの談合が続く限り意味のないものと考えますが、いかがでしょうか?(北村 記)

2006-08-15

ドクちゃん ドクさん 婚約 おめでとう!

ベトナム戦争で米軍が撒布した枯れ葉剤の影響で、結合双生児の弟として生まれたグエン・ドクさん(25)が、12月に結婚することになりました。
左の写真は、2002年10月19日付けの朝日新聞の記事です。バイクの後ろは、ガールフレンドですが、お相手がこの女性かどうかはわかりません。結構、もてる(本人談)みたいです。

これは、日本の支援者に届いたドクさんからの手紙で明らかになりました。 手紙は5月末、約20年間支援を続けている「ベトちゃんドクちゃんの発達を願う会」代表の藤本文朗滋賀大名誉教授(72)に、ドクさんのベトナム人主治医を通じて送られてきました。 

Posted by Picasa左の写真は、2002年3月のもの。「ベトちゃん、ドクちゃんの発達を願う会」を中心としたタイニン省調査メンバー(日韓越合同)がホーチミンを訪問した時の写真です。写真に向かってドク君の左にいる方が、藤本文朗名誉教授です。ドク君にとっては、父親の存在です。 そして、ドク君の右にいる女性が、トゥーヅー病院の先生。長年、面倒をみてくれた方です。藤本先生の左にいる方は、元韓国将校と思います。

藤本さんによりますと、手紙には長年の支援に対する感謝とともに、今年10月の吉日にベトナム人の専門学校生(24)と結婚することを決めたとあり、結婚式に出席して門出を祝福してほしいと書かれていたそうです。 藤本先生は「以前から交際は聞いていたが、結婚は人生の一つの節目。(ドクさんは)反抗期で荒れたこともあったが今は非常に優しい子。自分の息子が結婚するようにうれしい」と話しています。ベトナムから今朝戻られたばかりの藤本先生を電話で直撃。「12月16日には、是非出席させてもらいます。河原事務局長も出席しますよ。北村さんも空けといて・・」と、仰って、とてもうれしそうでした。(北村 記)

支援隊 納涼祭へ出店 

8月5日(土) 我が支援隊は、三島市の特別養護老人ホーム御寿園での納涼会に出店。「おでん」と「おこわ」は去年の話し。今年は、ベトナム特産のコーヒーを主体に、枯れ葉剤被害者のために、一汗書きました。納涼と行っても、なにせ、気温は34度だべなぁ。

7月24日にハノイで仕入れたコーヒー、布袋を販売しました。朝からアイスコーヒー造り。道具が万全でなかったためにちょいと時間がかかりすぎ。販売目標は、大きくど-んと100杯(一杯100円)を掲げましたが、目標には、ちょいと届かなかったようですね。           
でもね、袋は売れましたよ。ベトナム製の袋です。左の写真。後ろに「歌謡ショー」なんてかいてありますが、大釜会長は歌っているのではありません。櫻井副会長(右)と売っているのです。袋を、です。で、布袋は 50枚程売れました。

 結果は売上金 24、650円 寄付金 12,420円 合計 37、070円でした。皆さん、ご協力 ほんとうにありがとうございました。 この金額でも、一人の軽い整形手術は出来るんです。 ご寄付や、皆さんが買ってくださったおかげで、またベトナム被害者の支援に使わせて頂きます。小泉さん、靖国など行くでない! 何? 3万円も包んだと・・御寿園に来て3万円包んでみな。あなたの株が上がるってもんだよ。あんな所行くもんだから、アジアで一番嫌われた首相で終わりだ・・。馬鹿だね、あんたも。

Posted by Picasaこの暮れの支援隊の出店は、ベトナムの”ホット・コーヒー”といくかな。冬だから、体のあたまるもの・・がいいですね。

「今度はもっと上手く行くと思います。大変良い経験をしました。利益はあまりありませんが、皆で力を合わせ心を一つに出来、とっても有意義だったと話し合っています。大釜会長抜きでは、出店は無理でした」とは、宮尾事務局長の話。

暑い中、出店をお手伝い下さった小野寺洋子さん、ありがとうございました。 シン・カムーン(ありがとう)。 (当日担当:大釜一男、大釜芙美子、櫻井恵美子、新谷文子、宮尾和宏)

毎日暑い日が続いています。お互い暑さを乗り切りましょう。この暮れは、ホット・コーヒーを飲んで、支援して下さい。(北村 記)

2006-08-06

アメリカ太平洋軍司令官の発言

  太平洋軍司令官ウィリアム・J・ファロン提督が7月14日ー16日まで訪越した。この訪越で、アメリカ軍が撒いた枯れ葉剤に触れる発言があったのでご紹介しておこう。

ウィリアム・J・ファロン米太平洋軍司令官は、ベトナム国内に4箇所の重度汚染地区がある事実を認めた。その4箇所とは、(1)ビエン・ホア元米軍基地、及びその周辺地域。(2)ダナン元米軍基地、およびその周辺地域。(3)カメラマン沢田教一氏が、子どもを抱いて川を渡る母親を撮った場所で有名なフー・カット。そして、(4)クモン(Cu Mong)峠である。この4箇所は、戦争中にアメリカ軍が大量に枯れ葉剤を備蓄していた所だ。

「アメリカ政府はこの4箇所の環境改善と土壌の洗浄について責任がある。アメリカ政府はベトナム政府と協力して、この問題を解決する」と、太平洋軍司令官は述べた。

Posted by Picasaだが、こういう発言があったらといって、米太平洋軍司令官が、枯れ葉剤被害を認識していると考えない方がいいし、アメリカが少し軟化したなどとはつゆ思わない方がいい。

さらに、米越両政府が協力して、4箇所の重度汚染地域の環境改善を計ること以外に、ファロン司令官はもう1点、次のように述べた。

「枯れ葉剤の人体への影響に関しては、米越両国政府は、今後とも協力し会って継続して研究していかなくてはならない。研究してから解決方法を考え出したい」と。

拙著(『アメリカの化学戦争』(梨木の舎刊)で触れたように、科学研究は、とても時間のかかる仕事だ。まして、財政に余裕がないベトナムでは、当然のことである。従って、ファロン司令官の述べたことに対する私の考えは、アメリカ側は、依然として枯れ葉剤の人体に対する被害を公式に認めていないと断言できる。儀礼上ベトナムを訪問したが、この発言は、アメリカによる時間稼ぎの追認発言である。

アメリカの裁判所がベトナム側訴訟を棄却したように、長い道のりが始まったばかりだ。
因みにクモン峠について、当時朝日新聞記者の本多勝一氏はこう記述している。『フーイェン省とビンディン省の境界のクーモン峠は、(韓国)猛虎師団が「にぎりめし作戦」のエサで解放区の村人を「手なずけた」ところだ』
(北村 元:記)

2006-08-05

枯れ葉剤被害者理解のための本

Posted by Picasa先日、私は、枯れ葉剤被害者協会のダン・ヴー・ヒエップ会長、グエン・チョン・ニャン副会長にお目にかかった。多くの被害者のために大変な決意で戦っておられる方々だ。

ダン・ヴー・ヒエップさんは、ベトナム戦争でアメリカ軍と初めて正規軍同士の戦いの指揮をとった人だ。その戦いを、イア・ドラングの戦いという。この戦いが、長期的な意味で、アメリカ軍のベトナム戦争に大いなる影響を与えた。

私は、人々の体験を通してベトナム戦争を描いてみたいと、いろいろな方に会って話を窺う仕事を長年続けている。今もそうだ。ヒエップさんは、その中のお一人だった。分かりやすく言えば、北ベトナム軍中部方面軍司令官(そういう肩書きはベトナム人民軍にはないのだが)としての苦労や仲間の死を、戦友の詩などを通してお話を聞かせていただいたことが、今も懐かしく耳に残る。

そのヒエップさんが、まさか、枯れ葉剤被害者協会の会長になられるとは、夢にも思っていなかった。あの時(2002年)、お会いしておいてよかった・・と最近いつも思うのである。ヒエップさんは、ベトちゃんドクちゃんが生まれたコントゥム省のサ・タイに陣取って、ベトナム戦争を戦った。「アメリカ軍を押し戻し、南ベトナム軍を追走しながら、ついにニャチャンの海を見た時は、涙がでました。男泣きました。生き残って帰ってきたその命を、枯れ葉剤被害の人たちのために使います」

グエン・チョン・ニャン先生は、博士である。北ベトナム時代、保健相も務められ、国民の健康を預かっていた方である。だから、その後も、ベトナム赤十字の会長も長年歴任されて、国際的にも多くの知己を得ている方である。

クリントン米大統領(当時)の訪越の前に、手紙で直訴もした。拙著(『アメリカの化学戦争犯罪』:梨の木舎刊)を、ことある毎に、訪問者に薦めて下さっている。そして私のような者にも、何らの差別もされずに、いつも気軽に会って下さることに、若輩の私は学ぶこと大なのである。抗仏戦争当時も、痛ましい経験をされて、人の痛みを十分理解出来る人でもある。

ベトナムに今多くいる枯れ葉剤の患者が、最も頼りにしている人たちである。
お二人から、『エージェント・オレンジ被害者のために』という写真集(写真上)を頂戴した。

これは、ベトナムニュース通信社(VNA)が発行した力作である。
11頁。防毒マスクを装備したアメリカ軍の写真が載っている。「なんだ、やはりお前たちは毒性があるのをちゃんと知っていたのか」と、怒りをぶつけたくなる。頁をめくればめくるほど、被害者と家族のうめき声が聞こえてくる。支援の気持ちは強くなる。いや、そうでなければおかしい。 人類の正義に訴える一書である。

今、ベトナムの枯れ葉剤被害者がアメリカ化学企業を相手に起こした法廷闘争の裏方として、被害者を支えながらこのお二人が戦っている。かつて初の正規軍同士の地上戦を戦ったヒエップさんは、「今度は、武器を使わない戦いです。しかも、戦場はアメリカです。楽なはずがありません」と仰る。


 周恩来首相の盟友郭末若先生は、
 「人間として最も悲しむべき事は何か。それは、正義の心が死ぬことである。
 社会として最も悲しむべきことは何か。 それは、正義が滅亡することである」

と、叫ばれた。

 今、世界に本当の正義はあるのか。強い者が勝ち、弱い者が負けていく。
 「この法廷闘争は、世界に正義を求める戦いです。日本に皆さんの応援も頂きたいのです」と、お二人は口を揃えて言う。
 9月に、わが「愛のベトナムさわやか支援隊」との再会を約したが、別れ際、「おカネも必要ですが、日本の皆さんの支援が欲しいです」 この言葉はぐさりときた。
 では、今の日本人の心に正義はあるのか?
 常に、現在から未来へ、今日から明日へと進むお二人の“勝利”を、少しでも側面から支えたい。ご支援頂いた皆さんからお預かりしている浄財の一部を、その時に寄付させて頂こうと思っている。
(北村 元:記)

2006-08-02

国境の駅 ドンダンで

最近、日本で肩を組んで歩いている子どもを見たことがあるだろうか。小学校でも、そして兄弟でも。久しくない。せいぜい、競技場にきたサッカーのサポーターくらいなものか。でもその姿に幼い子どもはない。

Posted by Picasa スクラムを組むというのは、スポーツの世界にはある。ラグビーのプレーだ。あれはフォワード8人によるガチンコの力比べで、言ってみれば、押しくらまんじゅうであり、潰しあいであり、これから行くぞというボディランゲージだ。

特に試合開始の一番最初に組むクラムは、「ファースト・スクラム」といって、戦況の行方を左右するほど大事なスクラムである。当然、相手もその気になって、もう一組の8人が潰しにかかってくる。私はこのスクラムを見るのも大好きだ。だが、これは勝ち負けのためのスクラムである。

普通の子どもが、街で気軽に肩を組むということが、もうだんだん見られなくなってしまった。
肌をふれあう習慣が薄れてきたのかもしれない。

私は、7月22日、中国国境にあと4キロと迫るベトナム、ランソン省ドンダン駅頭に立っていた。私にとってはなつかしい駅である。テレビ朝日のハノイ支局長時代、何回ここへきたことか。9年ぶりの歳月を感じさせないのは、駅舎が9年前と寸分違わなかったからだ。1979年の中越戦争の後のここは、焼かれた列車がそここに放置され、疎開した人も10年はたっぷり帰ってこなかった。中越戦争で、ベトナムは中国をぼこぼこにやっつけた。しかし、この国境の町もぼこぼこに中国に荒らされた。だから、10年後の1989年当時ですら、人口は数十人もいなかったのである。 遠くで煉瓦を叩く音が聞こえるくらい、死んだ街だった。


駅のプラットフォームには、入場券もなく、気軽に入れた。

と、帽子をかぶった一人の少年が私の目に入った。なかなかいい顔をしている。暗さがない。手招きしてよんでみた。少なくとも彼は、私が外国人だと分かっているはずだが、躊躇もせずに私の方にきてくれた。
すると、貨車の陰に隠れていたもう一人の少年も後からついてきた。
写真を撮らせてもらおうと思って、レールの上にしゃがんでもらった。

後から来た少年が、気軽にもう一人の少年の肩に手をやった。実に自然だった。やはり、この国では、ハノイでも時々見かけるが、子どもが肩を組むことは不自然ではないのだ。

沢木耕太郎さんが、ホーチミン市で、肩を組んでいる少年に出会ったときのことを、こう書いている。
『ふと、私もあんなふうに肩を組んで歩いて見たかったなと思ったものだった。彼らの底抜けに明るい笑顔が、やけにまぶしかった』と。
肩を組むということは、仲のいいことの証だ。そこには小さな平和がある。なにかとても、さわやかなシャッターの瞬間だった。
時刻は11時きっかり。この少年たちの後ろのプラット・ホームには、13時発ハノイ行きの列車に積む荷物がもうおかれてあった。(北村 元記)

2006-08-01

2006年7月 ベトナムに行って来ました

 ハノイ北部はおおむね田植え時期。中には収穫している家もありました。上から写真を撮っていますと聞こえませんが、下におりていくと、まあ賑やかな話し声が聞こえてきました。世界第二の米輸出国の稲作農家の声です。

ニンビン省の ニャンちゃんの家に行って来ました。7月23日にお邪魔しました。暑い日でした。ハイ君が亡くなって3ヶ月目。ハイ君が住んでいた家に入りました。やはりハイ君がいないことは限りなく寂しいです。19歳の生涯ですから。大釜会長、宮尾事務局長、小生(北村)と家内の4人でハイ君の遺影にお線香を焚き、全員でご冥福を祈らせて頂きました。

「葬儀の時、ニャンちゃん、ハイ君を2回もバクマイ病院に入れてくれたことを、親戚の人も感謝してくれました」と、お母さんから話を窺いましたので、これをまず、援助して下さった方々に謹んでご報告申し上げます。「ハイ君、ニャンちゃんの命を支えてくださって感謝しています。残念ですが、命は尽きました。退院してからは、元の状態に戻りました。そして異変が起きた後ちょっとして亡くなりました。すごく驚きました」と、話しています。私たちの援助を、お母さんは大変喜んでくれていますが、救えなかったことに私たち自身も悔しい思いをしています。

ハイ君は、2回目にバクマイ病院から戻ってきた後、容態が急変したそうです。そして、ニンビン省総合病院の救急病棟に入った時は仮死状態だったそうです。そして、奇跡的ですが、1ヶ月目には起きて帰れるようになったということです。でも、その直ぐ後に・・・残念です。
そして、そういう説明をするお母さんの健康も良くないようです。顔色もよくありませんでした。もちろん息子を亡くした心労も相当あるはずです。「疲れが出やすいです」と仰っていました。加えて、今田植え時期です。疲労は余計に加わります。

さて、妹のニャンちゃん(左の写真)は通院はしていません。その後、病気で倒れた事もあるそうです。

バクマイ病院での検査入院の後、退院してから、やはり健康ではありません。退院してからも、腹部のふくらみがお母さんの目には目立つそうです。体力的に弱いので抵抗力がなく、病気にかかりやすいです。今は薬での対処法しかありません。

「ご飯は好きですが、今はパンとかおやつしか食べません。毎日3食摂ってはいます・・。ご飯は1回に茶わん1杯です。普通の子どもなら2杯食べるところですが・・。今、ニャンの健康を守るために、食べたいものを食べさせるようにしています。毎日3食・・・でも、おかずを買うお金がないのです」

驚きました。極貧家庭です。おかずで栄養をつけなくてはならない時期に・・。

経済状況を知っていただくために、いくつかご報告します。
今年の米の収穫です。5月に500キロが取れました。今の田植えで収穫期は9月の予定です。「多分台風が多いので、9月には500キロも期待で来ません。200キロくらいかも・・・しれません」と、お母さんは予想します。500キロの収穫も詳しく聞いて驚きました。畑仕事の手がないために、近隣の人々に労働力を借金します。それを獲れた米で返しますと、手元に残るのは50キロで、これも籾付きの重さです。きれいに精米すると30キロしか残らないそうです。これで、どうやって1家3人が暮らせるのでしょうか?

今ある収入です。赤十字会から月に20万ドンの手当を受けていましたが、ハイ君の死亡により支援の収入は無くなりました。この20万ドンで40キロの普通の米(良質の米ではないが)が買えていたのです。村からは障害児手当として65,000ドン。ベトナムの場合は、家族に2人の障害児がいた場合、複数人は支給されません。従って、ニャンちゃんの家のように2人の障害を持った子がいても、2人同時の受給は出来ません。

一つ経済的に明るいニュース。ニャンちゃんが枯れ葉剤の被害者に認定されたことです。しかし、まだ支給は始まっていません。支給が始まると、月に20万ドン近くは受給出来る見通しです。

因みにニャンちゃんのお父さんは、1976年からカンボジア国境のタイニン省とプノンペンで従軍しました。変に思う方もいらっしゃるかも知れません。ベトナム戦争は1975年に終わっているではないか、と。タイニン省は枯れ葉剤の大量撒布されたところです。そして、この従軍活動は、多分、ポルポト軍の動きに合わせたものとかんがえられますが、ニャンちゃんのお母さんさんは詳しいことは、多分結婚前のことなので知らないようです。

借金です。銀行から200万ドン。親戚から350万ドンなど合わせて600万ドンほどあるようです。 Posted by Picasa
ニャンちゃんには、お姉さんがいます。ファム・ティ・クエン(Pham Thi Khuyen)さんといいます。(左の写真の右の女性です)1990年生まれ。高校2年生です。今のところ、何の病気も出ていないようです。お母さんの支えになれる人です。
現在は、6キロの道のりを45分かけて毎日自転車通学しています。年間授業料の24万ドンは、学校と折半です。

ハイ君の話を聞いたら、堰を切ったようにわあっと泣き出しました。兄を失った寂しさ、悔しさが出てきたのでしょう。

「家族3人(父、兄2人)が亡くなりました。妹のニャンも重病と聞いています。今は好きなことをやらせてあげたい・・です。好きな物(肉、おやつ=ビスケット、菓子パン)を食べさせてあげたいです」「大学へ行きたいです。卒業して秘書になりたいです」と言いました。

今後のニャンちゃんですが、年1回の輸血が必要で、現地の病院では駄目で、やはり首都ハノイのバクマイ病院への入院が必要です。輸血のための入院は1週間必要。

私たちは、暫定的に、ニンビン省旧女性兵士連絡会幹事長のビンさんに管理をお願いして、シドニーの宮路さんから頂いたお金で60万ドンを託してきました。ビンさんが月々に届けてくださるそうです。9月に再訪した時は、これまでにお預かりしている皆様からの浄財でさらなる支援を考えます。

取り急ぎご報告させて頂きました。(文責:北村 元)