2008-10-24

支援隊ツアー08(29)ニャンちゃん宅で

8月27日:私たちは、朝、ニャンちゃんの家に向かいました。大半の方は初対面。1年ぶりの方もいます。私は5ヶ月ぶり。ここで、先ず、長女のクエンさんに、奨学金を渡しました。
彼女は、ニャンちゃんの病気を治したいと医学部をめざしました。しかし、どこでも授業料がたかいのと、試験の難度があります。その後、外国語のフランス語学科を希望します。
しかし、最終的には、ハノイに出て、ハノイ国家大学の法学部の入学試験に合格を勝ち取りました。私たちが訪問する10日前に、大学から合格通知証が来たそうです。「弁護士になります」と、決意を発表しました。
高校の卒業者52人のうち大学進学は10人。ホーチミン、フエ、ハノイへと向かったそうです。こういう田舎では、まだまだ進学率は低いのようです。
クエンさんが幼い時に亡くなったお父さんも喜んでいらっしゃると思います。
宮尾事務局長(当時)から長女クエンさんに奨学金贈

蓮の花奨学金証書の文章は、私が作り、宮尾さんが綺麗に印刷してくれました。

Pham Thi Khuyenさん
私たちは、クエンさんが大学で勉学に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊から今後1年分の勉学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りします。竹は節があるから、真っすぐ伸びる。竹は節が多いから、大きく伸びる。大学に行くのは何のため?母のため、ニャンちゃんのため、社会のため、ベトナムと世界の平和のため。皆の幸せのために頑張りましょう。
2008年8月10日
受領者側署名
生徒母親 Luong Thi Hien
立会人寧平省旧兵士連絡会幹事Trang Thi Binh
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊   宮尾 和宏
立会人 日本国静岡県沼津市   名古 希実

クエンさんのハノイ国家大学合格証

なぜ、私たちの証書の日付を8月10日にしたのか? 

それは、枯れ葉剤が撒かれた日を、ベトナム政府が枯葉剤被害者の日と定めているからです。 私は、その日に因んで記入しました。

ニャンちゃんのヘアースタイルを整える希実(のぞみ)さん

今回のニャンちゃん宅訪問は、3つの目的がありました。一つは、奨学金を贈呈すること。二つ目は、ニャンちゃんのおかず代を1年分置いてくること。領収書代わりのノートには、毎月、ビンさんがおカネを運んで下さるたびに付けられる日付と金額が、綺麗に記入されていて、、皆さんにお見せしました。これだと、ほんとうに安心です。3つ目は、ニャンちゃんに喜んでもらうために、名古希実さんと彩香さんに考えて頂いたことを実行すること、でした。まずは、姉妹から、健康でいて・・との願いをこめて千羽鶴が贈られました。

2部に分かれていました。昨年の上崎理会子ちゃんと同じように、まずは後ろ髪に可愛いミッキーマウスの髪飾りを付けることから始まりました。とっても可愛く仕上がりました。

ニャンちゃんのメイク・アップをする名古姉妹とニャンちゃんの母親(右下)
そして、今度は、口紅とアイシャドーです。きれいにメイキャップが出来上がり、お母さんもやってもらいたいような表情でした。にっこりと笑顔をみせえたニャンちゃんの顔は、次回のブログでお楽しみに。
                           
そして、ニャンちゃんのお腹のふくらみが気になっていました。病名は脾臓肥大です。「食べたいけど、お腹が一杯」と、ニャンちゃんは言います。脾臓肥大で、相当胃が圧迫されているのでしょうか。黄疸も進んでいるようです。
                           
彼女は、今年15歳になりました。この日、私たちは、お母さんから、「明日(8月28日)、娘がハノイのスウェーデン病院で診察を受けることになっています」と聞きました。
「その結果を、お知らせします」ということで、おいとましました。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(28)蓮の花奨学金Ⅱニンビン省

8月27日:私たちは、蓮の花奨学金を、ニンビン省の3人の学生さんに差し上げました。
どうやって、この蓮の花奨学金が誕生したのか。ある時、宮尾現会長のところに、ポンと大金を出して下さったご婦人がいらしたのです。折角まとまったおカネを頂戴したので、しかとした目的に使わせて頂きたい、と強く感じました。何回か、宮尾さんにやりとりをして頂いた。寄付をされた女性とベトナムを結びつける花の名前をつけることになりました。将来の逸材が、泥水の中にあっても美しい花を開く蓮の花の名前に託したいと申したところ、ご快諾下さって始まったのです。
今年は、ハノイで3人。ニンビンで4人。クアンガイで2人、合計9人が蓮の花奨学金を使って勉強することになりました。
大釜会長(当時)からホアさんに(1)

写真(1)受領者グエン・ティ・ホアさんは、今年から大学生です。ホーチミンの大学に入りました。お母さんは、ディン・ティ・セーさん。今年53歳。戦争中はチュオンソン連隊559部隊で戦う。ホアさんが2歳の時お父さんは亡くなりました。お父さんは、南ベトナム政府軍につかまり、虎の檻で有名なコンダオの刑務所に5年間入れられたそうです。たくましいお母さんセーさんの手一つで、育てられました。母親のセーさんは、私たち支援隊の活動に大変協力して下さっている方でもあります。

詩人ハイネは、「母はつねに私の心のなかにいる」(番匠谷英一訳 『ハイネ新詩集』)とうたっている。心に母がいる人には、安心があり、勇気がわく。その母に報いようとする時、無限の力がみなぎる。・・・・と、恩師は小説に記しました。

ホアさんは、「将来は銀行員になりたいです」と言いました。私は、「銀行を作って下さい」と、お願いしました。

低所得国で貧困から抜け出すための現地の女性の潜在能力を利用した方法の成功例としてバングラデシュのグラミン銀行のことを思い出したからです。グラミン銀行とその銀行設立者にムハマド・ユヌス総裁がノーベル平和賞が贈られましたね。低所得国では、女性の地位が低く、一生懸命働いても女性が貧困から抜け出すのは簡単ではありません。それを無担保融資で可能にしたグラミン銀行。これまで660万人(ほとんど女性)に貸付け、98%が返済されているとか。

ホアさんは、今問題の財政・金融を勉強すると言うことでした。こういう世界危機がおきないように・・そのためにはいいチャンスです。

ニンビン省の体育大会で「金メダル」をかくとくしたのが良い思い出だそうです。

受領者ナムさんに(2)

写真(2)は、ファム・ティ・ナムさんです。お母さんは、ファム・ティ・ティンさんで、54歳です。チュオンソン連隊559部隊に所属していました。お父さんは、ファム・ダン・カインさん56歳です。

ナムさんは、高校2年生。「将来は警察官になりたい」と、希望を膨らませます。お母さんの身長を軽く抜いた長身の女性です。

(3)宮尾さん(当時事務局長・現会長)からトゥ・チャンさんに

もう一人も、高校2年生のラ・ティ・トゥ・チャンさんです。この日、ご両親とも来てくださいました。お父さんは、ラ・チ・キーさん。59歳。お母さんは、ファム・ティ・ビンさん57歳です。

トゥ・チャンさんは、スチュワーデス希望でした。ベトナムでは花形の職業なんでしょうね。

トゥ・チャンさんの分だけ、証書の文言をご紹介しておきます。

蓮の花奨学金証書
ラ・ティ・トゥ・チャンさん
紅河デルタにある寧平省。10世紀には首都があった歴史ある地で、トゥ・チャンさんが勉学に励めるように、愛のベトナムさわやか支援隊として1年分の勉学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りします。自分の大切な生き方の魂の部分をしっかり持ち、その自分に誇りを持てるように、たくさん勉強してください。
2008年8月27日
受領者側署名
生徒母親 Pham Thi Binh  
寧平省旧兵士連絡会会長TranThiBinh
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊   宮尾 和宏
立会人 日本国静岡県三島市   金原  昇

【ペイ・フォワード】という映画、ご存じですか? 邦画の題名が、確か【可能の王国】という映画です。世界を変えたいと思う方々は、DVDでもでていれば、この映画をぜひ、お子さんとみて頂きたいです。
「“善意のネズミ講”で幸せになろう!」と、原作者キャサリン・ライアン・ハイドは「ペイ・フォワード」誕生についてこう呼び掛けました。
治安の悪い町で、運悪く車がエンスト。ハイドは、車に近付いてくる男2人に恐怖心を抱きます。しかし男たちはエンストしてしまったハイドの車を快く修理してくれたのです。そこから、この“善意を他人へ回す”という思考が誕生しました。
 受けた好意を相手に返すのではなく、誰かほかの3人に贈る。その3人もまた、それぞれ新たな3人に。
「自分の手で世界を変えよう」という社会科教師の課題に反応して、この「ペイ・フォワード」なる方法を考えた少年トレバーに、ハーレイ君という少年を起用したのが大正解。
彼の憂い顔は、世界を変えたい切実な事情を抱える少年の不安を伝えずにいませんし、それでいて、母親と社会科教師のキューピッド役に張り切る年相応の明るさも見せてくれます。
この3人には、年1回、近況を知らせて欲しいとお願いしました。この日の3人(ホアさん、ナムさん、トゥ・チャンさん)が、成長したら、新たな3人に善意を渡していく・・・私たちはそれで良いです・・・私たちへのパスバックではなく・・・そうすれば、ベトナムはもっと良くなっていく・・・と、思っています。Posted by Picasa

2008-10-22

支援隊ツアー08(27)音楽療法を終えて

8月26日 田舎道を歩いて目的の小学校に。なんとも長閑な田園風景。タイコで召集して、先生の指示に従い整列。遠方の子どもの顔は見えません。さあ、240人の学童と校庭での音楽。中には擦り切れた洋服を着ている子どももチラホラ見られますが、初対面なのに笑顔が素晴らしい子ども達ばかりです。
軽いフットワークだ

先ずは、ベトナムで人気の「♪ドラえもん」で軽やかに音楽体操開始。大木の陰で見えない子供たちも同行の日本人や職員のサポートで徐々に動作が大きくなり、笑顔や笑い声が聞こえて来ました。

ボディパーカッションやダンスも取り入れました。リズムトレーニングでのリズム模奏も真剣そのもので完璧。たまに間違えると苦笑いをしてモジモジしている子どももまた可愛らしく思えました。

太鼓で合図する新谷さん

さあ、いよいよ体育系の「仲間作り」。これは音楽に合わせて行進し、曲間でのタイコの数を「ハイ、バイ、ホー・・・」と数えて仲間を探して手を繋ぎ座るというゲームです。最高で10人。ベトナム語でのカウントが高らかに聞こえて人集めをし始めました。

人数に満たないグループに、職員があふれている学童を引っ張って行き慌てて座る光景に「先生たちも我を忘れて参加しているんだ」と嬉しくなりました。

仲良く行こうね

また、「仲間はずれにされた子ども」も居ました。健常者がもつ現実です。「いじめ」には程遠い行動ですが、私にとっては障害児には見受けられない現状を目の当たりにしました。

障害児にとっての音楽活動は自分の手足や声を表現的に使う動機となり、純粋な心理学療法とも言われています。音楽の効果とは、心の開放が内的に持ち合わせている才能を引き出してくれるとも言われています。健常児、障害児両面の反応に新たな発見をしました。

最後は校庭の全部を使ってスペード形の一つの輪になり「♪ビリーブ」の曲でお別れをしました。道路向こうの前方には、住民が民家の窓や周りで一緒に参加していました。「楽しい音楽を!」と繰り広げた音楽体操も成功に終ったと思います。

来年はベトナム語で「♪ビリーブ」を大合唱したいと思っています。心のふれあいをありがとう!! ほんとうに、ありがとう。

元小学生もまじって
♪ ビリーブ
たとえば君が傷ついて くじけそうになった時は
かならず僕がそばにいて ささえてあげるよ その肩を
世界中の希望のせて この地球はまわってる
いま未来の扉を開けるとき 悲しみや苦しみが
いつの日にか喜びに変わるだろう
アイ ビリーブ イン フューチャー 信じてる 
(記:新谷 文子)Posted by Picasa

支援隊ツアー08(26)高齢夫婦の車椅子に思う

8月26日 昼食後、私たちは、レ・ティ・スエン さんの家を訪問した。ティ・スエンさんは、1947年生まれ。現住所は、ニンビン省ホア・ルー郡ニンソン村だが、出身は隣のタイビン省である。
ティ・スエンさんは、1965年に、18歳で青年先鋒隊に入隊した。派遣された戦場は、最前線の戦場であるクアンチ省だった。

スエンさんは、アメリカ軍機が、何かを撒いているのを、何回も目撃していた。「その噴霧が、体に触れたこともある」と言った。爆弾の風圧を受けて、スエンさんは、ハノイのベトドク病院(旧東独友好病院)に入院した。因みに、この病院は、ベトちゃん・ドクゃんが、生後18日目で最初に運ばれてきた病院だ。
「爆弾で死んだ仲間は多いですが、遺体がどこにあるか、もうわかりません」と、当時を思い出した。
 涙がとめどもなく・・スエンさん

一棟に二部屋だが、庭に立って向かって右の部屋には、息子夫婦らしき家族が住んでいた。しかし、なぜか、車椅子の使用方法を説明していても、一回も顔を出さなかった。車椅子は、特に、人の介助が欠かせないのに。

ティ・スエンさんの右足も左足も動きにくい状態になっている。ベッドの周囲なら、手を使えばなんとか歩ける程度だ。今のところ、スエンさんは両手を使うことはできる。従って、トイレやシャワーを使う時には、人の助けが必要だ。それをご主人のグエン・ヴァン・ニャンさんがやっている。ニャンさんは、1947年3月生まれ。高齢と言っても、61歳だ。奥さんより1ヶ月早く生まれている。ニャンさんの軍歴は聞かなかった。

妻のティ・スエンさんを大きく動かす時は、息子二人が、だっこして移動させるそうである。そして、頭痛勝ちである。腹痛もよくあるらしい。そのために抗生物質を服用しているという。処方はあっているのか。「カネがないので、ある時だけ治療します」と、スエンさんは言う。「若い時は、農業にも当然精を出していましたけど、体や頭が痛くなってからは、何もしていません」と。

二人は、1971年2月に結婚した。子どもが3人いる。長男、次男、長女。この3人のお子さんには、今のところ障害はない。

二人揃って久しぶりに外気に

みるからに貧しいお宅だった。原因の一つは、戦争にまつわる国からの手当の受給が無いことだ。従軍の資料を紛失したために、申請が出来ないでいること。戦争にかり出した以上、生き証人がいるのだから、それを証明することは不可能ではない。行政の中の誰か一人が勇気をもって、手を打てばもう少し快適になるのだが。

二つ目の原因は、所有農地が800平米しかないこと。そこからあがってくる米は350キロと聞いた。この一家に年間100キロ不足するという。
この家族も、1日2回の食事だそうだ。一人ひとりが1回1膳のご飯らしい。おかずはほとんどが野菜で、「肉は食べません」と、ご主人のニャンさん。カネがないのだ。

スエンさんが病気になれば、友人、近所、銀行から借金をし、それは息子が返すらしい。「国からの手当を待っているんですが」と言って、こらえていたスエンさんは、泣き出した。

毎日これだけのマンパワーがあるわけではない・・・

ニンビン省のビンさんから、車椅子の支援したいと聞いたやってきた。だが、生活支援か、車椅子か、どちらを優先するかと問われたら、事前にもっと分かっていれば、この家の場合、生活優先を私は考えたろう。これは、私自身の反省でもある。それは、以下の理由による。

「10ヶ月前から、体が弱ってきた」とご主人は言った。そしてスエンさんが、「お尻が痛い」と、私にポツリと言った。
そこで、同行の婦人に調べて貰ったら、案の定褥瘡(=床ずれ)ができていた。
そして、もっと驚いたのは、スエンさんがショーツを付けていなかったと聞いたことだ。

褥瘡とは、長時間、皮膚に圧力が加わり、血流が悪くなり、皮膚表面の組織が壊死(エシ)をきたした状態である。もっと、簡単にいえば、皮膚に穴が開くことだ。なぜ褥瘡がおこるか?毛細血管は皮膚の組織に必要な栄養素を運び、不要になった老廃物を運ぶ血管なので、ほんのわずかな圧力でも、この血管が圧迫によって押し潰され、一定の時間(たったの2時間程度と通常いわれている。)が経過すると、その部分の血行がとだえ、組織が破壊され褥瘡が発生してしまう。私たち健常者に褥瘡が出来ないのは、栄養状態が良好であること、無意識のうちにしびれや痛みを感じて体位変換しているからだ。

奥様をベッドに戻したまま記念撮影

では、どうすれば、防げるのか。■通常、2時間ごとの体位変換が一般的である。
■高齢の皮膚は皮脂分泌が低下し、発汗も低下し、ドライスキンとなり、皮膚も薄くなる。皮膚再生能力も低下し、一度傷つくとなかなか治癒しない。■栄養が取れなくなると、皮下脂肪が減少し、骨の周りの筋肉も衰退し、骨が隆起した様になる。ズレによる剪断力が働き、傷つきやすい。■褥瘡発生の原因の一つに摩擦やズレがある。骨の突出により体圧の増大、横方向の力(ズレ)等の影響を受けやすくなる。

日本の夏にも匹敵する高温多湿の夏。汗をかくようになり皮膚が蒸れやすくなる。そこで、こまめな着替え・清拭・おむつ交換・密着している部分を中心に皮膚のドライヤー乾燥(冷風)が必要になってくる。
                    
寝たきりの方の着替えは、麻痺や拘縮(こうしゅく)が伴ったりすればなおさら、非常に大変な作業となる。「床ずれ」を作らないためには、皮膚を清潔に保つことが大事だ。高温多湿の夏は、介護する人の体力も奪っていき、体を清潔に保つのも簡単なことではない。
日本ならまだ、これに近いことはできる。が、この貧しい家で出来ることは限られてくる。体力もあまりないご主人の負担を軽くするのは、隣室に住む息子夫婦の協力だ。
                             
名古彩香さんや、名古希実さん、新谷文子さん達が、クッションを考えたり体位変換を教えてあげていた、感謝したい。

米も足りない。栄養も不足している。そういう中で、車椅子は気分転換になるかもしれないが、車椅子に乗っていても、お尻が痛む。生活支援を考える理由にもなっている。いつか、心ある友人と話し合ってみたい。

「高齢者には与えるケアではなく『よりそうケア』が重要」という点を、この家族をみて痛感した。
◆「共に苦難と戦って乗り越えてきた妻をいたわりたい」という気持ちは、ご主人から感じられた。だが、このお宅では、隣の部屋に住む子どもの協力がえられなければ、「老老介護」が、目に見えている。いつか、ここの子どもさんとも話し合ってみたい。子どもも含めて、もっと皆で支え合う福祉社会。身近な人を大切にする行動から始まる福祉社会がベトナムに出来ることを祈りたい。

私の友人のHYさんが詠ってくれた歌だ。

春風に笑顔を乗せる車椅子 

このお宅では、現実は、なかなかこうはいかなかった。Posted by Picasa

2008-10-21

支援隊ツアー08(25)名古先生ご夫妻見送り

8月26日 午後 名古先生が日本に帰られる事になりました。病院を長期不在にすることは出来ません。ギリギリまで支援活動に力を注いでくださいました。ありがとうございました。
この日は、運悪く、ハノイ成田の直行便がなく、夕方6時過ぎの飛行機で、一旦ホーチミンまで向かわなくてはなりません。
長距離の旅が待っています。ご苦労様です。運転手はベテランのヅンさん。「やはり、お嬢さんをおいて帰りますか」と、居残りを促す人。「娘をよろしく・・・・」と、先生ご夫妻。
「いやいや、人質です」という声も。いろいろ教えて頂きました。ベトナムでの6日間、ありがとうございました。Posted by Picasa