2007-08-08

また一人旅立たれました!


8月10日の枯れ葉剤被害者の日を前に、7月7日に亡くなられたグエン・ヴァン・クイさんに続いて、乳ガンなど多くの病気と闘われ、正義の声をアメリカであげられたグエン・ティ・ホンさんが、7月20日午前10時45分に、ホーチミン市の病院で永眠されました。

愛のベトナムさわやか支援隊を代表して、ティ・ホンさまのご冥福をお祈りし、併せて、謹んでご家族、ご親戚の方々に、お悔やみを申し上げます。

ティ・ホンさんは、1961年に南ベトナム民族解放戦線に参加し、T1、あるいはD軍区と呼ばれる南ベトナム東部戦闘地域で、南ベトナム民族解放戦線政治訓練学校の書記兼医療班員として従軍しました。

1964年に、彼女が川で米をといでいるときに、エージェント・オレンジを浴びました。彼女は、川に入れば体についた化学剤がながされると思って、川に飛び込みました。もちろん、それで流れたわけではありません。その後も、彼女は、汚染された食糧、野生の野菜、水を毎日摂取しました。

1968年、ホンさんは、ロン・カイン省バーリアに南ベトナム民族解放戦線の省本部付きの衛生医療班として派遣されました。

彼女は、結婚しました。そして、1969年に、妊娠4~5ヶ月の時に最初の流産が彼女を襲います。1970年に、彼女の部隊が待ち伏せ攻撃を受けます。そして、彼女は左手を失ってしまいました。このため、彼女は会計担当に任務が変わりました。


1976年、1979年、1984年と、彼女は出産しますが、3人とも早産の未熟児で体重不足でした。そのうちの一人は、先天性心疾患(CHD)でした。こどもは3人とも虚弱で、かなりの介護を必要としており、しばしば病気にかかります。 
                                       
終戦直後の1975年5月に、ホンさんは、ビエン・ホア市に引っ越しました。そして、彼女は1990年に、もう一度引っ越します。今度はビエン・フン湖に近いチュン・ズン地区です。じつは、そこは旧アメリカ空軍のビエンホア基地のエージェント・オレンジの備蓄庫からのすべての水が流れ込む地域でした。

       この写真は6月27日サンフランシスコで。

彼女の健康は、再び悪化に向かいます。そして、より病弱になります。そのために、早期退職を余儀なくされました。

超音波と血液検査の結果、彼女に臓器の硬変症がみつかり、病院での長期入院加療が必要との診断を受けました。

1999年に、彼女の体は一層悪くなりました。
彼女の腹部は腫れ上がり、硬化しました。疲れやすくなり、何回も気を失いました。

ホーチミン市のチョー・ライ病院の医師団は、彼女に脾臓肥大と免疫不全症を発見しました。治療の中で、何回も骨髄検査を行いました。その結果、左乳にガンを発見しました。それに加えて、ホンさんは、息の短さ、高血圧、脳腫瘍、乳ガンの骨への転移、胃痛、硬変症、胆石、膀胱結石、下肢静脈瘤症、難治性皮膚疾患を患い、足が弱くなり、大きな運動はできないなどの状態になっていました。


6月19日キューバ系ベトナム人のポスター作品の前で。スーザン・シュナルズ・プレース 

そういう状態でアメリカ行かれたのです。責任感の強さという以外に言葉が見つかりません。

多くの病気を併発するという苦境にありながら、滞米中は、一度も愚痴ることもなく、決して諦めない姿勢を示されたそうです。

彼女の力強いことばは、聞く人の心を打ったと言われます。

アメリカ軍からも恐れられたロング・ヘアー・アーミー言われ、あの長髪をなびかせた女性兵士の面影躍如たるものがあったと、支援するアメリカ人はいいます。

「敵が侵入してくれば、女も戦う」というベトナムの諺を実際に身を以て示した方でした。

彼女は、生命の最後の瞬間まで、枯葉剤犠牲者の正義実現のために戦ったと言えます。

これだけの病気におかされながら、彼女は楽観と希望に生きました。
「ベトナム女性がどのくらい強いかみてください」と、アメリカ人にも訴えたそうです。
貧困と苦難に喘ぎながらも、一般アメリカ人には実に寛大な気持ちをもち、むしろ連帯の姿を見せてすらいました。

どうぞ、安らかにお休み下さい。

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