2007-08-31

越政府機関誌が支援隊を紹介

このたび、私どもの“愛のベトナムさわやか支援隊”が、ベトナム天然資源・環境省の中の33委員会の機関誌に紹介されました。

機関誌の名前は『毒学』です。
この機関誌は、今もなお、ベトナムの人々に苦しみを与え続けているダイオキシンを中心とした化学物質の最新情報を提供しているベトナムの機関誌です。


編集長は、東ドイツ留学で毒学を修めたレ・ケ・ソン博士です。常に、人の立場、もっと突き詰めていうなら、被害者の立場に立って研究を続け発言する方です。

被害者とは誰か? を究極のテーマに、この人災の解決に努力しています。

ソン博士の発言で忘れない言葉がある。2003年のことである。当時、博士は赤十字勤務。

「被害者の中にはすでに死んだ人もいる。これから静かに死に行く人もいる。子どもも2代目、3代目が生まれてきている。今頃になって病気が出る人もいる。潜在的被害者も数多くいる。だから、被害者の正確な人数は言えないのである。アメリカ兵は、延べ300万人がベトナム戦争に参加した。統計、経済、医学、科学に世界一優れているアメリカといえども、自分の国の被害者の数を正確に上げることはできないのである。


もちろん、ベトナムの方も、被害者の正確な数をこれから把握する必要があるし、常に情報をアップデイトしていかなくてはならない。
議論ばかりが先行していても、被害者の人生は変わらない。そして暗いままである。


本当の問題は、検査方法とかいうものではない。責任と良心の問題である。私たちは、退役軍人の家族を訪問してきた。胸が詰まる思いをしてきた。夫には体に傷が残り、妻は病気であるのに、ダウン症の子どもの面倒を見ている家族。政府には被害者家族への援助の制度があるが、少ないカネで、食べ物や着る物は買えても、そのカネで病気を治すことは不可能である。書類を紛失したために、政府から援助のカネを受け取れない不幸な人の如何に多いことか。

悲しいかな、ベトナムのダイオキシンの被害者は、こんな不幸に慣れてしまった。彼らは、不満を持ちながらも、それを口に出すことはせず、全てを受け入れて呑み込んでしまうのだ。彼らは、一日単位で生きている。我慢しながら」

同機関誌では、第5号の49頁に、『枯れ葉剤被害者支援団体』というタイトルで、わが支援隊の歴史と活動を紹介し、写真は、この5月に、旧南ベトナム政府軍の空軍在籍中にアメリカの枯れ葉剤作戦に協力したホーチミン市在住のマイ・ザン・ヴーさんを訪問した時のものが使われています。

今後とも、わが支援隊は、33委員会と友好協力関係を続け、微力ながら被害者救済の意識向上に努力するつもりです。(了)
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ご寄付下さった方々 ありがとうございます!

2007年7月8月にご寄付下さった方々
   今年度の支援隊ツアーは、8月19日から29日まで、ハノイ市、ハイフォン市、タイビン省、ニンビン省で行ってきました。私たちは各地でそれぞれ支援し、また交流の使命を果たしてきたことを御報告申し上げます。詳しい御報告は後日にさせて頂きます。下の写真は、今回の支援ツアーで、余命数年と診断されたニャンちゃん(今年13歳)の髪の毛を、おしゃれなヘアースタイルに仕上げる高校三年生の上崎理会子さんです。                                
7月9日  未木 由美 さま 甲府市 衣類 
7月9日  清水 京子 さま 三島市 寄付金
7月18日 阿部 敬子 さま 小金井市 寄付金
7月27日 MIPスポーツ・プロジェクト様/(株)ゴールドウィン様他 
                  東京都 新品スポーツ用Tシャツ
7月22日 石井 恵子 さま 一宮市 寄付金
8月1日  山本 邦子 さま 東京都 寄付金
8月6日  久保 加寿子さま 掛川市 寄付金
8月7日  金原 昇 さま 三島市 寄付金
8月9日  鷹箸 多恵子さま 三島市 寄付金+音楽療法用の材料代
8月9日  原政枝華道教室さま 寄付金
8月10日 山本 朋子 さま 沼津市 寄付金

真心のご寄付 謹んで御礼を申し上げるとともに、枯れ葉剤被害者の困窮家庭の生活改善に役立つように使わせて頂くことをお約束致します。ありがとうございました。また、詳しくブログ上で、御報告申し上げます。

愛のベトナムさわやか支援隊 会長 大釜 一男

2007-08-13

この2年のうごき(下)

⑤米・越 エージェント・オレンジ被害で協力関係増進
2007年6月26日

6月に行われたベトナムのグエン・ミン・チエット大統領とアメリカのブッシュ大統領との米越首脳会談で、エージェント・オレンジによって起きた被害に取り組むための新たな計画を発表された。両国はエージェント・オレンジ犠牲者が援助を必要としている事で合意したが、科学者の間ではエージェント・オレンジが本当にどのくらい被害を与えたのかについてはまだ議論の最中だ。

 ベトナムはおよそ300万の人が、アメリカ軍が戦争中に撒いたエージェント・オレンジに由来する健康障害に悩んでいると主張する。エージェント・オレンジには、高濃度の有毒化学物質ダイオキシンが含まれていた。

アメリカは、疾病はエージェント・オレンジによって起こされたものだという主張は科学的に指示されたものではないとして、被害者への賠償を求めるベトナムの訴えを長期にわたって無視してきた。

 しかし、最近、アメリカは、ベトナムにいる障害者への医療援助を増額し、アメリカ議会も土壌の洗浄やダイオキシン関連の疾病のために300万ドルの出費を承認した。

 ベトナム旧軍人アメリカ財団のハノイ代表のトム・レッキンジャー氏は、その動きを歓迎している

 「私は、1970年代の後半から、文字通りエージェント・オレンジ問題に関わってきた。過去の30年間に比べれば、この2年の動きはめざましい」と語る。

 最近のハノイでの作業部会で、アメリカ国防総省は、ベトナム国防省に、エージェント・オレンジの備蓄量備蓄場所、どこに撒布したかを示す2年間にわたる精力的な研究の結果を提出した。

 アメリカの国際開発機関の環境担当のネイサン・セイジ氏は、ハノイで、「この協力は、両国の友好関係進展の一環だ。この問題に関する協力のレベルは、いままでにはなかったことだ。ベトナム側が援助を要求しているので、われわれとしても引き続きベトナムを支援していく」と語った。

 レッキンジャー氏は、アメリカ側に、2005年の下期から方針の転換がみられたという。それは、化学分析会社のハットフィールド・コンサルタントによる研究で、旧アメリカ軍基地のダイオキシン汚染濃度の高さが指摘されたときだ。旧アメリカ軍基地には、エージェント・オレンジが備蓄されていたが、地方の汚染は無かった。

  「私は、このことが、ベトナム政府の心を解放し、輸出問題、農業、海産物の輸出にも心配がないと、最終的に前に進み出てこう言わせたと思う」と。

 このために、アメリカにも旧アメリカ軍基地周辺のダイオキシンの重度汚染地域の洗浄に焦点を当てる援助が出来ることを確実にさせた。
                        
 両政府の協力は進む一方で、科学者の間では、ベトナムではどのくらい多くのダイオキシン関連の疾病があるのか、健康への影響はどんなものなのかについては、見解は分かれたままだ。

 アメリカ科学者のアルヴィン・ヤング氏は、1970年代の初期からエージェント・オレンジの研究を進めてきた。そして、ハットフィールド社のベトナム中部ダナン市のダイオキシンデータは、誤解を与えるものだという。

 「ハットフィールド社が見つけたダイオキシンの多く、つまりTCDDは他の発生源からきたのではないか」という。ヤング氏は、ハットフィールド社によるベトナム・メコンデルタのカン・トー市でのダイオキシン発見にふれて、おそらくあれは地方自治体の戸外のゴミ捨て場でゴミを焼却したことから生じたものだ、と主張する。

 「私の結論は、ハットフィールド社がエージェント・オレンジからTCDDを検出したという可能性は極めて低いのではないか、ということだ」

 だが、ベトナム赤十字エージェント・オレンジ犠牲者支援計画の責任者レ・ケ・ソン博士は、それに反対意見を述べる。「エージェント・オレンジ汚染の強いところの近くでは、集団で先天性欠損症がみられる」という。

 その一方で、ソン博士(33委員会)は、アメリカ政府が最近エージェント・オレンジの被害者援助のための資金を確保したりしていることに注目し、アメリカが新しい角度からこの問題を見ている兆しだとこの動きを評価している。

 この3年間、ベトナム被害者グループは、アメリカの枯葉剤の製造企業を提訴してきた。訴訟は2005年に棄却されたが、ベトナム側は先週、上訴した。

 ベトナム退役兵グループのレッキンジャー氏は、

 「仮に訴訟が軌道に乗ったとしても、補償は先の先だという気がする。このことが裁判で見えてくるまでに10年かかるとみる。それより早いというなら、私の1ヶ月分の給料をかけるよ。近い将来という時間で区切ってなんらかの補償があるとほのめかすことは、只単に人々の願望を間違った方向に導くことになるだけだ」と言った。

 仮に一部のアメリカの科学者がエージェント・オレンジの被害がいかに深刻であったかを受け入れなくとも、アメリカとベトナム両国政府は、ベトナム側被害者という人々の一部を助けるために協力している。長くこの問題に関わってきた人々にとって、これは進歩と受け止めるのだ。

しかし、アメリカはこれでお茶を濁してはならない。(おわり)

2007-08-10

この2年のうごき (中)

今日、8月10日は、ベトナム枯れ葉剤被害者の日だ。日本の広島、長崎の原爆の日に相当する。改めて、正義の実現する世界のために、闘うことを誓いたい。

③2007年のこれまでの動き
ベトナムの枯葉剤被害者協会の被害者は、2007年6月4日に抗告手続きをした。この訴訟は、2005年に連邦判事によって棄却されている。

当時の連邦判事は、原告たちは化学剤が遺伝子的損傷を引き起こしたという証明ができていないとして棄却した。上訴した裁判の判決が出るまでどのくらい時間がかかるかは不明である。

月曜日(6月4日)の審問は、16名の元アメリカ兵についての証言で始まった。そして、その後ベトナム側の被害者の証言に移った。

今回の上訴でも、ダウ・ケミカルモンサントハーキュリーズなど枯葉剤メーカー側37社を提訴している。

ベトナム側被害者4人が審問出席のためにアメリカまで出向いた。その一人は、グエン・ティ・ホン(Ngueyn Thi Hong)さん(60歳)は、元従軍看護婦だ。流産を経ていくつもの病気を抱えている。7月20日に亡くなられた。

体力の落ちたグエン・ヴァン・クイさんは車椅子で参加した。そのクイさんは、胃ガンなど複数のガンを併発。クイさんは、北ベトナム軍の小隊長で、戦争中、中部ベトナムのコントゥム地方で従軍した。この審問出廷から戻った7月7日に52歳の若さで亡くなった。

これら被害者のアメリカでの支援は、おもに平和運動のための復員軍人会が中心となっておこなった。復員軍人会はエージェント・オレンジを表すオレンジのリボンをつけて、リボンには“ベトナムのエージェント・オレンジ被害者に正義を”という文字が書かれていた。支援の会は裁判所の外で集会を開き、“企業は犯罪に対して支払いを”と書いたプラカードを持っていた。

中には、審問を追っている犠牲者の支持者のひとりフレッド・コックスさんは、何十年前の戦争に反対して抗議運動に参加した人だ。「あの裁判には憤慨した。一人のアメリカ人が立ち上がり、われわれはベトナム人にも我が国の復員軍人にも賠償などする理由はないと議論することに驚きを禁じ得ない。いったいどうやって彼らは帰国し、どういう良心の中で暮らしていけるというのか?」

 1984年には、アメリカの化学会社数社は、法廷外決着で、アメリカ復員軍人が起こした集団訴訟で、1億8千万ドルの支払いをしたが、枯葉剤の結果に対する責任は拒否した。

また、昨年(2006年)には、韓国の高等裁判所が、ダウ・ケミカルとモンサントに対して、韓国のベトナム参戦兵士とその家族に賠償金として70億ドル余りの支払いを命じた。


④裁判所:復員軍人省は エージェント・オレンジ被害者に賠償せよ 2007年7月19日

 サンフランシスコ控訴審で、裁判所は7月19日(木)に、アメリカ復員軍人省を叱りとばし、
エージェント・オレンジに曝露し、白血病にかかったベトナム復員軍人に、遡及して支払いをするように命じた。

 「アメリカ復員軍人省の活動は、国家の恥辱に大きく貢献してきた」 第9回巡回控訴裁判所の意見にはこう書かれてあった。

 この裁判所の命令で、アメリカ復員軍人省がいくら支払うのか、あるいはどのくらい多くの復員軍人が白血病に罹病しているのかは直ちには不明である。

 復員軍人局のスポークスマン、フィル・ブダン氏は、7月19日(木)、現在判決内容を分析しており、これ以上のコメントは控えると語った。

 アメリカ復員軍人省は、2003年に、通称CLLと言われている慢性リンパ性白血病のかかっているベトナム戦争復員軍人にも拡大して手当を払うことに同意した。アメリカ軍は、南ベトナムやカンボジアでエージェント・オレンジを含む2000万ガロンの枯葉剤を撒布した。

 しかし、復員軍人省は、それより軽い慢性病にかかっている元軍人からの要求には再検査に応じていなかったり、あるいは最近の一番論議の中心である手当の遡及的支払いにも応じていない。

 7月19日(木)に出された判決に付随した意見は、もともと1986年に起こされた集団訴訟に由来する給付金に関する1991年の目標的合意を、下級審が適切に解釈したかどうかを含めた技術的問題に関するものだ。

 上訴裁判は、復員軍人には遡及的給付を受ける権利が有るとする元軍人のグループの立場に立った判決を下した。

 「われわれは、この訴訟をこれで終結することを希望する。わが政府は、16年ほど前に同意した内容で政府が引き受けた法的義務を尊重しなくてはならない。妨害者の官僚的対立はやめなくてはならない。われわれは、道義的にも法的にも資格がある元軍人が給付金を最終的に受けられるということを希望する」と、スティーブン・ラインハルト判事は、意見書に書いた。

 これに対して、国家復員軍人法的支援計画のリチャード・スパタロ弁護士は、「木曜日の判決は、もしアメリカ復員軍人省が最高裁判所に上訴しなければ、最終的に法律闘争に終止符を打つ。もし研究者が他の障害をエージェント・オレンジと関連づけるならば、この決定により、それらの元軍人たちに対する遡及的給付も、アメリカ復員軍人省が拒否できなくなるだろう」と述べた。 (つづく)

2007-08-09

この2年のうごき (上)

①ベトナム側枯れ葉剤訴訟 棄却 2005年3月10日 

ベトナム戦争中にアメリカ軍が使用した枯れ葉剤で、先天的欠損症や流産、ガンを引き起こしたとし、ベトナム側原告は、これを製造した企業を提訴して賠償を求めていたが、ニューヨークの連邦裁判所は、2005年3月、この訴訟を棄却した。原告たちは、枯れ葉剤が戦争中、隠れ蓑となる森林をはぎとるための枯れ葉剤の使用は、数百万人に対する戦争犯罪であるとしていた。
 ジャック・ウェインステイン判事は、原告の申し立てに対する法的根拠は全くないと裁決した。この民事訴訟は、ベトナムの原告が、糖尿病を初めとする、さまざまな健康障害の原因とされているエージェント・オレンジの影響に対する賠償請求する初の訴訟であったが、化学薬品会社はそのような関連性は立証されていないと主張した。

 ダウ・ケミカルモンサント社などの被告化学薬品会社側は、また、化学剤の使用法に関しては米政府に責任があり、メーカー側にはないと主張し、アメリカの法廷も、最高司令官としての権限を行使する大統領の命令を実行した企業を処罰することはできないという判断を示した。

 233頁に及ぶ判決文の中で、ウェインステイン判事は、「いかなる国の国内法、あるいはいかなる国際法のもとでも、原告の申し立てのいずれにも根拠となるものはない」として、訴訟を退けた。アメリカ司法省は、連邦判事に訴訟を却下するよう促していた。

 司法省は、1月に提出された弁論趣意書の中で、旧敵から提訴されて開廷することは、大統領の戦争遂行権限に対して危険な脅威を与えるものだと申し立てた。

 1962年から1971年にかけて、北ベトナム共産軍から森林の天蓋を奪うため、ベトナムの諸地方に大量の枯葉剤エージェント・オレンジが撒布された。1984年に、化学薬品会社数社は、枯れ葉剤に曝露したため健康が損なわれたとするアメリカの退役軍人たちとの訴訟を示談に持ち込み、1億8千万ドルを支払った。

 アメリカ政府は、枯葉剤の化学的結果についての証明が不十分であるとして、その責任を否定している。

 ジャック・B・ウェインステイン判事の背景を書いておこう。
1921年生まれで、出生地はアーカンソー州です。ドイツ系の名前だ。ウェインスタインとは、英語でワイン・ストーンを意味する。ニューヨーク東部地区の連邦裁判所判事だ。

ウェインステイン氏は、1967年にリンドン・ジョンソン大統領に指名されて判事になる。

1980年から1988年まで、彼は、地区の首席判事を務める。1993年に、上級判事となったが、他の上級判事と違って、相変わらず首席判事か、それ以上の力を維持する。長年勤続、重責と博識の故に、彼は最も有名な連邦判事の一人である。だが、いわば冷戦時代の思考をもった判事とも言えるのではないだろうか。

②米政府:エージェント・オレンジ被害者への賠償はしない 2006年6月5日

アメリカはエージェント・オレンジ被害者への賠償はしないが、戦争中の枯れ葉剤に対する治療法に関するアドバイスはする。アメリカのラムズフェルド国防相(当時)のベトナム訪問時に、アメリカ政府高官はこう語った。
ラムズフェルド国防相周辺の人は、ラムズフェルド国防相は、ファム・ヴァン・チャ越国防相やベトナム人民軍幹部と会談した際に、ベトナム側は、ダイオキシン曝露とエージェント・オレンジ汚染の問題を提起した、という。

「われわれに出来ることは、科学的情報、われわれが持っている歴史的資料、その状況への対処法に関する技術的アドバイスを提供することだ。われわれは、もっと協力する用意がある。われわれは、専門家レベルの会合を開き、われわれに何が出来るかを話し合うことで合意した」と、側近の人は語った。

アメリカ軍は、戦争中、北ベトナム軍や解放戦線から森林の天蓋をはぎとり、食糧用の穀物を破壊するために、ベトナム南部で、致命的な化学剤ダイオキシンを含んだエージェント・オレンジを広範に撒布した。

ベトナム側は、その化学剤使用の結果として、何百万という人々が多種の疾病や先天的欠損症に悩んできたと主張している。

ニューヨークの連邦裁判所は、2005年に、ベトナム人被害者がモンサントやダウ・ケミカルなどを相手に起こした裁判を棄却した。

また、4月に訪越したジェームズ・ニコルソンアメリカ復員軍人相に、アメリカはダイオキシンの関連した健康障害をおこした元軍人に補償しているのに、なぜベトナム側の被害者にはしないのかとベトナム側報道陣から質問を受けたのだが、返事は・・・。
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2007-08-08

また一人旅立たれました!


8月10日の枯れ葉剤被害者の日を前に、7月7日に亡くなられたグエン・ヴァン・クイさんに続いて、乳ガンなど多くの病気と闘われ、正義の声をアメリカであげられたグエン・ティ・ホンさんが、7月20日午前10時45分に、ホーチミン市の病院で永眠されました。

愛のベトナムさわやか支援隊を代表して、ティ・ホンさまのご冥福をお祈りし、併せて、謹んでご家族、ご親戚の方々に、お悔やみを申し上げます。

ティ・ホンさんは、1961年に南ベトナム民族解放戦線に参加し、T1、あるいはD軍区と呼ばれる南ベトナム東部戦闘地域で、南ベトナム民族解放戦線政治訓練学校の書記兼医療班員として従軍しました。

1964年に、彼女が川で米をといでいるときに、エージェント・オレンジを浴びました。彼女は、川に入れば体についた化学剤がながされると思って、川に飛び込みました。もちろん、それで流れたわけではありません。その後も、彼女は、汚染された食糧、野生の野菜、水を毎日摂取しました。

1968年、ホンさんは、ロン・カイン省バーリアに南ベトナム民族解放戦線の省本部付きの衛生医療班として派遣されました。

彼女は、結婚しました。そして、1969年に、妊娠4~5ヶ月の時に最初の流産が彼女を襲います。1970年に、彼女の部隊が待ち伏せ攻撃を受けます。そして、彼女は左手を失ってしまいました。このため、彼女は会計担当に任務が変わりました。


1976年、1979年、1984年と、彼女は出産しますが、3人とも早産の未熟児で体重不足でした。そのうちの一人は、先天性心疾患(CHD)でした。こどもは3人とも虚弱で、かなりの介護を必要としており、しばしば病気にかかります。 
                                       
終戦直後の1975年5月に、ホンさんは、ビエン・ホア市に引っ越しました。そして、彼女は1990年に、もう一度引っ越します。今度はビエン・フン湖に近いチュン・ズン地区です。じつは、そこは旧アメリカ空軍のビエンホア基地のエージェント・オレンジの備蓄庫からのすべての水が流れ込む地域でした。

       この写真は6月27日サンフランシスコで。

彼女の健康は、再び悪化に向かいます。そして、より病弱になります。そのために、早期退職を余儀なくされました。

超音波と血液検査の結果、彼女に臓器の硬変症がみつかり、病院での長期入院加療が必要との診断を受けました。

1999年に、彼女の体は一層悪くなりました。
彼女の腹部は腫れ上がり、硬化しました。疲れやすくなり、何回も気を失いました。

ホーチミン市のチョー・ライ病院の医師団は、彼女に脾臓肥大と免疫不全症を発見しました。治療の中で、何回も骨髄検査を行いました。その結果、左乳にガンを発見しました。それに加えて、ホンさんは、息の短さ、高血圧、脳腫瘍、乳ガンの骨への転移、胃痛、硬変症、胆石、膀胱結石、下肢静脈瘤症、難治性皮膚疾患を患い、足が弱くなり、大きな運動はできないなどの状態になっていました。


6月19日キューバ系ベトナム人のポスター作品の前で。スーザン・シュナルズ・プレース 

そういう状態でアメリカ行かれたのです。責任感の強さという以外に言葉が見つかりません。

多くの病気を併発するという苦境にありながら、滞米中は、一度も愚痴ることもなく、決して諦めない姿勢を示されたそうです。

彼女の力強いことばは、聞く人の心を打ったと言われます。

アメリカ軍からも恐れられたロング・ヘアー・アーミー言われ、あの長髪をなびかせた女性兵士の面影躍如たるものがあったと、支援するアメリカ人はいいます。

「敵が侵入してくれば、女も戦う」というベトナムの諺を実際に身を以て示した方でした。

彼女は、生命の最後の瞬間まで、枯葉剤犠牲者の正義実現のために戦ったと言えます。

これだけの病気におかされながら、彼女は楽観と希望に生きました。
「ベトナム女性がどのくらい強いかみてください」と、アメリカ人にも訴えたそうです。
貧困と苦難に喘ぎながらも、一般アメリカ人には実に寛大な気持ちをもち、むしろ連帯の姿を見せてすらいました。

どうぞ、安らかにお休み下さい。

2007-08-07

MIP様から新品のTシャツ600着が!!

このたび、MIPスポーツ・プロジェクト事務局長相沢雅晴さが代表となって、私ども愛のベトナムさわやか支援隊に、600着の新品スポーツTシャツを贈って下さいました。

12箱もです。

我が隊始まって以来、一度にこれほど多くの支援物資を受領したのはこれが初めてです。厚く御礼を申し上げます。いま、うれしい悲鳴を毎日あげています。

この600着には、
1)MIPスポーツ・プロジェクト様の他に、

2)株式会社ゼロ様

3)株式会社ゴールドウィン様

4)森永製菓株式会社様

5)ハードロックカフェ様

の4社、合計5社のご厚志が含まれています。

暖かいご支援に、私ども一同、心より感謝申し上げます。

実際に発送を担当して下さいました佐藤訓之様 有難うございました。

皆様のお気持ちで、ベトナムの枯れ葉剤被害に苦しむ子ども達と、貧困に悩む子どもたちに着せてあげることができます。

個人的なことになりますが、相沢雅晴さんと小生北村とは、丁度1年前の昨年8月に初めて、シドニーのオリンピック・スタジアム近くのハウスパーティでお目にかかりました。

その時、枯れ葉剤の子ども達の話を聞いて下さり、Tシャツのベトナムへの贈呈を実現して下さいました。

(左は、送って下さったTシャツの箱の山です)

相沢さのことを簡単にご紹介をさせて頂きます。

国学院久我山高校から明治大学に進まれ、高校大学とラグビー部で一貫して大活躍された後、株式会社リコーへ入社。リコー時代には、プロップとして、日本代表に選出され、第1回ワールドカップにも出場されました。

日本代表の主将も務めました。

現役引退後は、日本国土開発株式会社ラグビー部監督に就任し、関東1部リーグにチームを昇格させるという実力をさらに発揮されましたが、
ラグビー部解散で、吉本興業スポーツ事業部チーフプロデューサーへ。

さらに、現在はMIPスポーツ・プロジェクト事務局長として、少年少女達に家庭にと、健康スポーツの夢を与えていらっしゃいます。

因みに、2007ラグビー・ワールドカップは、2007年9月7日から10月20日まで、フランスを中心にウェールズ・スコットランドで行われます。日本はB組です。

ある方のブログからです。

その年元旦もノート片手に花園へ行きました。国学院久我山の試合を見ていると、 大柄なロックが目に付きました。

大柄と言っても筋骨隆々じゃなく、どっちか言うとただ太っている感じの、動きも緩慢でヨッタヨッタとモールに突っ込んでいました。

相沢雅晴選手でした。

ショートパンツの太腿は破れんくらいパンパンになって、シャツも皆はパンツの中に入っているのに、一人だけパンツの外にだらしなくはみ出していました。

勿論プレーの最中にそうなったのですが、でもそんな相沢選手が大好きでした。愛嬌があるのです、プレーぶりも顔も。

明治に進学して(中略)・・・俺の弟も妹も、相沢のファンで、家では「おっちゃん」と呼んでいました。明治の試合がある時は「おっちゃん出てる?」が我が家の合言葉でした。

そしてリコーに入社したのですが、あのオールブラックスばりのユニホームも 似合っていませんでした。相変わらず、パンツの太腿はパンパンで、太った芝居の黒子のようで・・・・(以下略)。

それから3~4年経った頃、家に帰る途中の俺は大阪の天神橋筋を歩いていました。中崎町商店街へ行く信号の所で、相沢が立っていました。

相沢の横には洞口と河瀬がいました。三人は信号待ちしているところで、多分大阪出身の河瀬の案内で食事に行く途中だったと。

俺は大好きな相沢選手に声を掛けようか迷っている時信号が変り三人は歩き始めました。
俺は慌てて「相沢さん」と声を掛けました。相沢は振り返り「はぁ」とキョトンといていました。

その顔はテレビで見るよりも優しく、目は本当に象さんのように可愛いく、善人そのものでした。

俺は「どうも」と訳の解らん事を言い、ペコリとおじぎをして立ち去りました。

俺の背中に相沢の「どうも」が聞こえてきました。

以上が、あるブログからでした。(無断借用 失礼!)


実は、ホームパーティの会場は、この7月にドイツのサッカークラブVFB リューベックと契約した今矢 直城選手のご実家でした。彼を応援してあげて下さい。

その席に、豪州在住の元三洋電機ワイルドナイツのホポイ・タイオネさんも、同席。

この写真はホポイさんのお母さんではなくて、今矢直樹選手のおばあちゃんです。ホポイさんは、ハナちゃん」と、呼んでいました。

ホポイは、身長188センチ、84キロと、これは現役の時の数字です。今は、もうちょっと重い?か。

彼の大きさは、実はこの数字ではなくて、声の大きさです。

これは数字には出せません。騒音レベル120デシベルというのは、「会話不可能」レベルdすが、これは、航空機のエンジン近くや、騒音の激しい地下鉄の駅を想像してください。

ホポイさん一人で、このくらいの声をだすのです。

ホポイさんが話している間は、体が大きいかの相沢さんも、一目おいていました。笑いの絶えない賑やかなパーティでした。皆、相沢さんの仲間です。

最後に、もう一度、ベトナムの子ども達に応援して下さった各社の皆様ありがとうございました。

そして、相沢 雅晴さん ほんとうにありがとうございました。
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