2007-12-30

2007年 寄贈者リスト

平成19年9月以降のご寄付リストです。
本年もたくさんのご支援に感謝致します。少しでも多くの人が波浪を乗り切るために、浄財は大変に役立っております。

                      寄付金の部
               

9月1日 沢谷 和子さま 沼津市
9月1日 西山 房子さま 沼津市
9月1日 後藤 昌子さま 沼津市
10月20日 井原 春子さま 函南町肥田
10月17日 若月 孝子さま 文京区小石川
10月22日 古瀬壬生子さま 三島市
11月19日 西村克彦さま さいたま市(*日本大学文理学部英文科38年同期会+野々村新教授)
12月11日 西村克彦さま さいたま市(*日本大学文理学部英文科38年同期会)

暗い闇の中におかれた被害者にとって、皆様のご支援は一条の光です。暖かいお気持ちの入った衣類で包まれる時、越日の民衆レベルの友好は太さを増して行くと思います。
衣類の部
10月1日 安田 秀美 さま 三田市
10月1日 大柴 あきこさま 大和市
10月21日 臼井 素子 さま  調布市
11月16日 芦沢 恵子 さま 三島市
12月1日 高橋 和枝 さま 三島市
12月22日 阿部 清美 さま 函南町
12月24日 今矢 恭子 さま シドニー              
ご支援ありがとうございました。
来年も宜しくお願いします。
愛のベトナムさわやか支援隊 会長 大釜 一男Posted by Picasa

2007-12-13

旅の感想(8)

トアイさんと対話する新谷さん(左)

最終回 感動とショック 北村 元

《感動》長い人生の中で、生活に彩りを与えるのは、なんといっても感動をおいて他にないだろう。感動は、天座を彩る星にも値する。

ベトナムで数知れず感動してきた私のような者でも、今年の支援ツアーで受けた感動はまた、ひと味違ったものだった。それがまた、来年も自ら求めてベトナムに行ってしまう不思議な心の作用なのである。

老化防止によく言われる「かきくけこ人生」なるものがある。「か」感動する。き」興味を持つ。く」工夫する。け」健康。心身ともの健康である。こ」恋をする。この中でも、感動は大事な要素である。しかし、感動することはそれほど簡単ではない。

「がぎぐげご人生」というのもある。「頑固」「欺瞞」「愚痴」下品」「傲慢」これは、世の中のためにならない。

衣類を贈呈する河口さん。後列一番左はショックを受けた伊藤啓太君。

私たちの支援ツアーでは、多くの家庭を在宅訪問するが、「ここは、こういうご苦労のあるお宅です。ご主人は、南部戦線でこういう戦いをされた方です、はい感動してください」と呼び掛けたところで、人はそう簡単には感動するものではない。そこに対話がなければならないし、相手からの反応がなくてはならない。あるいは、そこに、自分の目でみた相手の表情や現実の姿がなくてはならないと思う。

ここ10年近く、日本では、特に「無感動・無関心」の人が増えてきたという指摘がされてきた。今の日本で、感動することはそれほど簡単ことではない。物質的に満ち足りたことが、心の感性を失う結果になってしまった。少なくとも、「感動」するには、多少なりとも心の余裕がなくてはならない。余裕のない「心」は、はっと感動する入り口に立っても、そこで終わってその次を断ち切ってしまう。「き」の興味に繋がらないのである。

ベトナム支援ツアーの場合、感動の入り口はいっぱいある。生まれた子が全員障害をもち、よくご夫婦で育ててきたと、ご夫婦に感動する。耳は難聴だけど、そういう子どもに良く礼儀をしつけたと親の偉大さに感動する。体の弱くなった親に、この若さでよく家事をお手伝いしていると子どもの姿に感動する、私たちが差し上げた車椅子に乗って、本当に暫く振りで外出した表情を見せる元兵士に感動したとか、年を取っても親は親、年を取っても子はやはり子、日本で薄くなった親子の絆に感動する・・などなど、私たちが支援先のどこへ行っても見られる風景である。

上崎理会子さんとファム・ティ・ハンちゃん

話を聞けば聞くほど、その感動は「深まって」いく。この目に見えない「感動」の気持ちが、自分の日常生活に少しずつ力になってくるように思う。

過酷な条件の中で、必死に耐えている人たちがいるのだから、自分も毎日の生活に負けないようにしよう。来年は、ベトナムでもっと笑顔の数を増やしてあげよう。あの子を大学に進ませてあげよう。あの子に栄養をつけさせてあげよう・・などとなっていく。いやそうなっていくのが普通である。

「感動」は、「興味」につなげる心の中の余裕を徐々に広げていく役目があると確信する。

《ショック》ベトナム支援ツアーでショックを受ける人が毎年いる。今回もはっきりと表に出た人が3人いた。

一人は、伊藤啓太君である。タイビン省のグエン・ヴァン・ヒューさん宅に着いた時だった。お嬢さんのグエン・ティ・クエンさんが、自室で大小を排泄したままで、異常な臭気を、伊藤君が感じたからであった。ここが生活の場所なのか?と。(だからこそ、私たちは、井戸水による水道施設を贈呈したのだが)

二人目は、上崎理会子ちゃんだった。彼女は、多くを語らないが、ベトナム滞在中、食が心配するほど細かった。それは、自分の年齢に近い人たちが、このような生活を送っているのを初めてみて、やはり心に衝撃を受けて箸が進まなかったのだ。(第7回 旅の感想参照)

三人目は、主婦の河口ふみさんだった。快活で、元気に話をされる方だった。何か質問はありませんか?と皆に聞くと、彼女は手を挙げた。それまで、元気に聞こえていた声が、その瞬間から出なくなってしまった。

これは、ロンドン大学のシンガー博士が発見した、脳の中の「同情ニューロン」が働いたからだと考える。他人が苦しんでいるのをみて「痛いだろうなあ」と感じる痛覚を生かす神経である。                   

これは、この3人が幸せであることの裏返しだと、私は思う。自分との比較の中で、どこかに想像を絶するものがあって、さぞ大変に違いないと感じる神経が正常に働いたことを示していると思う。                
         
ユニセフの発表によれば、孤独を感じると答えた日本の15歳の割合は、29.8%で、先進国中、最も高かった。その日本の二人の高校生が積極的にベトナム支援ツーに参加して痛みを感じたことは素晴らしいことだと思う。

北ベトナム軍が撃ち落としたB52の前で(ヒュー・ティエップ湖で)
私は、この「感動」「ショック」を、自分の行動に結びつけていくことが大事だと考える。自分の心の中で常にケーススタディができる、相手のことをより一層考える思考法を生む手段になると言えるのではないか。              
そういう点では、手前味噌になるが、ベトナム支援ツアーは最適な条件を備えていると思う。           
来年もまた、ベトナムの被害者に、私たち支援隊一人ひとりの夢を託して行きたいと考えている。それが、この支援の最大の楽しみである。人が少しでも、幸福へ向かって動き出すのをみることは、嬉しいことである。                    
                                   
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬えば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし・・・の精神を大いに生かしていきたい。            
       
少ない支援ではあるが、少ない支援からより大きな結果を生み出すことを、私たちは恥とはしない。ベトナムに「こ」恋しているからだ。              
           
人が歩かないと、そこに道は出来ない。私たちは、人を集めて、物を贈呈することをよしとしない。一軒一軒足を運ぶ。少しでも「生の声」を聞き、対話をするために。
私たちの行動で 砂漠と化した 人間の心の大地を耕していきたい。

来年、あなたも参加しませんか?

Let's go to Vietnam to learn and experience something different
next year
!(旅の感想=最終回)
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旅の感想(7)

最大のニューフロンティアに 私も挑戦    上崎 理会子

2学期に入り、私は情熱の日(体育祭)の梯団執行部として活動させて頂き、また今は委員会の長として活動させてもらっていますが、片時もベトナムで出会った方々のことを忘れたことはありません。

施設や家庭訪問で出会った子どもたち(私もまだまだ子どもですが)の笑顔は、私の脳裏から離れることをしりません。

ベトナムで見たこと、聞いたことは、私の全く知らない世界でした。戦争の後遺症に苦しむ人々、貧困問題や衛生面など本当に様々な壁がある国だと思いました。

友好村での音楽療法 笑顔そして笑顔
自由競争が許されている世の中なので、多少の弱肉強食はまぬかれません。しかし、ベトナムは違いました。弱者は、ほんとうに大変な生活を強いられ、政府からの援助も十分ではない現状でした。

衣服も食糧も満足になく、今晩、目の前にならべられる数々の料理で、一体何人の人が満足に食べることが出来るのだろうと考えると、ご飯が喉を通らなくなりました。

そして何より、子どもたちの笑顔です。彼らは、ほんとうに素直な心の持ち主でした。枯れ葉剤の被害が彼らの体に及ぼしている障害をも吹き飛ばしてしまうような笑顔の持ち主でした。そんな子どもたちの笑顔を、私は守らなければいけません。そう強く感じました。
目が輝くベトナム・ニンビン省の子ら
ベトナム・スタディー・ツアーに参加した一つの理由として、私の進路が定まらないと言うことがありました。しかし、今、私には自分の将来のビジョンが見えてきています。

発展途上国の子どもを守れるような仕事に就くために、大学でも平和学や国際学を専攻しようと思っています。
黄色いシャツの女性が筆者
今回の支援ツアーで、私は、ほんとうに様々なことを考える機会を頂き、たくさんのことを学ばせて頂きました。ツアーに参加させてくれた両親への感謝の思いと、ツアー中優しくしてくださった方々への御礼をこめて、手紙を終わります。
 
“「精神の世界」「生命の世界」こそ、いよいよ本格的に人類が挑むべき、最大のニューフロンティアである”
 しっかりがんばってまいります。(了)
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2007-10-31

旅の感想(6)

櫻井 智子

ベトナムツアーへの参加は、今回で3回目となりましたが、参加する事が出来て本当に良かったと思ってています。

参加する度に色々な想いがこみ上げます。


今回、1番印象的だったことは、いまだにアメリカ政府は、ベトナムに対して、枯れ葉剤をまいた事を謝っていないこと。ベトナムの被害者に対して何の補償もしていないこと、でした。

しかしアメリカの枯葉剤被害者に対しては、ちゃんとした補償をしているということ・・・アメリカ政府の卑劣さがとても感じられました。


1日も早くベトナムの地に、平安がおとずれますようにと、願っています。 (了)

音楽と介助の二天一流

新谷文子

今年でベトナム訪問は5回目になりました。昨日の事の様であり、お会いする方々とはずっと昔から知り合いだった様な・・・訪問回数を重ねるごとに親密感を感じ、常に新鮮で私自身の心が豊かになる「旅」でした。

私は、音楽療法士と介護士としての二つの顔でベトナムとおつきあいしています。

まず、音楽療法士として、ハノイ市内の施設「平和村」と「友好村」で音楽療法をやらせて頂いています。初年(2002年)は、ベトナムの音楽も枯れ葉剤障害児者の状況もわからないまま、前に立ってリードをしました。何が出来て、何が出来ないのか???ただ夢中で楽しむ事だけを第一に実践しました。


指示する動作にも無理があったり、せっかくの手作り楽器も参加者の身体レベルでは使えなかったりで、失敗かな?と落ち込みましたが、声を出して笑う皆の姿に「ああ、これで良かったんだ」と安堵しました。

あれから5年。音楽療法士という殻から抜け出して、「音楽と笑いとコミュニケーション」という命題に挑戦してきました。
今年のセッションは最高に満喫できました。同行メンバーによる楽しい歌のプレゼントや腹話術が披露されました。

いよいよ音楽療法の番です。先ずは、身体をほぐすボディーパーカッション・・・音楽にのって全身運動から始め、「♪チェッチェッコリ」という曲の言葉の面白さを発声してもらいながら、腰振り体操という単純な動作を繰り返しますが、これは大人気です。心も体もほぐれ、参加者個々のリズム表現が出始めて、もはやお祭りモードです。

次はタイコの出番。といっても叩くのは私。全員で大きな円になり、前の人の肩や腰に手を組み前進し、タイコが鳴ったら反対周りをするゲームや、打ったタイコの数と同じ人数の友達と手を繋いで座るゲーム。タイコの音と同時に、歓声が会場いっぱいに広がり益々元気に。

最後は、三島市の有志が作って下さった「手作りシェーカー」を両手に持ち、音楽に合わせて振りながら自由に動き、思い思いのパフォーマンスをするリズムトレーニングでした。

全員が汗ダクダクで熱気ムンムン!参加者も職員もノリノリで、曲が止まりません。このままだとエンドレス?と思い、慌てて職員に「この曲で終わりにして下さい」とお願いしました。

8月20日午後の「友好村」では、高校生の伊藤啓太君と上崎理会子ちゃんが若い世代のパフォーマンスと、習い立てのベトナム語と流暢な英語でコミュニケーション能力を発揮してくれた事や、「ワールドビジョン」カナダの団体と各国の若者が参加した「インタナショナル・ワーク・キャンプ」の人たちも加わり、国際色豊かで、エネルギッシュな、“国際音楽療法”となり大成功に終りました。

「音楽に国境はない」――音楽は人の心を動かす偉大な力があることを実感しました。また歓声を挙げて楽しむ光景の中で出会えた笑顔。紛れもなく自然の笑顔です。その美しい笑顔に、私も元気を戴きました。来年も、またもう一人でも多くの笑顔を増やしてみせようと、誓いました。

また、車椅子の介護指導をする介護士としても、大きな感動をうけました。

私の尊敬する先生の言葉に「人生に一つとして無駄はない」とあります。

介護職員として2年間の経験。静岡県立東部養護学校での音楽療法(社会人講師)の経験。触る角度によって骨折し易い学童の身体介助の方法を、専門の先生の指導の下に会得したことです。この二つの貴重な経験は、ベトナム支援のためであったのだと、認識を新にしました。

国内での介助と違い、ベトナムの枯れ葉剤の被害者には、体の変形だけではなく、骨自体の変形と脆さがあるのではと、恐る恐る体に触れてきました。

ベッドから車椅子へ移乗。車椅子に座位を保つ。そしてデコボコ道を安全に走行する実演の後、家族(介助者)に実地練習をして頂きます。これは車椅子による事故を絶対起こさないためのものです。ご両親に押されて家の周りを走行した時の障害の子どもや成人の嬉しそうな笑顔。甥子さんの介助で自宅から表の大通りまで、車椅子で“散歩”された退役軍人。久々の外出でゆっくり辺りを見回しては時折頷いて見せてくれた優しい笑顔。何度も何度も手で最敬礼して感謝の意を。ご高齢も体調不良も感じさせないすばらしき表情をみて、最高に素晴らしいひと時を共に過ごせたと実感しました。

今年も沢山のかけがえのない出会いが。苦境の中でも見失わない弱者への思いやりや家族愛などなど、在宅訪問で学んだことは数多くあります。この全てが私の活力です。辛い時枯れ葉剤障害児者の現状を思い出しては、自分を励ましています。

帰国後は、理解の輪を広げようと現地で撮ったビデを活用して、「ベトナム枯れ葉剤被害者の支援活動&脳さわやかセミナー」と題し、沼津市を中心に8箇所で講演を致しました。

今後も地域での活動を糧に、私の持てる力の全てをベトナムの地に捧げようと、決意も新たに、来年も自身に挑んで行きたいと思っています。(了)
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2007-10-19

枯れ葉剤訴訟 因果関係(3)

3回連載の枯れ葉剤訴訟 因果関係の最終回です。 この記事は、ベトナム枯れ葉剤被害者協会常務理事レ・ドゥック・ティエット弁護士の執筆です。
アメリカ裁判所でのベトナム被害者の訴状はまだ「受理されていない」状態だ。(注:掲載誌”毒学”第1号発刊の時点で)
というのは、裁判所は法理論の基礎があるかどうかを判定するからだ。この期間は証拠をまだ見ていない。
従って、ダイオキシンと被害者の因果関係は裁判所が受理してから判定する。
現在、ダイオキシンの研究は、昔の80年代の研究と比べて遙かに進歩してきた。しかし、ダイオキシンに関する科学者の知識についていえば、現在でも乏しいと言える。
ダイオキシンは毒物だと分かっている。たとえ何十年経ても、ダイオキシンは土壌の中、血中に、脂肪の中に、人間の乳房の中に見つけることが出来る。

しかし、科学者は人の体にダイオキシンがどういう影響あるかを十分研究し尽くしていない。ダイオキシンは、環境の中で人間にいつまで影響を与えるのか?

科学者は因果関係を発見するために、ダイオキシンをウサギやねずみの体内に入れることは出来るが、人体にいれることは出来ない。

科学者はどの病気がダイオキシンによる病気なのかの結論はまだ出せない。ダイオキシンの被害者と認定出来るように、自分の病気や自分の子供の病気と撒かれた枯れ葉剤との因果関係を証明しなくてはならない。

従って、因果関係の証明は、提訴にあたってとても重要なことになる。被害者一人ひとりにも重要なものになる。これはマンパワー、時間と資金が相当かかる。そして、広い分野の専門家の協力が必要になってくるのだ。(終わり)


翻訳:レ・タイン・トゥン(静岡県富士市在住) 補訳:北村 元Posted by Picasa

2007-10-18

枯れ葉剤訴訟 因果関係(2)

第2回も、ベトナム枯葉剤被害者協会常務理事、レ・ドゥック・ティエット弁護士の記事です。

ベトナム枯れ葉剤被害者の訴訟では、被告弁護士は次のような結論を出した。

原因について:
-オレンジ剤は毒ではない。草取りに使うためだ。農業によく使用していて、普通に販売されている。
-オレンジ剤は毒があっても、わずかの量しかない。
-ダイオキシンは農薬、木材を保護する薬剤、製紙の工程でも、虫除け薬剤、ごみの燃焼、森林の火事などからも、ダイオキシンは出る。

そういう理由で、被告弁護士は枯れ葉剤はアメリカの化学会社を告する原因にはならない。ベトナムの環境や人間の中にダイオキシンがあるのは、別の原因からだとした。



結果について:
-今まで科学は、まだはっきりとダイオキシンが原因で疾病になるのことは証明されていない。ガンや奇形児出産などは、どの時代でも、どこの国でもある。


-ガンの患者や奇形出産の患者などがベトナム人に多いのは、この国の貧困状態が原因だからだ。

上記の結論で、被告側弁護士は、ベトナム被害者はオレンジ剤の原因で病気になったということを拒否した。
被告の結論を否定するためには、原告は次の3つのことを満たされなければならない。

-科学の色々な分野の証明がなさければならない:疾病証明、毒学、遺伝学、遺伝子学、血液型、科学、環境...10部門以上の証明が必要となる。


-国際法理論基礎、国際習慣基礎とアメリカの法律基礎(アメリカで行うので
)がなければならない。

-客観的な証拠:枯れ葉剤を撒いた証拠、病気の診断書、被害者の血液診断、母乳の診断結果は国内や国外の権威ある病院からだされたもの。


被告の結論を否定する時、原告側は相手が拒否できない納得出来る結論を出すことが出来た。
1960年から、被告側はダイオキシンがとても人間の健康に悪い、環境に悪いとうことを知っていた。


1億分の5グラムという微量でも、出産したばかりのほ乳類の動物を殺すことが出来る、と。

動物実験から、ダイオキシンは、ガンの原因であり、遺伝子関連の病気や生後異形病気(後天的奇形生の病気)の原因となった。薬剤を作る時、ダイオキシンを安全基準以下にすることもしなかった。営利のために皆を騙し、分かっていること、していることを隠した。

ダイオキシンが色々のところから生まれても、調査によって、診断した被害者から採取したダイオキシンの結果と食べ物からとったダイオキシンの結果は、60年代にアメリカが撒いた枯れ葉剤からの原因だと判定できた。


全米科学アカデミー医学研究所もダイオキシン関連の病気を認めている。(つづく)Posted by Picasa

2007-10-17

枯れ葉剤訴訟 因果関係(1)

この記事は、ベトナム33委員会の機関誌『毒学』に掲載された、ベトナム枯れ葉剤被害者協会常務理事、レ・ドゥック・ティエット弁護士の主張を転載したものです。

因果関係
レ・ドゥック・ティエット
ベトナム・ダイオキシン/オレンジ剤被害者協会

常務理事

アメリカの化学会社の弁護士は一つの結論を出して、ダイオキシンが原因であうことを拒否した。それは、枯れ葉剤被害者と化学物質との関係は未だに証明されていないという結論だった。

因果関係は難しい概念で、色々な科学者が討論してきた。事件や民事事件の捜査、判定の時、因果関係は裁判官と弁護士、弁護士と原告側の間でよく議論されている。

それでは、因果関係とは何か?どうして証明するのは難しいのか? このことを一つの文章の中で全部説明するのはとても困難だ。

因果関係とは一つの熟語である。原因と結果の影響、従属関係を指す言葉だ。かなり昔から、人間は原因と結果の区別は出来。矢の先を動物に刺す時、矢の先は原因であり、動物の肉に刺さったのは結果ということだ。もう少し時代を経ると、どういう原因を与えれば、それなりの結果を得るのを知った。それを知った時に、人間は道具を作った。人間の進歩は低いレベルからどんどん進化してきた。進歩すればするほど、人間は因果の関係を証明するために色々な研究をした。

原因の中でも、何の原因が主因であり、どれが主因ではないのか?同じ原因なら同じ結果を生むのか?偶然の結果もあるのか、それとも必然的な結果しかないのか?どんなものでも関連性がある。原因は結果を生む、結果は原因になる。因果、果因は進歩とともに存在する。色々な因果の疑問は日常生活の中に生まれてきている。色々な分野で因果関係の問題は研究され、討論されてきたが、果てることはない。

ある人たちは、人間差別主義者だ。その人達は、進歩した人間と進歩していない人間を分け、進歩した人間と進歩しない人間同士は結婚してはいけない!とした。その他、別の人達の研究もした。有名人の夫婦(原因)が子供を生むと、その子供(結果)は頭がいいかなどという研究だった。実際は原因なりの結果を得ることはなかった!夫婦の頭はさほど良くなくても、子供の頭がいい場合も沢山ある。

他の分野と違って、因果関係を事件の捜査、判定に使うのはとても複雑で、きちんとルールが守らなければならない。それは公平さを期すためだからだ。罰を与えるか与えないかのための原因は一つしかない。その原因があって必然的な結果が生まれるということだ。これは一つの事件の中で、主因を指すことができず、その主因がその結果につながったことを証明できなければ被告を処罰できないのである。(つづく)
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2007-10-12

旅の感想(5)

若い人たちに学んだツアー 大釜 一男

私がヴェトナムツアーに参加させて頂くようになってから、早や10年が過ぎようとしています。アッと言う間の出来事のような気がします。ヴェトナム支援と言うより、日本にはもうとっくに失われた気のする人々の温かさ、相手を察する思いやり等、ヴェトナムから心の支援を頂いてきた年月の様な気がします。

毎回の事ですが、涙があふれ、心が洗われる、ツアーばかりでした。過去10年余の間で、今回ほど多彩なメンバーの参加はなかったように感じたのは私だけではないと思います。

ヴェトナムツアーでは、毎回の事ながらトラブルは付き物です。今回の参加メンバーは、ボランティア精神を発揮された方々で、どんなトラブルが起きても、文句は一切でないばかりか、いい経験が出来たと、笑い飛ばしてくださった心の大きい方々ばかり、総勢20名のツアーでした。感謝、感謝の日々でした。お1人お1人をご紹介したい位にユニークな方々ばかりでした。

その中で私の心を揺さぶったのはこの若い二人でした。高校3年生の伊藤啓太君と上崎理会子ちゃんです。

啓太君はとても積極的でした。通訳の人にヴェトナム語をあれこれ英語で聞いては自分で発音を確かめてもらい、OKが出るまで、何回も、何回も練習していました。

そして最後には我々の会を代表して、ヴェトナム語で挨拶をしてくれるまでになっていました。ひょっとして、挨拶をする気だったのかもと、私は思いました。 

それほど彼のベトナム語は流暢?でした。18歳とは思えない堂々たる挨拶に、私は舌を巻きました。こんな青年に、最近私はお目にかかったことが無かったからです。未来、楽しかるべしです。

もう1人は理会子ちゃん。

小柄でいかにもひ弱そうに見えます。食事も細く、大丈夫かな?内心、心配してそっと見守っていました。そんな彼女が、何とかダンス競技で高校日本一と国際大会の栄冠を両方勝ち取ったと伺った時は、わが耳を疑いました。何処にそんな力を持っているのだろうか?と。

われわれが過去3~4回家庭訪問している所があります。今回も訪問してその家庭を支援する事になっていました。その家の状況を前知識としてどなたかに理会子ちゃんは聞いていたのです。

われわれは、お母さんと二人の姉妹に、毎年古着とかお金とかと、又元気で頑張るように激励など支援をさせていただいてきました。

今は親子三人暮らし。働き手は母親のみ、父親は枯れ葉剤の影響で死亡。その母親も、重い病気にかかっている下の子(ニヤンちゃん)を置いて働きにはいけない極貧の家庭です。

姉は高校生。ニャンちやんにはお兄ちゃんがいましたが、やはり昨年ニャンちゃんと同じ病気(枯れ葉剤の影響)で亡くなりました。ニャンちゃんも、もう長くは生きられない状態です、体も小さく黄胆症状が出て、お腹は病気の為コチコチです。話しかけてもあまり話はしません。殆んど黙って座っている方が多い子でした。笑った顔など、私は見たことがありませんでした。

そんな姉妹に「髪を結ってあげたいのですが、二人に聞いてください」との事で、二人に話をして、ニャンちゃんからさきに理会子ちゃんはかわいらしく三つあみに結っていきました。

じっと微笑みながらニャンちゃんを見ている姉、結い終わった髪を小さなカガミに写して見せてあげました。笑み一杯のニャンちゃん。こんな何でもない風景、、、、私の胸にこみ上げるものがありました。涙がこみ上げてきました。皆な笑顔で拍手、拍手、、、、、。

今度はお姉さんの番です。ニャンちゃんは理会子ちゃんの手さきと姉の髪の毛を食い入るように見ていました。

お姉さんの髪型が段々出来上がっていきます。ニャンちゃんの顔が、ニコニコし、とても嬉しそうな表情になり、顔は赤みさえ射したように感じました。

今までこんな笑顔を、われわれに見せてくれたことは一度もありませんでした。すばらしい笑顔に会えたことに感激しました。

理会子ちゃんが二人にプレゼントしたのは、小さな造花のついた四個の輪ゴム。買えば2~30円くらいだと思います。私にはとても嬉しさがこみあげてきました。又同時に、この子たちの心の内を判ってあげていなかったことに対し凄くシヨックを受けました。

私は65年近く生きてきました。しかし1人の子供の心さえ読み取ってあげることさえ出来なかった自分・・・・・。


〔心こそ大切なれ〕との哲人の言葉が、私の脳を突き刺しました。自分の押し付けではなく、何事においても相手の目線、心に立っていくことがいかに大切なことか、身に染みたヴェトナムツアーでした。

また、若い人に大いに学ぶことの多きことかと思い知らされた旅でもありました。啓太君、理会子ちゃんほんとうに有難う。
今回くらいハプニング連続の旅も珍しかったと思います。車は故障するは、あるホテルの予約は不完全、バスに荷物は十分に積めないは等。

[何も無い人生なんてない。何も無ければ人生つまらない]

そう思いながら、来年のツアーを楽しみにしている私です。
(筆者:左の写真の中央の男性)

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旅の感想(4)

感想文
北村 静子(上の写真2列右から2人目の方)
先日はお世話様でした。最後まで同行出来ず失礼致しました。

ベトナム戦争でアメリカ軍が使用した枯葉剤の被害が現在も尚続き発病(発生)していることは、
新聞、雑誌でよく知っては居りましたが現実の事として対面したのは初めてです。

「ベトナム戦争反対」 「アメリカは日本の基地からベトナムへ行くな!!」 「アメリカはベトナムから日本から出てゆけ!!」と ずーと活動して参りました。「一円玉募金」にも何年も取り組みベトナムへ「検診車」「レントゲン」「車イス」等など、送り続けても来ました。

もちろん、私個人やグループが中心ではありません。女性の全国組織として取り組んできたその中のひとりです。

ですが、宮尾さん達の活動も素晴らしいことと感動しました。
ただ事後処理的支援だけでなく原因を取り除く、戦争は絶対に起こしてはいけない、その為の行動を常に行っていく事が、とても大切だと思って居ります。

自らの足元でその行動して行く、その事が世界平和につながっていくと思います。
日本憲法・特に第九条は世界の多くの国から支持され、目標にされ「世界の宝」と評されている事も事実です。

この地球上から戦争が無くなる事を願ってペンを置きます。(07.9.17)Posted by Picasa

2007-10-11

旅の感想(3)

『 お礼!(兼感想) 』

枯れ葉剤被害者支援者のひとりに加えていただき、ありがとうございました。
貴重な経験をすることが出来、またいろいろと学ばせていただき感謝しています。
北村さんのご案内だから被害者に深く入る(タイビン省、ニンビン省まで)事が出来た
のかと思います。
それに友人の元海兵隊員アレンに配布資料で会えたこと嬉しく思います。
本当にありがとうございました。
                 角倉 洋子(筆者は上の写真:袋を渡している方)

『愛のベトナムさわやか支援隊に参加して』
石井 紘子
(写真上の左の方)

この世の中に、こんなにも奉仕の精神に富んだ人たちがいることにびっくりしました。
気候的にも決して快適ではないし、年齢的にもなかなか大変な方が多いのに、新参加の私たちに細やかな心遣いを10日間継続して変わりなくして頂き、ありがたいことでした。なかなかあそこまで面倒みきれないのではないでしょうか。いくら継続して行っているとはいえ、外国の地ですから。

ボランティアと観光が適当に配置されていてよかったです。
北村さんからエピソードを交えた話を随所でして頂きとてもよかったです。印象に残りました。
知識や意義がゼロの私たちだったので、旅の早い時期に、ボランティアの歴史と今回のツアーのレクチャー、自己紹介などがあるとよかったなと思いました。

北村さんの深い知識とベトナムの思いに圧倒されました。

ベトナムは貧乏で50年もタイムスリップしたような国でしたが、何だか人間の暮らしの根本にかなった生き方や考え方では、むしろベトナムの方が人間本来のあるべき姿であるような気がしました。
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2007-10-10

旅の感想(2)

『2007年度愛のベトナムさわやか支援隊ツアーに参加して』

中村 洋子

ようやく吹く風もさわやかな秋となりました。
このたびは、思いがけずベトナム枯れ葉剤被害者支援のツアーに参加させて頂き、ありがとうございました。いつかは行ってみたいと思っていたベトナムは、貧しいが健全で元気な国でした。

ずっと戦争をしてきたこの国の人々は、もつ婦人部隊の人たちとの交流などで、アメリカに勝利した不屈な精神を垣間見ました。

3代はつづくと言われる枯れ葉剤の影響を受けた障害者に身近で逢った時、やはり戦争はダメ、「平和を守り抜く事」を日本人として自覚しなければならないと強く感じました。

(筆者は一番左)
そして、枯れ葉剤の被害者を支援している日本人がいた事も感動しました。北村さん・三島の方々がやってきた長年の支援は、ベトナムの被害者をどんなにか元気づけてきたことでしょう。私もこれから枯れ葉剤被害者の裁判の支援をしていこうと思います。

何から何まで、皆様には本当にお世話になりました。

北村さんの思いが伝わってくるブログも拝見させて頂いております。

また、宮尾さん・大釜さんからたくさんの写真もありがとうございました。

2007・9・23
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2007-10-09

旅の感想(1)

今年のツアー参加者から、旅の感想が寄せられていますので、ご紹介します。
なお、川崎市の泉先生からいち早く頂戴しましたので、ブログの中に既に掲載させて頂いたので、ここではご紹介を省かせて頂きます。

「平和村や友好村での愛ちゃん」          
おき かずこ

 愛ちゃん得意の目隠しゲームは平和村と友好村で演じましたが、子どもたちはどこの国の子どもの感性も同じだな~と思いました。初めて見るお人形が口を開けてしゃべったり、目や首を動かしたりしての動きにとってもビックリしたらしく、終わってから子ども達のそばに寄って愛ちゃんは一人ひとりに挨拶をして回りました。


愛ちゃんが出す手に握手したり、子どもたちの頬にチュッをしたりしての挨拶はとても身近に感じたらしく親近感をもったようでした。

中には恥ずかしがって身を引いたりする子もおりましたが、どの子も握手の時には自ら手を出して握手を求めてきたり、中にはお人形がしゃべるのが不思議とみえて、愛ちゃんの口の中に手を何回も突っ込んだり、口を思い切り開けようとしたり、手を引っ張ったりして壊れてしまうのではと思う場面がシバシバありました。                            
車椅子に乗ったままのお子さんには愛ちゃんを抱かせてあげると、不自由な手でシッカリ抱いてとても嬉しそうにしておりました。

とにかくどの子どもたちも大変に興味を持ってくれた事は確かでした。事前に通訳の方には内容をお知らせしてあったので、スムースに内容も通じたようで大いに楽しんでくれたようです。

ほんのひと時でも喜びが共有できたことは愛ちゃん共々嬉しい限りです。ベトナムの子どもたちや世界の子どもたちに本当の平和が訪れるよう、愛ちゃんもガンバリたいと思います」

写真:上は平和村で。下は友好村で。Posted by Picasa

2007-09-21

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(4)

(ホテルまで来てくださったトアン先生と。2006年)
愛と結婚

 私がカオ・ヴァン・カインに2度目に会ったのは、1951年チエム・ホア(現ティエン・クアン省ヴィン・ロック)のヴィエト・バクの村でした。私が21歳。彼は12歳年上でした。私たちが初めて会ったのは、フエでした。実際、私が15歳で軍に入った時に、私の名前を記入したのは彼でした。

 彼が私を見初めた時は、軍の幹部でした。彼はあまりにも厳格で年がいっていると、私は感じていました。彼はいつも支配的だと私自身に言い聞かせていました。しかし、人はみな、彼に会いなさいと勧めてくれ、彼のことを褒め称えていました。

 やがて、彼から手紙が来ました。「あなたは進歩的な女性です。あなたは家を飛び出て革命に参加したのですね。愛情が私たちの間に道を見つけると信じます。私たちは同じ根っこの出です。一緒に幸せになることができます。あなたにお会いしたいです」

 私たちは、お互いに知り合うために病院の急患室で会いました。彼はいかめしく、また物静かでした。彼が話しているときは、彼は私を対等の人間と考えてくれているのを知りました。彼は非常に率直でした。そして、私は彼を信頼しました。

 2回目に会う頃には、私はすでに婚約にイエスを言うことを決めていました。彼は、戦線に戻っていきました。私たちはいつ再び会えるかわかりませんでした。私には、彼を愛する気持ちがとても強くなっていきました。

 1954年には、私は、激戦地ディエン・ビエン・フーに行き、戦場の地下を掘った塹壕の中の野戦病院の手術室で、看護婦として働きました。私の婚約者も、第308旅団司令官としてその戦場にいました。

 私たちは、ほとんど薬も底をついて、囲いをした場所で手術をしなくてはなりませんでした。外科医の手元がはっきりと見えるように、私たちは自転車で発電をしました。私たちに十分な麻酔薬がない時は、負傷兵たちは歌を歌って痛みを忘れようとしました。手術中に、蛭が足をはい上がったりした時も何回かありました。しかし、私たちの手を清潔に保つために、追い払うこともできませんでした。

 55昼夜に及ぶディエン・ビエン・フー作戦は、1954年5月7日に終わりました。その10日後、私はカインと結婚しました。母親の承諾もないままで私は躊躇しました。しかし、将校たちは、「戦争は続くので、何が起きるか誰もわからない。待っている時間はないよ」と言って、応援してくれました。私たちは、ドゥ・カストリ将軍が降伏した壕の中のまさにディエン・ビエン・フーのど真ん中で、結婚式を挙げました。ワインと歌と、フランス軍機が落としていった飴で祝ったのです。(了)
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トアン先生は、今年71歳にして、今も枯れ葉剤被害者の先頭グループにたって、正義を求める活動をされています。Posted by Picasa

2007-09-20

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(3)

この写真は2006年熊本県で行われた熊本学園大学水俣学研究センター主催の国際会議に出席されてトアン先生がご提供くださったものです)
 2回目の逮捕の後、母は、私をサイゴンのマリー・キュリー高校に送りました。それは、フランス人とベトナム人の高級官吏の子弟のための高校でした。フエの友人から私を引き離せば、私が革命活動に参加しないと、母は考えたのでした。それは1948年で、18歳の時でした。
私は、白い円錐形の帽子に白いアオザイを着て、サイゴンに飛行機で行きました。まるで、立派な淑女のようでした。しかしながら、到着するやいなや、ベトミンの地下活動の連絡先を探そうと考え始めました。

 数ヶ月後、私は、フエで会ったことのある一人の学生に会いました。彼は革命側でした。私が彼に、自分は革命側に立っていると告げると、フエとサイゴンの学生運動の組織作りで力を貸してほしいと彼は言いました。
私の行動が、母に漏れ伝わりました。フエの革命幹部が、もし母が私を引き続きサイゴンに滞在させれば、私は早晩逮捕されると言い、母は私にフエにもどるように命じたのです。

 私は、母と1週間一緒にいました。それから、永久に家を出て、友人と教師と一緒に革命軍に参加したのでした。私たちは、ヴィエット・バクの抵抗地区に向かって北へ歩きました。これが、戦争という真の苦痛に遭遇した初めてのことです。
私のわがままな人生は、抵抗戦士の人生になりました。私たちは、竹の子とご飯以外に食べるものはありませんでした。そして足は膨れあがりました。しかし、私たちには誇りがあり、幸せでした。
野獣の襲撃をまもるために、テントの中で友人と一緒になって安心して眠りました。私は、虎に襲われた兵士の遺体をこの目で目撃しました。

 私は愛国者でした。しかし、共産主義者になりたいかどうかは確信がありませんでした。共産党の人が、私に聞きました。「あなたはほんとうにフランスと戦いたいのですか?ヴィエト・バクで、ほんとうにホー叔父さんに会いたいのですか?それなら、党員になる必要があります」 なぜなら、父は高級官吏でしたから。そして、私には皇室の血が流れています。最初は共産主義者には距離を置きました。しかし、党員になったからには、信義の誓いを守りました。私は、善良な市民の大切さを教えられていたからでした。(つづく)
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