最終回 感動とショック 北村 元
《感動》長い人生の中で、生活に彩りを与えるのは、なんといっても感動をおいて他にないだろう。感動は、天座を彩る星にも値する。
ベトナムで数知れず感動してきた私のような者でも、今年の支援ツアーで受けた感動はまた、ひと味違ったものだった。それがまた、来年も自ら求めてベトナムに行ってしまう不思議な心の作用なのである。
老化防止によく言われる「かきくけこ人生」なるものがある。「か」感動する。「き」興味を持つ。「く」工夫する。「け」健康。心身ともの健康である。「こ」恋をする。この中でも、感動は大事な要素である。しかし、感動することはそれほど簡単ではない。
「がぎぐげご人生」というのもある。「頑固」「欺瞞」「愚痴」下品」「傲慢」これは、世の中のためにならない。
私たちの支援ツアーでは、多くの家庭を在宅訪問するが、「ここは、こういうご苦労のあるお宅です。ご主人は、南部戦線でこういう戦いをされた方です、はい感動してください」と呼び掛けたところで、人はそう簡単には感動するものではない。そこに対話がなければならないし、相手からの反応がなくてはならない。あるいは、そこに、自分の目でみた相手の表情や現実の姿がなくてはならないと思う。
ここ10年近く、日本では、特に「無感動・無関心」の人が増えてきたという指摘がされてきた。今の日本で、感動することはそれほど簡単ことではない。物質的に満ち足りたことが、心の感性を失う結果になってしまった。少なくとも、「感動」するには、多少なりとも心の余裕がなくてはならない。余裕のない「心」は、はっと感動する入り口に立っても、そこで終わってその次を断ち切ってしまう。「き」の興味に繋がらないのである。
ベトナム支援ツアーの場合、感動の入り口はいっぱいある。生まれた子が全員障害をもち、よくご夫婦で育ててきたと、ご夫婦に感動する。耳は難聴だけど、そういう子どもに良く礼儀をしつけたと親の偉大さに感動する。体の弱くなった親に、この若さでよく家事をお手伝いしていると子どもの姿に感動する、私たちが差し上げた車椅子に乗って、本当に暫く振りで外出した表情を見せる元兵士に感動したとか、年を取っても親は親、年を取っても子はやはり子、日本で薄くなった親子の絆に感動する・・などなど、私たちが支援先のどこへ行っても見られる風景である。
話を聞けば聞くほど、その感動は「深まって」いく。この目に見えない「感動」の気持ちが、自分の日常生活に少しずつ力になってくるように思う。
過酷な条件の中で、必死に耐えている人たちがいるのだから、自分も毎日の生活に負けないようにしよう。来年は、ベトナムでもっと笑顔の数を増やしてあげよう。あの子を大学に進ませてあげよう。あの子に栄養をつけさせてあげよう・・などとなっていく。いやそうなっていくのが普通である。
「感動」は、「興味」につなげる心の中の余裕を徐々に広げていく役目があると確信する。
《ショック》ベトナム支援ツアーでショックを受ける人が毎年いる。今回もはっきりと表に出た人が3人いた。
一人は、伊藤啓太君である。タイビン省のグエン・ヴァン・ヒューさん宅に着いた時だった。お嬢さんのグエン・ティ・クエンさんが、自室で大小を排泄したままで、異常な臭気を、伊藤君が感じたからであった。ここが生活の場所なのか?と。(だからこそ、私たちは、井戸水による水道施設を贈呈したのだが)
二人目は、上崎理会子ちゃんだった。彼女は、多くを語らないが、ベトナム滞在中、食が心配するほど細かった。それは、自分の年齢に近い人たちが、このような生活を送っているのを初めてみて、やはり心に衝撃を受けて箸が進まなかったのだ。(第7回 旅の感想参照)
三人目は、主婦の河口ふみさんだった。快活で、元気に話をされる方だった。何か質問はありませんか?と皆に聞くと、彼女は手を挙げた。それまで、元気に聞こえていた声が、その瞬間から出なくなってしまった。
これは、ロンドン大学のシンガー博士が発見した、脳の中の「同情ニューロン」が働いたからだと考える。他人が苦しんでいるのをみて「痛いだろうなあ」と感じる痛覚を生かす神経である。
これは、この3人が幸せであることの裏返しだと、私は思う。自分との比較の中で、どこかに想像を絶するものがあって、さぞ大変に違いないと感じる神経が正常に働いたことを示していると思う。
ユニセフの発表によれば、孤独を感じると答えた日本の15歳の割合は、29.8%で、先進国中、最も高かった。その日本の二人の高校生が積極的にベトナム支援ツーに参加して痛みを感じたことは素晴らしいことだと思う。
人に物をほどこせば我が身のたすけとなる、譬えば人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし・・・の精神を大いに生かしていきたい。
少ない支援ではあるが、少ない支援からより大きな結果を生み出すことを、私たちは恥とはしない。ベトナムに「こ」恋しているからだ。
人が歩かないと、そこに道は出来ない。私たちは、人を集めて、物を贈呈することをよしとしない。一軒一軒足を運ぶ。少しでも「生の声」を聞き、対話をするために。
来年、あなたも参加しませんか?
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