2007-07-28

會安(ホイアン)を語る(4)

ホイアンの没落

最終回は、ホイアンの没落についてだ。
16世紀の後半に登場したホアインが、約200年の全盛期を経て没落した原因は、いろいろ挙げることが出来る。

17世紀の末に貿易活動が萎縮したことは、表面的には、まず、北部のチャン(陳)と南部のグエン(阮)の間の武力対決が避けられ、平和が長期に継続されたからだ。双方の支配者は、これ以上外国商人の助けを必要としなくなったし、誘致をする努力も怠ったからである。

本質的な理由をあげるなら、ベトナム市場の小型性にある。大多数の農民が貧困に喘いでいたし、また生活が質素であったために外国商品に対する欲求がほとんどみられなかったのだ。

次に、ホイアンの衰退に与えた決定打は、1773年に起きたタイソン(西山)三兄弟の反乱だった。

ホアインは、徹底的に破壊された。その後10数年を過ぎてホアインは再建されたが、国際貿易港として享受した栄華は戻らなかった。

ホアインに定着した多くの中国人は、メコンデルタで商売をしようと、ザ・ディン(嘉定)、ビエンホア(辺和)、ミトー(美湫)などに移住してしまった。


ホイアンの衰退に拍車をかけた地理的原因は、トゥボン(Thu Bon)川の上流から運ばれてくる堆積物の急激な増加で川の水深が浅くなり、大型船の入港が不可能になったからだった。

トゥボン川は、国際港へ薬を運ぶ役目も果たしたが、同時に病気も運んできてしまった。

およそ2000年前は、現在の海水面は、現在より1.5メートル02メートル高かったという。

サー・フイン文化とチャムパ王国時代に栄えた港の位置は、現在のホイアンより10キロも内陸部に入っていたというのだ。また、17世紀初頭のグエン・フック・グエンが駐屯した地域の鎮営も、ホイアンから約10キロ下がったタイン・チエム(Thanh Chiem)だった。


ホアインが国際港として発展出来た最大の要因は、クアンナム地域の内陸水上交通の頂点に位置するという立地条件を備えていたからだった。

ホアインは、205キロのトゥボン川とダナン方向へながれるココ川海岸線沿いにタム・キーまで続く70キロのチュオン・ザン(Truong Giang)など3つの川の合流地である。

外国貿易船は、ダナンと繋がったココ川(別名デ・ヴォン川=帝網川)を上ってホイアンの国際貿易港に入った。             
                        
 
名古屋市・情妙寺(じょうみょうじ)所蔵の絵巻「茶屋新六交趾貿易渡海図(こうしぼうえきとかいず)」には、日本船がダナン港から三隻の漁船に曳航されてホアインに入港する光景が描かれている。

地形的な変化で、ココ川の長さは短くなり、現在は22.4キロしか残っていなく、ダナンとの内陸水路は残っている。

 トゥボン川の河口を撮影した写真では、1964年と1985年の20年の差は、河口が南に数百メートル移動しているのが分かった。

17世紀以後に海と内陸の両方で、自然の変化、トゥボン川河口の位置の移動、潟湖と砂州の発達、トゥボン川の水が運んでくる堆積物の急増になどによって、ホイアンの水深は極めて浅くなってしまった。

結局19世紀に至って、ホイアンの港としての役目は縮小し、代わりに水深のある近隣のダナン港が脚光を浴びるようになった。

ホアイン港の栄華の時代は消えたが、ホイアン港が港町として大きく発展したら、今日のような古風なたたずまいのままではなかったろう。
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