2007-07-24

ホー叔父さんの家

ホー叔父さんの家を訪問したことがありますか?

ハノイにある大統領官邸構内には、バク・ホー(ホー叔父さん)にゆかりのあるものが多くあります。

何と言っても一番大きな建物は4階建ての現大統領官邸です。ホアン・ヴァン・トゥ通りを黄色い建物に向かってまっすぐ進む。その突き当たりの黄色い建物が、大統領官邸です。突き当たりは右折のみ可で、フン・ヴオン通りに曲がるあたりが、一番近くに大統領官邸がみえます
そもそもこの黄色い建物は、1900年から1906年にかけて、建設されたもので、フランス植民地時代のインドシナ総督の建物でした。
1954年にフランスが破れて、つまり抗仏戦争でベトナムが勝って平和が回復されてから、ベトナム大統領官邸になったものです。インドシナ総督は、この建物上の方で、立派な家具付きの部屋に住んでいました。
しかし、ここが大統領官邸になっても、ホー叔父さんはここに住みませんでした。その代わり、大統領官邸の裏にある庭の片隅の高床式の小さい木造の家に住んだのです。
ホー叔父さんの家にまつわる話です。かつて、1958年3月1日、ヴィエト・バック(ベトナム北部)の少数民族の代表が大統領官邸に話し合いのために招待された時に、ホー叔父さんは抵抗運動の地下活動期間中の思い出をしばしば話の引き合いに出したそうです。
余談ですが、共産党が地下活動から公然と表の活動に転換したのは、北ベトナムの中国国境のヴィエト・バック(Viet Bac)で開かれた第2回インドシナ共産党大会(註1)でした。それは、1951年2月の開催でした。ここでの反植民地運動の歴史は、1929年に遡ります。
ホーチミンは、軽い話題に触れているときに、タイ・グエン、トゥエン・クアン、バッカンの山岳地帯やジャングル地帯で自分が住んでいた時の高床式の家やキャンプについて話しました。
「こういう会合をしていると、山岳地帯での同志や木の上に立てた涼しい木造の家を思い出しましたよ」と言ったという。その時、ベトナム革命の故郷、ヴィエト・バック地方の忘れられない思い出として、木の上に立てたような木造の家を建てようという考えが浮かんだそうです。
ホー叔父さんの質素な生活は、家の内装、外装にはっきりと現れています。家の正面は南東方向に向き、魚のいる池に面しています。家の周りには花や木が植わっています。家の屋根は、瓦屋根の入母屋屋根で、人は、古い寺の屋根のようだと言います。天井にも木を使っていますので、家は夏涼しく、冬暖かいのです。縁側には竹のすだれを取り付けてあるので、常に陰になります。

 ホー叔父さんが仕事をしていた部屋は、典型的な東部様式だ。その部屋で、ベトナム人や外国人の賓客を迎えました。居間には、簡素な木製のテーブルと籐の椅子です。ホー叔父さんは、多くのベトナム家庭にみられるような簡単な、というよりも粗末なベッドを使用していました。

自然の中に家と造園と池が見事に調和しています。ホーチミンは、環境を守り、保全に務めたと言われます。庭の木の中には、ホー叔父さんは、毎日手入れをしていたというココナッツの木がまだあります。ジャスミンなどもドアの外で成長し、いまでも季節に花を咲かせています。南部の人からホー叔父さんに贈られたという緑のミルクトゥリーは特筆すべきかも知れません。このミルクの木は成長が早く、こんもりと茂った枝と葉が、高床式のホー叔父さんの家の屋根に被さるように大きな木陰を作り出しています。

 実際、ヴィエト・バックのジャングルや山岳地帯、チュオンソン山脈のこちら側からも、向こう側からも、メコンデルタから、高原や海岸地方から、カマウの南端から、花の村のゴック・ハーからやってきた人々は、この大統領官邸の敷地の中にあるホー叔父さんの家をみると、自分の家に帰ってきたようだとよく言う。

ホー叔父さんの家の前の池の上にかかる橋の上に立って、喜びを感じない人はいないと人々は言います。魚の群をみて両手でポンとを叩くと魚が寄ってくる姿をみて喜ばない人はいない、と。それは、ホー叔父さんが魚に餌をやるときの仕草だったといいます。

ホー叔父さんの家を取り巻く小道には、生命が溢れているように見える。まるで、愛されたホー叔父さんの歩んできた道を、大統領官邸を訪れた人たちに告げたがっているようだとある人は言いました。時代が時代であったといっても、ホー叔父さんの質素な家には、外国人観光客も驚くのです。(おわり)
第1次インドシナ戦争の調印から、今月21日で53年が経過しました。1954年の7月21日、ホーチミン大統領は、第1次インドシナ戦争の終結を決めたジュネーブ協定調印後に声明を発表し、国の統一のために、ベトナム全国民に団結と努力を呼び掛けました。ベトナム軍は停戦を宣言し、フランスによる植民地化とアメリカ介入に反対した9年にのぼった戦争に終わりを告げたのですが・・・。
【註1】この党大会で、インドシナ3国にそれぞれ別の共産党の設立が決まり、ベトナムでは「ベトナム労働党」(Dang Lao Dong Viet Nam)となった。ベトナム共産党と命名しなかった理由は、南ベトナムに共産党を嫌う者が多く、民族独立闘争に影響を及ぼすことを懸念したからではないか。この名を「ベトナム共産党」(Dang Cong san Viet Nam)に変えたのはベトナム戦争が終わり、南北国家の統一が実現した1976年12月の第4回党大会であった。
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