地理学者の研究の結果、ホアンキエム湖はかつて紅河の一部であったと結論づけられた。紅河が今日のような流れに変わった時に残されたものだという。
紅河の流れの変化は、千年前に起きたというのだが、ホアンキエムと名付けられたのは、わずか500年前だ。その昔、この湖の名前は、“ルック・トゥイ”(青い水)だった。それは水の色が四季を通じて変わらなかったからだ。
15世紀頃にはこの湖に現在の名前が付けられたが、少し歴史をひも解こう。
1406年、明が10万の兵で進行。首都に入る。1413年、明軍によって陳朝滅ぶ。20年間明に支配される。
レ・ロイは、もとベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であったが、ラム・ソンに住んでいた時、彼は天から剣を受け取ったという。
彼はそれを侵略してくる明との20年の戦いのために、常にその剣を肌身離さず持っていた。
明の永楽帝によるべトナム侵攻・支配に抵抗。1416、のち重臣となるグエン・チャイ(阮薦)らとともに、ラムソンで挙兵に及ぶ(藍山起義)。
1418年にはビンディン・ウォン(平定王)と称する。以後、10年に及ぶ明への抵抗運動を続け、1427年、明をベトナムから撤退させることに成功。1428年、正式に明から独立し、ドンドー(東都、現ハノイ)で帝位に就き、黎(レ)朝を創始、国号を「大越」とした。ベトナムの後黎朝(Nhà Hu Lê)大越国の初代皇帝(在位 1428-1433年)。レ・タイ・ト(Lê Thái To、黎太祖)の廟号でも知られる。諡号は高皇帝。
宰相グエン・チャイらの補佐のもと、国家制度の整備を行い、均田制・科挙制なども導入、諸法典の整備に取り組んだ。また、明との関係修復を図ったものの、名目上陳氏の末裔として担いだ陳暠を殺害したことや、「反乱軍の首魁」を冊封することへ抵抗感などからの反対論が明宮廷で大勢を占めたため、「権署安南国事」への任命に留まり、在世中は安南国王に封ぜられることはなかった。1433年に死去。子の黎元龍が継ぎ太宗となる。
これは史実であるが、そこには、こういう伝説がある。
彼が敵を破った後、タン・ロン城に戻った。ある日、ルック・トゥイ湖をボートで遊覧していると、突然カメが水面に現れてきた。王は、とっさに剣をとって、カメに向けた。
しかし、カメはその剣を口にくわえてひったくると、水面下に潜った。レ・ロイ王は、湖の水を抜いたが、剣は見つからなかった。
彼は、これは神が明の侵略者と戦うために下さったのだ。だから、敵は負けたのだ。神がそれを持っていったのだと考えた。
そこで、湖を還剣湖名付けた。人々はもっと簡単に剣湖(ホ・グオム)と呼ぶ。
そして、その伝説によると、湖の水抜きをしたときに、湖はヒュー・ヴオンとタ・ヴオンの二つに分かれたという。
後に、この湖は、海軍の訓練場として使われた。そこで、この湖は、トゥイ・クアン(海軍)とも呼ばれている。
19世紀の終わりには、ヒュー・ヴオンは少しずつ水が増えてきたが、20世紀の初めには消えてしまい、今のファン・チュウ・チン通り、ファン・フイ・チュー通りになった。 (つづく)
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