2007-07-02

ホイアンを語る(2)

 ホイアン研究家チャン・キン・ホア(Tran Kin Hoa)氏は、グエン朝の第2代領主であるグエン・フック・グエン(Nguyen Phuc Nguyen阮福源)の時代に、ホアインが国際貿易港として誕生したと主張する。その根拠は、グエン・フック・グエンが、1602年から1613年まで、クアンナム地域を統治する鎮守である時に、ホアインを港として開発し、外国商人を招致したといいう。
1618年から1621年まで、ホアインとその周辺に滞在したイタリア人宣教師クリストフォロ・ボリ(Christphoro Borri)は、1631年に、『Cochin-China』を出版した。この本によると、“コーチン・チャイナを建てることを承諾したのは、先王だった”という記述があるという。ここで言う先王とは、グエン・ホアンを指す。つまり、グエン・フック・グエンの時にホイアンが誕生したという。

 一方で、ホイアンの登場は、16世紀後半に遡るという記録もある。1553年に編纂された『オー・チャウ・カン・ルック(O Chau Can Luc』鳥州近録)では、クアンナム地方の商業活動を記述しているがホイアンという地名は出てこない。西洋の人たちは、ホイアンを”Faifo”と表記した。ベトナムを初めて訪問したヨーロッパ人は、ポルトガル人のアントニオ・デ・ファリア(Antonio de Faria)が、1585年にダナンを訪問して、“Faifo”という記録を残したという。その後、ポルトガルの商船は、アントニオ・デ・ファリアの案内で、ホイアンを定期的に訪れた。
 では、西洋人は、どうして”Faifo”と表記したか。
4つの学説がある。
 一番知られた説は、ベトナム語の「Hai Pho」(2本の通り、という意)を、一番最初に訪問したポルトガル商人たちが「Faifo」と発音して、記録した体、と言う説。クリストフォ・ボリの『Cochin-China』に、「この都市を“Faifo”と呼ぶ。こ大きな都市を人々は二つの通りと呼ぶが、一つは中国人の通り、もう一つは日本人町の通りという記録を根拠にしている。だが、問題は、当時のベトナムや中国の書物では、この「Hai Pho」という地名も言葉も探すことは出来ないという。
2番目の学説は、台湾の著名なベトナム研究家チェン・チン・ホ(陳荊和)の主張だ。”Faifo”は、「Hoi An Pho(会安浦)」に由来するというのだ。この主張の根拠は、当時に作成されたベトナムと中国の歴史や地理に関する記録物に「Hoi An Pho(会安浦)」と言及されているという。
 3番目の学説は、チャオ・フィ・カー(Chau Phi Ca)の主張で、“Faifo”が、「Hoa Pho」に由来したと主張する。「Hoa Pho(華浦)」は、「中国人たちの港湾都市」という意味だ。
4番目の学説は、ベトナム人のファン・コアン(Phan Khoang)氏の主張だ。彼は、トゥボン河は、過去に「ホアイ(Hoai)」河と呼ばれていて、そのために「Hoi An」の昔の名前は、「Haoi Pho」だっとしている。「Haoi Pho(淮浦)」という地名もベトナムと中国の歴史書や地理の書物に存在する。中国人たちは、発音の習慣上、「Hoai Pho」は簡単に「Phai Pho」と変えてしまうことが出来るので、それが「Phai Pho」が「Faifo」になった理由だとしている。
今後、「Faifo」の由来に対する詳しい研究が進められて、正確な学説が確立することを期待したい。
 西洋の人たちは、「ホイアン」をいろいろに表現している。「Faifo」(宣教師Louis-Gasperの1621年と1628年の書簡と報告書に)。「Haifo」(1651年に発行したAlexandre de Rhodes神父の地図)。「Faifoo」(1666年に製作されたPieter Gooの地図に)。「Faiso」(1717年に製作されたRobert の地図に)。「Fao Fo」(1903年に製作されたPavieの地図に)。「Faifoo」(1929年に製作されたCaillardの地図に)。と言った具合だ。 

 東洋では、16世紀から、日本、中国など東北アジアだけでなく、フィリピン、インドネシア、マラッカ、タイ、インドなど南アジアの商人たちが交易活動を目的に、ホイアンを訪問している。

 西洋では、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどから来た商人たちがホイアンで旺盛な交易活動を展開した。

 ホイアン周辺で産出された品物は、金、桂皮、沈香、キナム(奇南=使用している香木だが、現在では「一木の塊りを安定した質で揃えることが困難」で、チップ状(昔からの呼び方で言うと「爪・笹の類」)のものを集めている。現地の熟練者は、永年に亘る経験から得た知識に基づいて、これらを何段階かのランクに分類している。その最上級が「奇南(キナン、キナム)」というもので、この言葉は、漢字による何種類かの表記があるものの、華僑系の業者などの間で「伽羅」を意味する表現の一つ。そして「天の海」は、95%がこの「奇南」で出来ている)、白檀香、胡椒、燕窩、生糸、象牙、犀角などだった。当時の取り引き品目の中には、ホアイン周辺で生産されない香料、鹿の皮、絹などがあった。これは、ホイアンが仲介貿易の役も担っていたことを物語る。

 ホイアンに初めて居留地を作り、組織的に活動したのは、日本人だった。ホイアンに日本人が登場したのは、およそ1560年頃と推定される。13世紀から、東アジアでは、「倭寇」の出没で、朝鮮半島や中国の王朝は問題を抱えていた。

 14世紀に、朝鮮と明は、「倭寇」問題を理由に、日本との私的な貿易を厳禁して、一部指定した港を通じて朝貢貿易だけを制限的に認可した。特に、明は日本商船の入港を徹底的に禁止する政策を1371年から施行した。

 成祖の永楽帝(明帝国の初期、自ら兵を率いてのモンゴリア遠征、南海への鄭和派遣、日本との勘合貿易など対外関係を中心に華々しい功績を残した成祖永楽帝)が、役人鄭和を、1405年から1433年まで28年間に7回の南海遠征を断行させたが、明の政策は1567年まで継続した。

 従って、日本は皇室や貴族が消費する中国産の絹や陶磁器を求めにくくなった。さらに、1592年(壬辰・文禄元年)に起こした文禄の役(韓国では壬辰倭乱)。1592年4月、小西行長を主将とする第一軍、加藤清正の第二軍が相次いで海を渡った。宗義智が先陣に立てられたのは秀吉の命令だった。秀吉の意図は明国を征することで、朝鮮に対し「貴国先駆して嚮導(きょうどう)せよ」というのだから、これはもう誇大妄想に陥った権力者の病気である)が失敗に終わると、日本が必要とする物品を朝鮮と明から直接調達することが出来なくなった。

 このような事情の中で、日本は、ベトナムのホイアンを媒介にした交易活動を通じて必要とする中国産の商品を購入することが出来た。九州では、1330年代に遡るベトナム産の陶磁器の破片が出土した。

 14世紀後半から15世紀中盤にかけてのおよそ100年間に、明、朝鮮、日本と東南アジアの間に活発な中継ぎ貿易の役を担ったのは、琉球人だった。日本はm1543年、ポルトガル商人の到来をきっかけに、東南アジア、南アジアに進出したポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどヨーロッパの商人たちと「南蛮貿易」を始めた。

 この「南蛮貿易」の経験が、後の「朱印船」制度の発展の重要な土台になった。朱印船の積載量は小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、大型船は100トン~200トン規模で、中には因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があった。

 具体的な朱印船の姿は、寛永11年(1634)に長崎と京都の清水寺に奉納された絵馬からうかがうことが出来る。なかでも、長崎の末次(すえつぐ)船の絵馬は朱印船の姿をリアルに描いていて、最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼(ろう)を日本独特の屋倉(やぐら)形式とするなど、中和洋の技術を折衷したジャンクであったことを今に伝えている。

南蛮貿易が始まるとヨーロッパからガレオン船と呼ばれる竜骨を使った現在我々が普通に見る船底が尖った波の揺れに強い船が入港されるようになった。ガレオン船の影響を受け、朱印船貿易をする船は次第に竜骨を使ったヨーロッパ方式の船に変わっていった。しかしながら江戸時代になると、鎖国を強いた江戸幕府は竜骨を使った船の製造を禁止して元の和船しか日本に存在しなくなった。(註:ガレオン船は近世に用いられたスペイン、ポルトガルの帆船で、商船や軍艦として用いられた。ことに大航海時代に新大陸発見や世界一周などで用いられたりしたため、優秀な船として西欧諸国の範となった。ガレオンはキャラックの発展型で、より大型され、武装と積載量を増強した軍用艦。コロンブスのサンタ・マリア号などでよく知られているカラック船は、16世紀によりスマートな形の船となり、ガレオン船と呼ばれるようになった。衝角の名残であるビークヘッドが船首から飛び出し、船縁のそり返りのカーブが大きいのが特徴。マストの数は3~4本で、その構成はキャラックと同じように横帆と縦帆が組み合わせられた。船尾には、敵船への乗り込みや小銃の狙撃に便利なように、背の高い船尾楼を備えていることや、船尾形状が切り落としたように四角くなっているのが外見上の大きな特徴。17世紀頃の全長約55メートルの大型ガレオン船には、約40門の大砲が甲板の両側に並べられており、約400名の乗組員のうち、ほぼ1割にあたる40名前後が砲撃手として戦闘に参加する。)

 グエン・ホアンの後継者であるグエン・フック・グエンは、1585年クア・ヴィエ(Cua Vie)港で、日本の海賊船をヨーロッパの船舶と誤認して、攻撃して2隻を撃沈した。その後、1599年に、日本の海賊船は、トゥアン・アン(Thuan An)港で座礁し、グエン・ホアンの将軍に拿捕された。グエン・ホアンは、1601年に徳川家康に書簡を送り、日本商人の船舶を攻撃したことを陳謝し、両国の和親の気持ちを伝えた。徳川家康が返書を送ったことをきっかけに、ベトナムと日本の間に「朱印船貿易」が活発に展開された。

「朱印船」とは、渡航証明書、つまり、「朱印状」の発給を受けた船舶をいう。「朱印状」が有効になるには、「朱印状」を発行した政府とそれを認める政府間の協定や約束が締結されていなければならない。

 商人たちは、室町時代の倭寇と豊臣秀吉の朝鮮侵略のため、東シナ海貿易のル-トを失ったため、貿易船を南に向けていた。朱印船とは「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ちアジア諸国と交易した船を指すが、それまで黙認されていた私貿易を統制するものだった。それを幕府が統制・独占して、渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許可した幕府公認貿易のことだ。派船数は、1604年~1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻に及んだ。のべ渡航者は約10万人で、日本における「大航海時代」だった。渡航先は、高砂(台湾)、トンキン、シャム(タイ)、カンボジア、呂宗(ルソン)などだった。

 
 この制度は、1592年(文禄元)豊臣秀吉によって開始されたとされているが、近年の研究では徳川家康という説が有力だ。朱印船貿易に従事したのは西国大名や幕吏、京都・大坂・堺・長崎などの豪商で、日本に滞在していて中国人やヨーロッパ人も含まれる。しかし、江戸幕府は年々制限を強めたため、次第に大名は少なくなり、角倉・茶屋(京都)、末吉(大坂)、末次・荒木(長崎)といった有力商人に限られた。しかし、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されて終わりを告げた。

 徳川幕府の「朱印船」制度が始まった1601年から、この制度が廃止された1635年まで、およそ355隻の船舶が南方諸国に渡った。記録によると、1604年以前を除いて、1604年から1635年まで合計124隻の「朱印船」がベトナムの港に碇を降ろした。そのうち、トンキン行きが23隻。コーチン・チャイナ行きが87隻だった。

 日本からの出発は、通常3月~5月の間で、ベトナムまでの航海には40日間くらいかかった。また、日本への出港はそれから数ヶ月後だったので、日本商人はホイアンに居留地が必要となった。また、商業活動のために、現地女性と結婚する場合もあったと想像される。徳川幕府は、国内でのキリスト教の伝播と風紀の乱れが発生に加えて、経済力をもった大名の登場を憂慮して、1638年に鎖国政策を断行した。(つづく)
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