2006-04-25

音楽療法士としてベトナムへ


新谷文子の”さわやかいっぱい音楽療法”
2005年10月9日、成田からベトナムに向かいました。縁あって、数年前から私は、“愛のベトナムさわやか支援隊”(三島市)のツアーに参加しています。

しかし、今回の私の「愛の都市訪問」は、いつもと違っていました。私は、昨年の1月に、静岡新聞社・静岡放送 社会福祉事業「愛の都市訪問」で、立派な楽器などの受贈の栄に浴したからです。その楽器をもって、昨年10月初めて「愛の都市訪問」を果たしました。訪問先は、収穫期を迎えたハノイ市とタインホア省でした。枯れ葉剤の被害者のために・・子どもたちのために音楽療法を施したかったからです。そのためのベトナム旅でした。
 
10月10日(2005年)、私は、自称30代。本当はXX代。元気いっぱいハノイ・友好村の講堂に立ちました(写真上)。多くの子どもたちに混じって、壮年もかなり参加しました。その数、合わせて100人以上。 いや、負けてはいられません。

この友好村は、ベトナム戦争でアメリカが使った強力な枯れ葉剤の被害を受けた人たちが収容されている施設です。ここにいる壮年は、元兵士であり、子どもたちはその第2世代です。身体障害児もいれば、精神障害の子どもたちもいます。早速、楽器で音楽療法を始めました。最初は、椅子に座ったまま手を動かせる運動。後半は、椅子を片づけて、教室を広場にしました。普段あまり動かさない体を一所懸命動かしてくれる障害児。それも楽しそうに、参加してくれていました。

音楽はすごい力です。1曲終わる毎に、子どもたちの顔が輝いていきます。1曲始まる毎に、体が自然に動いていきました。私の疲れはこれで吹っ飛びました。1曲聞くたびに、元兵士の顔が子どもの顔になっていく。音楽には、年齢の垣根を壊す大きな力が働いていきます。

ハンドドラムをもった障害の子、シェーカーを鳴らす精神障害の男の子と女の子たち。タンバリンを振る元兵士。スズを鳴らす組、カスタネットを初めて手に付けてもらう子。トライアングルを離さない男の子。たっぷり1時間ちょっと。へとへとになって座り込む子は誰もいません。動けば動くほど元気になり、力が出てきます。そのうち、ある障害の子が、車いすに乗ったまま輪の外でみていた子を、輪の中まで押してきました。


音楽療法を始めて1時間ちょっと。誰も、止めようとは言いません。誰も、へこたれません。参加してくれた子どもたちの健康を考えて、「はい、これで終わりです」と言ったのは、私でした。友好村の養護教諭が飛んできて下さいました。「子どもたちのこんな顔を見たことはありません」と。「いやー、楽しいね」と、笑顔でぐしゃぐしゃになった元兵士。戦場ではついぞ見せなかった顔でしょう。頂いた楽器の、初の海外旅行の一場面です。

昼食を挟んで、午後は、平和村に向かいました。
われわれ支援隊が一番長くおつきあいしている収容施設です。2年ほど訪問しないうちに、馴染みになった児童・少女たちは、ほとんどいなくなっていました。子どもたちは、講堂で1時間も待っていてくれた、と聞きました。友好村より狭い講堂で、人数は50人ほど。

ここには、友好村と違って旧軍人はいません。全員が子どもたちで、全寮制のこの施設に泊まり込みます。。粗末なベッドに粗末なゴザしかありません。寒い冬には、ほんとうに気の毒です。中には、デイーサービスで子どもを連れてきた通いの親もいました。発育が止まってしまった20歳近い女性。顔に黒い斑点ができた色素異常の少女。その子が、上手な歌を歌ってくれました。

午後3時頃から、音楽療法を開始しました。突然、一番前で母親に抱かれていた障害の乳児が、音楽に合わせて足を動かし始め、母親が脇をもってぶら下げると、床にジャンプするように音楽に反応しました。母親のうれしそうな顔が忘れられません。最後は、太鼓を使って、前進したり、戻ったり・・の運動をしました。男の先生一人、女性の先生二人の養護教諭三人が参加してくれました。子どもたちと同じくらい楽しんでくれた養護教諭。全員参加で、まるでディスコのようでした。

平和村は、1990年にドイツのNGO団体が作った施設で、現在までにベトナム全国に10か村あります。しかし、ハノイが一番古いです。音楽療法後に、グエン・ティ・タイフォン理事長と懇談しました。

いろいろな団体が来てくれるが、音楽療法をしてくれる人はいないということで、大変に感謝されました。特に、「音楽の効用は理解していて、なるべく音楽を使うようにしていますが、やはり専門家がいないこともあって、思う通りにいきません。来年は、もっと音楽を取り入れたいです。子どもたちの顔をみて、今日は満足してくれたと確信しています」と話されました。

翌11日、私たちは、チャーターしたバスで、タインホア省のタインホアに向かった。ハノイの南170キロの所にあります。タインホア省立孤児院に待つ子どもたちへの音楽療法です。
午後2時頃到着しましたが、児童の学校からの帰りを待って、先に孤児院の理事長たちと懇談しました(写真下)。

この日、始まる直前から私の体調は悪かったのですが、力を振り絞りました。ここで負けてはならない、と。子どもたちが1年間待っていてくれたのですから。2階の講堂にある椅子を片づけて、め一杯の広さを使いました。健常の子ばかりだからです。親がいなくても、みな明るいです。「今日は、もっとみんなを明るくしてあげたい」との気持ちになりました。

講堂の中央にあるホーチミンさんの胸像の前で、まさに盆踊りにも似た賑やかな音楽療法になりました。日本から参加した人の中には、頭に白いタオルを巻いてリズムに合わせた大釜会長さん。ホーチミンさんも、驚いたに違いありません。3人が輪をつくる、ある時は4人が輪を作るゲーム。昨年も好評でした。太鼓の数に合わせて手を叩く。右の組と左の組でリズムを変える。いつも自ら率先して参加してくれる女性の所長さんも楽しそうでした。

乳児を抱いたお姉ちゃんも、輪の中に入りました。この乳児が、捨て子だと聞いてショックを受けました。いい音楽を聴いて、何にも負けない子に育ってほしい・・・と願いました。
収容の子どもは60人ですが、17名が、ハノイに送られて専門教育を受けていると聞いて、安心しました。

43人の児童・生徒たちへの音楽療法は、1時間以上続きました。正確に私の言葉は通じなくても、音楽という世界共通語で相手に伝わるという確かな感触を得た。

音楽療法が終わって、ふと、講堂の入り口で、一人の女の子が紙をもって立っているのに気づきました。紙を見ると、静岡県三島市の方の住所が以前に書かれた紙でした。彼女は、その住所をくれた人が、今年も来てくれると思って待っていたのでした。私は、「今年は来ていない」という意味で、手をよこに振った。無言の手振りは通じました。国境を越えた友情を、彼女は、この1年ずっと持ち続けてくれていたのでした。私は、日本語で「がんばってね」と言って励ましました。

わが“愛のベトナムさわやか支援隊”は、この孤児院で、毎回私たちが訪問する日に、子どもたちにスペシャル・ディナーをご馳走しています。昨年は、炒めたエビ、揚げ春巻き、肉入り野菜炒めが、メインでした。なんだ、と思われるかもしれません。普段は、こんなものは食べられないのです。ご飯に一汁一菜です。お客さんになってしまった私たちが箸をつけるまで食べない子どもたち。今の日本ではあまり見かけない光景をみました。食べ終わると、お茶を運び、爪楊枝を差し出し、ミカンの皮を少し剥いて食べやすいようにしてくれたカイ君という少年。皆、いい子でした。

翌日、ニンビン省の559部隊旧女性兵士たちに、車いすの贈呈と枯れ葉剤の被害者の極貧家庭の在宅訪問をして、ハノイへの帰途に着きました。私は一行と別れ、一人で日本に向かいました。

来年も、ここにきて、より多くの人を励ましたい・・と誓ったはずの自分が、実は励まされていることに気づきました。今後とも、音楽とこの楽器を通じて慈悲の心で他人へ尽くしていこうと心に誓いました。その行為の中に、自分を磨いていく鍵が隠されているのです。その名も、愛のベトナムさわやか支援隊でした。

皆さん、たくさんの楽器をありがとうございました。これからも、多くの人々に健康と平和と友情を配達してまいります。(了)
Posted by Picasa
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