(詳しくは4月12日号をご覧下さい)
年表によれば、1226年から1400年まで大越を統治していたチャン(陳)朝の始祖は漁師だった、という。先祖からの海上生活のおかげで、冒険好きで真っ黒に日焼けしたチャン一族は、波の中で食べ、風の中で話をしていたと言われている。
13世紀に入って1230年代、一人の男子が生まれた。チャン一族の初めての世継ぎの子どもであった。チャン・クォック・トゥアンと名付けた。少年は、優れた外交官、宮廷を二分するねたみ派と策謀派をとりなす専門家として養育された。彼は、また立派な学者でもあった。
陳朝になると、中国に代わって元の蒙古が、侵略の脅威となってきた。
1258年に蒙古(元)が第1回の侵略をした時(陳朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)の時代)に、チャン・クォック・トゥアンは、自分の書籍と武器を取り引きした。元軍は首都タンロンを制圧したが、暑さと食料不足から一時撤退せざるを得なくなった。その蒙古(元)軍に後ろから追い討ちをかけて、徹底的に打ち破ったのが、英雄チャンフンダオ(陳興道)だ。チャンは、戦争にも同様に長けていたことが証明され、現代で言う最高司令官に任ぜられた。彼は、チャン・フン・ダオ(陳興道)という名で知られるようになった。
蒙古(元)軍を追い払うことは、容易な仕事ではなかった。アジアからロシアまでを制覇していた蒙古(元)は、大越を諦めることはなかった。攻撃しては撃退され、3度も侵略を繰り返したのである。
北部中国をチンギス・カーンが制覇した後、彼の子孫が、チャンパ王国(現在のベトナム南部に相当する)の攻撃を思い立った。蒙古(元)は、大越領土を通過して進軍する許可を願い出た。チャン王朝がこれを拒否すると、またまた蒙古(元)は侵略した。
疲弊した兵士を召集するにあたり、チャン・フン・ダオは、「将校と兵士に告ぐ」という詩を詠んだ。兵士たちは、将軍の愛国的な詩に心を動かされ、戦う決意をみなぎらせ、腕に“Sat That“(敵(蒙古)を殲滅せよ)という言葉を入れ墨した。歴史資料では、敵陣に送られた密使が、敵将軍に”Sat That”と腕に彫られた入れ墨を見せたという。逆境の時代には、チャン・フン・ダオのこの言葉が、ベトナムでしばしば繰り返し使用されたという。
この将軍にの作とされている有名な箴言がある。
「雁が何千里も飛べるのは、背骨が翼を支えているからだ。その背骨がなければ、普通の鳥にしか過ぎない」
指導者としてのチャン・フン・ダオの偉大な力は、市民の一人ひとりが大事な兵士なのだということを納得させる能力にあった。
知将チャン・フン・ダオは、敵の力を見抜く力をもっていた。そして、敵の弱点を利用した。蒙古は、強力な騎兵を背景に野戦場での戦闘を有利に展開することを狙った。しかし、大越には、多くの川あり、渓谷あり、敵軍の馬には困難が立ちふさがっていた。平原で蒙古軍と相まみえるよりはと、チャン・フン・ダオは自軍の姿を隠し、険しい地形のところで、侵略者を待ち伏せした。
1285年(3代チャン・ニャン・トン(陳仁宗)の時代)、蒙古(元)が大越に対して2回目の侵略攻撃で、彼らは北部と南部から進軍を開始した。この時、チャン・フン・ダオ将軍は、チャン・ニャン・トン王に、「もし王が降服を望んでおられるなら、王は、私のクビを先ず切り落としてください」と言ったと伝えられている。
1285年1月、元軍はベトナムへ進攻し各地で勝利し、首都へ迫った。チャン・フン・ダオは小人数のゲリラ戦を挑み、食料を隠したりして、元軍の動きを止めてから総攻撃に移り、見事元軍を撃退した。
50万の大軍が大越領土を進軍してきた時、チャン・フン・ダオ将軍は、ハノイのタンロン城を明け渡してでも、自軍の兵士を撤退させることを決めた。将軍の焦土作戦のおかげで、蒙古(元)軍がハノイのタンロン城に入場した時、全くもぬけの殻だった。
一方、チャン・フン・ダオは、中部のゲ・アン省とティエン・チュオン(現ナム・ディン省)に軍隊を集中させ、敵軍が糧食不足になるのをじっと待ち構えていた。敵は、ゲ・アン省を経由して食糧の確保に努めようとしたが、チャン・フン・ダオ軍は、それを断った。
やがて、チャン・フン・ダオ軍は、ハム・トゥ(Ham Tu)とチュオン・ズオン(Chuong Duong)で、蒙古(元)軍の増強部隊を待ち伏せし、力を削がれた蒙古軍は、タンロン城を放棄せざるをえなくなった。そこから、ベトナム軍は驚異の攻撃に転じ、蒙古軍に壊滅的打撃を与えた。モンゴルの将軍トアット・ホアン(Thoat Hoan)王子は、銅製の大砲の中に身を潜めて退却を余儀なくされた。
この不名誉な退却にもかかわらず、蒙古軍のトグハン王子は30万の軍勢と500隻の艦隊を率いて、1288年に3回目の襲来を行った。今回は、チャン・フン・ダオは、大越領に深く侵入させたうえで、ベトナム軍で包囲した。侵略軍の威力を削ぐために、チャン・フン・ダオは、民兵をつかって、情け容赦なく揺さぶりをかけろと命令を下した。それから、彼はやおら、食糧など必要物資と増強部隊を乗せた蒙古(元)軍艦隊を阻み、沈没させた。
必要物資なしでは、蒙古軍は退却しか選択肢はなかった。敵は海を使って逃げるに違いないと確信したチャン・フン・ダオは、先の尖った鉄をつけた竹の杭を、引き潮の時に白藤河口に立てるように命じた。敵船が海に向かい始めると、それらのスパイクが船団に刺さった。蒙古船団は、このように壊滅状態になり、幹部将校の一部は捕虜になった。陸を逃げまどう元軍には、伏兵の英雄ファム・グ・ラオ将軍が指揮する大越軍が追い打ちの大攻勢をかけ、壊滅させた。
蒙古軍敗北から一年後、大越の王は、チャン・フン・ダオに軍の最高栄誉賞を贈った。チャン・フン・ダオは、軍役から引退し、自分の地位を有名なファム・グ・ラオ(Pham Ngu Lao)に譲った。
引退後、チャン・フン・ダオは、ハイ・ズオン省のキエップ・バック(Kiep Bac)に移り、そこで、最後の一〇年を過ごしながら、回顧録を書いたり、薬草を育てたりした。キエップ・バック寺の脇にあった彼の庭は、いまでも存在し、六〇〇種を越える薬草が根付いている。
チャン・フン・ダオ将軍が病に倒れた時、チャン・アイン・トン(陳英宗1293?1314)帝は、病床を見舞った。「もしあなたさまが亡くなられ、北の侵略者が戻ってきたら、どうすればよろしいか」と、若き王は尋ねた。
チャン・フン・ダオは答えた。
「いつもの通り、人民の力に頼らなくてはなりません。彼らには、しっかりした根と固い幹があります。それが、我が国を守る最上の方法です」と。
数日後、陰暦の8月20日、チャン・フン・ダオは逝った。死語、彼の祀るキエップ・バック寺が建立された。毎年多くの人々が参詣し、この偉大な将軍に祈りを捧げる。チャン・フン・ダオの話をする時に、人々は有名な諺を口にする。
「生前は有名人であり、死後は聖人になる。その勇気は天と地にある」
3度目の日本襲来を計画していた元は、このときのベトナムの抵抗で計画を中止したと言われる。(了)
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