2008-10-21

支援隊ツアー08(24)差し上げましたⅡ

8月26日 イエンドンA小学校を辞して、ニンビン市内の宿舎に急行しました。MIPスポーツ・プロジェクトさん(東京)から2年越しでお預かりしている新品のTシャツの残り半分300着を中学校2校に贈呈するためです。宿舎に着くと、もう2校の校長先生は、待っていて下さいました。
MIPの相沢理事とは、シドニーで知り合って、すぐさま、「ベトナムのお役に立ちたい」と動いて下さった方です。去年のツアー前にはとっくに約600着を送って下さっていたのですが、残念なことに、昨年はすでに予定した物があり、頂戴した全部を運べませんでした。今年は、最優先で運ばせて頂きました。
そこへ、外国人立ち入り禁止令が出て、本当はニョー・クアン郡でお会いするはずでしたが、ニンビン市内まで出てきて頂く羽目になりました。簡単にご紹介させて頂きます。
(1)

上の写真は、ソン・タイン中学校のトゥイ校長先生(右端)と付き添いの先生です。校長は若干31歳の若さです。
地域の校長の中では、一番若手と聞きました。
ソン・タイン中学の生徒数は254人 8教室 教職員17人です。
生徒数の変動 2004年~2005年 280人
       2005年~2006年 272人
       2006年~2007年 270人
生徒数の減少理由は、政府の一人っ子政策が一層効果を発揮したからのようです。

ニンビン省ニョー・クアン郡のソン・タイン中学のトゥイ校長は、
「大変に有難うございました。とてもうれしいです。この新品のTシャツは中1(56人) 中2(72人)の制服代わりにあげることにしたいです」と、喜んでいました。

(2)

上の写真(2)は、ニョー・クアン郡キー・フー中学校の先生です。ナム校長の代理で来て下さいました。

上のソン・タイン中学より、さらに15キロほど奥の学校です。
生徒数310人。半数は遠くから通学。クラス9教室。私も訪問したことがあります。
その時、ナム校長は、「去年頂いたTシャツを喜んでスポーツのチームにあげました。サッカーチームとバレーチームのユニフォームになっています。今日改めて感謝申しあげます。バレーボール・チームは最近出来たばかり。試合のある日に、ユニフォームとして使わせてもらっています」と、洗濯してきれいに畳んであるTシャツを見せてくれました。これも、MIPさんに改めて御報告します。

この中学校の生徒の80%は、ムオン族という少数民族です。片道17キロを通ってくる生徒がいる、と聞きました。生徒達は、昨年水害に遭った人も多かったのです。ですから、励ますために、なんとしても、贈呈したかったのです。

中学を卒業すると、昔は100%就職でしたが、今は進学する子も多く、40%~50%が進学だそうです。ここでも中学校の生徒数は減少傾向で、来年も減るそうです。一家族一人の子ども政策が進んでいます。

「外国人による授業を歓迎します。歌・ゲームを習うのが好き。それに日本が大好きなので、是非実現して欲しいです」と、校長は言っていました。

キー・フー中学の先生(ナム校長の代理)は、
「たくさんのシャツを有難うございました。去年頂いたTシャツは、サッカーチームとバレー・ボールのチームに上げました。本日、改めて御礼を申し上げます。 新品のTシャツを、貧しい子等に配ることにしたいと校長は言っていました。残りをスポーツ・クラブに使わせてもらい、スポーツのユニフォームにします」とのことでした。
(3)

ということで、今回は、水害に遭った小学校を訪問出来ませんでしたが、この2校の中学校も含めて、来年でも再訪できれば・・という強い願望をこめて、私は先生方に伝えました。

ちょっとこの写真を見て下さい。遠路はるばる来て下さった先生方。ひとえに生徒のため。150着のTシャツを、抱えるようにしてバイクで戻っていきました。写真(3)は、自らバイクを運転するトゥイ校長。「気を付けてねぇ」と、皆で見送りました。

(4)
(4)は、キーフー中学の先生。長距離ですから、この姿勢ではきつい物があります。「絶対無事故で戻ってねぇ・・・・」われわれも、祈る気持ちでした。
                           
MIPさん、ありがとうございました。Posted by Picasa

支援隊ツアー08(23)差し上げました

8月26日 日本の皆様からお預かりした品物を下の写真のごとく、確かに差し上げましたので、御報告します。
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沼津西RCのペナントとノート・ボールペンの一部を贈呈する名古先生(1)詳細は写真(4)

写真(2) 8月11日に 「メディオ薬局代表取締役 稲垣紀行さまからお預かりした貴重な薬品類を、この日、名古良輔先生から、トア校長先生に直接渡して頂きました。学校に薬品は必需品です。少しの怪我などに、即応出来る薬は、教師にとって「安全保障」になります。因みに、3セット頂戴したうちの2セットは、バクザン省の障害子どもの村で、やはり名古先生から、贈呈して頂いております。

このたびは、本当にありがとうございました。

(2)

写真(3) 兵庫県三田市安田秀美さんから、お預かりした、新品の婦人物Tシャツ75着分のうち35着を学校職員にと、イエンドンA小学校ファム・ティ・トア校長に小生からお渡ししました。

なお、タイビン省でも、タイビン省枯葉剤被害者協会のグエン・ドゥック・ハイン会長に、職員の皆様へとして、安田さんからのTシャツ 5着差し上げてあります。

ほんとうに、ありがとうございました。新品の美しいシャツでしたので、大変に喜んで下さいました。

(3)

写真(4) 沼津西ロータリー・クラブ様から頂戴した支援金で、ノート900冊、学校規定のボールペン300本を購入し差し上げました。ただ、訪問校が前夜に突然変更になったために、生徒一人にノート3冊、生徒一人に1本のボールペンが行き渡りませんでしたが、少なくともイエンドンA小学校の児童生徒には十分行き渡る量でした。トア校長先生(横断幕の真心の「真」の字の前の女性です)には、それなりに説明はさせて頂きました。

貧困の郡ですので、何よりの教育支援になったと確信します。大変に感謝して下さいました。因みに、国家指定のボールペンの色は、紫色です。

皆様の暖かいお気持ちをありがとうございました。

(4)
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2008-10-20

支援隊ツアー08(22)あいあい眼科巡回診療(2)

8月26日 イエンドンA小学校のひと教室。急ごしらえの保健室になった。校庭で音楽療法を進めている間に、一クラスずつ、生徒が教室に送られてきた。名古先生が、右手に懐中電灯をもって、診察を始める。
お医者さんの行為は、安心を与える尊い行為だ。
「はい、まっすぐ見てぇ」

皆、少し緊張。あまり大きな声で無駄話をする子はいなかった。やはり緊張しているからか。でも、それがまた可愛い。

この子たちは、1年間にどのくらい、お医者さんと面と向かう機会があるのだろうか?

名古先生のすぐそばで、教職員学校がメモをとる。医者知らず・・の健康も素晴らしいが、病気になっても絶対負けない強い意志の持ち主にもなってもらいたい。

ご家族で診察に協力

将来は何になりたいの? 何を夢見ているの? お父さん元気? お母さんは何してるの?

写真を撮りながら、こんな質問をしてみたかったな・・・。

この田舎に住む子ども達の将来に、何が待っているのだろうか? 

間違いなく、この子たちの親が苦労した戦争だけはないことを確信したい。

どんな平和が待っているのか? どんな人生がまっているのか? どんな人が待っているのか?

君は強そうだな。 君は恥ずかしがり屋かな? 君は足が速そうだな? 貴女の得意な勉強は? その後ろの君は?

みんな、ピオニールの赤が似合うなぁ。

「桜梅桃李」という言葉がある。その中で、一口に「桜」といっても、300品種を超える種類があるそうだ。それぞれの花が誇らしく咲き香るように、この学校にも、いろいろの児童がいる。それぞれの個性があり、それぞれの使命がある。

あなた達に言っておきたい。「粒ぞろい」ではなくていいんだよ。「粒ちがい」がいいんだよ、って。桜だけじゃなくていいんだよ。君は桜、貴女は桃でいいんだ。

かけがえのない個性、才能を開いて磨けるようになれば、それは最高ではないか。

 「鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣(つるぎ)となる」のだ。若い子ども達に幸多かれと祈りたい。Posted by Picasa

元ソ連兵 やっと口を開く

ロシアの元兵士が、ベトナムからのアメリカ軍撤退35周年を記念して集った。ソ連政府は長い間ベトナム戦争への関与を否定していたが、3000人以上の兵士が、あの戦争を戦っていたのだ。
ベトナム戦争は、アメリカ兵約6万名が死亡し、双方で500万以上の死者をだした、アメリカで最も長い、最も分裂的な戦争だった。
多くの人は、この戦争を、アメリカと南ベトナムとその同盟国が北ベトナムに対して戦った戦争と思っているに違いない。

 
しかし、共産主義の同志として、共産主義の拡大のための役割を果たしていたソ連の男達も、北ベトナムにいたのだ。 彼らは、忘れられた兵士でもある。
ベトナム政府はもちろん、ソ連政府(当時)も、20年近くも戦争に関わっていたことを否定し続けてきた戦争の兵士達だ。ベトナム人民軍戦史局も、独自で戦ってきたと、最近まで主張していた。

ソ連後のロシアの役人が、北ベトナムで抗米戦争に3000人のソ連兵が戦っていたことを認めたのは、ソ連が崩壊した1991年直後だった。

この2月、これらの老兵の一部が、アメリカ軍撤退35周年を記念して集った。アメリカ軍の撤退開始が、1973年1月27日だったからだ。
あの国にいないことになっていた旧ソ連兵

「公式的には、われわれはロシアの軍事専門家で、司令官は、単に上級の軍事専門家と言われていただけだ。だから、技術的には、北ベトナムには、ソ連部隊はいないことになっていた。われわれが知っているのは、われわれはソ連人であり、ソ連兵だったということだけだ。そして、(アメリカ軍の)空襲を阻止するために出来ることはなんでもやらなくてはならなかった。空襲の阻止・・これがわれわれのやったことだ」と、ニコライ・コレスニクさんは言う。

ソ連軍事専門家は、アメリカ軍機に重大な損害を与えるために、北ベトナム軍を訓練し、ソ連の対空ミサイルの使い方を指導した。

ソ連兵とともに戦った北ベトナム兵は、その影響を評価してもしきれないと、言う。

威力を発揮したソ連製の対空ミサイル
「抗米戦争では、ソ連は巨大な支援国だった。ソ連兵とソ連製武器を大いに尊敬している。武器は、アメリカ製よりはるかに良かった。だから、われわれが勝利することができたんだ」と、リー・コン・ニエムさんは言う。

2月16日の式典は、老兵の次世代が任務を全うした兵士に会う機会であり、偉大なる国が長期に渡って讃えられることのなかった元兵士に感謝する機会となった。

彼らは、何年もの間、“あそこ”にいないことになっていた兵士だった。「いえ、決して戦ったことなどありません」と言っていたソ連政府。その兵士たちである。今年、ソ連の最後の軍事専門家が北ベトナムのジャングルを後にしてから35年。彼らは20世紀で最大に重要な紛争の一つに参画したことを、ようやく口にすることができるようになった。
アメリカの変化に30年周期を唱えた著名な歴史家シュレシンジャー。アメリカに限らず、やはり一つの明らかなる世代の交代である、と言えるのではないか。そこに将来を見据えた青年が台頭していれば最高だ。
(2008年2月16日RTニュースを元に書きました。訳:記事:北村 元)Posted by Picasa

2008-10-18

支援隊ツアー08(21)新谷文子の”体を動かそう”Ⅲ

8月26日 不意打ちという言葉ある。ベトナムを旅していると、ほんとに先が読めないことがある。実は、前日の夜、歌を歌って交流が終わる頃、26日の早朝に訪問して、音楽療法をすることになっていたニョー・クアン郡の小学校には、明日行けない・・という情報が入ってきた。理由は、「この3月下旬に、フランスのキリスト教ミッションが入ってきて、お金を撒いた。外国人は立ち入り禁止区域になった」のだ。3月の話が、なんで8月25日の夜に伝えなければならないのだ・・と言ってみてところで、共産国家の一省が決めたこと。どうにもならない。
どうすればいいのだ?と、問い返そうかと思っているうちに、誰が考えたか代案は用意されていた。イエンモー郡の小学校はどうか・・という。「ただ、音楽は出来るかどうかわからない」という答えだった。
ビンさんらが残ってくれて、夜の9時から郡の役場との交渉が始まった。やがて、音楽療法は出来るようにしましょう・・という方向に進み始めた。
そして、私たちは、26日の朝6時半にバスで出発した。目指すは、イエンモー郡イエンドンA小学校だ。受け入れてくれた郡人民委員会には、ひたすら感謝である。

ここで、音楽療法と眼科の検診を行うことになった。学校名は「イエンドンA小学校」。なぜAなのか? BとCがあるからだ。1箇所の校舎に収容できず、3箇所に分かれている。A小学校には、240人が通っている。ヴー・ミン・ファム郡人民委員会副委員長と、ファム・ティ・トア校長に迎えられての”登校”だった。

「ご来校下さりありがとうございました。仕事がうまくいくように祈っています。イエンドンは、ニンビン省でも最も田舎の郡で、貧乏で生活は大変な所です。」というご挨拶を頂き、恐縮した。去年開校したばかりの小学校だそうだ。

「この小学校に関心を寄せて下さり、ありがとうございました。目の検査もして下さるそうで、病院に行かない人が多いので、出来るだけ多くの生徒を検診していただければ・・と願っています」と、女性校長のトアさんは言った。

みな、可愛かった。ほんとうに。

「そんなのできないよぉ!」

貧しいに違いない。着る物を見れば、わかる。でも、目が輝いている。心が純真だ。汚れていない。小さいときの貧乏は、貴重な経験だ。この貧乏が、大きくなってから生かせるような社会であれば、いいと思う。

音楽療法士の新谷さんの指導で始まった体操は、子ども達の未経験の動きばかり。その驚きと喜びが顔に出ている。

ベルの代わり。各時間の始業と終業には、この太鼓を叩いて知らせる。
新谷さんから聞いたことがある。「音楽療法は、障害をもった子どものほうがノリがいいんです」と。
「音楽療法の勉強中に学んだ事ですが、音楽療法学会の理事の方々(医者・心理学者・音楽科など)は『分析できないが、健常者と違って身体全身で独特のリズムを感じて、個々の本能で表現できる才能を誰もが持ち備えている。どうしてそれが音楽なのか???われわれ、音楽療法士は悩んで悩んで死んでいくのだ』と。『障害者の心の中まで入れないので回答は無いが、他の手法で彼らの秘めた才能を出しえるものは無いように思う』」とも。
この小学校は全員が健常者である。自分の経験したことのない動きに必死でついていこうする姿勢は、皆がもっている。


人間だから、好き嫌いもある。同じクラスで手をつながない子どももいる。そこにノリが相殺される部分がる。しかし、子どもの世界では、それが当たり前のことだ。

しかし、どの生徒の目も生きている。最後は、クール・ダウン。皆で校庭に大きな輪を作った。朝の40分、みっちり汗をかいて、音楽と体操と情操教育の時間は終わった。楽しそうに、みな教室に入っていった。

「ガップライ・ニャー」「また、会おうね」 Posted by Picasa