2006-10-25

2007年支援隊ツアー 日程決定

2007年 愛のベトナムさわやか支援隊ツアー日程 決定!

ハノイの中心部 ホアンキエム湖の風景です。
懐かしい方も多いでしょう。

すでに、東京で参加の手を挙げてくださっている方がいらっしゃいます。
来年は、さらに多くの方の参加をお願いして、枯れ葉剤被害者の実情を学び、真心の激励をしたいと思います。

下記の日程を
発表します。

8月19日(日)成田 →ベトナム航空でハノイへ 希望者はベトナム床屋へ

8月20日(月)午前:友好村訪問 音楽療法 マンゴの木植樹 その後、ダン・フー・ズン理事長と懇談 午後:平和村 音楽療法 ガーちゃんらと懇談会  グエン・ティ・タイ・フオン理事長と懇談  ハノイ泊

8月21日(火) 行き先秘密の日帰りバスツアー 夕方:ハノイ国家大学構内で記念撮影  ハノイ泊

8月22日(水) ハノイ→高野記者墓参 中越国境観光 帰途:勉強会 ディエン・ビエン・フーでフランス軍のド・カストリ将軍を捕捉し降伏させた元人民軍兵士グエン・クアン・ビンさん(自宅で)と懇談 バクザン省障害児施設に立ち寄り ハノイ泊

8月23日(木) ハノイ→タインホア省立孤児・障害者・老人センター  音楽療法 日本のカレーライス・クッキング 中学生以上と懇談  ニンビン市泊 キンド・ホテル(予定)

8月24日(金) ニンビン ニャンちゃん宅支援訪問 昼食 559部隊兵士宅訪問(一人)   タイビン市泊

8月25日(土) タイビン市 在宅訪問 車いす・補聴器支援 タイビン泊
8月26日(日) タイビン市 在宅訪問後ハノイへ ハノイ泊
8月27日(月) 午前中原告第1号フィフィ先生宅訪問 午後買い物 夕食 出発
8月28日(火) 成田着 解散

参加料金:18万5千円(予定)
機内食2食 ホテル7食 外食13食 自前2食となります。
現地ホテル、バス、通訳、コーディネーション費などが含まれます。

問い合わせ: 愛のベトナムさわやか支援隊

    会   長 大釜 一男  055-971-0881
    事務局長 宮尾和宏   055-976-8822
乞う! ご期待
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2006-10-23

支援活動  私の10年(下)

10年の支援活動を振り返って   
支援隊副会長 大釜 芙美子

毎年、ベトナムを訪問し、10年間の変わりようも見させて頂きました。

すごい発展のしようで、現在は道路も整備され、歩道が出来て、信号も交差点に付き、何よりもきれいになったのは、道路と商店街です。

今年などは目的地に予定よりも早く着き、ハノイ近県を家庭訪問して歩く私たちにとっては何よりもありがたいことでした。

バイク、自転車は相変わらずですが、今は車が溢れています。ショーウィンドーもなかったのが、今ではウィンドーにウェディング・ドレスなどが飾ってあり、10年前には、ドレスもスカートもみたことはありませんでした。

経済的には豊かになっていると思いますが、私たちが訪問する枯れ葉剤の被害者のお宅は、何も潤っていません。豊かな生活とはほど遠い、相変わらずの貧困生活です。ベトナムの近代化に乗り切れずにいるのは、枯れ葉剤に冒された家だけかもしれません。(下の写真は、ハノイ市内の公営アパート)

国から支給される手当は微々たるもの。痛みがあってもその痛み止めの薬代にもなりません。ベトナム社会から見捨てられるとしか考えようがありません。アメリカは、日本に二度原爆を落として、その威力を確かめました。原爆を落とさなくても、枯れ葉剤を日本で試す計画があったと聞いております。あの枯れ葉剤(ダイオキシン)が日本で撒かれたら・・・と思うと、ぞっとします。今でも原爆による白血病で苦しんでいる方は日本国内にもたくさんいますが、世代が変わる毎に核や化学兵器への恐怖の意識は薄れてきているように思います。

枯れ葉剤は、そうはいきません。どこまで行っても症状は全く同じで、今や第三世代に及んでいます。

戦争で一番被害を被るのは、一般国民、特に女性、子どもです。しかし、枯れ葉剤の場合は、戦争に参加した兵士も、きれいな霧が降ってくるのをみていましたし、それが入った川の水も飲んでいたために、たまったものではありません。

その恐ろしい化学物質(ブルー、ピンク、オレンジ、ホワイト、パープルなど虹色に似せた名前をつけていました)を、その時は火傷や爆発がないので、気にもせず平気でかぶっていたようです。
 この化学物質を扱ったり、戦場でかぶったアメリカ軍の元兵士、アメリカ軍に協力したオーストラリア、韓国、ニュージーランドの元兵士にも、同じ症状が出ているのです。

戦争が終わっても、その苦しみは一生涯続いています。ベトナム戦争に終わりはありません。

この10年、ベトナムの方々と交流する中で、自立して働く多くの女性と出会いました。平和村理事長のグエン・ティ・ミー・ヒエン先生。その後任のグエン・ティ・タイ・フォン先生。

枯れ葉剤被害者協会常務委員で、グエン・ティ・ゴック・トアン先生(上の写真で、右側で茶色の服を着ためがねをかけた女性、その左隣は筆者)。この方は、フエの王室のご出身です。お年を召されて、なお勉強されています。今年も水俣病公式発見50周年のフォーラムに参加されました。

ベトナム枯れ葉剤被害者訴訟原告の第1号、ファン・ティ・フィ先生。ハノイ医科大学を定年退官されても、教壇に立ち、故郷のクアンガイ省への社会貢献もされています。
Posted by Picasa 559部隊元女性兵士のニンビン省のチャン・ティ・ビンさん。自らも枯れ葉剤後遺症のガンと闘いながら、元兵士を家庭訪問して元気づけています。

越独友好病院元院長夫人のヴィー・ティ・ホーさん(写真中央の緑の服の方。その後ろが筆者)。ご主人のトン・タット・トゥン先生は、フエの王族のご出身で、全財産を共産党政権に投げ出し、自ら先頭を切って弱者の救済に当たって来られた方と聞きました。惜しくも枯れ葉剤研究の途上で亡くなられたのですが、奥さんのホーさんはそのご主人をほんとうに支えて来られた方だそうです。

こういう方々が、皆さん真剣に生きています。そして、社会で活躍しています。

私の尊敬する人生の師匠が、「21世紀は女性の世紀」と言われたそのものを、見ることが出来ました。

これからも健康である限り、おカネの続く限り、支援活動を続けて参りたいと思います。(了)

支援活動 私の10年(上)

10年のベトナム支援を振り返って
支援隊副会長 大釜 芙美子

今から11年前の1995年、友人の櫻井恵美子さんから、ベトナム戦争の枯れ葉剤に冒されたベトナム人の現状を聞きました。
 
その中で、ハタイ省に住むタームさんのお宅の話が心に残りました。

「村一番の貧乏の家よ」と話してくれたことです。ご主人が戦地で枯れ葉剤を浴び、終戦から20年経った現在も入退院の繰り返しで、後遺症に悩まされ続けていること。


その影響で、生まれた子ども4人のうち、2人が脳性麻痺、後の二人が知的に遅れており、家族の中で働けるのはお母さんのタームさんだけだったこと。それも、脳性麻痺の子どもからは、ひとときも目が離せない現状であること。やっと近所の畑を手伝って入ってくる収入のみだということ。

 そして、このお宅の生活が何とか成り立つように、村に1台もなかった精米機を贈り、村の人にも貸し出せば生計が成り立つので贈りたい・・・という話が櫻井さんからありました。

翌年の1996年、わが目で確かめ、状況を肌で感じたい思いで、ベトナム行きを決意しました。

当時はベトナム直行便などあるはずがなく、羽田発台北経由で、ハノイを目指しました。台北での乗り継ぎに5時間もかかりました。台北までは満席でも、ベトナム行きに乗り継ぐと、乗客はわずか15?6人です。それほど、ベトナムへの関心は薄かったのです。

早速、タームさん宅へ伺い、精米機の様子も見せてもらいました。なんと、精米機を寄付してくれた方ということで、私の写真も壁に貼ってくれてあり、「毎日拝むように写真に向かっていた」と聞き、思わず感激しました。

また、この時のベトナム訪問で忘れられないのは、グエン・サン・トゥン君(当時16歳)の家庭訪問をした時です。

トゥン君は、脳性麻痺のため、自分で寝返りも起きあがることもできないまま、庭の竹のベッドの上に寝ていました。口を大きく開けたままで、ハエが出たり入ったりしていました。弟も同じ症状でしたが、訪問した時には、亡くなって2ヶ月目の時でした。

見れば、お父さんのタイさん(当時58歳)は、目を大きく見開き(痩せているので、目だけが目立ったのかもしれませんが)、足も手も曲がり、辛うじて動かせるのは左手のみという状態でした。まるで、骸骨そのものでした。タイさんは、戦地では化学者として従軍したとのことでした。

 たった一人健康なお母さん、フエさん(当時51歳)は、こう話していました。
「トゥン君も弟と同じ症状だから、そんなに長く生きられないと思います。今は、貧しくて2食しか食べさせてあげられませんが、食事はなんとか3食与えてあげたいです」

 母親の願いに、私たちは、その場で、次男のお香典という形で、日本円にすればたしか2000円足らずのおカネを包んで、差し上げたと思います。

それを受け取ったお母さんは、涙を流して・・・・・。私たちは拝まれてしまいました。この時は、この家族には気の毒で涙が止まりませんでした。わずか2000円ですよ。日本では子どもにあげても、さほど喜ばない金額です。今でも、この時の状況を思い出すと、涙が出てしまいます。

Posted by Picasa 10年前は、どこを走ってもデコボコ道。ちょっと雨が降っただけで道はぬかるみ、家畜の糞、泥、雨水で異様な臭いがしました。
空港からホテルまでの道のりも、小1地時間はかかったように思いました。

途中には信号機はありません。ハノイの町へ入ったところでやっと一つの信号機におめにかかったほどです。タイヤが穴に入っただけで、頭は天井にぶつかりそうになりました。センターラインはありません。車はまだ珍しいっほどで、バイク、自転車に取り囲まれて走る時代でした。われわれの乗った車に向かって、バイク、自転車が突進してくる!!!! 思わず、自分の右足に力が入ったものです。

道路を横断する時が、また命がけでした。「走らず、止まらず、すり足で」と教えてもらったように、ひたすら前をまっすぐ向いて横断するのです。(つづく)

写真説明 (1)2002年に訪問した時のタームさん夫妻。右がご主人のフエさん。左がタームさん。(2)2002年の訪問時に支援の物資を手渡す。指を指している人が筆者。(3)2006年の訪問で、ベトナムの子どもたちに囲まれる筆者(後列中央=ハノイ平和村で)

2006-10-21

ヴィンリンのトンネル(2)

“困難な運命に泣くな 種がある限り、木に成長する”
ヴィンリンの地名は、1069年に南部探検を行ったリー・トゥオン・キエットが築いたマ・リン大地に因んでつけられました。 ヴィンリンがなぜ有名になったかといいますと、1954年のジュネーブ協定で、ベトナムが南北を分けられた時に、クアンチ省のヴィンリン郡の南を流れるベンハイ川が、南北の境界線になったからです。そして、その川を境に、社会主義国であるクアンチ省の一部であるヴィンリン郡はベトナム民主共和国に属することになったのです。
写真は、1962年のベンハイ川です。手前北ベトナム。川向こうは南ベトナムです。

歴史は、この場所を、共産主義勢力と自由主義勢力の激しいせめぎ合いの場所としてしまいました。統一を目指す勢力と、分断国家のままにしようという国家の接点となりました。

 反共の砦を名目に、アメリカは、ジュネーブ協定破棄のために、いかなる手段も使いました。アメリカは、このヴィンリンの自衛軍に挑発行為をしたそうです。とくに、1965年、アメリカは、北部に対して破壊的戦争を仕掛けました。そして、ヴィンリンが最初の攻撃目標になったのです。

なぜか?

ここは、北部の社会主義の最前線であるばかりでなく、南部への人的、物質的供給の強力な後方基地になったからです。
Posted by Picasa  ヴィンリン地区は、800平方メートルに満たない狭い地区です。ここが、アメリカ軍が落とす多量の爆弾、砲弾の被害を受けました。

つまり、空からは、B52を含めて多種の戦闘機が爆弾を落とし、南部からは、ベンハイ川の北岸を目指して、砲弾を飛ばしてきました。ヴィンリンの東部は海岸です。沖に停泊するアメリカ軍第7艦隊の艦船からひっきりなしに艦砲射撃がきます。

1965年から1972年まで、ヴィンリンで砲撃の絶えない日はなかったといいます。

8年間で、この地に落とされた爆弾・砲弾の量は50万トン。ヴィンリンの一人ひとりが、7トンの爆弾・砲弾を受けたことになります。これを、第二次大戦中にアメリカ軍に日本に落とした爆弾の量0.43トンと比較するとよくわかってもらえると思います。 上の写真は、B52が落とした爆弾で出来たクレーターです。

侵略する者には伝統的な勇気をもって戦い、ヴィンリンの人々・軍隊は、村と大地を守りきりました。村人は、ホーおじさんの掲げる“独立と自由ほど尊いものはない”は、人類にとっても正しいものと信じました。

ダイヤモンドは、戦闘の煙の中で明るく輝きました。ヴィンリンの人々に”不思議の建設”をさせたのは、強い意志と創造性でした。ヴィンリン地区の周辺に地中深く散った人々をつなぐためのトンネルでした。(つづく) (文責:北村 元)

2006-10-20

クアンチ省ヴィンリン・トンネル(1)

きょうから、何回かにわたって、旧南ベトナム最北端の地、クアンチ省ヴィンリン郡のシェルターの話をしましょう。

シェルター、と言ってもつまりトンネルです。この世に生を受けた以上、誰人とも生きる権利があります。それは、すべての権利の一番最初のものです。その権利は、何も人間だけのものではありません。自然界の中の動植物すべてに存在します。

近年、世界のあちこちで、美しい声と言葉で、人権が叫ばれるようになりました。生存の権利、存在する権利は、すべての人間の権利の中で基本的にして最初の権利であることを忘れてしまっている人がいるように思えます。 

ベトナム国、そしてクアンチ省の長い歴史のなかで、なかんずく好むと好まざるとにかかわらず非武装地帯となった17度線上に位置したヴィンリンの人々、草木、自然には、存在する権利すらもっていませんでした。

“この土地を石器時代に戻してやる“と言ったのは、アメリカ軍のお偉いさんでした。破壊的な戦争が、その目的のために遂行されました。その目的とは、「アメリカの国境を17度線に」でした。

800平方キロの狭い地域に50万トンの爆弾がすだれの如く落とされたことを、皆さんはご存じでしょうか。その結果、50万トンの爆弾を受けたヴィンリンの7万の人々の戦いとは何だったのでしょうか? 

それは、アメリカに対するテロ行為の報復だったのでしょうか? 違います。断じて違います。
故国で生きる権利、生存する権を求めた戦いだったのです。

シェルターとは、否トンネルとは、ヴィンリンの人々が手で、鍬で、シャベルで故郷の大地に穴をあけて生き延びようとした結果です。彼らは、戦争時でも行き来できるようにたくさんの穴を掘り、生きていくために地下深くトンネルを掘ったのです。

一家族の絶滅を防ぐために、別々のトンネルで、家族が別々に住む智恵を考え出しました。彼らは、老人を北部に疎開させ、教育のために子どもたちを遠く離れた所に行かせました。残った人は、砲台を築いたり、銃をとってアメリカ軍機を攻撃したりしたのです。
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地下から生まれた伝説は、ここには山ほどあります。

ここの人たちは、114のトンネルを掘り、総延長は40キロになりました。いずれも、手と鍬で掘った手作りのトンネルです。

地下のトンネルで何年もの不思議な生活が続きました。不思議だが、普通の生活でした。子どもの誕生、学校、愛情、娯楽・・・普通のことがすべて地下にありました。生活している4メートルも上には、クアンチの青空が広がっています。

過去によってしか生きられない人は、誰一人としていません。しかしながら、ここの人たちには、過去を忘れる権利は持っていません。過去は、現在を生きるための重要な教訓であるばかりか、ここで起きたことは、もしかして、世界のどこかで、今起きていることかもしれないからです。

ヴンモック・トンネル村の建設は、ヴィンリン郡にできた114のトンネルの典型的なものの一つです。(写真は、ヴィンモックトンネル入り口、今と昔です) (文責:北村 元)
つづく