2006-02-14

すべての被害者に正義を

今年は、さらなる正義の闘いを
前進させよう!!!

グエン・チョン・ニャン枯れ葉剤被害者協会副会長(元保健相、前ベトナム赤十字社総裁、博士)から、本日お手紙を頂きました。

ベトナムでは、3月28日ー29日の二日間、枯れ葉剤被害者の正義を求めて、国際会議が開かれるそうです。
参加国は、地元ベトナムはもちろんのこと、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、そして、カナダも参加の予定とのこと。 これから、準備です。

と書かれていました。

そして、昨日(2月13日)、大阪からきた代表団とお会いになったそうです。小生の本を、代表団に見せてくださったそうです。「貴兄のことを知っている人もいました」と、書いてありました。代表団は協会に10万円の寄付をされたそうです。

ニャン博士 お手紙ありがとうございました。
国際会議のご成功を心よりお祈り申し上げます。

とにかく、今年も、少しでも被害者の生活環境向上のために、共同闘争をしたいと思います。そして、博士初め、被害者協会の方々の尊い闘争を、私たちは支援していきたいと存じます。


上の写真は、昨年ハイフォン市で亡くなられた、グエン・ティ・カインさんという被害者です。昨年10月、我ら支援隊は、ご自宅までお線香をあげさせて頂くため
に伺いました。
カインさんのように、何の救済も受けずに亡くなっていく方が多いです。生前、「私は、父より先に逝くかもしれません」と、私に話していました。被害者には、研ぎ澄まされたように、先がみえるのでしょうか? 現実となってしまいました。

北村 元
Posted by Picasa

2006-02-09

中学生三人 支援隊訪問

2006年2月7日 沼津市立沼津高等学校
中等部(渡邉 勉校長)の三人の生徒さんが、わが支援隊(三島市谷田夏梅木)を訪問されました。訪問して下さったのは、江川朋美さん、小川明華さん、福田悠さんのかわいい生徒さん三人です。

わが支援隊とベトナムの現状に関心をもって下さり、ほんとうにありがとうございました。

私どもの方からは、会長の大釜一男(会長)
、大釜芙美子(副会長)、櫻井恵美子(同)、宮尾和宏(事務局長)の4名が、お話をさせて頂きました。
江川さんたち3名は、学校のテーマである「世界の現状と、それについて私たちに出来るボランティア」を柱にして、事前に寄せられた質問などをされました。

江川さん、小川さん、福田さんが提出してくださった質問は、次の6項目です。
1)主にどのような活動をしていますか?
2)どうしてこのような活動を始めたのですか?
3)どうしてベトナムを支援しているのですか?
4)この活動には、どのような人が参加していますか?
5)今のベトナムの様子を教えてください。
6)私たちのような子どもにでも出来るボランティアはありますか?

私たちからもいろいろとお話をさせて頂きました。


 山口県出身の詩人、鈴木みすずさんの詩に「夢売り」があります。その中の一節でこう謳っています。
そしてやさしい 夢売りは、
夢の買えない うら町の、
さびしい子等の ところへも、
だまって夢を おいてゆく。


 自分だけではない、皆が幸せになれることが大事だと思います。まず、相手の人を思うところから、ボランティアは始まります。「何かをしてもらう」から、自分は他人と社会に「何が出来るか」への発想の転換。その気持ちが、質問の(6)に出ていると思います。そういうやさしい心が、苦しんでいる人を含めて共同体社会を光り輝かせていく大きな秘訣ではないでしょうか。
 平和と非暴力の真髄は、「相手の立場に立って、物事を見る、点にある」(アメリカの宗教学者ニコラス・ガイヤ博士)。自分が相手だったらどう思うか? どうしてほしいか? その視点が落ちると、暴力や紛争が起きるようになります。「相手の立場に立つ」 平和や非暴力は、こんなところから始まると思います。

上記生徒さん3名は、「福祉体験活動を終えて」と題して、感想文を送ってきて下さいました。

小川 明華さん

「先日は、私たちのために時間を割いていただき、ありがとうございました。おかげで、いろいろな学習をすることができました。

前までのベトナムと違い、町が発達しているということを聞き、私もとてもうれしく思います。でも、初めて聞くようなことばかりでした。枯れ葉剤被害者が440万人もいるというのも、初めて知る事実でした。こんなにも被害者を受けているのに、アメリカに勝ったというのはとても驚きました。それにベトナムでは、3000円(30万ドン)で、1ヶ月くらいは生活できたり、日本の1/10の値段で薬を買うことが出来たり、10円で何かが買えたりと、私たちには考えがたいことでした。このような国の人のためにも、私たちが協力してあげなければならないと、思い始めました。そして、少しずつでも、ベトナムが豊かになっていくことを願いながら、”小さなことからコツコツと”を目標にして、私たちの国だけでなく、他の貧しい国のことも考えながら、生活していきたいと思います。

江川 明美

「今回の福祉学の勉強の時、私たちのためにお時間を頂きありがとうございました。私がこの課題でお話を窺ったのは、ある本がきっかけなのですが、本の中では分からない本当のことや、今のベトナムの現状、私がするべきことがよくわかりました。そのベトナムの現状を知って、私は今の自分自身を見直すことができました。私たちはほとんど不自由なく生きていて、ベトナムの方々の気持ちが分からなくなっているのだと思いました。私たちにできることは、まずそういう国に行って現状を知るということだと教えて頂いたので、ベトナムに行きたいと思いました。そして、もっとベトナムのことを知って、それから支援という活動をしようと思いました。日本は不自由がなさ過ぎるので、少し不自由を味わった方がいいのかも知れません。世界は平等で、世界平和というのが、夢から現実になるようにしたいと、私はも居ます。「生きる」という気持ちが、ベトナム全体から感じられた気がしました。今回のお話を聞いて、ベトナムと日本の違いなどがよく分かりました。本当に、有難うございました」

福田 悠さん

「2月7日は、わたしたちに話をして頂き、ありがとうございました。支援内容を聞いたとき、私はかっこいいと思いました。本当に困っている人に、直接支援しているなんて、なかなかできないからです。でも、写真を見た時、とても怖くなりました。日本でもほとんど見られない「奇形」のあかちゃん。もしかしたら、にほんでも起きたかもしれないと知り、背筋がゾクッとしました。おカネの寄付だけでは治すことの出来ないベトナムの現状は、私たちにも関係のあることだと、改めて認識しました。

『現地に行って実際に学ぶこと』が私たちに出来るボランティアだと教えてくれました。そこには、自分では想像できない現実が待っているかもしれないけれど、私もいつか、会の皆さんと、誰かのために何かをするために、ベトナムに行ってみたいです」

今回のご訪問、そして、感想文をほんとうにありがとうございました。
ますます勉強に、スポーツに活躍してください。
Posted by Picasa

2006-01-29

河内点描2 テットの思い出

旧正月(テット) チュック・ムン・ナン・ムイ 

  私はベトナム・ハノイで旧正月を2回過ごしました。私がハノイに駐在した1995年からは爆竹が禁止されることになり、静かな正月で肩すかしをくらったような気がしました。しかしです・・・そこはベトナム人。人の目をかすめて爆竹をならして、捕まらないように足早に逃げる人が散見されました。ないと思っていた爆竹が近くで鳴ると、やはり驚くものです。今年から中国の春節でも、「民衆」の強い要望で爆竹が解禁になりましたので、早晩ベトナム全土で爆竹が復活するのではないかと予想しています。
 
  「ね」「うし」「とら」「う」・・・とくる十二支。ベトナムの十二支はひと味違います。「うし」は「水牛」になります。「ひつじ」は「山羊」に。「イノシシ」は「豚」になります。決定的なのは「兎」。ベトナムにくると、なぜか「猫」となります。
  私がハノイに赴任する時に、日本のきれいなカレンダーをもって行きました。当時まだ印刷技術のともなわないハノイでは、日本のきれいなカレンダーは人気でした。ある人にペットの犬のカレンダーをあげました。家内が早速、私に知らせにきました。カレンダーをもらった女性たちが、ワイワイ言って盛り上がっていたのというのです。普通、カレンダーをもらうと、どの月がわかいい、どれがほしいと言うものですが、彼女たちは、「どの月の犬がおいしそう、どれがまずそう」と話していたというのです。犬肉をベトナム語で「ティッ・チョー」といいます。それから、ベトナム人に犬のカレンダーのプレゼントするのは、止めました。今年は、戌年。戌年の旧正月、あれから12年。私にはこういう思い出がありました。

  テットを祝う花は、ベトナム北部では桃の花、南部ではホアマイ(梅)というきれいな黄色い花ですが、これは梅ではなく熱帯の花です。ハノイのみならず各地では、テットの時期に合わせて花市が開かれます。グラジオラスも売られます。真剣に品定めして、かつしっかりと値引き交渉をして、交渉が成立するとにんまり。値引きの交渉は、大まじめ。時として、売り手と買い手で口喧嘩が始まります。こんな真剣な表情とやりとりは、普段では滅多にみられません。そして、みていても飽きません。ベトナム人の真剣な顔をみるなら、是非テットの花市へと。申し上げたいのです。そして、自転車やバイクに乗せたり、シクロに乗せて帰る姿は、風物詩としてはなかなか趣にあるものです。ああ、この人も、いろいろ値引きをしたんだろうな・・羽子板市のように、最後に「お手を拝借!」というのが無いだけです。 ベトナム外務省が私たちマスコミに贈ってくれる桃の生木は、とても贅沢な気分にさせてくれました。亡き母も、ベトナム外務省贈呈の桃の木をうれしそうに愛でていました。


 そして、テットが終わって、桃の木の花が終わると、この木をゴミの回収が来る日に捨てるのです。いつももったいないと思っていました。しかし、後できいてみると、この木は、すぐ植えると、そのまま伸びてくるのだそうです。そして、桃の木を拾って歩いて、それを植物を育てる人に売る人がいるのだそうです。すると、また次のテットの時には、見事に商品に生まれ変わるのだそうです。梅の木の生命力の強さと、ベトナム人の知識の豊富さには、驚きました。

  テトの前には、花の他、テト用の装飾品や赤いお年玉袋を売る屋台も出る。私の知りあいで、お年玉袋をしこたま売って、かなり収入をあげているご婦人がいました。むかしから、ベトナムでは、一見小規模と思える商売で財産を築いた人が、結構いるものです。

  テトが近づくと、ベトナム人家族は大変です。私の住んでいた町でも、正月料理の準備で休みの無い日々が続いていました。南北を通じて、正月料理に欠かせないのが鶏肉です。日本のおせちに匹敵する正月伝統料理は、豚の脂身を青豆の粉と餅米で包み、それをバナナの葉で包んで長時間蒸しあげた保存食「バインチュン Banh Chung」。日本のちまき(粽)に似てはいますが、違う物です。何日も前から仕込みをし、そして大晦日の前々日などは夜を徹して煮込みます。その働く姿は、とても感じ入るものでしあ。テトの間中、これを食べ続けるそうです。最近は、そういう伝統も薄れつつあり、バインチュンを作る家も少なくなってはきましたが、それでも、出来合いのを買ってでも家におく人もいます。 近年、おせち料理を日本人が買うのと同じです。

  私は、ハノイで初めての旧正月。新年の挨拶にまわりました。いや、驚いたのは、どこへ行ってもバインチュンが出てくるのです。餅米ですから、胃に重いのです。三軒目から、断るのに苦労します。そうすると、包んでくれて、持って帰れというのです。4ー5軒回る頃には、売るほどバインチュンが手元に集まり・・・どうしたもんかと思案したものです。確かに、食べてみると、、家毎に味がちがいます。それぞれの家庭の味が出ているようです。しかし・・・・・これを食べ尽くすのは辛いです。バインチュンのハシゴは、胃の負担を増します。

  通常、正月の一日目。きれいな服を着て親戚筋を訪問したりします。村によってはお祭りもあります。歌のコンテスト。闘鶏。人間将棋。これにも、ギャンブル好きなベトナム人は賭けます。寺は大にぎわい。当然、経済的な幸運を祈ります。二日目。親しい友人を訪ねたりします。恋人募集中の人は、近所の湖に出かけたりします。三日目。教師、教員、友人、会社の仲間を相互訪問します。「商売繁盛、あるいは仕事が順調にいきますように、そしてあなたの家にお金が水のごとく流れ込みますように」と祈って訪問した家を去るのです。すべては、カネ。カネが大事な社会です。

  「テット」は、「節」からきています。テットとは、ベトナムではテットの半月以上前から完全に仕事は浮き足立ち、テット後も1ヶ月は回転しにくい状態をいいます。ベトナム全土が完全思考停止状態になります。口の悪い連中は、テット後3ヶ月は動かないといいました。旧暦によるために、毎年、テットの日は変わります。2月半ばのこともあります。勤め人はテト前の1日とテトの3日間乃至4日間、合計で4?5日間が休みとなる場合が多いですが、我が社では、同じ動かないならもっと・・と、早めにスタッフに休みをあげていたことを思い出します。(北村 元 在シドニー)

新年のご挨拶

ベトナムの枯れ葉剤被害者の皆さま
被害者の方々を支えている皆さま

新年おめでとうございます。
謹んで、ご挨拶申し上げます。

今年が、枯れ葉剤の後遺症で苦しむ被害者の方々にとって、少しでも安らぎの日々がえられる年になりますように、衷心よりお祈り申し上げます。
また、私たち愛のベトナムさわやかた支援隊も、力はありませんが、被害者の方々の苦痛の緩和に一層努力することを誓います。

2006年1月29日

会長 大釜 一男
副会長 大釜 芙美子 櫻井 恵美子
事務局長 宮尾 和宏
顧問 北村 元  新谷文子

2006-01-14

05支援隊ツアー 山口 元

Posted by Picasaアメリカ在住の山口 元さんが、支援隊ツアー参加の感想を寄せてくれました。左の写真(北村撮影)は、被害者の女の子に手を貸す山口さんです。 なお、日本語訳は北村。山口さんの英語原文は下におつけしておきました。併せてご覧下さい。北村

ベトナムとエージェント・オレンジ

 私は、2005年10月にフリー・ジャーナリストの北村元さん率いるスタディ・ツアーに参加して、ベトナムを訪問する機会を得ました。ツアーの目的は、ベトナム戦争時代のエージェント・オレンジの被害者の実態を学び、援助することでした。それほど遠くない昔に、私も日本とアメリカで学校教育を受けました。しかし、ベトナム戦争に関しては、重要なことは一切学んでいませんでした。事実、各種の報道は、他の誰よりも私に多くの情報をもたらしてくれました。しかし、ここでもベトナムや国民が受けたことを理解するに十分なものはありませんでした。

 私がハノイに着いた時、町が生き生きとしているのに驚きました。ハノイの町には人が溢れ、道路はバイクと車で一杯でした。どの通りの角にも、小さなカフェや食堂が並んでいました。しかしながら、無秩序な交通の流れと地元の人々が元気に行き交う風景のなかで、私はいくつかの不思議な光景に気づきました。新車のベンツやBMWを運転している人たち。高級店で買い物をする姿。5ッ星のホテルレストランで食事をする人たち。これらの光景は、社会経済・政治制度の副産物に違いないと、私は思ったのです。

 枯れ葉剤の核心にはダイオキシンが含まれていたのです。私は、初めてその恐ろしい影響について知るに至りました。エージェント・オレンジとその毒性に冒された元兵士、普通のお父さん、お母さん、息子たち、娘たちに会いました。ダイオキシンの毒性は、時間と共に影響が薄れたり消滅するのではないことがわかりました。第三世代の子どもが、未だに目に見える恐ろしき兆候を見せているからです。

ダイオキシンの毒が、若きも老いも区別なく、如何に人間の体をむしばんだかを私自身が目にすることは辛いものがありました。スタディ・グループとして、私たちは枯れ葉剤の影響をみるためにハノイ周辺や近くの省を回りました。私たちは、個人の家も、またダイオキシンの被害者を収容している施設も共に訪問しました。子どもたちは奇形で生まれるか、精神的影響を受けて生まれていました。一見“正常にみえて”も、複数のガンや他の疾病に冒されていました。とりもなおさず、戦争中にダイオキシンを使用したことに正当性がないばかりか、なぜ無実の子どもたちが苦しまなくてはならないのでしょうか?

 私は、今もこのスタディー・ツアーで撮った写真の整理に追われています。ハノイの下町や生の姿に愉快な写真もあります。しかし一方で、枯れ葉剤の影響とその後遺症を写しだした画像もあります。未だに、私がベトナムで観たこと、経験したことは信じがたいことです。そして、どうしたらいいのかわかりません。しかし、私自身ができることはわかっています。それは、いま起きていることをもっともっと写真に撮ること、戦争とダイオキシンの影響を受けた人の写真を証拠で示すことです。そして、他の多くの人にこれらの写真をみてもらうこと、言い換えれば、世界に“メッセージ”を送ることです。そうすれば、やがて世界の人々は、社会的にも道義的にも気づき、将来にあらざる破滅の再発を防ぐことになるのではないかと思うのです。

2006年1月
山口 元(げん)


Vietnam and Agent Orange:

I had an opportunity to visit Vietnam in October of 2005 with an educational tour group led by a freelance journalist Mr. Hajime Kitamura. The purpose of the tour was to learn and help out victims of Agent Orange from the Vietnam War. In the not-so-long ago past, I’ve received formal education in both Japanese and American systems, but I didn’t learn anything significant regarding the Vietnam War. In fact, the media had informed me more on the subject matter than anyone else. But then again, it was nowhere near sufficient to understand what the country and the people had gone through.


When I arrived in Hanoi, I was surprised to see how energetic the city was. People filled the city and its roads with bikes and cars. Small coffee shops and food stalls were set up on every street corners. However, amongst the chaotic traffic and the lively interactions of the locals, I realized several odd things. I frequently saw locals driving brand new Mercedes and BMWs, shopping in expensive designer stores and dinning in five-star hotel restaurants, usually catering towards the foreigners. I thought these must be the byproducts of the socioeconomic/political system.
Agent Orange, AKA, Karehazai in Japanese was composed with Dioxin as a centerpiece, and I got to learn about its deadly effects first hand. I witnessed ex-soldiers, regular mothers and fathers, sons and daughters who were affected by Agent Orange and its toxin. I learned that the poison of Dioxin does not subside nor disappear with time, for it is evident that 3rd generations are still showing visible deadly signs of it.

It was troubling for me to see how the poison of Dioxin destroyed humans, both young and old indiscriminately. As a study group, we went around Hanoi and near by provinces to see the aftermath of Agent Orange. We visited both, independent households and institutions that housed the victims of Dioxin. Children were born with deformities and/or with mental retardation. While others ‘looked’ normal but suffered from multiple cancers and other diseases. There is no justification for employing Dioxin during the war in the first place, but why should innocent children suffer?

I am still in the midst of organizing the images that I took from this trip. Some are pleasant pictures of downtown Hanoi and its liveliness, whilst other images depict the effect of the Agent Orange and its infamous legacy. It’s still hard to believe what I saw and experienced in Vietnam. And I am not sure to what can be done, but I know what I can do. It is to take pictures, more pictures of what is happening, to document images of people who are affected by the war and Dioxin. And to share these images with others, in other words, to deliver a ‘message’ to the world. Then maybe, people will become aware, socially and morally, and hopefully prevent unnecessary future catastrophes from happening again.

Gen Yamaguchi
January 2006