2006-04-18

チャン・フン・ダオ将軍

ただ今 愛のベトナム支援隊ツアー募集中
(詳しくは4月12日号をご覧下さい)

 年表によれば、1226年から1400年まで大越を統治していたチャン(陳)朝の始祖は漁師だった、という。先祖からの海上生活のおかげで、冒険好きで真っ黒に日焼けしたチャン一族は、波の中で食べ、風の中で話をしていたと言われている。
 
 
 13世紀に入って1230年代、一人の男子が生まれた。チャン一族の初めての世継ぎの子どもであった。チャン・クォック・トゥアンと名付けた。少年は、優れた外交官、宮廷を二分するねたみ派と策謀派をとりなす専門家として養育された。彼は、また立派な学者でもあった。
 
 陳朝になると、中国に代わって元の蒙古が、侵略の脅威となってきた。
1258年に蒙古(元)が第1回の侵略をした時(陳朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)の時代)に、チャン・クォック・トゥアンは、自分の書籍と武器を取り引きした。元軍は首都タンロンを制圧したが、暑さと食料不足から一時撤退せざるを得なくなった。その蒙古(元)軍に後ろから追い討ちをかけて、徹底的に打ち破ったのが、英雄チャンフンダオ(陳興道)だ。チャンは、戦争にも同様に長けていたことが証明され、現代で言う最高司令官に任ぜられた。彼は、チャン・フン・ダオ(陳興道)という名で知られるようになった。

 蒙古(元)軍を追い払うことは、容易な仕事ではなかった。アジアからロシアまでを制覇していた蒙古(元)は、大越を諦めることはなかった。攻撃しては撃退され、3度も侵略を繰り返したのである。

 北部中国をチンギス・カーンが制覇した後、彼の子孫が、チャンパ王国(現在のベトナム南部に相当する)の攻撃を思い立った。蒙古(元)は、大越領土を通過して進軍する許可を願い出た。チャン王朝がこれを拒否すると、またまた蒙古(元)は侵略した。

 疲弊した兵士を召集するにあたり、チャン・フン・ダオは、「将校と兵士に告ぐ」という詩を詠んだ。兵士たちは、将軍の愛国的な詩に心を動かされ、戦う決意をみなぎらせ、腕に“Sat That“(敵(蒙古)を殲滅せよ)という言葉を入れ墨した。歴史資料では、敵陣に送られた密使が、敵将軍に”Sat That”と腕に彫られた入れ墨を見せたという。逆境の時代には、チャン・フン・ダオのこの言葉が、ベトナムでしばしば繰り返し使用されたという。


 この将軍にの作とされている有名な箴言がある。
 「雁が何千里も飛べるのは、背骨が翼を支えているからだ。その背骨がなければ、普通の鳥にしか過ぎない」

 指導者としてのチャン・フン・ダオの偉大な力は、市民の一人ひとりが大事な兵士なのだということを納得させる能力にあった。

 知将チャン・フン・ダオは、敵の力を見抜く力をもっていた。そして、敵の弱点を利用した。蒙古は、強力な騎兵を背景に野戦場での戦闘を有利に展開することを狙った。しかし、大越には、多くの川あり、渓谷あり、敵軍の馬には困難が立ちふさがっていた。平原で蒙古軍と相まみえるよりはと、チャン・フン・ダオは自軍の姿を隠し、険しい地形のところで、侵略者を待ち伏せした。

 1285年(3代チャン・ニャン・トン(陳仁宗)の時代)、蒙古(元)が大越に対して2回目の侵略攻撃で、彼らは北部と南部から進軍を開始した。この時、チャン・フン・ダオ将軍は、チャン・ニャン・トン王に、「もし王が降服を望んでおられるなら、王は、私のクビを先ず切り落としてください」と言ったと伝えられている。

 
 1285年1月、元軍はベトナムへ進攻し各地で勝利し、首都へ迫った。チャン・フン・ダオは小人数のゲリラ戦を挑み、食料を隠したりして、元軍の動きを止めてから総攻撃に移り、見事元軍を撃退した。

 50万の大軍が大越領土を進軍してきた時、チャン・フン・ダオ将軍は、ハノイのタンロン城を明け渡してでも、自軍の兵士を撤退させることを決めた。将軍の焦土作戦のおかげで、蒙古(元)軍がハノイのタンロン城に入場した時、全くもぬけの殻だった。

 一方、チャン・フン・ダオは、中部のゲ・アン省とティエン・チュオン(現ナム・ディン省)に軍隊を集中させ、敵軍が糧食不足になるのをじっと待ち構えていた。敵は、ゲ・アン省を経由して食糧の確保に努めようとしたが、チャン・フン・ダオ軍は、それを断った。

 やがて、チャン・フン・ダオ軍は、ハム・トゥ(Ham Tu)とチュオン・ズオン(Chuong Duong)で、蒙古(元)軍の増強部隊を待ち伏せし、力を削がれた蒙古軍は、タンロン城を放棄せざるをえなくなった。そこから、ベトナム軍は驚異の攻撃に転じ、蒙古軍に壊滅的打撃を与えた。モンゴルの将軍トアット・ホアン(Thoat Hoan)王子は、銅製の大砲の中に身を潜めて退却を余儀なくされた。



この不名誉な退却にもかかわらず、蒙古軍のトグハン王子は30万の軍勢と500隻の艦隊を率いて、1288年に3回目の襲来を行った。今回は、チャン・フン・ダオは、大越領に深く侵入させたうえで、ベトナム軍で包囲した。侵略軍の威力を削ぐために、チャン・フン・ダオは、民兵をつかって、情け容赦なく揺さぶりをかけろと命令を下した。それから、彼はやおら、食糧など必要物資と増強部隊を乗せた蒙古(元)軍艦隊を阻み、沈没させた。
 
 必要物資なしでは、蒙古軍は退却しか選択肢はなかった。敵は海を使って逃げるに違いないと確信したチャン・フン・ダオは、先の尖った鉄をつけた竹の杭を、引き潮の時に白藤河口に立てるように命じた。敵船が海に向かい始めると、それらのスパイクが船団に刺さった。蒙古船団は、このように壊滅状態になり、幹部将校の一部は捕虜になった。陸を逃げまどう元軍には、伏兵の英雄ファム・グ・ラオ将軍が指揮する大越軍が追い打ちの大攻勢をかけ、壊滅させた。

 蒙古軍敗北から一年後、大越の王は、チャン・フン・ダオに軍の最高栄誉賞を贈った。チャン・フン・ダオは、軍役から引退し、自分の地位を有名なファム・グ・ラオ(Pham Ngu Lao)に譲った。

 引退後、チャン・フン・ダオは、ハイ・ズオン省のキエップ・バック(Kiep Bac)に移り、そこで、最後の一〇年を過ごしながら、回顧録を書いたり、薬草を育てたりした。キエップ・バック寺の脇にあった彼の庭は、いまでも存在し、六〇〇種を越える薬草が根付いている。

 チャン・フン・ダオ将軍が病に倒れた時、チャン・アイン・トン(陳英宗1293?1314)帝は、病床を見舞った。「もしあなたさまが亡くなられ、北の侵略者が戻ってきたら、どうすればよろしいか」と、若き王は尋ねた。

 チャン・フン・ダオは答えた。 
 「いつもの通り、人民の力に頼らなくてはなりません。彼らには、しっかりした根と固い幹があります。それが、我が国を守る最上の方法です」と。

 数日後、陰暦の8月20日、チャン・フン・ダオは逝った。死語、彼の祀るキエップ・バック寺が建立された。毎年多くの人々が参詣し、この偉大な将軍に祈りを捧げる。チャン・フン・ダオの話をする時に、人々は有名な諺を口にする。
 「生前は有名人であり、死後は聖人になる。その勇気は天と地にある」

3度目の日本襲来を計画していた元は、このときのベトナムの抵抗で計画を中止したと言われる。(了)

2006-04-17

四季の詩

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 東アジアには、すばらしい四季の歌があります。
ベトナムにおいても、それは然りです。自然に溶け込んだ人びとの気持ちを謳ったものです。私は詳しくはありませんが、ベトナムの古典の詩にも、うつろう季節の人の動きを描いたものが多いようです。
 

 これらの中で、15世紀の女性学者ゴ・チ・ランが謳った四季の詩、16世紀のホアン・シ・カイ(Hoang Si Khai)が謳った四季の詩(トゥ・トイ・クック)は、格別有名なものです。が、現代の人の多くは知りません。マイさんによれば、ホアン・シ・カイさんはマック王朝の大臣だったために、ホーチミン市の通りにその名が残されているそうです。

春

太陽の下で暖かい空気が満ちている
宮殿も遺跡も黄金の光の中にかすんでみえる
柳の木々のカーテンのなかでウグイスが囀る
花の格子の上を蝶が舞う
家の戸口の影が長引く
緑の服から、少しの湿気と粉の香りが漂った
春とともにやってくる憂鬱さに気づかず、子どもは
象牙色した手すりによりかかり微笑む

夏

風がザクロの紅い花を散らす
木陰で若き女性が何気なく揺らしているハンモックの上に
春を待ちこがれていたウグイスが翼を広げた
過ぎ去りし風景を思い出すかのようにツバメが囀る
針仕事をやめて、そっと彼女はあたりを見回す
絹のカーテンに彼女はぼんやりとして頭を寄せた
彼女の夢は遮られた:誰かが近づき、カーテンを動かした
まあ! もうリオ・タイ(1)まであの人に会いにいかなくてもよかったのだ

秋
秋の気配があちこちに漂い、空は澄み渡り、空気は清浄なり
遠くからきた寂しげな野生のガンが、霧の到来を告げる
蓮の花は長い茎の上で枯れ果て、香りも翡翠の花瓶の中で消え失せた
三番目にみると、かんばの葉が冷たいゴ川の水に落ちた
蛍が青い欄干の上を飛ぶ
薄手のコートでは寒さをしのげない
笛の音が止まり、私は物思いにふけった
どこからやってきたのかフェニックス 私を不死の地へつれていくのだろうか?

冬
香料の台に火を入れた 小さな銀製の箱だ
一杯の酒が朝の空気を暖める
雪の冷たさが明るいカーテンから染み込む
霜が水の表面を粗くする
その若き女性は、金襴の織物の中で隠遁の生活をおくる
窓の向こうで、光は紙で遮られた
しかし、春をそっと連れ戻すために
山の杏の木に、芳しいつぼみが開いた

中世ヨーロッパでラテン語が使われていたように、この詩は漢詩で書かれています。中国文化には、多くの暗示が含まれています。リオ・タイの守備隊にいる夫を想う妻。ベトナムのほとんどの大地には降らない雪など。
古代東洋の詩では、常套句を使うことを恥としませんでした。新しい作品の模範としてすらいたようです。
ゴ・チ・ランの詩には、女性の感覚を裏切るものがあります。
ゴ・チ・ランは、学者フ・トゥック・ホアインの妻でした。ハノイの郊外キム・ホア(現ソク・ソン=ハノイの北30キロほどのところ)に住んでいました。彼女の文学的才能を高く評価したのは、碩学の皇帝レ・タイン・トン(黎聖宗)でした。レ・タイン・トン皇帝は、彼女を王室の女性たちの教育責任者に任じたのです。
(註:リウ・タイは中国東北部のこと。夫が守備隊勤務についているリウ・タイにいくことを夢見て居る妻について、Tang の詩を暗示させている)

2006-04-14

二人の若い命を消すな!

2006年・愛のベトナム支援隊ツアー  ただ今募集中!!
(詳しくは、4月12日号をご覧下さい)

あなたがこの子らの親だったらどうしますか?
諦めますか? 全力で助けますか?

ハノイ在住のマイさんから、貧困から医師の診断も受けられなかったニンビン省のハイ君とニャンちゃんの、詳しい病状の報告が入りました。真心と援助を送り続けて下さっている、東京・文京区の山本邦子さんたち子を持つ優しくてエネルギッシュなヤング・ミセスのお母さん方・・ほんとうにありがとうございます。
二人の子の検査入院には、皆さんから頂いた援助金を使わせて頂きました。ハイ君、ニャンちゃんのお母さんは、夫と一児を病気で失っています。皆さんに、病院で山本さんたちへの感謝の気持ちを伝えてくれたそうです。 子どもたちに笑顔を。お母さんにも笑顔を取り戻したいです。

検査入院の結果は、ズバリ申し上げて、二人は大変な”重病”でした。それほど長く生きられない・・死を待つ兄妹(写真下)でした。誰もが、この世に尊い使命をもって生まれてきたのです。なんとか長く生きてほしい・・この子らをなんとしても輝かせてあげたい・・そう願う方々と、私たちは団結したいと思います。

なんでハイ君とニャンちゃんが社会から取り残されていたか? いろいろな理由があります。地域の人々が、ぎりぎりの生活をして、ただひたすら耐える文化の中で暮らしてきたのも大きな理由でしょう。かつての北ベトナムは、貧乏を分かち合う社会でした。しかし、抗米戦争に勝利するというような大目標がなくなった今、競って物質的豊かさを求める社会が実現しつつある裏で、他者に思いを馳せる心も少しずつ失せてきたような気もします。そこに発展しゆくベトナム社会の難しさがあります。この一家は長期の栄養失調・・医者からも慈愛の一片も与えられずに暮らしてきました。病気を克服できる元気を与えたい・・・希望を持って生きる喜びをあげたい・・そう思います。



まずは、下の報告書をお読み下さい。

Posted by Picasaニャンちゃん(お母さんに寄りかかっている子。2005年10月撮影): 2006年4月4日に小児科に入院。4月12日に退院しました。 担当医は、ド・ヴァン・ズン医師です。医師診察による病名は、先天性赤血球破滅貧血症でした。原因は、父親からの遺伝によるものとのことです。

 ニャンちゃんの病状です。『赤血球が普通以上に破壊されることにより脾臓が非常に大きくなってきた(X線スキャンによれば腹腔は脾臓で埋まっている);血液中の鉄分値が高い;さらに栄養が長期的に不足している。よって、肝臓・心臓が膨れ機能不全となり、心臓からは吹きだしのような音がする』

 退院後の治療方法:『6ヶ月ごとに検査・輸血ため来院が必要である。ただし、バク・マイ病院に行く必要はなく、地元ニン・ビン省の病院での検査・輸血でよいとされている。輸血後しばらくは元気が回復するが、時間がたつにつれて赤血球が破滅されることによって、体力が徐々に低下してくる。その期間は6ヶ月と想定される。ただし、患者の健康状態が異常に悪化すれば、医師の指示によりその期間は1ヶ月毎に短縮される可能性がある』


 『きちんと輸血が受けられれば、死んだお兄さんの25歳を上限としてあと数年くらい寿命は持つかも知れない。定期的な輸血治療を受けられないと死期は早まる。また、激しい衝撃を受けることにより脾臓破壊で死を招く恐れもあり、安静を必要とする。輸血以外の治療法はない。ただ、栄養の補給・摂取に特段の注意を払えば、投薬の必要ない』

(上の写真は、2006年4月に撮影したものです。二人とも輸血を受けて、少し病状の改善が表情にみられますね)

ハイ君:

  血液科に2006年4月4日入院し、妹と同じく4月12日退院しました。担当医は、グエン・ティ・ラン・フオンさんという女医さんです。病名は、 βThalassemia。これはベータサラセミアといいます(北村註:下に説明をさせて頂きました)。病因は、父親からの遺伝によるものと診断されました。入院中、250ml入りの輸血用パックを6パック、輸血しました。

 ハイ君の病状です。『赤血球が普通以上に破壊されることにより低色素貧血、脾臓が非常に肥大している(X線スキャンによれば腹腔は脾臓で埋まっている);栄養が長期的に不足→ひどい貧血状態である。肝臓はやや膨れ、その機能が衰えている。また、骨の生成にも影響が出ている。ハイ君の病状は今とても悪い。いつでも死ぬ可能性がある。来年どころかあと何ヶ月くらい維持できるかどうか、先の見通しはくらい』

  退院後の治療方法:*服薬((1)肝臓機能強化薬 単価はたいてい2500ドン/1錠どこの薬局でも簡単に購入できる。種類もいろいろある。 (2)痛み止め薬 単価1000ドン以内/1錠、簡単に購入できる)*そして、1ヵ月後バク・マイ病院での再検査が必要だ。


(上の写真は、診断を終えて休んでいるハイ君です。マイさん撮影)

 サラセミアについて:


 *サラセミアは、ヘモグロビン(酸素を運ぶ赤血球中のタンパク質)を形成する4つのアミノ酸の鎖のうち1つの鎖の産生が不均衡なために生じる遺伝性疾患群です。

 *サラセミアは異常が生じたアミノ酸の鎖によって分類され、アルファ鎖に異常が生じるアルファサラセミアと、ベータ鎖に異常が生じるベータサラセミアの2種類に大別されます。アルファ・サラセミアは黒人に最も多く(25%が異常遺伝子を少なくとも1つ保有)、ベータ・サラセミアは地中海地域と東南アジア地域出身の人に最も多くみられます。お兄ちゃんのハイ君の場合は、このベータサラセミア(地中海サラセミアと呼ばれています)に属します。

 *サラセミアはまた、異常遺伝子を1つもつ軽症型サラセミアと、2つもつ重症型サラセミアに分けられます。今度の医師の説明ではどちらか不明ですが、私は重傷型と推測しています。

 *サラセミアはいずれも同様の症状を示しますが、重症度はさまざまです。軽症型アルファサラセミアと軽症型ベータサラセミアでは、軽度の貧血だけで症状はありません。重症型アルファサラセミアでは、中等度から重度の貧血症状が現れ、脾腫が生じます。ここに、一つの危惧があります。ハイ君の場合は、マイさんが医者の説明を受けた限りでは、脾腫の話も、他の臓器に腫瘍が出ている話もありませんが、どこかに出ているか、出る可能性を捨て切れません。

 *重症型ベータサラセミアでは、重度の貧血症状が生じ、黄疸、皮膚潰瘍、胆石、脾腫がみられることがあります。骨髄の活動が過剰になり、特に頭部と顔面の骨が厚く大きくなります。腕と脚の長骨が弱くなり、骨折しやすくなります。ハイ君に黄疸症状が見られます。

 *重症型ベータサラセミアの小児は成長が遅く、思春期に達するのが正常より遅れます。鉄の吸収量が増加し、頻繁な輸血が必要となることでさらに鉄が供給されるため、余分の鉄が心筋に集積して沈着し、最終的に鉄の過剰による障害や心不全が生じることがあります。この説明を読んで頂ければ、ハイ君の成長不全が分かると思います。

 *サラセミアは他のヘモグロビン疾患よりも診断が難しい病気です。1滴の血液を電気泳動法で調べる検査が役立つこともありますが、特にアルファ・サラセミアでは診断の確証を得にくい傾向があります。このため、特殊なヘモグロビン検査と遺伝のパターンから診断を行います。

 *サラセミアの多くは治療を必要としませんが、重症の場合は骨髄移植が必要になります。正常な遺伝子を体内に導入する遺伝子治療は、現在研究中で、まだ成功していません。

どうすべきか、お知恵を!!
 臓器の肥大は問題です。心臓は、一日に8トンの血液を全身に送り出し、酸素や栄養を運んでいます。
*ニャンちゃんの最大の問題は、寿命があと数年という医師の診断です。半年毎に検査・輸血ため地元ニン・ビン省の病院への通院が必要です。この1回の検査・輸血にどのくらいの入院が必要なのか、1日ですませられるのか。費用はどのくらいか。

 *次に、兄のハイ君の直近の問題は、医師の診断によれば、明日をも知れぬ命だということです。この認識にたって、どういう手を打つかを、考える必要があります。そして、栄養不足をどうやって解決していくか。

 *内服薬購入の為の継続的な経済支援が必要です。 (1)肝臓機能強化薬 単価はたいてい2500ドン/1錠。 (2)痛み止め薬 単価1000ドン以内/1錠、となっていますが、1日何回何錠服用という指示が示されていないので、計算が難しいです。

 *1ヶ月後(5月中旬)バク・マイ病院での再検査の為の経済的援助が必要です。この指示をしてあげなくてはなりません。

 二人とも、父親の遺伝が原因とのことです。そして、二人とも既に鉄分が肝臓細胞に過剰に蓄積されている状況とみますが、投薬だけでどのくらい早く鉄分を消費させることが出来るのか、を医学的見地から知りたいです。その上で、医師から指摘されている栄養の補給・摂取はどういう形で早く実現できるか? も知識として必要ではないでしょうか。 皆さん、教えてください。

 この幼い命をなんとかして助けてあげませんか。皆さんと共に力を合わせて。
ビクトル・ユゴーは叫びました。大空より広いもの、それは人の心だ、と。皆さんの広い心を結集したいと思います。

 「人間が利己的にして、他人の幸福を顧(かえ)りみざれば、禽獣にも劣っている」と、語ったのは、マハトマ・ガンジーです。われわれが禽獣に劣ることは、許されません。

 二人の子どもに、持続できる栄養補給の援助をしましょう。わが師匠は、食物の特性について、こう語っています。「第一に、生命を維持し、寿命を保つ。第二に、精神と身体の生命力を増大させる。第三に、身体に輝きや活力を生む。第四に憂いや悩みを鎮める。第五に、飢えを癒し、衰弱を除く」と。
 
 人のために苦労するのは我が特権と考え、私たちと同じように生きていけるように、二人に必要な栄養と元気を援助したいと思います。(北村記)



2006-04-11

ハイ君 ニャンちゃんのその後

われわれ愛のベトナムさわやか支援隊が医療支援を決めたニンビン省のルオン・ティ・ビンさんのお子さま二人。私が初めて訪問した時でもすでに医療手当もされずにいたハイ君とニャンちゃん。われわれ支援隊は、まず病名の確定のために、ハノイのバクマイ病院への入院を勧めました。

ビンさんは、戦後ご主人を病死でなくして、女手一人で4人の子どもを育てていましたが、10年近く前に長男はお腹が膨れて病死しました。今、ハイ君と妹のニャンちゃんは、亡くなった長男と同じ症状です。一見10歳ほどにみえるハイ君は、実は18歳。学校にいったことがありません。きちんとした歩行が出来ないからだそうです。子ども3人とも、皮膚が黄疸症状のように黄色みがかっています。干ばつに見舞われているエチオピアで、飢えて腹部の膨らんだ子供たちのことを彷彿とさせます。

そして、ニンビン省婦人兵士連絡会のビン幹事長が、今年の旧正月前に連れて行ってくれましたが、1回は徒労に終わり、その後も北部ベトナムで長雨が続いたために病院行きを控えておりました。その後の状況がわかりました。われわれの通訳をしてくれているマイさんからの報告です。

「ニンビン省のビンさんに連絡してニン・ビンの 2 人の子供さんのことを尋ねました。ビンさんは、“今回は、手術をさせるつもりは全く無く、ただ診断や検査をさせて治療・手術の見込みがあるかどうかを医者に判断してもらうための入院だ”ということが確認できました。4月10日午後病院にお見舞いを兼ねてお医者さんの話を聞きに行ってきました。しかし、担当医は午前中しか病院にいないということで、具体的な話を聞くことが出来ませんでした。
でも二人の子たちのお母さんとちょっとお話ができました:
*4月 4日にハノイに来て入院。Hai 君は血液科に、Nhanちゃんは幼児科に入っています。そしてあさって 4月12 日に退院の予定です。
* 入院当日は、ひどい貧血状態で、体力的にあまりにも良い状態ではなかったため、血液検査や簡単な診察の後すぐ輸血を2ビンずつ(1ビン何ccかは不明)受けさせました。今日までお兄さんの方は血液を計6ビン(?)、栄養剤 (点滴?)  を2ビン注入されました。Nhan ちゃんは血液を2ビン投与しました。
* 骨髄検査だけを除いて( 理由は体力的に弱すぎるから)、バク・マイ病院ですべての医学検査を受けました。その結果として、
病状は、心臓・肝臓・脾臓が異常に肥大している。その原因は父親からの遺伝による、(?)
その治療方法は無い(腹腔に腫瘍などの異物があるわけではないために手術もできない)、ということだそうです。
* 以上の内容はあくまであのお母さんが医者さんから聞いていたもので、あいまいな部分があります。また費用に関しても、4月10日現在で、担当の医者にまだ話ができてないのでまだわかりません。幹事長のビンさんは先週の金曜日から用事があるのでニン・ビン省に戻っていますが、あさって(4月12日)に入院費用を支払い・二人の子どもとお母さんを迎えに戻ってくるそうです。
* 二人の子どもとも、血液・栄養が補給され、またお家にいる時よりちゃんとした食事が取れているので前より元気そうに見えてきました。遊んだり笑ったりもしていました。お母さんは治療方法が無いとわかって悲嘆にくれたようですけど、子供たちの元気な様子を見て笑顔をみせていました。「皆様に心から感謝しています」と言っていました。
* 明日かあさっての午前中に時間がとれたらまた行ってくるつもりです。」

私たち支援隊としても、今後二人の治療をどうするのか、みきわめるためにも、病院や現地ニンビン省のビンさんと連絡を密にして、二人の子どもの健康維持の支援に努めたいと思います。ご支援下さっている方々へのご報告とさせて頂き、引き続き、続報をお届けするつもりです。(在シドニー・北村)

2006-04-07

山口元のふぉとぎゃらりー

2005年10月の愛のベトナムさわやか支援隊ツアーに参加してくれた山口 元さんが、ツアー中に撮影した写真から厳選して送ってくれました。山口 元さんの”ミニ個展”です。改めて映像の訴える迫力を感じます。 山口さんは、現在アメリカのカレッジに留学中で、写真の勉強をされています。ご成功をお祈りします。


(copy right:Gen Yamaguchi) タインホア省孤児センター


(copy right: Gen Yamaguchi)ハノイ:タインスアン平和村で


(copy right: Gen Yamaguchi)ハノイ:タインスアン平和村で


(copy right: Gen Yamaguchi)ハイフォン市の枯れ葉剤被害者グエン・ヴァン・クイさん宅で 手前長男グエン・クアン・チュン君(被害者2世)と祖母


(copy right: Gen Yamaguchi)タインホア省孤児センターで


(copy rihgt: Gen Yamaguchi)ハイフォン市の被害者ヴー・ヴァン・グエン宅で