ジャック・クーリーは、病院ベッドから、長く優れた法曹の職歴を使って、最後の激論を展開した。
クーリーは昨年の春そのことを知らなかった。しかし、前砲兵隊キャプテンである彼が、彼はちょうど多くの復員兵が身に堪えている腹立たしいまでの官僚の迷路に入り込んだ時に、障害請求を起こした。復員軍人省は1ヵ月後、クーリーがヴェトナムで従軍したという必須の証明に欠けていると主張して、クーリーの言い分を逆襲した。
クーリーは、何か月もかけて、この入り組んだ迷路を進んだ。しかし、クーリーの余命少なく、彼の家族は、旧友であるウェストポイント陸軍士官学校1965年卒業組のメンバーに接触した。その人が、エリック・シンセキ元アメリカ軍参謀長で、現復員軍人省長官だったのだ。
手っ取り早く、クーリーの主張に対する障害は立ち消えた。クーリーがエヴァンストンで、65歳で、7月21日に亡くなる3ヶ月前に、復員軍人省は、障害者手当てとしての2,700ドルの小切手を届けたのだった。
「これは、傷病に対する侮辱だった」と、彼の娘クリスティーナが言った。「シンセキ将軍がもし・・・家族の友人でも、ウェストポイント同級生でもなかったなら、私たちはこのお金を見ることはなかったろうと思う。私は人脈もなく苦闘している他の皆についてもそう思わざるを得ない」
ベトナム戦争はほぼ35年前に終結した。しかし、多くの復員軍人には、戦争で使われた枯れ葉剤と関連したガン、糖尿病、パーキンソン病など他の病気との戦いは、今始まったに過ぎない。2007年までは、ジャック・クーリーは健康だったのだ。
多くの復員軍人には、これは、古い戦争が終わってしばらくしてからの予想もしなかった新しい戦争なのだ。
政府は、数十年後にベトナム退役軍人を襲った衰弱性疾患と、戦時の従軍との関係を認めるのが遅かった。復員軍人が公認されたエージェント・オレンジと関連している病気に苦しむ時でも、彼は復員軍人制度の障害補償を要求を何年も待たなくてはならない。
エージェント・オレンジへの曝露と関連した一種の血液がんである多発性骨髄腫によるジャック・クーリーの死は、戦争関連の障害請求に関する最終的な仲裁人である復員軍人省の行き詰まった作業に風穴を開けることになった。
「本当は、ヴェトナムに行った復員軍人が、一般人の仲間より重い病気で戻ってきたということだ。何かが、あそこで起ったんだ。それをめぐって、腕相撲なんかしてもしょうがないでしょ?」と、リンダシュワルツは言った。彼女は、コネティカット州の復員軍人問題委員会の委員長で、女復員軍人の健康に関する初期研究をまとめた人だ。
長期に眠っていたエージェント・オレンジの効果が、多くのヴェトナム戦争帰還兵の表面に出始めたために、復員軍人省が交通渋滞(北村註:書類審査の遅れ)を除くために3,000人以上の職員を増強したにもかかわらず、障害の請求はそれを上回る速さで増えていった。
「彼らはどこから手をつけていいかわからない状態だ。彼らには、迅速な意思決定をなどできないのだ」と、元復員軍人省弁護士で、現復員軍人省に対しうる裁判の復員軍人代表をしているジョー・ムーア氏は、言う。
訴訟が復員軍人省に90日以内の請求決定を求めてワシントンの連邦地裁に起こした2008年12月の裁判に呼応して、政府は、「ヴェトナム戦争時代の復員軍人の特定の病気」が、案件処理の滞りの原因だと認めた。
アメリカのヴェトナム戦争復員軍人協会と近代戦争復員軍人が起こした裁判では、帰還兵の障害請求に対して復員軍人省が行動を起こす前に、「毎年何千もの復員軍人が死亡している」ことが論争となっている。訴状では、復員軍人省が最初の請求を検討するまでに少なくとも6ヵ月はかかり、上訴は4年かかるという。
「そのような遅れを目の前にすれば、多くの帰還兵は、長年の遅れや欲求不満に耐えるよりは、むしろ、本来もらうべきものより少ない価値のものを甘受する方を選択して、諦めるだけだ」と、訴状で述べている。
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